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勘太郞月夜唄

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:佐伯孝夫、作曲:清水保雄、
唄:小畑 実・藤原亮子

(女)
  影か柳か 勘太郎さんか
  伊那は七谷(ななたに) 糸ひく煙り
  棄てて別れた 故郷の月に
  偲ぶ今宵の ほととぎす

(男)
  形(なり)はやくざに やつれていても
  月よ見てくれ 心の錦
  生まれ変わって 天龍の水に
  うつす男の 晴れ姿

(男女)
  菊は栄える 葵は枯れる
  桑を摘む頃 逢おうじゃないか
  霧に消え行く 一本刀
  泣いて見送る 紅つつじ

《蛇足》 太平洋戦争まっただ中の昭和18年(1943)に公開された東宝映画『伊那の勘太郞』の主題歌。

 映画は幕末の動乱期を舞台に、天狗党の乱に加担し、やがて故郷の伊那に帰ってくるヤクザの物語です。
 国策映画や軍国歌謡一色の世相では異色の股旅もので、情緒的なものに飢えていた世人に迎えられ、映画・歌とも大ヒットしました。

 大ヒットを記念して「伊那の勘太郎顕彰碑」が建てられました(写真)。場所は伊那市の春日公園。勘太郎の事跡もれいれいしく刻まれています。ある世代以下には、勘太郎を実在の人物と思う人もいるかもしれませんね。

 小畑実は朝鮮半島出身で、本名は康永喆(カン・ヨンチョル)。秋田県大館出身の小畑イクに面倒を見てもらったところから、小畑実と名乗るようになりました。

 戦時中に『湯島の白梅』『勘太郞月夜唄』という2つのヒットを飛ばしましたが、最も活躍したのは敗戦後の昭和20年代で、『小判鮫の唄』『薔薇を召しませ』『アメリカ通いの白い船』『長崎のザボン売り』『ロンドンの街角で』『星影の小径』『高原の駅よさようなら』など、多くの人々の記憶に残るヒットを連発しました。

(二木紘三)

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コメント

信州 伊那の 谷は
 行ってみたいところです
  飯田 高遠 
天狗党とは 思いよりませんでした
 吉村昭 の 小説はまだ読んでません。

投稿: 二宮 博 | 2007年11月 7日 (水) 22時46分

二宮さんへ
敦賀に天狗等を祀っている松原神社がありますが、高校へ通うときよくこの境内を通りました。墓の中には「茂作」など、名前だけのものもあり、一行の中には武士以外のものも含まれてたことがわかります。2番の歌詞「菊は栄える葵は枯れる」から、幕末の話だとは理解していましたが、天狗等の乱に伊那の勘太郎が加担したとはねー。フィクションだとしても興味ある話ですね。懐メロの薀蓄で自慢できそうです。映画を見ていないのでわかりませんが、天狗等が高崎から和田峠を抜けるあたりで、勘太郎が合流したんでしょうね。その後どうやって天狗等を抜け出て故郷に帰ってきたのか知りたいものですね。それと、吉村さんの小説「天狗騒乱」は面白かったです。

投稿: 佐野 教信 | 2007年11月23日 (金) 10時53分

もちろん「天狗争乱」は読みました。とても面白かった!しかし「勘太郎」との関係は知りませんでした。武田耕雲齋の像も敦賀で見ました。
「影は柳か勘太郎さんか・・・・」ひょうひょうとした感じの勘太郎に会ってみたいものです。

投稿: hazuki | 2008年1月20日 (日) 10時43分

二木先生、勘太郎月夜歌のアップをお願いしてお聞き届けありがとうございます。一昨年老いたる同窓の会が伊那の谷であり彼の地でこの曲で踊りが振付けられ人気が高いようです。歌詞の 
 形(なり)はやくざにやつれていても
 月を見てくれ心の錦
 生まれ変って故郷の水に
 映す今宵の晴れ姿 
ここのところが大好きです。勿論戦前映画も昭和19年旧満州の地で中学1年生でしたが見ています。

投稿: 三宅 | 2008年6月 3日 (火) 16時20分

今晩は。

只今、マイアルバム(歌の)を整理中です。股旅もの 二十二曲ほどを ユーチューブから
すでにダウンロードしているので CDに焼き付けています。 当然この唄も入れています。

今頃 股旅もの なんて流行らないですよね(笑)

でも、氷川きよしや島津亜矢が活躍していますから。

古いのは 音源が ほとんどモノラルです。別の歌手がステレオで吹き込んでいる、或いは本人の再録音物がリリ-スされているのでそれをダウンロードしてます。

股旅ものでは 決まって こんな台詞が出てきます …
「お母っさん」 「丁度今から三年まえ」 「三年三月(みつき)」 「あばよ(=幼児語でさよなら)」 などなど。

股旅ものの歌の舞台は、関東、信州当たりがダントツですね。
信州ならば佐久と伊那谷が有名かな。

関東ならば、日光街道、ご存知赤城山、また利根川あたり、そして甲州街道などなど。

小学校の高学年から中学に掛けて ドサ回りの旅役者一座に 憧れました。

旅役者一座も 梅沢富美雄(字体不明)で 見直されましたね。
遥か昔、秋の刈り入れが終わる頃 すぐ近くの神社の祭りで 旅役者一座の くさい芝居(失礼)を見た覚えです。

役者は神社近くの民家に分散して 投宿します。
我が家にも 親子連れが 泊まった記憶です。
同年代の 男の子だったと思います、話してみると 自分とさして変わらない 普通の子だった。(多少はおませだったかも)

何か自分達とは 違った世界の子を期待していたかもしれません。

また、ある年には今で言うハ-フの少年(19歳ぐらいと記憶)が来ていました。
スペインと日本の混血と言っていました。今でもはっきりと記憶していますが、
その子の名を「ボ-イ・モリシマ」と名乗っていました。
本名は「セバスチャンかセルバンテスかも知れません、田舎の人たちにわかりやすく「ボ-イ」と名乗ったのでしょうね。今でも日本で住んでいるのだろうか?。
もう、70歳ぐらいのはずです ・・・

投稿: グ・グロリア | 2010年5月16日 (日) 21時50分

先般東海北陸自動車道が全線開通したのを機に、久しぶりに飛騨の高山までドライブに行ってきました。富山県西部の我家からは片道一時間あまりですが、ハンドルを握っている間ずっとこの唄が耳の底に流れていました。今回訪れたのは高山市郊外にある飛騨一ノ宮、水無(みなし)神社というところです。ここは嘗て小説『夜明け前』の主人公青山半蔵こと島崎正樹(島崎藤村の父)が、維新後失意を胸に秘めて明治7年から4年余りの間宮司を務めていた神社ですね。境内には彼の詠んだ歌碑があります。
 伊那の勘太郎が加勢した(??)水戸の天狗党という名前を私が知ったのは、学生時代にこの『夜明け前』を読んだのがきっかけでした。幕末の伊那・木曽地方から美濃にかけては半蔵のような平田篤胤の信奉者が多かったこと、武田耕雲斎たちが「勘太郎の案内で」伊那から無事に木曾谷まで抜けて宿泊したのが半蔵の家(馬籠本陣)であったこと、奇しくもそこは以前天狗党など勤王党にとって目の敵であった井伊直弼も宿泊した本陣であったことなども、この小説で知りました。『夜明け前』は浦賀にやってきたペリーが、軍艦の威力を見せつけながら日本に国交を迫るあたりから始まりますが、あれから約170年たった今日の日本では、ペリーの子孫たちが普天間に佐世保に、あるいは横須賀、三沢にと縦横に活躍しています。
この勘太郎月夜唄が発表された昭和18年というのは、島崎藤村が日本の行く末を案じながら世を去った年でもありますね。偶然の一致とはいえ何かしら感慨にさそわれます。

投稿: くまさん | 2010年6月10日 (木) 21時41分

86歳の男性です。私はこの勘太郎月夜歌が大好きで、学生当時によく口ずさみ、またいつも携帯していた手帳にその歌詞を記入していました。
 昭和19年学徒出陣で豊橋予備士官学校に入隊することになり、名古屋から豊橋に行く電車の窓から、ちょうど渡っていた鉄橋の上で、この手帳を投げ捨てました。パラパラとめくりあがって私の大事な手帳は、大きな川の中へ吸い込まれて行きました。

 (軍隊に入れば、生還は期しがたい、さらば、世間よ、青春よ・・)という若者特有の悲壮な、また多少センチメンタルな気持ちからでした。あれは確か「矢作川・やはぎがわ」だったと思います。
 軍歌ばかりの戦時中に青春を過ごした私にとって、伊那の勘太郎の歌は数少ない青春の歌でした。

                  紫蘭

投稿: 紫蘭 | 2010年7月19日 (月) 22時24分

横浜という土地は、幕末明治の新開地であり、それが原因かは知りませんが、いろんないわくの人の子孫が住んでいます。勘太郎は架空の人物といわれていますが、自称子孫だという人を知っております。父君は旧制木更津中学の校長で、光クラブ事件の山崎は教え子、3代続いての東大家族です。学歴で事の真偽を判断はできませんが、人格、識見ともに優れたご本人を見ると本当かなーと思ってしまいます。それにしても、有名なやくざの子孫という人を何人か知っていますが、皆とんでもない高学歴なのには驚きます。余談ですが、曲を聞きながら、

投稿: bunbun | 2013年10月10日 (木) 21時12分

bunbunさんのお話おもしろいですね。
ヤクザの親分は、みんな頭が良かったと思います。昔、官軍が江戸をめざして進んでいたとき、大久保一蔵が清水の次郎長に会いたがったそうですね。どうして大勢のならずものを統率できるのか、その要諦は?と聞きたかった。
 ヤクザの親分は、キリストや釈迦と一緒で、大学出てなくても、頭はめちゃくちゃ良いです。修羅場くぐってますから。いわゆる地頭(ヂアタマ)が良いというやつです。いってみれば大学を作る側の人間、福沢、大隈みたいな存在です。
 架空の人物、勘太郎の子孫というのは、格別おもしろいですね。

 先の話の次郎長の答えです。ある人間を叱る時には、必ず人のいないところで叱る、1対1で叱る、でした。
自尊心の尊重ですね。今聞いても、すごい話です。

投稿: 方解石 | 2013年10月10日 (木) 23時18分

 天狗党を書いた山田風太郎の『魔群の通過』という小説に、薄井督太郎という人物が登場します。その人の記事を概略してみます。

 飯田の貧しい商家に生まれ、志を立てて江戸で佐久間象山に入門、また、京で頼三樹三郎の弟子になったりしてあっぱれ天下の志士となった。
 筑波の義挙には最初から参加して、以来一党の参謀の一人となっていた。
 一党は和田峠の戦いに勝利し下諏訪まで下りますが、ここで問題がおこります。この先の進路に伊那路をとるか木曽路にするか。
 薄井は伊那路を通ることに猛反対します。故郷の飯田が焼け野原になるおそれがあるからです。しかし彼の意見はいれられず、その夜のうちに彼は姿を消しました。天狗党の幹部の脱走はこれがはじめてです。

 「伊那の勘太郎」にまつわる皆さんのコメントを読んでいて勘太郎さんはこの人だと直感しました。

 その後、彼はまんまと生きのびます。維新後、薄井龍之と名を改め、北海道開拓使の役人となって札幌建設にかかわり、町の一角に自分の姓の一字をとって薄野とつけた。

 勘太郎さんですよね。

投稿: 颱風人 | 2014年9月15日 (月) 16時36分

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