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五木の子守唄

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


熊本県民謡、採譜・編曲:古関裕而

1 おどま盆ぎり盆ぎり
  盆から先ゃおらんと
  盆が早(はよ)くりゃ早もどる

2 おどまかんじんかんじん
  あん人たちゃよか衆(し)
  よか衆よか帯 よか着物(きもん)

3 おどんがうっ死(ち)んちゅうて
  誰(だい)が泣(に)ゃてくりゅか
  裏の松山蝉が鳴く

4 蝉じゃごんせぬ
  妹(いもと)でござる
  妹泣くなよ 気にかかる

5 おどんがうっ死んだら
  道ばちゃいけろ
  通る人ごち花あぎゅう

6 花はなんの花
  つんつん椿
  水は天からもらい水

《蛇足》 原曲は熊本県球磨(くま)郡五木(いつき)村の古謡。

 長い間、地元の住民か民謡の専門家しか知らない曲でしたが、昭和25年(1950)、古関裕而が採譜・編曲して、NHKラジオの放送終了時に、自らハモンドオルガンを弾いて放送してから、全国に広まりました。
 その後、民謡歌手の音丸や照菊が歌ってヒットし、多くの人びとに愛唱されるようになりました。

 正調の『五木の子守唄』は五木村の公式ホームページで聞くことができます。興味のある方はどうぞ

 子守唄には2種類あって、1つは赤ん坊を寝かしつけるための本来の子守唄、もう1つは子守り娘たちが不幸な境遇や仕事の辛さを歌った子守唄です。後者は正しくは守り子唄といいます。『五木の子守唄』は典型的な守り子唄です。

 山深い五木村は、昔は一握りの地主が土地を所有し、村人の多くは地主の下で林業に従事するか、借り受けたわずかばかりの土地で焼き畑農業を営むほかありませんでした。
 当然、彼らの生活は食うのがやっとで、子どもたちは7、8歳になると、口減らしのために、人吉や八代の豊かな商家や農家に奉公に出されました。奉公とはいうものの、「食べさせてもらうだけでよく、給金はいらない」という約束が普通だったといいます。

 食べさせてもらうといっても、家族とは違う粗末な食べ物しか与えられず、子守りだけでなく、さまざまな用事をさせられました。女の子の場合は、無道ないたずらをされることもあったようです。
 毎日の生活は、7,8歳から10歳前後の子どもが死を思うほどに、きつく、辛いものでした。
 子どもたちは、そうした仕事の辛さや望郷の思いを即興的に歌うことによって、わずかな慰めを見いだしました。こうして成立したのが、『五木の子守唄』です。

 長い時間をかけて積み重ねられてきたため、歌詞のヴァリアントは非常に多く、記録されているだけで70~80聯ほどもあるようです。歌う順序も言葉も、人によってかなり違います。
 歌詞のヴァリアントは、熊本国府高等学校パソコン同好会のホームページに掲載されていますので、そちらをご覧ください。

 五木村民の悲惨な状況は、敗戦後、GHQ(占領軍総司令部)の指令で実施された農地改革によってかなり解消されました。さらに、その後の高度経済成長のなかで、生活ぶりはよくなってきました。
 しかし、その五木村も、遠からず村の中心部がダムの底に沈むことになっています。

 上記の歌詞の意味を書いておきましょう。

1 子守り奉公もお盆で年季が明け、もうこの家にいないですむ。お盆が早く来れば、父母のいる故郷に早く戻れるのに……。

2 私たちの身なりは乞食と同じだ。あの人たちはお金持ちだから、上等の帯や着物を身につけている。

3 私が死んだら、だれが悲しんでくれるだろう。裏の松山で蝉がなくだけだろう。

4 泣くのは蝉ではなくて、妹だ。妹よ、泣かないでおくれ。お前のことが心配でならないから。

5 私が死んだら、人通りのある道の端に埋めてください。通る人たちがそれぞれに花を供えてくれるだろうから。

6 供えてもらう花は椿がいいな。閼伽水(あかみず)をもって墓参してくれる人がいなくても、雨が閼伽水の代わりになる。

 各聯の最初に出てくる「おどま」は「私たち」、「おどん」は「私」という人称代名詞です。また、「かんじん」は正確には「勧進聖(かんじんひじり)」といい、僧形で物乞いをする人のことですが、要するに乞食です。

 日本ではこのような無惨な児童労働はなくなりました。しかし、AA諸国のなかには、これと同じような状況が今も続いている国があることを胸に刻んでおきたいと思います。

(写真は戦前の五木村)。

(二木紘三)

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コメント

この子守唄の解釈を、他のブロがーの方としたことがあります。
その時はその方はとても物知りで、私の解釈に全部批判をしてきました。
でも、こちらを読んで、私の解約が正しい事が分かり、胸につかえていたものが、消えました。
ありがとうございます。
私の子供達はこの歌でみんな眠りました。
その所為かどうかは分かりませんが、人の気持を必ず考える子達に育ってくれました。
いつ聞いてもいつまで聞いても、胸熱く聞いています。
それは、昔戦後も大分後の生まれですので、奉公こそありませんでしたが、辛い思いをして育ちました。
その頃を思い浮かべながら、涙して聞いています。
私は、色んな大きな病気や手術をしてきて今があり、重度のうつ病でもあります。
でも、とても癒されなみだとともに、なんともいえない苦しさが流れてくれるように感じます。いい曲を思い出しました。そしてこちらでこうして聞くことが出来るいま、とても幸せ感を味わう事が出来ています。

投稿: ぶー | 2008年5月28日 (水) 01時24分

悲しい素敵な歌です。でも、意味を改めてきちんとこちらで知り涙がでました。数知れぬちいさな子ども達のどうしようもない苦しみ悲しみ、想像するとやりきれなくなります。世界中のどの子どもたちにも味あわせてはいけない苦しみです。歌は歌って初めて歌。明日、友人達が来たらこの歌をフランシーヌの場合とあわせて解説付で無理やり聞かせてやるつもりです!”

投稿: 銀河の帝王 | 2008年5月31日 (土) 14時32分

 この歌の原曲は朝鮮半島だそうです。馬族のため原曲はワルツのリズムで歌うそうです。
私は長野県伊那市在住ですが長野県人は熊本から来た民族だそうで、阿蘇の山麓の枝垂れ栗を天竜川を上り、足跡として南県境と辰野町に枝垂れ栗を残したそうです。
そう考えると熊本県との接点があります。
①桜肉を食べること(馬族ですからもっとも)
②蜂の子を食す
③上高地・諏訪のお舟祭り
④鳥居の作り方が海岸用であり、熊本の鳥居と類 似している。等です。
 桜肉と言えば 福島県会津でも有名です。これは高遠藩主保科正之が会津に行き松平となりました。
有名な白虎隊に当時、高遠から出兵し戦死された若者もいたそうです。
 伊那ではお葬式に天ぷら饅頭を食べますが、会津のお葬式にも天ぷら饅頭が出されるそうです。
朝鮮半島-熊本県-長野県-福島県会津と壮大な流れですね

投稿: 北原 | 2008年6月25日 (水) 20時34分

昭和29年都立高校の2年生でした。昼休み男女のクラスメートが輪になって歌っていました。私は福島県の中学3年の二学期を終了して東京の中学に転校し、その高校に入ったのでしたが、未だ山猿同然でした。
それまで聴いたことがない哀調しみじみの歌を耳にして、彼らに対する羨望と劣等感を感じたものでした。その後怪我がもとで故郷に戻るのですが、その頃芽生えた片思いを切なく思い出します。N.N

投稿: 福島県・70才・男性 | 2008年9月15日 (月) 12時58分

 先日、川辺川ダム建設予定地の五木村に前原国交相が視察・懇談に訪れたとのニュースが流れましたが、深い山間を縫うように流れる清流と「子守娘」の彫刻が印象的でした。
 遠い昔の子守娘たちは、五木村の子孫たちが、政・官・財による戦後のコンクリート行政に翻弄されているとは夢々思わなかったことでしょう。
 それにしても「五木の子守唄」の歌詞と蛇足を目で追い、メロデイーを静かに聴いていると、自分の原風景が浮かんできます。

投稿: かんこどり | 2009年9月29日 (火) 18時51分

五木の子守唄はしばしば日本唯一の三拍子の子守唄と言われますが、ある人が調べたところ三拍子の子守唄は日本に30ほど有るそうです。
ただその半数以上が球磨川流域に集中しているので、その人はこう考えているそうです。
【豊臣秀吉の朝鮮遠征に加わった加藤清正は多くの朝鮮人捕虜を連れ帰った。この朝鮮人捕虜は球磨川の治水工事に投入された。彼らが故郷を偲んで歌った三拍子の歌は彼らの子孫やこの地域の人たちによって伝承され、この地域に三拍子の子守唄が多い理由になっている】

投稿: ☆諒 | 2010年1月13日 (水) 10時05分

おどん・・・人吉在住の小中学生の頃によく聞いた、同じ年頃の女の子達が自分をさして言う言葉でした。
おどま・・・おどみゃーと言ったと思います。
女の子が 私は・・・と言っています。
もう50年以上前聞いていた球磨/人吉の言葉です。
私達には 子供でもこの歌は始めっから女の子が、それも大変貧乏な家の女の子が、皆から離れ一歩下がって周りをうかがいながら、そして周りを羨みながら呪いながら歌っている とっても暗い切ない歌だと分かっていました。
このようなある意味とっても悲惨な歌詞の民謡は全国でもこれだけではないでしょうか。
東京で就職し 酒の席で 故郷の歌を・・・と言われとっても困った覚えがあります。
あの時東北の方々は皆さんとっても上手にお国の民謡を次々に歌いましたね。
今だったら解説しながら堂々と歌いますが、若かったんですねー、宴会の雰囲気に気を使いすぎました。

この歌を聴くと 人吉に「おくんち」「旧正月」に市内に出てきた周辺の町や村の人達を思い出します。

投稿: 昔の人吉人 | 2011年1月12日 (水) 17時19分

clover
はじめまして、未曾有の東北地方太平洋沖大地震で日本国じゅうが、驚きと、悲しみにくれている中、偶然貴ブログに出会いました。これも偶然ですが3月11日のあの地震、大津波が起きる数時間前、過去にラジオから流れていた五木の子守唄を聞き、何とも言えない哀愁に心打たれたCD、「全国お国自慢民謡、九州。沖縄」を無差別を手に入れ聞いたのです。
五木の子守唄については何の知識もなかったし、唄自身も正確にきいたこともなかった。当然唄うことなんか絶対出来なかった私。それが、聞くほどに落涙。
音痴だと自他ともに許し絶対に歌を歌うことをしなかった私だったのに……。他人は私が唄うのを聞くと笑ったのでした。それほど下手だったのです。
そんな私が五木の子守唄のとりこになってしまい、その日からほとんど一日中、毎日、毎日CDを聞き、見よう見まねで歌い続けたのです。11日から今日(16日)まで、とうとう
完全に曲と歌詞を覚えうたえるようになったのです。
CDの五木の子守唄を唄っておられる男性歌手さんの淡々とした唄い方の中に零れおちる哀愁があって、どんなに聞いても、あきが来ないし、私をきりもなく唄いつづけさせました。
このような想いははじめてです。(ヤフーの知恵袋で問いても、その男性歌手さんのお名前はわかりませんでした)
そして、五木の子守唄のバックに潜む悲しい物語と差別の実態の残酷さがあったとわかり迫りくる哀愁はそれだったのだと理解しました。
この民謡をバックミュージックで流していると、聞くほどに、唄うほどに心やさしくなるのは不思議です。

ありがとうございました。

投稿: 遠藤 | 2011年3月16日 (水) 15時54分

このメロディ、この歌詞、『蛇足』を読ませていただき、涙して聞かせていただきました。ありがとうございます。

投稿: てんてん | 2011年8月20日 (土) 10時12分

『惜別の歌』について調べていたところ、偶然貴ブログに出会いました。そして『五木の子守唄』の欄にたどりつきました。2年前の夏、父が七十九歳で他界しました。自営業を営み、体一つで家族を養い、私たち兄弟を育ててくれました。酒好きで、ギャンブル好き、そしてわがままな人でしたが、情に厚く、商売人らしく人との付き合いを大切にする人でもありました。そして、本当に歌の好きな父でした。夜布団の中で、毎晩のように私が眠りにつくまでこの『五木の子守唄』を歌ってくれたことをいつも昨日のこともように思い出します。父との思い出は数多く私の心の中に今も生き続けていますが、どうしてもこの歌だけは特別なものとなっています。
気がつけばいつの間にか私も父親となって、二人の子供達にもやはりこの子守唄を歌いながら寝かしつけていました。子供たちは『おじいちゃんがパパに歌った歌を歌って。』と言ってくれたものです。
いつか、子供たちも大人になり、父となり、また母となった日には、私がずっと覚えていたように、そして歌ったように、私の孫たちにも歌い継いでくれるでしょうか。
いま、この下手な文章を書きながらも父の歌声が私の中ではっきりと聞こえています。
月日の流れの速さに感慨を覚えながら。。。

投稿: 和歌山県人 | 2012年2月13日 (月) 12時06分

「五木の子守唄」は貧しい家の娘達が創りだした歌で、人の心を打つものを持っていると思います。二木先生はとてもすばらしい解説をなさって下さっています。二木先生の解説のように理解することもできるのですが、この歌は掛け合い歌で、1番から6番のそれぞれは前半後半で別の話者の言葉と理解することもできます。そのような観点から、歌詞を解釈してみました。そうすると、「五木の子守唄」の少女達のたくましさも見えてくるように思います。

投稿: ruriko | 2013年3月15日 (金) 23時47分

関東人ですので九州の事は殆ど無知ですが、この歌の悲しさは能天気の私にも伝わってきます。方言が理解できなくて、詩の意味は余り分かりませんでしたが、丁寧な解説で理解できました。現在BSで再放送されている、ドラマ「おしん」を連想させます。現在の私の生活が経済的に苦しいなんて愚痴を言ったら、申し訳ないと思いました。農地解放が施行されるまでの小作人の苦しみは、想像を絶するものだったのでしょう。苦しい時はこの歌を思い出します。ありがとう御座いました。

投稿: 赤城山 | 2013年5月25日 (土) 10時53分

先のお方のおしんというなつかしい言葉に触発されて、コメントいたします。
私の、今住んでいる、ベトナム・ハノイの農村でも、おしんブームがすごかったようで、
おしんという言葉が、一般名詞の「家事労働」や、昔でいう「女中奉公」として使われています。
「今日は、一日中おしんで、疲れました」とか「おしんの仕事が見つかったので、
台湾に3年ほど出稼ぎにいきます」というふうに普通に会話されます。
あのドラマを見た人に聞けば「貧乏に負けずにがんばるところがすばらしい」といいます。
中には泣きながら見たという人もいます。
橋田壽賀子はすごいなあというよりも、アジア人の中にある感性の共通性を思います。

最後に一言です。
この歌は方言で歌われているため、歌詞の内容が、わかったつもりで実はわかっていないというところがありました。
<蛇足>で歌詞の意味を書いていただいでいるのは、おおいに助かります。
歌が明確になり、新しい命を得たかのようになりました。
いつもながらの、二木先生の地味にして大きな仕事、その一つだと思っています、

投稿: 越村 南 | 2013年5月26日 (日) 00時54分

2011年3月16日投稿の遠藤様  貴殿が聴いた歌は『石原裕次郎』の “ふるさと慕情”ではないでしょうか  実はこの歌で私も同じ体験しましたのでお知らせしているところです   違っているかもしれませんが、この『裕次郎』の曲・歌詞にも触れてください  涙しますよ

投稿: くろかつ | 2013年11月19日 (火) 04時53分

2年半おいて、続けて投稿します
と言いますのは、一度削除されていました石原裕次郎氏の歌う “ふるさと慕情” がyou tubeに再upされているからです  しかも3つも……
民謡(巷間に唄われている)と一味違った奥深い哀愁を聴かせてくれます   『ふるさと慕情・石原裕次郎』で検索してください   これを読まれた方にはぜひお奨めします

投稿: くろかつ | 2016年4月13日 (水) 21時14分

連日の熊本・大分の地震報道を見るたびに胸が
痛みます。
決して他人事とは思われません。
人は自然の力の前に何ができるのでしょうか」。

投稿: 修さん | 2016年4月18日 (月) 19時54分

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