« 北国の春 | トップページ | ラ・クカラチャ(2) »

ラ・クカラチャ(1)

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


メキシコ民謡

(日本語詞1:津川主一)

1 兵隊は進み 村里へ入り
  人々は出かけ これをば迎える
  きれいな娘に ショールをかけては
  戦いを忘れ 楽しく歌う
  (*)ラ・クカラーチャ ラ・クカラーチャ
     なんと美しい
     ラ・クカラーチャ ラ・クカラーチャ
     素敵な姿よ
     ラ・クカラーチャ ラ・クカラーチャ
     月が上れば
     ラ・クカラーチャ ラ・クカラーチャ
     南国の夢

2 兵隊は進み 村里を離れ
  人々は出かけ これをば見送る
  また遭えるときは いつくるのかしら?
  笑い声だけが 心に残る
  (*繰り返す)

    (日本語詞2:穂高五郎)

ぼくらの胸には 血潮がたぎるよ
おろかな女は メキシコにゃいない
今宵こそ 踊り明かそう
太鼓をたたけ かきならせギター
ラ・クカラチャ ラ・クカラチャ
みんなで踊ろう 手をとりて立ち上がれ
かきならせギター
ラ・クカラチャ ラ・クカラチャ
みんなで歌おう
調子とり声をそろえ 太鼓よひびけ

       La Cucaracha

1. Cuando uno quiere a una
   Y esta una no lo quiere,
   Es lo mismo que si un calvo
   En la calle encuentr' un peine.
      (Chorus:)
       La cucaracha, la cucaracha,
       Ya no quieres caminar,
       Porque no tienes,
       Porque le falta,
       Marihuana que fumar.

2. Las muchachas son de oro;
   Las casadas son de plata;
   Las viudas son de cobre,
   Y las viejas oja de lata.
     (Chorus:)

3. Mi vecina de enfrente
   Se llamaba Doña Clara,
   Y si no había muerto
   Es probable se llamara.
     (Chorus:)

4. Las muchachas de Las Vegas
   Son muy altas y delgaditas,
   Pero son mas pedigueñas
   Que las animas benditas.
     (Chorus:)

5. Las muchachas de la villa
   No saben ni dar un beso,
   Cuando las de Albuquerque
   Hasta estiran el pescuezo.
     (Chorus:)

6. Las muchachas Mexicanas
   Son lindas como una flor,
   Y hablan tan dulcemente
   Que encantan de amor.
     (Chorus:)

7. Una cosa me da risa --
   Pancho Villa sin camisa.
   Ya se van los Carranzistas
   Porque vienen los Villistas.
     (Chorus:)

8. Necesita automóvil
   Par' hacer la caminata
   Al lugar a donde mandó
   La convención Zapata.
     (Chorus:)

《蛇足》 1911年から1920年まで続いたメキシコ革命の最中、パンチョ・ビジャ(上の写真)率いる北部武装勢力の間で盛んに歌われた歌。
 La cucarachaはスペイン語で、laは定冠詞、cucarachaはゴキブリの意。英語のコックローチと同語源です。

革命前の状況
 メキシコの近世から現代に至る歴史は、イコール民衆受難の歴史といっても過言ではありません。
 16世紀にコルテスなどスペイン人のコンキスタドーレス
(征服者たち)による虐殺や、彼らが持ち込んだ伝染病によって、アステカの先住民(インディオ)は絶滅寸前まで追い詰められました。

 その後、スペイン人を主とする白人と先住民との混血が進み、住民の大多数がメスティソと呼ばれる混血で占められるようになりました。
 しかし、富や権力は白人と一部のメスティソが独占し、住民の大半は貧困にあえぐという極端な二元社会が続きました。
 1821年にメキシコはスペインから独立しますが、これはメキシコ生まれのスペイン人たちが本国から独立したというだけであって、大半の住民が収奪と抑圧に苦しめられているという状況はなにも変わりませんでした。

 1876年、自由主義派のリーダーの1人だったポルフィリオ・ディアスが武力で政権を掌握し、大統領に就任します。
 この人物は「絶対権力は絶対的に腐敗する」
(アクトン)を地でいったような人物で、メキシコの重要な経済部門を次々と外国企業に売り渡します。1910年の数字で見ると、鉄道の98パーセント、石油の97パーセント、鉱山資源の97パーセント、国土の25パーセントが外国企業の所有になっていました。

 譲渡によって得られた利益の大半は、対外債務の返済や軍隊の整備、ディアスの資産増加に当てられただけで、国民の厚生にはほとんど資することがありませんでした。
 農民の97パーセントは土地を所有せず、白人や一部メスティソの大農園で奴隷的な労働者として働くほかありませんでした。資本主義の発達とともに工場労働者も増えましたが、労働条件はきわめて劣悪で、争議が頻発しました。

 このような状況のなかで、1910年11月20日、ついに革命が勃発します。
 革命は2つの対照的な勢力によって推し進められました。1つは農園主などのうち自由主義的なブルジョワ階級であり、もう1つは貧農などから成る農民軍でした。
 前者のリーダーが、のちに大統領になるフランシスコ・マデロやベヌスティアーノ・カランサ、アルバロ・オブレゴンなどであり、後者のリーダーがパンチョ・ビジャ
(写真)とエミリアーノ・サパタでした。ビジャは北部の農民軍、サパタは南部の農民軍を率いました。

パンチョ・ビジャの活躍
 ビジャは1878年6月5日、メキシコ北部・ドゥランゴ州のサン・ファン・デル・リオで生まれました。出生届に記された名前はドロテオ・アランゴで、パンチョ・ビジャは後年、自分でつけた名前です。

 なお、パンチョはフランシスコの愛称なので、正式に呼ぶとフランシスコ・ビジャということになります。
 また、
Villaのllaはスペイン語ではジャ・リャ・ヤの混ざったような音なので、日本語ではパンチョ・ビリャとも表記されます。vはbと同じ発音なので、ヴィジャまたはヴィリャと書くのはまちがいです。

 父親は大農園で働く労働者でしたが、アランゴが小さいときに亡くなったので、長男のアランゴは早くからその農園で働いて、一家の生活を支えました。しかし、16歳のとき、農園主と衝突して逃げだし、チワワ州で山賊の仲間に入ります。
 当時のメキシコでは、山賊は義賊のような受け取られ方をしていました。一般の泥棒や強盗はだれからでも奪いますが、山賊は金持ちから奪い、その一部を貧しい農民やインディオに分け与えるケースが多かったのです。

 やがて親分のパンチョ・ビジャが警官隊との撃ち合いで死ぬと、アランゴはその名を継いで一味の親分になります。
 メキシコ人としては体が大きかったうえに
(180センチ、90キロあったといわれます)、指導力もあった二代目ビジャは、その行動を通じて、貧しい農民やインディオたちに英雄として崇め、称えられるられるようになりました。

 30代に入ったころ、ビジャは山賊から足を洗い、チワワ市の外れで食肉業を営むようになります。
 その頃、ビジャは商売を通じてアブラアム・ゴンザレスという地方行政官と知り合います。ゴンザレスはビジャに目をかけ、読み書きを教えるとともに、その目を政治に向けさせました。

 反ディアス革命が起こったとき、ビジャはゴンザレスから反ディアスのゲリラ部隊を組織するように依頼されました。
 当時の社会状況に憤懣やるかたなかったビジャに、断る理由はありません。かつての仲間やら、彼から恩恵を受けた農民たちを糾合して、たちまち一大部隊を編成してしまいます。
 彼の部隊はマデロ指導下の革命軍に合流し、政府軍と戦い続けました。同じように南部では、サパタの率いる農民軍がゲリラ戦を繰り広げました。

 1911年5月末、ディアスは国外に逃亡し、マデロを首班とする新政府が樹立されました。しかし、待遇に不満もつパスクァル・オロスコ将軍が反乱を起こしたため、戦乱は続きました。そのなかにあって、ビジャは終始マデロ政権側に立って戦いました。

ウエルタ将軍の裏切り
 オロスコの反乱の際、ビジャは正規軍司令官のビクリアアノ・ウエルタ将軍の指揮下に組み入れられました。
 ウエルタはディアス時代から軍の最高実力者でしたが、マデロ政権になってもその座に座り続けていました。ウエルタのさまざまな所業を見ると、冷酷無慈悲、独善的、執念深いといった姿が浮かび上がってきます。1970年代にチリ軍事政権の首班だったピノチェトや、現ミャンマー軍事政権の最高実力者タン・シュエを思い起こさせます。

 親分肌でおおらか、ある意味では粗野だったビジャは、エリート風を吹かせるこの人物とは最初からウマが合わなかったようです。
 ある日、些細なトラブルを口実にウエルタはビジャを逮捕し、軍事裁判で死刑を宣告しました。処刑寸前でマデロ大統領が延期命令を出します。取るに足らぬもめ事だったので、釈放してもよかったのですが、マデロはウエルタの顔を立てて、ビジャを陸軍刑務所に収監します。
 しかし、1912年6月、ビジャは支持者の手助けで脱獄し、アメリカのアリゾナ州に逃亡してしまいました。

 1913年2月18日、ウエルタはクーデターを起こします。
 実は、ウエルタはオロスコ軍と裏取引をしており、反乱鎮圧をサボタージュしていました。自分の意のままになる部隊は温存し、マデロ大統領に忠実な部隊には、オロスコ軍に十分準備をさせたうえで突撃をさせました。
 オロスコ軍との裏取引を仲介したのはアメリカ大使だったといわれます。

 このようにマデロ大統領派の武力を弱めてからクーデターを起こしたのです。
 ウエルタはマデロ大統領とスアレス副大統領を逮捕・監禁し、命は保証するからといって辞任を承知させます。
 しかし、それはウソで、自分が大統領に就任したあと、2人を殺してしまいました。

 ビジャを革命軍に誘ったアブラアム・ゴンザレスは、このころ、チワワ州の知事をしていました。政権を奪取したウエルタは、知事など高官たちに自分への忠誠を求めました。多くの高官が彼になびくなか、ゴンザレスはそれを拒否します。
 すると、ウエルタは彼を逮捕し、汽車で轢き殺させてしまいました。

再び戦いへ
 アリゾナでそれを聞いたビジャは、怒りに燃えて帰国します。相手は自分を理不尽に殺そうとしたうえに、敬愛する2人の政治家を惨殺した男ですから、その怒りは生半可なものではなかったでしょう。

 ビジャはかつての自分の勢力圏を回って義勇兵を募りました。伝説的な将軍ビジャの呼びかけですから、兵は続々と集まってきました。
 1913年8月、ビジャは義勇兵たちとともにメキシコシティを目指して進軍します。その途次で、各地の親分やリーダーたちが配下を引き連れて続々と参加してきました。

 ビジャ軍と同時にブルジョワ政治家たちも反ウエルタの兵を挙げ、カランサを「革命の第一統領」として戦い始めました。また、南部ではサパタが配下を率いて北上してきました。

 快調に進軍しているさなか、カランサ派とビジャ派との間に軋轢が発生しました。
 殺されたマデロ大統領もそうでしたが、ブルジョワ派の指導者たちはいずれも、政治制度を民主化して近代国家としての体面を整えることには熱心でしたが、窮乏している民衆の生活を改善することには、ほとんど関心をもちませんでした。

 いっぽう、ビジャやサパタは土地改革を要求していました。
 マデロ政権のとき、サパタは
「強奪された土地・森林・水利などの財産は、正当な権利を有する村および人民がただちに保有するものとする」という主張を発表していました。これがメキシコ史に名高い「アラヤ綱領」です。この考えはビジャも同じでした。

 1914年8月、ウエルタがスペインに亡命したあと、カランサ軍がメキシコシティに入城し、反ウエルタ革命は終了しました。ビジャ軍が遅れたのは、カランサ派の策略に引っかかったためでした。

 同年10月、革命軍の代表者たちを集めて、その後の基本方針を定める会議が開かれました。旧支配層に妥協して土地改革を否定したカランサとオブレゴンに対して、ビジャとサパタはアラヤ綱領を共同綱領として提出、賛成多数で採択されました。

 この結果を呑めなかったカランサ派は、ビジャ派との戦闘に突入します。
 
1915年4月、ビジャ軍とオブレゴン指揮下のカランサ軍は、グアナフアト州セラヤで激突しました。ビジャ軍は兵力・火砲ともカランサ軍の約2倍だったにもかかわらず、惨敗しました。なぜでしょうか。

 ときあたかも第一次大戦の真っ最中で、ヨーロッパ戦線では鉄条網で突撃してくる歩兵を足止めし、塹壕から機関銃で掃射するという新戦法が使われていました。
 カランサ軍はそれにならって、戦場に塹壕と鉄条網を張り巡らせてビジャ軍お得意の騎馬突撃を阻み、86丁の機関銃による猛射を浴びせかけたのです。
 ヨーロッパやアメリカに伝手のないビジャ軍は、そうした新戦法についての情報が入らなかったし、機関銃も入手できませんでした。

 このあたり、長篠の合戦に似ていますね。長篠の合戦で、織田軍は武田騎馬隊の突進を木柵で防ぎ、最新兵器だった鉄砲3000丁の3段撃ちで武田軍を殲滅したのでした。
 結局ビジャ軍は崩壊し、ビジャは故郷チワワ州に逃げ帰ります。

サパタ・カランサ・ビジャの最期
 
ビジャ軍が崩壊したあと、サパタは南部の山中でゲリラ戦を続けていました。1919年4月10日、政府軍のある将校が一隊を率いて投降してきました。サパタがつい気を許したすきに、その将校に撃たれて死んでしまいました。

 強力な敵・ビジャを退け、サパタも死んで、何も恐れるものがなくなったかのようなカランサでしたが、その支配権は早くも揺らぎ始めていました。
 新憲法を制定する際、配下の将軍たちが、カランサの意に反して、ビジャ・サパタ派の主張を大幅に取り入れ、農地改革や労働者の権利保護など、進歩的な施策を採択したのです。
 将軍たちが率いていた兵士はいずれも貧農や労働者で、各地を転戦するなかで、彼らが置かれている惨めな状況を理解するようになっていたのです。 
 

 その決定を無視して政治を進めたため、カランサは急速に求心力を失いました。失望した将軍たちが目を向けたのが、カランサ派のナンバー2、オブレゴンでした。
 オブレゴンは大農園主でしたが、ほかのブルジョワ派と違って貧しい家の出だったため、民衆が何を求めているか知っていました。それまでも、何度かビジャ・サパタ派とカランサ派との関係修復に努めましたが、不調に終わったため、カランサ派についていたのです。

 オブレゴンの声望に危機感を抱いたカランサは、彼を逮捕しようとします。いち早くそれを察知したオブレゴンは故郷のソノラ州に脱出し、そこで兵を挙げました。
 将軍たちの大半に加えて、ビジャ派やサパタ派の残党も彼についたため、カランサはなすすべもなく首都から逃亡し、山中をさまよったあげく、オブレゴン軍の兵士に射殺されました。1920年2月のことです。

 1920年6月、大統領選に立候補して当選したオブレゴンは、ビジャ派・サパタ派と最終的な和平協定を結び、10年にわたったメキシコ革命はようやく収束しました。

 ビジャは故郷チワワ州で家族や革命運動の同志たちと農園を経営して暮らしていました。1923年7月20日、秘書と護衛をのせた車を自ら運転中、銃撃を受けて殺されました。
 暗殺者の正体は不明ですが、大統領のオブレゴンもしくは陸軍大臣のカジェスが黒幕か、少なくとも事前に暗殺計画を知っていたといわれています。ビジャが政治家として自分たちの地位を脅かすようになるのを恐れたのでしょうか。

 波瀾万丈のメキシコ革命史を駆け足で見てきましたが、次にビジャ派と『ラ・クカラチャ』の関係について見てみることにしましょう。

ラ・クカラチャ(2)に続く〕

(二木紘三)

|

« 北国の春 | トップページ | ラ・クカラチャ(2) »

コメント

まるで歴史の本を読むような厳粛な気持ちと、この軽快なリズムがアンバランスな不思議な気持ちです。いつもながら二木さんの造詣の深さに敬意を表します。有難うございました。
なじみ深い曲にも色々な歴史があるものですね。今後も戦前の名曲を取り上げてくださるよう期待いたします。

投稿: K・K | 2008年12月 4日 (木) 16時38分

今からもう13年も前の'96年の夏、
フィリピンのセブ島に旅行をしたときのことを思い出しました。
ホテルのレストランは、日本人の観光客が大半でわいわいガヤガヤ、たいそう賑わっていました。
そこへ、マリアッチ風のカルテットがやってきて、
各テーブルを演奏して周りながらリクエストを求めていました。たちまち、どのテープルも沈黙。

気まずさを打開したくて私パンプキンがとっさの思い付きで『ラ・クカラチャ』を、大きな声でリクエスト。
そのときのマリアッチ達の嬉しそうな顔と♪ラ・クカラチャの弾むようなリズムは忘れることが出来ません。
一瞬にしてノリノリレストランに変貌したことは言うまでもありません。

投稿: パンプキン | 2009年5月 9日 (土) 01時16分

はじめまして、今朝、何故かゴキブリの映像が出てきて、それが不思議な感覚だったので、調べているうちにここにたどり着きました。へぇ~~~と驚くことばかり、、、ん~言葉が見つからないので、ここにたどり着けた事ありがとうございました^^

投稿: A・M | 2011年5月22日 (日) 21時08分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 北国の春 | トップページ | ラ・クカラチャ(2) »