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島原(地方)の子守唄

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作詞・作曲:宮崎一章(康平)、唄:島倉千代子/ペギー葉山

1 おどみゃ島原の おどみゃ島原の
  梨の木育ちよ
  何の梨やら 何の梨やら
  色気ナシばよ しょうかいな
  はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい
  鬼の池(おんのいけ)久助(きゅうすけ)どんの 連れんこらるばい

2 帰りにゃ寄っちょくれんか 帰りにゃ寄っちょくれんか
  あばら家じゃけんど
  といも飯ゃ粟(あわ)ん飯 といも飯ゃ粟ん飯
  黄金飯(こがねめし)ばよ しょうかいな
  嫁御ん紅(べん)な 誰(だ)がくれた
  唇(つば)つけたなら あったかろ

3 沖の不知火(しらぬい) 沖の不知火
  消えては 燃える
  バテレン祭りの バテレン祭りの
  笛や太鼓も 鳴りやんだ
  はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい
  はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい

《蛇足》 歌の感じからすると、『五木の子守唄』のように古くから歌い継がれてきた民謡のように思われますが、実は昭和25(1950)ごろに作られた新民謡です。作者は『まぼろしの邪馬台国』の著者・宮崎康平。

 宮崎康平は大正6(1917)、長崎県南高来郡杉谷村(現・島原市)に生まれました。
 康平はペンネームで、本名は別にあります。最初の戸籍名は懋
(つとむ)でしたが、のちに失明した際、自署が困難、活字がないなどの理由で一章と改名しました。ただし、字画を理由に一彰を使っていた時期もあります。
 ペンネームも、若いころには耿平を使っていました
(以上、名前についての情報は中井修さんからいただきました)

 早稲田大学文学部を卒業後、東宝の脚本部に入社しましたが、まもなく帰郷して家業の土建業を継ぎました。昭和22(1947)には、乞われて島原鉄道の常務取締役に就任します。

 当時の島原鉄道はオンボロ鉄道で、並行して走るバスに次々と客を奪われていました。
 昭和24
(1949)、天皇が長崎巡幸の途次、島原半島を訪問する旨が伝えられました。当初は諫早(いさはや)でバスに乗り換える予定でしたが、康平が猛烈に運動した結果、お召し列車をそのまま島原鉄道に乗り入れることになりました。
 ただし、その条件として路盤を強化し、レールを丈夫で安全なものに取り替えることが求められました。

 康平の陣頭指揮のもと、昼夜兼行の工事が始まりました。康平は学生時代から眼底網膜炎を患っていましたが、このときの過労がたたって、翌年、ついに失明してしまいました。
 失明の苛立ちや経済的危機などが原因で妻との関係がまずくなり、やがて妻は2人の幼子を残して出奔してしまいます。
 のちに康平は、「妻に見捨てられた我が子を抱いて、失明の苦悩にじっと耐えながら、オロロン、オロロンと土地の年寄り衆が歌っていたあやし言葉を入れて歌っているうちに、なんとなくできた」のが『島原の子守唄』だと述懐しています。

 失明を理由に常務取締役を辞した康平でしたが、昭和32(1957)7月の諫早大水害で大損害を受けた島原鉄道の懇請を受けて復帰、再び鉄道復旧の陣頭に立ちました。
 その工事の際、多数の土器が出土したことから、康平は古代史に強い関心を持つようになります。

 その後康平は非常勤取締役に退き、再婚した和子夫人とともに、邪馬台国について九州全域から朝鮮半島まで調査して回ります。その結果をまとめたのが、昭和42(1967)に講談社から発売された『まぼろしの邪馬台国』です。

 この本は空前のヒットとなり、日本中に「邪馬台国論争」を巻き起こしました。その功により、この年創設された吉川英治文化賞を受賞しました。賞は、和子夫人の功績大であるとして、夫妻宛になっていました。
 このへんの2人の生活ぶりについては、平成20
(2008)、吉永小百合・竹中直人主演で映画化され、話題を呼びました。

 話を『島原の子守唄』に戻しましょう。
 康平が子守りの際に口ずさんでいた歌は、次第に周辺の人びとにも知られるようになりました。昭和28
(1953)には保存会が結成され、九州各地でのさまざまな催事の折に歌や踊りが披露されました。

 この歌が全国に知られるようになったきっかけは、菊田一夫でした。昭和27(1952)、子守唄の取材で九州を訪れ、この歌に感銘を受けた菊田一夫は、帰京後、古関裕而に歌って聞かせました。

 同年、康平は島原鉄道の依頼で『島原鉄道観光の歌』を作詞します。偶然にも、その作曲を引き受けたのが古関裕而でした。
 古関の強いすすめを受けて、康平は『島原の子守唄』としてあらためて作詞、古関が編曲して、昭和32
(1957)、島倉千代子の歌でコロムビアレコードから発売されました。

 レコード制作に当たって、島原地方の古謡がこの歌のベースになっているとされましたが、なぜか康平は自分の作だと主張しませんでした。そのため、レコードには「採譜・補作:宮崎耿平、編曲:古関裕而」と記載されました。
 しかし、その後、歌詞も曲も康平の創作だとわかり、以後は「作詞・作曲:宮崎一章」で売られるようになりました。

 島倉の歌で『島原の子守唄』は次第に人びとに知られるようになりましたが、大ヒットというまでには至りませんでした。
 島倉盤から2年後、康平は妻城良夫との合作で別ヴァージョンの歌詞を作りました。タイトルも『島原地方の子守唄』と変え、ペギー葉山の歌でキングレコードから発売されました。これが大ヒットとなり、この歌は全国に知られるようになります。上記の歌詞は、このペギー葉山盤に依っています。

 子守唄には、幼子を寝かしつけるための字義通りの子守唄と、『五木の子守唄』のような、子守り娘の不幸な境遇や望郷の思いを歌った「守り子唄』の2種類があります。
 『島原(地方)の子守唄』は、「はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい」とあやし言葉が入っていることから、前者に分類されます。しかし、主要なテーマになっているのは実は「からゆきさん」です。

 明治時代、島原半島や天草諸島の貧しい農家から、多くの娘が身売りに出されました。その数は累計20万人とも30万人ともいわれます。
 彼女たちは、島原半島南端の口之津港に深夜密かに集められ、そこで外航船の船底に石炭とともに詰め込まれて、中国や東南アジア各地の娼館に売られていきました。

 彼女たちの運命は過酷でした。外航船のなかで船員たちの慰み者になることも多かったし、娼館では辛い性奉仕や男たちから移された病気によって命を落とす者も少なくありませんでした。こうした女性たちが、からゆきさんと呼ばれました。
 からゆきさんのなかには、無事年季を終えて帰郷し、貯めた小金で親のために家を立てる者もいました。身を売って得た金であるにもかかわらず、そうした家は近所からうらやましがられたといいます。

 からゆきさんについては、山崎朋子著『サンダカン八番娼館-底辺女性史序章』(初版昭和47〈1972〉年)に詳しく書かれています。また、この作品は『サンダカン八番娼館 望郷』というタイトルで、熊井啓監督によって東宝で映画化されました。

 幼いころからからゆきさんたちのことを見聞きしていた康平は、子守唄を歌っているうちに、自然にそうした話を歌詞に織り込んでいったのでしょう。『島原の子守唄』の寂しいメロディは、からゆきさんたちの悲しい運命を歌うのにぴったりでした。
 写真はからゆきさん
(シンガポール国立博物館蔵)

 上記の歌詞に出てくるわかりにくい言葉について、少しばかり書いておきましょう。

 「おどみゃ」は「私は」の意。
 「しょうかいな」はそうかいなという意味ですが、ここでは囃子ことばとして使われています。
 「鬼の池久助どん」は口之津港の対岸の鬼池に住んで女衒
(ぜげん)を営み、富を貯えたとされる人物。実在したかどうかは不明。
 「といも」はサツマイモのことで、「といも飯」はサツマイモを炊き込んだご飯。「粟ん飯」は粟を炊き込んだご飯。現代の混ぜご飯と違って、米の足りない分を芋や粟で補うのが目的でした。
 「つば」は天草・島原あたりの方言で唇のこと。
 不知火は8月の初めごろ八代海に現れる蜃気楼の一種。このため、八代海は不知火海とも呼ばれます。
 「バテレン祭」は島原や長崎一帯で催されるポルトガルやオランダ、中国の影響を受けた祭。

 からゆきさんを歌ったことばは、ペギー葉山盤以外のほうに多く見受けられます。そうした歌詞のうち、おもなものを順不同で挙げると、次のようになります。

山ん家は かん火事げなばい
山ん家は かん火事げなばい
サンパン船は よろん人
姉しゃんな にぎん飯で
姉しゃんな にぎん飯で
船ん底ばよ しょうかいな
泣く子はガネかむ おろろんばい
アメガタこうて ひっぱらしゅう

姉しゃんな どけいたろうかい
姉しゃんな どけいたろうかい
青煙突のバッタンフル
唐はどこんねき 唐はどこんねき
海のはてばよ しょうかいな
はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい
おろろんおろろん おろろんばい

あん人たちゃ 二つも
あん人たちゃ 二つも
金の指輪はめとらす
金はどこん金 金はどこん金
唐金げなばい しょうかいな
嫁ごんべんな だがくれた
(つば)つけたら あったかろ

 この歌についてもう1つ触れておかなければならないことがあります。前半のメロディが山梨県韮崎(にらさき)地方の民謡『縁故節』とそっくりだということです。

 『縁故節』の起源は古く、江戸時代中期、明和年間に歌われ始めた『えぐえぐ節』が始まりとされています。『えぐえぐ節』はジャガイモをテーマとした歌で、江戸初期に日本に入ったとされるジャガイモ(ジャガタライモ)がこの時期にようやく普及し始めたことを物語っています。
 昭和初期に韮崎市の有志がこの歌に伴奏と振りをつけ、盆踊りなどで歌い、踊られるようになったようです。

 この民謡が広く知られるようになったのは、昭和3(1928)に東京中央放送局(現NHK)から山梨県の代表的民謡として放送されたのがきっかけ。
 その後何度か放送されたため、康平の記憶の片隅に刻み込まれ、それがからゆきさんたちの悲しい運命を歌ううちに自然に取り込まれてしまったのではないでしょうか。
 岩手の『南部牛追い唄』が九州の『刈干切唄』や宮城の『お立ち酒』、静岡の『子守唄』などとよく似ている例にも見られるように、民謡の世界ではとくに珍しいケースではないようです。

(二木紘三)

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コメント

 私が終戦後から高校卒業まで過ごし、今なお95才になった母が住んでいる故郷島原の歌をとりあげていただき感激です。
 宮崎康平氏の名前は時々耳にしていましたが、「まぼろしの邪馬台国」が文学賞をとるまでは、それほどの人とは認識していませんでした。
 二木先生がお書きになっている、昭和天皇ご巡幸にまつわる康平氏の話は知りませんでしたが、お召し列車(当時はこう呼んでいました)が通る沿線では、お年寄り達がござに正座してお待ちしたというエピソードは記憶しています。戦後とはいえ天皇はまだまだ文字通り雲の上の人だったのですね。昭和天皇は窓際にお立ちになって手を振られていたそうです。
 

投稿: 周坊 | 2008年12月17日 (水) 22時47分

この歌はペギー葉山のものが耳に残っています。宮崎康平さんの失明が天皇巡幸と関係があったことは初めて知りました。「サンダカン8番娼館」は原作も映画も鑑賞しましたが、子守たち、からゆきさん、宮崎修平さん、それぞれに何か悲しく切ない物語があったのですね。

投稿: Bianca | 2008年12月18日 (木) 23時11分

私は肥前・東松浦郡(現在の唐津市)で生まれ、国民学校2年生で終戦を迎えました。農作業の繁忙期には、知り合いの家の娘さん姉妹が私ども兄弟の子守に来てくれていました。妹が生まれたのは、齢が空いていて、昭和23年の夏です。「ねんねこんぼ、ねんねこんぼ、ねんねこんぼよ おんのいけん きゅうすけどんの つれんこらすばい」と誰に教えられることもなく、口ずさみながら、ぐずる妹の子守をしたものです。旋律は、島原の子守唄の後半部と同じです。古くから肥前地方に歌い継がれていた子守唄がもとになっていることを知り、感慨無量です。二木先生の情報収集力にはただただ感服しています。

投稿: まきば王 | 2010年2月27日 (土) 13時47分

私は山梨出身の東京在住者です。
昔、「山梨の縁故節は島原の子守唄の盗作だ」と言われていて、それを信じていました。事実は逆だったのですね。故郷の民謡の汚名が晴れて嬉しいです。

投稿: MS | 2010年8月21日 (土) 22時41分

この歌は高校の修学旅行で訪れた長崎で、バスガイドさんから教わりました。あまりに叙情的な詩であったため、その後ずっと記憶していました。進学した京都の大学のコンパで歌ってみせ、「外見に似合わないロマンチストだ」と言われたこともありました。
その後、城山三郎の『盲人重役』を読み、宮崎康平という人が詩人にして鉄道マン、そして盲目の歴史学者であったということを知り、深い尊敬の念を持つに到りました。小さな鉄道を買収から守り、離婚と失明を克服し、また学会の蔑視を乗り越えた氏の生き方そのものに感銘を覚えます。
歌詞は方言を多用しながら、長崎のエキゾチックな面も描写しており、大変な秀作だと思います。

投稿: Yoshi | 2011年10月 8日 (土) 19時28分

昭和34年だったと思います。小学校の修学旅行で長崎・雲仙を巡り、島原から大牟田まで船に乗り、久留米に帰ったのですが、島原へ行くバスの中で、ガイドさんが歌ってくれたのがこの歌でした。「五木の子守唄の出だしそっくりだな」と幼い私は思いました。ガイドさんが「三角まで行かれるのですね。(少々間があって)ああ、大牟田ですか」と言いなおされたのも記憶にあります。中学校の修学旅行では宮崎の「もろた、もろたよ、いもがらぼくと、日向かぼちゃのよか嫁女」という唄など、いろいろ歌は記憶を強化してくれます。二木先生のこのサイトは本当にありがたいものです。お元気で続けられますように。

投稿: 江尻陽一 | 2011年11月 1日 (火) 17時07分

 もう20年も前のことですが、島原、天草と旅行したことがあります。この歌を聞くとその風景が思い出されます。火山灰の多い島原半島や耕地の少ない天草の島々には大きな平野もなく、生産力の低い土地だと感じました。江戸時代の初期、3万7千人の農民が女、子ども、老人の区別なしに殺戮された天草四郎の乱も、明治以後のからゆきさんの悲劇も、この貧しい土地の連綿とした歴史のように思います。ところで子守歌の歌詞のなかに「あん人たちゃ二つも金の指輪はめとらす」とありますが、お金持ちになって帰ってきた女に対して村人たちはどんな視線を送ったのでしょうか。1娼婦稼業へのさげすみ、憐憫 2お金持ちになったことへの羨望、おそらくは2つの感情が交じり合っていたでしょうが、私は2の気持ちが断然強かったと思います。貧しい少女たちは、いいな、私も成功して親に家を建ててやりたいなと思ったと考えます。なぜなら、環境が絶望的であればあるほど(貧乏の極み)カラ元気ででも、人は明るく生きようとするでしょうから。人権感覚の進んだ今、衣食に事欠くことのない今、われわれがからゆきさんの話を知り「なんて不条理な、なんて悲惨な」というのも、ずいぶん「ずれている」ような気がするのです。帰郷した彼女らは身を隠すこともなく金の指輪をみせびらかすのでした。それから海外に身売りされたからゆきさんにショックにもにた悲哀を感じるのは、われわれが長い鎖国政策の中で、外国人と接するのが極度に苦手なだけ、ことさら驚いているだけのような気がします。彼女らにしてみれば船に乗れば直線距離のある意味、行きやすい場所だったでしょう。また異国で亡くなったと聞けば大きな悲哀を感じがちですが、たとえば長崎の丸山遊郭で苦労の末に亡くなった娼婦たちも同じことです。どちらも苦界を生きた同じレベルの悲劇と考えます。私たちが想像するよりもあっけたかんとした、しぶとい心持も、からゆきさんたちにはあったのではないかと思います。金の指輪からの連想です。
最後に<蛇足>の宮崎康平さんの紹介記事ですが、簡潔にして情熱的な記述で、二木さんの宮崎康平さんに対する敬慕の念が感じられる文章です。私はあらためて宮崎さんについて読んでみようと思いました。  さらにこの歌と山梨の縁故節との微妙な、なやましい関連ですが、どちらが先だ、後だ、盗んだ、盗まれた、こんな議論から何が生まれるでしょうね、著作権もほとんど関係のなかった時代です。それこそ野暮というものでしょう。二木さんの「民謡には似たものがある」というまとめ方には大賛成です。


投稿: 久保 稔 | 2012年8月13日 (月) 15時12分

この曲と縁故節、二木先生は前半だけ似ているとのことですが、前半に限らず全曲同じものと思います。速さが違うだけだと思います。再確認していただけますでしょうか。ご存じとは思いますが「ふる里の民謡1」(全音楽譜出版社)の240ページに載っています。「まぼろしの邪馬台国」は私も若き頃拝読し感激しましたが、真偽ははっきりしなければならないと思います。

投稿: 烏 | 2013年11月 4日 (月) 21時08分

烏様
お言葉ですが、『島原地方の子守歌』の後半、「はよ寝ろ……連れんこらるばい」に相当する部分は『縁故節』にはありません。少なくとも大塚文雄の『縁故節」を聞いた限りでは、私にはそう思えました。
なお、縁故節の成立について「大正時代ではないか」と書いた私の推測は違っていましたので、新資料に基づいて書き直しました。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2013年11月 4日 (月) 22時03分

 ありがとうございます。お返事いただけるとは思いませんでした。
 二木先生のおっしゃる通り『縁故節』には「はよ寝ろ……連れんこらるばい」に相当するところはありません。ただし、合いの手を除く『縁故節』のメロディー全体が『島原地方の子守歌』のメロディーと同じではないか、と思った次第です。先入観があり、先日のコメントになってしまいました。

投稿: 烏 | 2013年11月 8日 (金) 17時17分

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