ガード下の靴みがき
(C) Sequenced by 二木紘三 |
1 紅い夕日が ガードを染めて (セリフ) |
2 墨に汚れた ポケットのぞきゃ 3 誰も買っては くれない花を |
《蛇足》 昭和30年(1955)8月、ビクターからレコード発売。
宮城まり子は、幼くして母親・弟と死別するなど、辛い少女時代を送りました。昭和25年(1950)にポリドールから歌手デビューをしましたが、まもなくビクターに移籍、そこで『毒消しゃいらんかね』『ガード下の靴みがき』など、いくつかのヒットを飛ばしました。その後、女優業にも進出、独特の存在感を示しました。
『毒消しゃいらんかね』は、宮城まり子のために書き下ろされた歌でしたが、レコード発売前に、NHKのバラエティ番組『日曜娯楽版』で楠トシエが歌って評判になったため、彼女の歌として記憶している人も多いと思います。
昭和43年(1968)、静岡県浜岡町(現・御前崎市)に肢体不自由児の養護施設「ねむの木学園」を開設(のちに掛川市に移転)、以後、肢体不自由児教育に一身を捧げてきたことは、よく知られています。
作家・吉行淳之介の人生のパートナーとして、彼が先立つまで強い絆で結ばれた生活を送ったことも有名です。
さて、この歌の制作年度から、敗戦後10年を経ても、なお靴磨きをしている戦災孤児がいたことがうかがわれます。
『鐘の鳴る丘』や『リンゴの唄』にも書きましたが、戦争が終わると、空襲などで親も家も失った戦災孤児たちが、街にあふれました。彼らは、生き抜くために、靴磨きや露店の手伝い、女の子は花売りなどをして、その日その日をしのぎました。そのなかには、小学校入学前の幼児もいたといいます。
そうした経験をした人のひとり、山田清一郎さんの記事が、朝日新聞社会部編『それぞれの昭和』(昭和60年〈1985〉刊)に載っています。
山田さんは、神戸市の繁華街にあった生花店で生まれました。昭和20年(1945)3月27日未明の空襲で父を失い、6月5日午前の空襲で母を失いました。この2度の空襲による死者は約5700人。
ひとりっ子だった山田さんは、10歳で孤児になりました。以下、同記事から引用します。
……焼け野原に、ポツンと残っていた銀行の大金庫を、ねぐらにした。15、6歳の仲間が4、5人。一番小さかった山田少年は、みんなの後ろをついて走った。
ガード下の闇市で、店先のまんじゅうをくすね、少し離れた場所で新聞紙の上に並べると、あっという間に売れた。幼い子供の手からイモを取り上げて、食べた。秋になった。日一日と寒くなっていく。金庫では眠ることができなかった。他人が住んでいたバラックの板をはがして、たき火をした。米軍のジープがやってきた。カマボコ兵舎に連れていかれた。チョコレートと毛布をもらった。駅で寝ることにした。ホームに入り込んで、列車に乗ったら、暖かくてぐっすり眠ることができた。夜は列車に乗った。舞鶴、和歌山、下関へ。客は復員兵が多かった。車内は混雑していたが「こっちへきて寝ろ」と場所をあけてくれた。食料もくれた。みんな親切だった。ある朝、目を覚ますと東京駅に着いていた。
上野、浅草、神田、新橋。ねぐらは毎晩、変わった。靴磨きや新聞売りをした。ヤミ市には、物資や人があふれていた。人ごみの中から手を伸ばして、おにぎりや大福もちを取って逃げても、誰も怒りはしなかった。大人も子供も、みんなボロボロの服を着て、地下道に寝ていた。
「狩り込み」にあった。警官や都の職員が逃げまわる子供たちを「一匹、二匹」と数えてトラックにほうり込んだ。子供たちに、番号がつけられた。
その後、山田少年は長野盆地南端にある養護施設「恵愛学園」に収容されました。食糧不足からいつも空腹で、愛情にも飢えていた山田少年は、反抗的で、戦争未亡人の保母を泣かせました。が、小学校への通学を許されたころから、素直に保母を「おかあさん」と呼べるようになりました。
のちに山田さんは、東京に出て、さまざまなアルバイトをしながら定時制高校に学び、さらに大学を出て中学校の教師になりました。
山田さんの場合は、本人の資質や意志によって、順調な人生行路を歩むことができました。しかし、戦災孤児のなかには、横道にそれたり、挫折したりして、みじめな後半生を送った者も少なくありませんでした。
ある種の人たちは、国の誇りとか国家の威信といったことを声高に主張します。そうした言葉自体に問題はなくても、彼らが意図するのは、実は他の国々に対する政治的・軍事的なプレゼンスの強大化です。
そうしたことを追求していった結果が、多くの人びとから愛する者や、楽しかるべき子ども時代を奪うようなものなら、誇りも威信もいりません。三等国・四等国でけっこう。芸術や科学、スポーツで成果を上げれば、ほかの国々からの尊敬は得られます。実際、そういう国もあるのですから。
(二木紘三)
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コメント
カラオケで一人でこの歌を歌うと、胸が詰まって歌えなくなる時期が長かったが、最近、やっと泣かなくなった。
宮城まりこさんは、天使のような方ですね。肢体不自由児のお母さん!私はあなたを尊敬しています。
投稿: 吟二 | 2009年2月21日 (土) 21時45分
先生の言葉を借りれば「責められるべきは避けようと思えば避けられた戦争に突入した指導者の愚かな行動」そのとうりだと思います。私も一寸運が無ければ、中国残留孤児だった思うと、涙なくしてこのニュースを見れません。どちらの親も凄い。
投稿: 海道 | 2009年2月22日 (日) 16時16分
宮城まり子さんは社会的な偉業を成し遂げても少しも偉ぶることなく、どこか頼りない表情は昔と変わりません。歌手時代は幼い仕草が故意に感じられてあまり好きではなかったのですが今では最も尊敬できる女性の一人です。
二木先生の最後の欄は心から共感できます。
投稿: おキヨ | 2009年2月22日 (日) 23時00分
二木先生のコメントの結語はその通りだと思います。
現在声高に叫ばれる言葉に、「国際競争」「国際社会に貢献」「国連中心」「国益」などという言葉です。
これらの言葉が「正義」に優先しているように思われます。何が正義なのかを議論することはなくなりました。
投稿: 周坊 | 2009年2月24日 (火) 22時08分
今朝は、1時間ほどこのサイトでいくつかの曲を聴き、二木先生の意義ある「蛇足」を読んでおります。
今、再び、朝鮮からのミサイル発射に備え、迎撃実験でなくいきなり実戦的応戦(打ち落とす)といったニュースが飛び込んできました。
私が生まれた年に叔父は青春を知ることもなく戦死、兵長と記されたお墓には遺骨もなく、60数年経て立派な石柱も傾きが増してきました。
投稿: vide | 2009年2月27日 (金) 10時29分
いつの世であれ、どんな戦争であれ、戦争というものは実に悲惨であり、多くの不幸をもたらします。しかし私たちが『ほんとうの愛』とは何かを知り、『ほんとうの幸せ』とは何かを悟るのは、多くの場合実にこのような不幸な体験を通してであるというのも事実です。なんという皮肉でしょう。「愛」の人・宮城まり子さんのこの歌を聴くと、ふとそんな感慨に捉われることがあります。
投稿: くまさん | 2009年3月15日 (日) 21時51分
「三等国・四等国でけっこう」という二木さんの意見に賛成です。なにも、金持ちになるのが偉いことでもない。エコノミックアニマルになってギスギスして暮らすより、「夕陽丘三丁目」の頃のほうが貧しくても人情があって、子供たちも外でみんな思い切って遊べましたよね。みんな貧しければ我慢できる。貧富の格差が大きすぎるとねたみ、そねみ、文句が噴出して、世の中の雰囲気が悪くなりますね。
投稿: 吟二 | 2009年3月22日 (日) 21時56分
「ガード下の靴みがき」、この歌は、だいぶ昔に、宮城さんご本人が、「自分の人生を変えた歌」とおっしゃっていました。それ以来、この歌を聴くと、宮城さんの生き方、歌の情景(私も東京の下町で戦災に会い、戦後の不幸な時代を見てきましたから)などが浮かんできて、涙なしにはこの歌は聴けません。
投稿: ごんべえ | 2009年4月 4日 (土) 23時22分
私は1931年生まれです。所謂『満州事変』の年に生まれ、1937年『支那事変』の年に小学校に入学しました。当時の教育の『成果』で、頭のてっぺんから足の先まで『立派な』軍国の少国民でした。
“暗い谷間”の時代を身をもって体験してきました。
二木さんの次の言葉には心から共感します。
ある種の人たちは、国の誇りとか国家の威信といったことを声高に主張します。そうした言葉自体に問題はなくても、彼らが意図するのは、実は他の国々に対する政治的・軍事的なプレゼンスの強大化です。
そうしたことを追求していった結果が、多くの人びとから愛する者や、楽しかるべき子ども時代を奪うようなものなら、誇りも威信もいりません。三等国・四等国でけっこう。芸術や科学、スポーツで成果を上げれば、ほかの国々からの尊敬は得られます。実際、そういう国もあるのですから。
この歌より2年くらい後のことでしたが、街角でまだ小学生ぐらいの子に靴を磨いてもらいました。しがないサラリーマンだった私は「おつりはいらないよ」(僅かな金額)と言って帰るのが精一杯でした。
投稿: 田崎 透 | 2009年8月 4日 (火) 23時34分
僕が小学生の頃、宮城まり子さんと中村メイコさんがそれぞれ一人何役かの声を使い分けて演じていた『シャボン玉天使』というラジオドラマがあって、この番組を聴くとなんか気持ちが温かくなったものでした。
70年代頃にはちょっとの間だけどまり子さんの御自宅に新聞を配達してた事もありました。順路を取った人から「ここに吉行淳之介も住んでるんだよ」と教えられへえ~と思いました。
何年か前『新日曜美術館』でお見かけしたまり子さんは何か痛々しい感じで、見ているのが辛かった。今はどうしておられるのでしょうか?
投稿: ☆諒 | 2010年1月13日 (水) 08時25分
まぁ「シャボン玉天使」を聴いておられましたか。
宮城まり子さんと中村メイコさんで、
いつもこの番組を思い出していたのですが、
ネット上にはなかったのです。
昭和31年から32年にかけてですね。
♪私はラーメン屋のラーメン娘・・
♪ぽっかりふんわりこしゃぼん玉・・」
管理人さん、あまりにも懐かしくて、
この歌に関係ないことを書きました。
駄目でしたら諒さんが読まれた頃に削除してください。
投稿: なち | 2010年1月13日 (水) 14時58分
なちさん、教えて戴き有難うございます。
昭和31~32年頃でしたか。僕が小学2~3年頃だなあ。
まり子さんもメイコさんも七色の声なんて言われてましたね。
投稿: ☆諒 | 2010年1月13日 (水) 19時18分
靴みがきの少年の歌と言えば「
さあさ皆さん東京名物とってもシックな靴みがき…」と暁テル子さんが歌った『東京シューシャインボーイ』もありましたね。
『東京シューシャインボーイ』が明るくコミカルな感じなのに対して『ガード下の靴みがき』は悲しく切ない歌ですね。
僕が東京に出て来た1960年頃にはもう靴みがきの少年を見かけることは有りませんでした。
僕が「戦後」の光景として憶い出すのは街角でアコーデオンを弾きながら軍歌を歌っていた傷痍軍人の姿です。
投稿: ☆諒 | 2010年1月16日 (土) 08時04分
◉「ガード下の靴磨き」はカラオケでいつも唄う事にしています。
歌詞といい、メロディといい、涙なくしては唄えません。いつも
途中で絶句です。 本当にいい歌ですね。 山田太郎の「新聞少年」も 良い歌ですね。昔の少年少女は皆よく苦労に負けずに頑張りましたね。
今は恵まれすぎて、何が大切なことなのかよくわからないみたいです ね。
投稿: かせい | 2010年1月19日 (火) 21時53分