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幌馬車の唄

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:山田としを、作曲:原野為二、唄:和田春子

1 夕べに遠く 木(こ)の葉散る
  並木の道を ほろぼろと
  君が幌馬車 見送りし
  去年(こぞ)の別離(わかれ)が とこしえよ

2 想い出多き 丘の上(え)
  遙けき国の 空眺め
  夢と煙れる 一(ひ)と年(とせ)
  心無き日に 涙湧く

         (間奏)

3 轍(わだち)の音も 懐かしく
  並木の道を ほろぼろと
  馬の嘶(いなな)き 木魂(こだま)して
  遙か彼方に 消えて行く

《蛇足》 昭和7年(1932)にレコード発売。
 日本領時代の台湾でも、「送別の歌」としてよく歌われたそうです
(下記・黄敬煕さんのコメントをぜひお読みください)。垢抜けたワルツのせいか、日本の歌謡曲ではなく、ヨーロッパの曲だと思っていた人が多かったといいます。

 49小節の長い前奏があり、どこから歌えばいいかわかりにくいと思いますが、マンドリンの伴奏の始まるところが歌い出しです。

 満州の大地に、開拓時代のアメリカ西部を重ね合わせてイメージされた作品。ただし、満州で使われた幌馬車は、西部劇でおなじみのものとはだいぶ違うようです。

 アメリカ西部で開拓民などが使った幌馬車は、荷台の前後左右が弓状に盛り上がった舟のような形をしていました。これは、悪路や急坂でも荷物が転がり落ちないようにするとともに、川を渡る際に水の浸入を防ぎ、浮力をつけるためのくふうだったといわれます。
 また、4頭から6頭の馬に牽かせ、2,3トンの荷物を運べる大型のものが大半でした。

 いっぽう、満州で使われた幌馬車は、ほとんどが1頭立てで、幌も防水布で上部を簡単に覆っただけのものが多かったようです。

 作曲の原野為二は池田不二男の別名。池田不二男は、『並木の雨』『雨に咲く花』『花言葉の歌』『片瀬波』などのヒット曲を残して、38歳の若さでこの世を去りました。

(二木紘三)

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コメント

懐かしい曲に出会いました。何度も聴いております。
数年間、過ごした大陸での生活が次々と思い出され
目頭が熱くなりました。当地で匪賊により父を失いました。

投稿: 桃太郎 | 2009年3月12日 (木) 19時51分

幌馬車の歌。何かの一口解説で女学生によく歌われた歌だと書いてあったことがあります。この抒情を誘う歌詞とメロディーはいかにも女学生好みの歌で、ただの抒情歌だと思っていました。
フイリピンの収容所で戦犯が処刑されるときに房のみんながこの歌を歌って見送ったとの話しを知ったときにはとても違和感を感じました。死刑囚を送る歌にしては曲調がそぐわないからです。二木さんの”蛇足”で送別の歌として歌われていたことを知り納得しました。

投稿: 堀 周市 | 2010年4月14日 (水) 01時47分

司馬遼太郎先生の台湾紀行でガイドをお務めの蔡焜燦さんの記事を読みましたので、転送いたします。

二回目の取材で司馬先生はわたしに幌馬車の歌を唄えますかと尋ねた。はいと。この歌は我々台湾人にとって忘れようとも忘れられない歌なのだ。目の前の大作家は間違いなくこの歌の背景を知り尽くしている、、、、と言う思いがわたしを昴揚させた。この事を文豪司馬遼太郎の口からも聞いて見たかった。
唄って下さいと、真剣な眼差しで司馬先生は促した。
「夕べに遠く木の葉散る  並木の道をはろばろと君が幌馬車 見送りし 去年の別れがとこしへよ」
司馬先生は目を瞑って聞いていた。

戦後、台湾は中華民国に支配されてしまう。蒋介石政権は日本統治時代に教育を受けたエリート層を片っ端から抹殺した。無辜の人々が裁判はおろか、その罪状さえも無
いまま凄惨なリンチや処刑によって消されていったのだ。その数は三万とも五万とも言われるが、未だに不明だ。幌馬車の唄の悲しいストーリーはそんな時代に生まれた。
台湾北部の基隆市の高校の校長の鐘浩東氏が「光明日報」と言う新聞の主筆で有る嫌疑で突如生徒数名と共に逮捕された。
自らの死を覚悟していた鐘校長は同じ政治犯刑務所の中で生徒達に、僕が呼ばれたら獄内の人達に幌馬車の唄を唄って送って呉れるよう伝えて欲しい、と頼んだ。
名前を呼ばれると、それはすなわち処刑の意味だ。そして、その日が来ると、鐘校長は従容として死に赴いた。獄中の人々は鐘校長の願いどうり幌馬車の唄を唄って見送った。この時涙流しながら唄った学生の中の一人が私の実弟でした。
それ以降この歌は死に赴く人々の為に獄中で唄い続かれたのでした。

「小学館文庫 台湾人と日本精神」より
昭和二年生まれの小生まだカラオケで唄いますが、もう殆ど知らない歌になってしまいました。

投稿: 黄敬煕 台湾 | 2014年6月 8日 (日) 14時13分

黄敬煕様
この歌にそんな凄絶で悲しいエピソードがあったとはまったく知りませんでした。貴重な歴史秘話、しっかり記憶にとどめておきたいと思います。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2014年6月 8日 (日) 21時08分

この歌は知りませんでした。国内では、あまり流行らなかったからでしょう。しかし、日本統治時代の台湾ではよく歌われていたとか。それで思い出しました。
 もう7,8年前になるでしょうか、1989(平成1)年ヴェネティア国際映画祭でグランプリを獲得した映画「悲情城市」(侯孝賢監督)を見た時のことです。劇中にいくつか日本の歌のメロディが流れたのですが、その中にわたしの知らないメロディが一つあったのです。初めて聞くメロディでしたし、ちょうど仲間が獄中から処刑場へ連行される場面でもあったので、当初、わたしは、これは台湾でお別れの際によく唄われる歌なのだろうと思ったのですが、だんだんメロディがはっきりと聞こえてくると、日本語で唄われていることが分かりました。日本の何という歌だろうと、そのときは気になりましたが、いつしか忘れていました。この映画は、日本統治が終わり、台湾が国民党政府と軍によって統治されるときの悲劇(二・二八事件)を、林家の4兄弟の置かれた状況と行動を通して、丹念に、しかし淡々と描いたもので、グランプリに値する名画だと思います。
 黄敬熙様のコメントを拝見して、ネットで確認したところやはりこの歌でした。劇中で歌われただけでなく、実際に獄中でも歌われていたのですね。二・二八事件の真相については、わたしも含めて、ほとんどの人は知りません。そのとき公布された戒厳令が40年間もつづいたのですから、日本のみならず、世界中で知られなかったのも無理からぬことですが。黄敬熙様に改めて感謝申し上げます。

投稿: ひろし | 2014年6月10日 (火) 11時38分

黃敬熙樣のコメントを拝讀して 目の前をふさいでいた茅が急に開け

こんな悲壯な場面は 私は今でも想像できます

投稿: 陳錦標 | 2015年4月17日 (金) 09時49分

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