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東京だよおっ母さん

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:野村俊夫、作曲:船村 徹、唄:島倉千代子

1 久しぶりに 手をひいて
  親子で歩ける うれしさに
  小さい頃が 浮かんできますよ
  おっ母さん ここがここが二重橋
  記念の写真を とりましょうね

2 やさしかった 兄さんが
  田舎の話を 聞きたいと
  桜の下で さぞかし待つだろ
  おっ母さん あれがあれが九段坂
  逢ったら泣くでしょ 兄さんも

3 さあさ着いた 着きました
  達者で永生き するように
  お参りしましょよ 観音様です
  おっ母さん ここがここが浅草よ
  お祭りみたいに にぎやかね

《蛇足》 昭和32年(1957)4月、コロムビアからレコードが発売されました。ヒットしたので、東宝が映画化しました。

 この前月、三橋美智也の歌で『東京見物』(作詞:伊吹とおる、作曲:佐伯としを)が、キングから発売されました。
 こちらの歌詞も似た内容ですが、上京した老母を案内するのは息子で、案内する先は、二重橋、上野公園、靖国神社になっています。
 両作品とも、兄が戦死しているという設定で、敗戦から十数年経てもなお、戦争の傷跡を色濃く残している家族が多かったことを物語っています。

 ところで、何年か前、書籍や不要な資料を整理していたとき、学生時代の写真アルバムが出てきました。懐かしくなって見ているうちに、1枚の写真に目がとまりました。二重橋をバックにした集合写真でしたが、並んでいるのは年齢もまちまちな見覚えのない男女ばかりでした。
 不審に思ってよく見てみると、そのなかに私と母が混じっていました。それで思い出しました。

 大学1年の晩秋だったと思いますが、母が上京してきた際、効率よく東京を見物したいから、はとバスに乗りたい、といいだしたのです。いっぱし都会人になったつもりの私は、(田舎者が乗るはとバスなんかに乗りたくないな)と内心渋りましたが、前日に上等のスーツとコートを誂えてもらっていたので、逆らえません。

 羽田空港、東京タワー、皇居前広場……あとは忘れましたが、見物しているうちに、けっこう楽しくなってきたのを思い出しました。
 しかし、知らない人たちと二重橋をバックに写真に写るのには、抵抗がありました。その写真を克明に見ると、ああイヤだな、と思っているのが表情に出ています。母は満足して帰りました。

 私は、ほんとうに甘ったれのバカ息子でした。忸怩たる思いでいたたまれなくなります。

 お母さん、あなたの息子は今もバカ息子のままですが、あなたの孫娘2人は、意外にもきちんとしたおとなに育ちましたよ。
 上の娘は、もう何年かすると、あのときのあなたの年齢に達します。

(二木紘三)

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コメント

からたち日記、哀愁のからまつ林なども唄ってましたね。
島倉千代子は美しく、清純派の澄んだ声で唄う歌は
私(20才頃)も心を奪われましたね。

あの頃、東京駅など修学旅行の東京見学の中、高校生がホームにあふれていました。皆、元気な赤い頬っぺをしてました。
男子は蛇腹と白線がついた学生帽、詰め襟には金ピカのローマ数字の学年章、靴はキャラバンシューズ、ズボンは身長の伸びが早いせいか足のくるぶしが見えてる短いズボン。
女子は、衿は大きく背中は四角になって2本位の白線で縁どりしてあるセーラー服と白いスカーフ。白のキッチリした短いソックス。懐かしいなあ。
あれは、どこへいったのかなー。
最近見ないような・・・。
今どきは、原宿ルックでジエット機で海外かなー。
世の移り変わりは文化の変化として納得です。

私も若い時、はとバスに乗りたいという感覚は持っていませんでした。
未だにまだ乗っていません。
この機会に今度乗って来ようと思います。

投稿: 連太郎 | 2009年6月11日 (木) 03時02分

 まさに「昭和は遠くなりにけり」の感のある名曲ですね。  先月の浅草・三社祭に行って仲見世・浅草寺あたりを散策しましたが、老若男女プラス世界各国の人たちがお参りしてました。たぶん「達者で永生き するように」と手を合わせた人も多かったでしょう。
 作詞家・野村俊夫は作曲家・船村徹のふるさと栃木県を思って、浅草(浅草駅から東武日光線で船村のふるさとへ行ける)を作詞に盛り込んだと語っていました。

投稿: かんこどり | 2009年6月12日 (金) 10時35分

私は、九州のとある山間部で育ち、今は神戸に住んでいます。

昨年、父が74歳で他界しました。父が亡くなった後、母から、まだ東京に行ったことがなく、父と一緒に行く約束をしていたが、父の急病でそのままになってしまったという話を聞きました。

それで、今年の春に、九州から母を呼び、子供(孫)を連れて東京見物に行ってきました。皇居前広場、上野公園、浅草・・・、最後の靖国神社は雨模様のため断念しましたが、一応、東京の名所と言われるところは回りました。

父が亡くなって、初めて、母から、終戦後の朝鮮からの引揚げ時や父と結婚後一緒に苦労した話等を聞きました。父は、生前、苦労話などしたことがないので、初めて聞く内容でした。

この歌を聴くと、母とともに亡くなった父への思いが新たになります。

投稿: すずらん | 2009年6月14日 (日) 11時33分

すずらんさんの投稿を拝見して、親の存在の大きさを改めて感じています。
昭和22年生まれの私は、父42才母40才の時に5人兄姉の末っ子として
生まれました。
これで子供は終わり(修まるように)と修と名づけられました。
同級生には、幼稚園に通った子がほとんどいないくらい皆大変な生活をしていたと記憶しています。
大学はアルバイトをしながら卒業した私は、両親の年齢を考え結婚は早くしたいと、入社後1年で家庭を持ちました。
やがて子供が生まれましたが、生活はさほど楽ではなく親をどこかの温泉でも連れていくような余裕はなく,母は68才、父は72才で他界しました。
今でもこのような曲を聴いたりすると一度でいいから親孝行の真似事をしたかったと思います。
ただ、親は私の孫の顔を見ることができるのかと思っていたそうです。
そのことだけでも実現できたことが良かったと思っています

投稿: 修さん | 2009年6月14日 (日) 14時38分

その昔上京してしばらく東京で暮らしたことがありましたが、ついに両親には一度も東京見物をさせずに終わってしまいました。当時の自分はグータラ息子のバカ息子の極みでした。わたしにとってこの歌はなんともつらい歌です。親孝行とはむづかしいものです。親思う心に常にまさるのが親心というもの。ならば最後まで『少しだけ』心配を掛け続けるというのも、実は親孝行なのかもしれない、最近になってそう思う(開き直る)ようになりました・・・。

投稿: くまさん | 2009年6月16日 (火) 20時34分

待ちに待った一曲です。二木先生有難うございました。
今年で82歳になる母ですが、東京には行ったことがありません。一度連れて行ってあげようと思いつつ実現できずです。親戚、知人の何人かは靖国神社に祀られているいる方もいますから本人はお参りもしたいでしょう。皇居の二重橋も見せてあげたい、浅草の観音様に(詩われている通り)お参りしたい云々・・・。その母も最近は足腰も弱り出かける機会も少なくなりました。
この曲を聴くたびにその姿が重なり、もっと元気なうちに連れて行ってあげれば良かった。と後悔しています。

投稿: 山本 実 | 2009年6月29日 (月) 16時39分

この歌をデイで歌う度に泣かはるのです。
最初はあかんこの歌はやめとこうと思ったのです。
でも、どんなに悲しい歌でもお父さんお母さんたちの時代のうたなんです。「悲しいことも楽しいことも色んなことがあったから、せやから歌ってやぁー
気にせんといてやぁー」と下手な私の歌と一緒に
歌ってくれてる、みんなに感謝です。(^^)

投稿: ひとよ 咲希 | 2009年7月 6日 (月) 18時57分

先生の解説の最後の文章について、バカ息子からはキチンとした孫娘は生まれません。「脳は遺伝するから」
(ジョーク)

投稿: 海道 | 2009年7月 6日 (月) 19時22分

この歌は三橋美智也の「東京見物」と一ヶ月しか違わなかったんですね。同じ東京見物を歌った歌がほとんど同時に作られたなんて、しかも両方大ヒットするなんて。やはり時代が求めていたのでしょうね。

私は、ここ2年間で2度もはとバス東京ツアーに乗りました。中国人の留学生が二人、一年おきに来たので、案内してあげたのです。行った場所は、一人は島倉千代子コース+東京タワー。もう一人は東京下町コース+東京タワーでした。今はおっかさんに東京見物させる人は少ないでしょうね。

投稿: 藤村 大蔵 | 2009年7月20日 (月) 00時26分

自分の事を親不孝だと思っている人は、それだけで親孝行だと思います。

投稿: ジェス | 2009年8月19日 (水) 17時33分

時代が移ろってもホロッとする歌はいいですね

投稿: ta-san | 2009年8月31日 (月) 18時04分

ジェスさま ありがとうございます。
あなたの一言ですくわれました。

投稿: 林 一成 | 2009年9月 1日 (火) 09時33分

「お母さん、あなたの息子は今もバカ息子のままですが、あなたの孫娘2人は、意外にもきちんとしたおとなに育ちましたよ。
 上の娘は、もう何年かすると、あのときのあなたの年齢に達します。」

この文章がつよく印象に残ります。

私のバカ息子ぶりーいろんな試験に落ち続けた私が東京の大学院に合格したとき、母が喜んで東京へ出てきたことがあります。いろいろ写真をとったのですが、カメラがぼろい上にとりかたが下手で一枚も写っていませんでした。

投稿: TF | 2009年10月11日 (日) 10時47分

私のほろ苦い愛唱歌です。涙ぐむほど。クラシック派の家内は冷ややかですが。ところで私、貴君と高校1年の同級生です。先日、同じく同級生だったN病院院長のK君と私の家内を交えて昔話。当然、貴君の話題も。頑張ってください。

投稿: H.O | 2009年12月26日 (土) 12時23分

この頃の歌謡曲には「東京だよおっかさん」をはじめ曲の間にセリフのあるものが多くありました。そこでお願いですが「大利根無情」のようにセリフも掲載して貰えないでしょうか?また歌謡曲にセリフの入ったのはいつ頃からいつ頃迄のことなのでしょうか?(このブログでは軽々しく使ってはいけないのかも知れないであろう)蛇足ですが、この曲のセリフに「・・・お兄ちゃんが登って遊んだ庭の柿の木もそのままよ・・・」とありますが、私が子供の頃は「柿の木は折れやすいから登ってはいけない」と強く言われていたものです。大人が柿の実をとるときは、竹竿の先に切れ込みを入れた道具で取っていたものです。

投稿: なとりがおか | 2009年12月27日 (日) 00時22分

この曲の前奏などにはいってくる不思議な音色のする楽器は、なんというのでしょうか?
バイオリンでもないし、、、
電子楽器のおとであるはずもないし。。。
どなたか、ご存知の方がおられましたら、教えてください。

戦争はしらない世代ですが、やはり桜の花は、靖国神社なんでしょう。
「桜のしたで~」は、なかされます。。

投稿: デイラ | 2010年3月27日 (土) 10時55分

みなさん親に対しては忸怩たる思いが強いのですね。
去年95歳で他界した母の納棺のとき、遺族みんなで色紙に寄せ書きをしてお棺に入れることになりました。
私は「お母さんごめん」と書いてしまいました。何もしてやれなかったという思いは今も折に触れて私をつらくさせます。

投稿: 周坊 | 2010年3月27日 (土) 13時22分

私が初めて東京を見たのは、九州の大学3年20歳の時でした。工業系の大学で、夏休みに長野県下水内郡栄村の水力発電所で2週間くらい実習をさせていただき、その上幾ばくかのアルバイト料までいただきました。行くときは中央西線、篠ノ井線、飯山線経由でしたが、帰りは飯山線、上越線経由で初めて上野に来た私は、「はとバス」に乗りました。完全なお上りさんです。でも、排気ガスのため頭が痛くなったのを覚えています。定年退職後、40年ぶりにその発電所を訪ねてみましたが、無人化されていました。
就職以来、茨城県に住んでいますが、母には東京見物もさせることなく、九州で死なせてしまいました。まさにバカ息子でした。

投稿: 竹永尚義 | 2012年3月 8日 (木) 18時33分

又昭和の偉大な歌手が逝きましたね、この歌は私の大好きな歌ですが2番と3番の間のセリフが忘れられません。「ねえ、お兄ちゃん、お兄ちゃんが上って遊んでいた柿の木もそのままよ、見せてあげたいわ」
柿の木は脆く直ぐに折れるので子どもの頃から絶対に上ってはいけない木だと周囲から強く注意されて居たので上りませんでしたし常識でした。作詞家の野村敏夫は知らなかったのかなあ、
思えば男運の悪い悲運の女性でしたね、借金は未だ残って居るのではありませんか、でも「あの世の花」となった今、もう借金に心を痛めることもなく良かったですね、合掌

投稿: 岡本良英 | 2013年11月 9日 (土) 14時06分

 野村義隆と言う、福岡県小倉北区出身の特攻隊員をご存じの方は、このホームページの管理者へご連絡ください。

 この野村義隆は私の義母の初恋の人?で、写真と遺書の歌を書いた手紙を持っていたが今では、それも失ってしまったとのことです。

 と言うことで、「東京だよおっかさん」は私の歌でもあり、いつか早い内に、妻共々義母を東京見物(当然、二重橋、靖国神社、浅草観音寺を含む)に連れて行きたいと願っております。

 では、ここに、お千代さんこと島倉千代子さんのご冥福をお祈り申し上げます。

投稿: 天下の無法松 | 2013年11月10日 (日) 12時15分

2番が肝の歌です。

投稿: 山下勉 | 2013年12月11日 (水) 03時04分

 老いた親が東京へ出てきて、ビルの大きさや人間の多さに目を丸くしたというのは、テレビが普及するまでの話でしょう。
 おおよそ1959年(昭和34年)皇太子殿下御成婚以前の話ということになる。
それ以後は、テレビが普及し、映像で東京の様子は伝わり、お年寄りも東京のイメージトレーニングができるようになった。
 
 島倉千代子のこの歌は、そういう古い時代、親子水入らずで東京見物ができたという実にうるわしい話です。
 しかし、映画『東京物語』(1953年小津安二郎監督)では、上京したものの東京に住む子どもたちからたらい回しにされ、体よく追い出されて、熱海の安宿に泊まる老夫婦の話がでてきます。
子どもたちがとくに冷たいわけでもないが、子どもにはそれぞれ、家庭というか、生計というか、日々の営みの事情がある。
そんな中、戦死した次男の嫁(原節子)の献身的な心使いに、老夫婦は救いを感じ、尾道に帰って行く。
「他人の方が肉親よりもやさしい」という難解な命題を感じてしまいますが・・。
  
 同じく小津監督の『一人息子』(1936年)では、信州から出てきた母親が、東京で出世していると思っていた自慢の息子が、大都会に埋もれて、わびしい暮らしに生きる希望も失ってしまった姿に遭遇する。
 だが、困窮した隣の家を親身になって助ける息子の善人ぶりに、
母親は息子への誇りをとりもどし、息子を励まして、田舎に帰る。
 「地方から上京した親」といえば、この歌とこの二つの映画を思い出します。

 

投稿: 越村 南 | 2014年9月 5日 (金) 15時52分

二木先生
先生のエピソードに泣けました。
島倉さんのか細い純情そのものの歌声が好きでした。
「東京だよおっ母さん」はカラオケで歌える唯一の曲です。歌う度にじわっと涙が滲んできます。
親孝行と言う言葉が生きていた時代です。

投稿: おてもやん | 2015年3月26日 (木) 20時44分

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