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わたしの城下町

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:安井かずみ、作曲:平尾昌晃、唄:小柳ルミ子

1 格子戸(こうしど)をくぐり抜け 見あげる夕焼けの空に
  だれが歌うのか子守唄 わたしの城下町
  好きだともいえずに歩く 川のほとり
  往(ゆ)きかう人に なぜか目をふせながら
  心は燃えてゆく

2 家並がとぎれたら お寺の鐘がきこえる
  四季の草花が咲き乱れ わたしの城下町
  橋のたもとにともる 灯(あかり)のように
  ゆらゆらゆれる 初恋のもどかしさ
  きまずく別れたの

  橋のたもとにともる 灯(あかり)のように
   ゆらゆらゆれる 初恋のもどかしさ
   きまずく別れたの


《蛇足》 昭和46年(1971)4月に発売された小柳ルミ子のデビュー曲。デビューシングルでありながら、130万枚あまりを売り上げ、同年のヒットチャート1位に輝きました。

 この前年、旧国鉄
(現JR)の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンが始まり、この歌のヒットの影響もあって、城下町を旅する若者が増えました。

 私の「わたしの城下町」は、高校生活を送った松本。市内を流れる女鳥羽川
(めとばがわ)のほとりをよく歩きました。行きつ戻りつしたことも幾たびか。思い出す事どもの、あまりに多くて……。

(二木紘三)

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コメント

この歌とか瀬戸の花嫁、京のにわか雨。時代を感じますね。純情と言うか、可憐と言うか、風情を感じます。

投稿: 海道 | 2009年10月17日 (土) 11時22分

私の城下町は、幼稚園から高校まで住んだ鹿児島であり、いま住む松江です。それにしても、この歌を歌っていた頃の小柳ルミ子、その後の人生は波乱万丈でしたねえ。初めは処女の如く、・・・・・というのが大抵の女性のたどる道なんでしょうか。

投稿: Bianca | 2009年10月17日 (土) 12時44分

この歌はメロディーも歌詞もいいですね。懐かしいです。初恋のもどかしさがよく表れているようです。
二木さんが川のほとりを行きつ戻りつする姿が目に浮かぶようで・・・(笑)
それにしても、あの頃の小柳ルミ子は実に可憐で初々しく、清純で可愛かったのに・・・女性ってずいぶん変わるもんですねsad

投稿: 矢嶋武弘 | 2009年10月17日 (土) 15時58分

拝啓 管理人様  
 以前この歌を掲載頂く事をお願いし叶えられて(私の意見でなかったかも)大変うれしく思います。ありがとうございます。私が高校時代にラジオでこの歌がまだメジャーにないころよくスポットで流されていて(あの頃はラジオがキャンペーンのメーンだったかも)これは絶対ヒットすると思っていました。高校3年間3人娘(小柳ルミコ。南沙織、天地真理)が席捲してましたね。あの当時は心に純な感じだれにもあったような。懐かしくいい時代でた。

投稿: alude2500 | 2009年10月17日 (土) 16時11分

日本にはいくつもの城下町があり、ひとそれぞれに「私の城下町」があるのでしょうね。私にとっては加賀の金沢です。
「好きだともいえずに歩い」たのは犀川のほとりであり、また浅野川のほとりでした。
往きかうひとになぜか目を伏せながら・・・ほんとにそうでした。

投稿: くまさん | 2009年10月17日 (土) 21時28分

 数年前、TVインタビューで平尾昌晃さんが”私の城下町”のモデルは長野県諏訪の高島城であること、肺を患い岡谷市の塩嶺病院に入院中に曲を書いた事を話しておられました。
 因みに、私は諏訪市在住で、高島城の近くですので、この唄に一層親近感を感じました。
 二木先生は山向こうの松本出身なんですね。

投稿: 月の輪熊 | 2009年10月18日 (日) 15時36分

月の輪熊 様

私は、上諏訪の諏訪湖近くに生まれ、小学校2年まで高島小学校に通いました。私の祖先は、高島城の毒見役だったと聞いております。安井かずみが「私の城下町」と言ったのは高島城だったんですか。うれしいです。

月の輪熊と私は、もしかして縁者なのかもしれないと、ちょっと妄想してしまいました。でも、これもこのサイトの功徳ですね。同じ長野県の管理人様、有難うございま~す。

いまは亡き私の上司が、「格子戸を、格子戸を、格子戸格子戸格子戸を…」と歌っていたのが懐かしいです。

投稿: 吟二 | 2009年10月18日 (日) 21時02分

吟二様

 ご指名、有り難うございます。
身近な方からコメントが来ていてビックリしました。

 私の祖先も高島藩士だそうですが、身分は低かったと思います、幕末、幕府令により水戸の天狗党との戦いで鉄砲隊の一員として、和田峠で狙撃した話を伝え聞いております。

 それにしても天狗党の末路は哀れでした、加賀において投降者354人が斬首、ひどい話です。

 我々、今、平和な時代で本当に良かったです、音楽も聞き、メール交換も出来ます、同郷同士、今後もお付き合いください。 

投稿: 月の輪熊 | 2009年10月19日 (月) 18時27分

信州人にしか理解出来ない事を書かせて戴きます。お許し下さい。松本は諏訪から見れば山向こうですが、昔松本に住んでいた私共から見れば諏訪が山向こうでした。
「松本 伊那 佐久 善光寺」四つの平は肥沃の地。
諏訪の湖には魚し 幾つに成っても忘れない県歌ですね。

投稿: 海道 | 2009年10月20日 (火) 07時27分

 われわれにとって、小柳ルミコはデビュー当時の「旅情演歌歌手」のイメージが残っており、突然の変身にとまどった、というのが実態ではなかったかと思います。
 しかし、宝塚歌劇団出身の本人は、歌って踊れるエンターティナーを目指していたが、デビュー時の事務所の方針は相変わらず演歌路線。諦めきれず、ミュージカルの「劇団四季」に入団することまで考えていたようです。ようやく事務所が渋々折れて、「歌と踊りのステージ」を認めたが、最初の公演では、観客が突然の変身に唖然。「わたしの城下町」「瀬戸の花嫁」の小柳ルミコが「網タイツで登場し、足を左右に多角上げて激しいリズムに乗って腰をくねらせて踊っているところを想像してみてください」。しかし、徐々に高い評価をもらうようになり、1980年の紅白歌合戦で「来夢来人」を披露。「満場のお客さんの拍手喝采に感無量」だったと書いています。――――週刊大衆連載のエッセイ「ルミ姉の清く正しく美しく」より2009.10.26号

投稿: Dr.Unchiku | 2009年10月20日 (火) 15時25分

私は自分の出身地(福岡)が小柳ルミコの生家の近所だったので、彼女の歌には何かと関心が有りました。
尤も、彼女のデビュー当時には既に福岡を離れて(東京に)居ましたので、時折り帰省した時に、彼女の母親と大変仲良くしていた、私の義姉から小柳ルミコに関する情報を聞かされていた程度ですが。
福岡は黒田五十二万石の城下町ではありますが、彼女の生家(私の実家)は城下町(福岡の)西の外れ(西新)だったので、彼女が歌う「私の城下町」のイメージには、城下町(福岡)の印象は多分なかったでしょう。彼女の母親や私の姉を通じての「小柳ルミコ情報」が途絶えた今日、彼女の歌を聞くことも有りませんでしたので、このサイトで「私の城下町」を懐かしく思い出し、一筆啓上いたしました。

投稿: (英山華) | 2009年10月22日 (木) 18時43分

私の古里は宮崎県中部の3万石の城下町です
城郭は廃藩置県で取り壊されていますが、石垣や湧水を貯えた堀が残り、土手に菫・タンポポの咲く小川が南面を流れ、お寺の鐘も聞こえます 初恋のもどかしさが随所に残り懐かしいですね
同様に城下町を思い出させるのに三橋美智也の“古城”と梶光夫の“わが青春の城下町”があります
とくに後者は私の城下町になんとなく風情が似てますね
この『うた物語』にぜひ加えてほしいと思います

投稿: くろかつ | 2010年2月25日 (木) 19時43分

私の「わたしの城下町」は、生まれた萩、学生時代を過した松山、転勤族としての勤務地である、小倉、お江戸、福山、岩国でした。                                          松山では、ストームに集約された学生生活を堪能し、二木先生の心情を、石手川の土手とお堀端で、追体験しました。小倉では、一人娘との出会いがありましたが、「家」の制度を紫川のドブの流れに捨て、虹の出た空からの雨に身を清めました。お江戸では、丸の内・大手町・日本橋でカントリーボーイとシティボーイの違いを実感しました。福山では、私の世代としては晩婚となる31歳で備後の人を娶りました。岩国では、二木先生の後輩となる兄を持つ職場の女性に、このサイトを教えてもらい(平成15年)、生活の潤いのツールを一つ増やすことができました。                        お江戸、松山、福山、小倉と城址内に何らかの構築物がありますが、萩は戦災も経験してないのに城址のみです。廃藩置県政策の忘れ形見です。                                 近くに高校が二校あります、一昨昨日・一昨日・昨日今日・明日・明後日と淡い恋が生まれ、また、きまずく消えるのでしょうか。                                            今、萩は夏みかんの花が咲き乱れ、シトラスの香りに溢れてます。城下町の青春よ恋よ、香り高く、栄えあれ!                                                        アカデミックなステージもありますよ。       おいでませ!                                  

投稿: 夏橙 | 2010年5月14日 (金) 23時42分

この「私の城下町」が発売されたのが46年4月でしたら、長男が19歳、次男が15歳の時でした。
4月の私の誕生日に、このレコードをプレゼントしてくれて、確か公演のチケットも・・・だったと思います。

私は此の唄が好きで良く唄っていましたが、音痴の私はどうしても唄えない箇所があったことを思い出しました。

好きだともいえずに・・・の次の「歩く川のほとり」のところです。節回しができませんでした。
掃除機をかけながらでも、ここのところを何べんも練習したことを思いだしました。
2番目の「橋のたもとにともる灯りのように・・・」のところは唄えていたのですが・・・

この裏面は「瀬戸の花嫁」でした。
お嫁にいく時の弟を思っての唄でしたが、これも好きな唄でした。
懐かしい思い出の唄を有難うございました。

投稿: ちづる | 2010年5月25日 (火) 21時09分

私にとって 私の城下町は仙台です。20歳か21歳の頃です。東京に下宿してまして その下宿先の友人の実家が仙台で夏休み遊びに行きました。そこに妹がいました。確かみどりさんと言いました。2人は一瞬にして恋に落ちました。少なくても私はそう思ってます。東京で会ったり 仙台で会ったり 福島で会ったりしてました。しかし男とゆうのは幼稚なんですよね その友人にも遠慮してましたね。東八番町で抱きしめる勇気があったならば 往きかう人になぜか目を伏せながら 初恋のもどかしさ 気まずく別れました。それぞれ結婚しましたが彼女は離婚しました。今でも10年に1回位電話してます。女性はドライですね 私は40年も思っております。

投稿: マルコポーロ | 2010年10月 3日 (日) 20時22分

またまた、懐かしい曲!。

昭和46年春、私も一子の父となり、一大発奮、
一戸建てを着工!。
秋には、6畳一間のアパートから、引っ越し!。

残業を終え、帰路につく国道16号、
カーステレオから、毎晩、聞こえてきた曲が、
〝私の城下町〟でした!。

風呂に入り、わが手をじっと見、
働けど働けど、我が暮らし、楽にならず!。
じっと、手を見る。
♪格子戸を・・・、よく、口ずさみました!。

抱え込んだローンが大きすぎたんですかね?。
しきりに、タメイキが出た頃でした!。
40年以上経ったんですかね?。
今も、そこに住んでます。(神奈川県です)

投稿: 寂心 | 2010年11月 6日 (土) 21時01分

月の輪熊様

今日の朝日新聞に、平尾さんと高島城、そして「私の城下町」をめぐる特集が載っておりましたので、早速、二木さんのWebを見るとこのページがありました。
信州というのは叙情歌とのかかわりが深いですね。

投稿: Octanion | 2012年5月19日 (土) 15時43分

安井かずみの歌詞から「自分が想うお城の情景」が目に浮び、(安井かずみはどこをモデルにしたのか、敢えて明らかにしていない。)平尾昌晃(高島城をイメージして作曲したと言っている。)(安井に依頼にいったディレクターのイメージは飛騨高山城らしい。)(格子戸は京都先斗町の物をイメージしたと安井は語っている。)の旋律は、それにマッチして唄いやすく、大ヒットしましたね。瀬戸の花嫁で「愛があるから大丈夫なの」と歌って18年後に結婚したが、大丈夫じゃなかった。西島三重子の「池上線」の駅名を作詞家が池上駅とばらした事を西島が残念がったと言う。

投稿: 海道 | 2012年7月20日 (金) 12時13分

曲もさることながら、管理人氏の「思い出す事どもの、あまりに多くて....。」 沁みます。

投稿: maeda | 2012年7月24日 (火) 00時35分

 昭和46年、広島で下宿生活をしていた大学生の私は、この曲がたいへん気に入り、レコードがすりきれるほど聴いていました。
 今、聴いてみれば、純情すぎるというか、素直すぎる歌詞ですが、そう思うのは自分が世間の塵にまみれすぎて、当時の自分を失ったせいでしょう。あの頃は女の人の前に立つだけでおちつかず、緊張しました。初恋のもどかしい気持ちは本当にこの歌詞にあるとおり「川面にゆれる灯」でありました。
 ところでこの歌詞にまちがいがあると人から聞きました。「格子戸をくぐりぬけ」の所ですが、格子戸は右側にすべらせて、人が通れる空間を作り身体を移動させる。この時、鴨居をくぐるわけですが、格子戸は2枚重なって身体の横にあるだけ。だからけっして格子戸をくぐってはいない。鴨居や鳥居や暖簾はたしかにその下をくぐるが、格子戸をくぐれるのはモグラだけだと彼は言います。
たしかにーーと絶句状態になりました。
これを聞いてから作詞家は細心の注意を払ってもミスの出る仕事だなあと思いました。もちろんこの曲が名曲であることには全くかわりありませんが。

投稿: 久保 稔 | 2012年8月10日 (金) 04時50分

確かにくぐるのは鴨居ですが一般的には格子戸をくぐると言った方が風情を感じるのではないでしょうか。格子戸を開ける動作を含めてくぐると言えないものでしょうか。綺麗な言葉の連続ですから。

投稿: 海道 | 2012年8月16日 (木) 15時17分

丹波市春日町に住んでおりますが、青春時代を思い出す、懐かしい曲です。幼き頃、毎日のように保月城を見ながら小学校に通って居りました。二十歳過ぎには宝塚で生活をしておりますが・・・・懐かしいです。

投稿: 吉森信行 | 2014年11月 1日 (土) 22時52分

30数年前のある日曜日、「NHKのど自慢」のテレビ放送で流れてきたのが、この曲「わたしの城下町」でした。
日頃から聴きなれていた曲でしたが、20代女性の方の柔らかで温か味のある熱唱の姿でした。
勿論、三つの鐘で合格されました。
今でも、耳元に彼女の熱唱が聴こえてきそうです。

投稿: 一章 | 2015年8月19日 (水) 19時37分

 小柳ルミ子さん、可憐でした。同僚にこの歌をよく歌う
人がいました。フリもつけていました。
 「瀬戸の花嫁」もよかったです。ちょうど私の結婚のころだったと思います。

投稿: 今でも青春 | 2015年8月21日 (金) 20時08分

久保 様
>鴨居や鳥居や暖簾はたしかにその下をくぐるが、格子戸をくぐれるのはモグラだけだ<
 あなた様は「ある人」から聞いた話として、上記のようにコメントされ、この歌の「格子戸をくぐり抜け」の出だしの部分は、作詞家のミスと断定されていますが、江戸時代に作られた格子戸には、人が出入り出来る“くぐり戸”が設けられているものがあります。商家の表の通りに面した格子戸には、防犯などからこうした造りが、かなりあったのではないでしょうか。こうした江戸時代に作られた格子戸の残っている城下町が、まだあるのではないか、とわたしは推察しています。したがって、あながち作詞家のミスではないと思っています。

投稿: ひろし | 2015年8月25日 (火) 17時15分

 ひろしさま
 私も、直近の海道さまのご指摘もあり、もう一度説明しなくてはと思いながら、出典を探すのがめんどうで、そのままにしていました。
茶室に入る時、にじり戸というのがありますが、あれは、あきらかに、「くぐる」ですね。またいろんな料亭の案内書を読んでみると「暖簾をくぐって、格子戸を開ける」とか「格子戸をくぐる」とか、いろいろです。
 私がコメントを書いたのは、高島俊男の『お言葉ですが』という「週間文春」の連載記事がベースで、作詞家の安井かずみさん自身が、一世一代の作詞上のミスだったと認めていたような記憶があり、書きました。伝聞の形というのは、そういう意味です。ま、しかし、ソースを示さないことには、けりがつきませんので、今、探しています。今年中に見つける予定です。
そして、言葉というのは、仮に誤用されても多数の人々の間に定着してしまったら、それが通ってしまいます。言葉とはそういうものです。ゆえに、本来の意味は、こうなんですと言い立ててもつまらないことかもしれません。
 たとえば、「赤穂の浪人」「赤穂浪士」といったりします。
しかし、主家を失った失業状態の武士は、本来は「牢人」です。「作州牢人・宮本武蔵」、これは正しい表記です。
「浪人」あるいは「浮浪人」というのは、もともとは、奈良・平安時代に本籍地を離れて流浪した農民のことです。兵役などが、重税のため本籍地を離れ、国司の追及を逃れたわけです。
いっぽう、江時代初期、大名家の取り潰しが多くなると、流浪する牢人を、浪人というようになります。あいまいな使い方、誤用です。

 格子戸をくぐりぬけ・・くぐるという本来の意味とずれてきても、いっこうにかまわないんですが、もともとの言葉にこだわったコメントのつもりでした。出典が見つかれば、また投稿します。

投稿: 久保 稔 | 2015年8月26日 (水) 00時01分

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