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兵隊が戦争に行くとき

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞・作曲:フランシス・ルマルク、唄:フランシス・ルマルク/イヴ・モンタン

(日本語詞1:水野汀子)
(えり)には名残の花 唇(くち)には戦(いくさ)の歌
太鼓をとどろかせて 戦地に向かう兵士
出かけるその胸には 希望がいっぱいだけど
帰りの背嚢(はいのう)には 汚れた下着ばかり
ごらん 若者が 戦に出ていく
かわいい恋人に 心のこして
ごらん 夏の日の 青空が見つめてる
遠く地の果てに 死ににいく若者を
これが人の世の 哀しい定めか
恋の誓いなど 儚(はかな)いものさ

戦地に向かう兵士 名残の花も褪(あ)せて
死なずに帰れたなら
そいつは幸せ者 そいつは幸せ者
ただそれだけ 幸せ者

(日本語詞2:穂高五郎)
鉄砲に花飾り 兵隊さんが戦争に行く
二十歳(はたち)の恋を胸に 足並みを揃えて行く
名誉の杖を入れて かつぐ袋の中は
帰ってくるその時にゃ 汚れたシャツばかり
いざ 命かけて 戦争へ 戦争へ
可哀想な奴さ 恋もあきらめて
けれど夏になると いつだって出かけて行く
空が見ているよ 長い長い行列を
いざ 命かけて 戦争へ 戦争へ
恋のささやきも 太鼓で消される

華やかな歌声で 戦争に行くけれど
戻って来られるのは
運のいい奴だけさ 運のいい奴だけさ
運のいい奴 だけなのさ

    Quand un Soldat

Fleur au fusil tambour battant il va
Il a vingt ans un cœur d'amant qui bat
Un adjudant pour surveiller ses pas
Et son barda contre ses flancs qui bat
Quand un soldat s'en va-t-en guerre il a
Dans sa musette son bâton d'maréchal
Quand un soldat revient de guerre il a
Dans sa musette un peu de linge sale

Partir pour mourir un peu
A la guerre à la guerre
C'est un drôle de petit jeu
Qui n'va guère aux amoureux
Pourtant c'est presque toujours
Quand revient l'été
Qu'il faut s'en aller
Le ciel regarde partir
Ceux qui vont mourir
Au pas cadencé
Des hommes il en faut toujours
Car la guerre car la guerre
Se fout des serments d'amour
Elle n'aime que l'son du tambour

Quand un soldat s'en va-t-en guerre il a
Des tas de chansons et des fleurs sous ses pas
Quand un soldat revient de guerre il a
Simplement eu d'la veine et puis voilà...

《蛇足》 1952年にフランシス・ルマルク(Francis Lemarque)が発表したシャンソン。

 フランシス・ルマルクは1917年11月25日、パリ・バスティーユ地区のラップ通り51番地で生まれました。本名はナータン・コルブ。父はポーランド出身の婦人服仕立屋、母はリトアニア出身で、ともにユダヤ人でした。

 上の写真は現在のラップ通り51番地付近です。かなり下町ふうのたたずまいですが、彼が生まれた当時は、さらに庶民的な横丁だったことでしょう。
 
コルブ一家の住まいは、小部屋2室だけのアパルトマンで、ダンスホールの2階にありました。
 ダンスホールからは、いつもアコーディオン・バンドの曲が流れていて、ナータンはそれを聞きながら育ちました。

 弟モーリス、妹ラシェルとは仲がよく、バスティーユ界隈を遊び回る幸福な少年時代だったようです。
 それが急変したのは彼が11歳のとき。父親が結核を発症して、仕事ができなくなったので、ナータンは学校をやめて工場で働き始めたのです。父親は1933年、ナータンが16歳のときに亡くなりました。

 ダンスホールのアコーディオン・ミュージックを聞いて育ったせいか、ナータンは音楽好きで、できれば音楽で身を立てたいと考えるようになりました。1934年、17歳のとき、彼は弟モーリスを誘って「マルス(Mars)」という音楽グループに加わりました。
 その活動を通じて知り合った作家ルイ・アラゴンの薦めで、彼は弟とデュオ「レ・フレール・マルク
(マルク兄弟)」を結成します。このときから、彼はフランシス・ルマルクという芸名を使うようになりました。

 このころ彼は、詩人のジャック・プレヴェールや音楽家のジョゼフ・コズマと知り合います。コズマとは、二人のリサイタルで、ときどきピアニストを務めてくれたのが縁でした。
 プレヴェールとコズマは、のちにそれぞれ作詞と作曲を担当して『枯葉』などの名曲をいくつも生み出します。また、マルセル・カルネ監督の不朽の名作『天井桟敷の人びと』では、プレヴェールが脚本を、コズマがモーリス・ティリエとともに音楽を担当しました。

 やがて第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍のフランス侵攻が迫った1940年春、ルマルクは動員を受け、軍楽隊に配属されました。
 1940年6月13日、フランスは降伏し、北部と西部をドイツ軍に、南部をイタリア軍に保障占領されました。フランスに認められた統治地域は中部だけで、ヴィシーに置かれたドイツの傀儡政府が統治しました。

 ルマルクの軍楽隊も、ヴィシー地区に移動しましたが、ヴィシー政権には10万人の陸軍しか認められなかったこともあって、ルマルクは動員解除になりました。
 この時期、彼は有名なジプシーのギタリスト、ジャンゴ・ラインハートとともに、何度かリサイタルを行いました。

 1943年、母親がアウシュヴィッツ強制収容所に送られ、殺害されたとの知らせが届くと、ルマルクは地下に潜り、対独レジスタンス部隊「ドラゴン」の一員としてパルチザン活動に挺身しました。

 戦争が終わると、ルマルクは音楽活動を再開し、サンジェルマン・デプレ界隈のナイトクラブで歌うようになりました。
 1946年には、ラマルクの人生に大きな意味をもつ2つのできごとがありました。1つは、のちに彼の妻となるジニー・リシェと出会ったこと、もう1つは終生の友となるイヴ・モンタンを知ったことです。

 イヴ・モンタンのステージを初めて見たとき、ルマルクは彼の独特の歌唱スタイルに深い感動を受け、彼のために曲を作りたいと考えるようになったといいます。プレヴェールの仲介でモンタンに会うことができたルマルクは、自分が作ったいくつかの曲を見せました。
 モンタンはそのなかから『私は歩いていく』など3曲を選び出し、自分の持ち歌に加えました。以後2人のコラボは続き、ルマルクはモンタンのために30曲以上の曲を作りました。

 ルマルクは、フランスのシンガー・ソングライターのなかでも多作だったことで有名です。生涯に400曲以上の作品を発表し、そのうちのかなりの数が世界的なスタンダードナンバーになりました。

 また、彼は自分の生まれ育ったバスティーユ地区をこよなく愛したことでも知られています。その作品の多くが、パリとパリの庶民生活をテーマとしています。音楽界の大立て者であったにもかかわらず、75歳の誕生日をラップ通りにあるごく大衆的なレストランで祝いました。

 2002年4月20日急死。85歳でした。その墓は、ペール・ラシェーズ墓地にある親友イヴ・モンタンの墓と並んで建てられました。

 さて、『兵隊が戦争に行くとき』ですが、この作品はルマルクの他の作品とは歌詞も曲調も大きく異なっています。
 他の作品は、ロマンチックで優しい歌や楽しい歌が多いのに、この曲だけ、悲劇的で詠嘆調です。これには、この歌が作られたころのフランスの政治状況が影響しています。

 第二次大戦で日本が敗れ、仏印(フランス領インドシナ)に進駐していた日本軍が撤退すると、ホー・チ・ミンの率いるヴィエトナム独立同盟、略称ヴェトミンが独立戦争を起こしました。
 フランスは本国から軍隊を送りましたが、ヴェトミンはゲリラ部隊と正規軍を巧みに使い分け、フランス軍を翻弄し続けました。

 ヴェトミン軍の攻撃による兵の損耗があまりに大きいことに衝撃を受けたフランス政府は、1949年、本国軍の海外派遣を禁止する法律を制定、以後ヴィエトナムでの戦いは外人部隊(『カスバの女』参照)に当たらせることになります。

 結局フランス軍は、1954年5月7日、ラオス国境に近いディエンビエンフーでヴェトミン正規軍の包囲攻撃を受けて、降伏します。
 これによって、ヴィエトナムはフランスからの独立を獲得しましたが、戦いは終わりませんでした。共産主義の浸透を恐れたアメリカが戦いを肩代わりし、南ヴィエトナムに作った傀儡政権とともに、北ヴィエトナムを攻撃し続けたからです。いわゆるヴィエトナム戦争です。

Soldats
(1950年ごろ、アジアに派遣されるフランス軍部隊)

 フランスの戦いも終わりませんでした。1954年にアルジェリアで独立戦争が起き、映画『アルジェの戦い』(ジロ・ポンテコルヴォ監督、1966年度ヴェネチア映画祭グランプリ受賞)に描かれたような陰惨な戦いが1962年まで続いたからです。

 もともと植民地主義は、他の国・地域を武力で占領し、富を収奪し、住民を抑圧するという押し込み強盗のような政策です。その権益を守るという理のない戦いで、多くの若者が、死んだり、障害者になったり、神経症で廃人同様になったりして帰ってくるのに衝撃を受けたルマルクが作ったのが、この『兵隊が戦争に行くとき』です。

 この曲が発表されると、フランス政府は兵士たちの士気を損なうとして放送禁止処分にしました。しかし、フランスはもちろん、世界各国で人びとが歌うのは止められませんでした。歴史に残る反戦歌といってよいでしょう。

 この歌が発表されてから約60年。戦争はなくならないどころか、むしろ増えているよう見えます。しかし、若者たちは反戦歌を歌わないし、反戦歌も作られなくなっています。

(二木紘三) 

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コメント

戦時中の軍歌の歌詞を読んでいると、あまりに嘘八百の大げさな言葉が並んでいて気分が落ち込みます。戦死に名誉を付けて、名誉の戦死という。家の近くにも戦死者の忠魂碑がいくつかあります。
戦後60数年経てば祀る人も居なくなり、孫とか曾孫が知らないお爺さんの大きな碑を維持管理出来ないから撤去したいという。名誉なんて何の関係もないのだ。誰も褒め称えてくれない。誰が名誉の戦死なんて言葉を作ったのだろうか。国が国民をほめる時は気をつけなければいけない。
兵を募って失業対策、軍需産業で金を稼いで他国をひどい目に遭わせる。これが大国の顔。勲章も名誉も虚ろな物。平和で静かな暮らしが一番。いつになったら嘘やごまかしのない地球になるのだろうか。

投稿: ハコベの花 | 2009年12月21日 (月) 19時31分

歌詞の1行目を見たときは、軍歌『歩兵の本領』に似ているので、これは軍歌かと早トチリしたのですが、勇んで戦場に赴く兵士へ静かに呼びかけるような反戦歌ということが分かります。メロディも哀切な調子ですから、こころに深く、静かに、沈むように聞こえます。わたしはラマルクという歌手は知らないので、イヴ・モンタンの歌で聞いてみたくなりました。
 この歌を聞いて、あるひとりの兵士を思い出しました。あれは昭和19年の夏か、初秋の頃です。当時、わたし達家族は朝鮮の清洲という町にいましたが、ある日父が二人の兵士を家に連れて来ました。その中のひとりが、甲府出身の杉山上等兵と記憶しています。かれは帰り際に、2枚の写真をわたしの父に預けて行きました。一枚は軍服姿の自分の写真、もう一枚は可愛い赤ちゃんを抱いた奥様の写真でした。そして、父にこう言ったそうです。「わたしの部隊は南方に移動します。多分、生還は期し難いでしょう。そのときには、この写真を妻のところに送ってほしい」と。
 後で知ったことですが、この部隊は南方フィリピンのレイテ島に上陸し、米軍と戦ってほぼ全滅したとのことです。かれは運良く生き残ったのかどうか。父が果たしてかれの奥様に写真を送ったのか、それも分かりません。父は遠の昔に他界しているのですから。
 わたしは今でも、可愛い赤ちゃんを抱いた綺麗な奥様の写真と、杉山上等兵の優しい笑顔を忘れることが出来ません。

投稿: ひろし | 2009年12月22日 (火) 16時42分

戦国時代を持て囃してるこの国の国民に、反戦を説いても無駄です。

投稿: kochia | 2010年2月 1日 (月) 00時26分

kochia様
 全く人類の歴史は戦争の歴史ですからね。「一将功成りて万骨枯る」を懲りもせず繰り返しています。

投稿: ハコベの花 | 2010年2月 2日 (火) 20時52分

09年09月27日付 朝日新聞大阪本社版の「声」欄に載った投稿。
(名は伏せ字にしますが、女子高生の投稿です)


タイトル : 今に望む戦国武将の生き方

高校生 △田▲子 (大阪市東成区 16)

 私は、幼いころから父の影響で戦国時代が大好きです。
この時代には今の世の中に欠けている人情があり、まさに命がけで懸命に生きていたように思います。
 最近はゲームなどで人気が出て、「歴女」という言葉まで現れました。
その背景には、このごろの男性に少なくなった「男気」にあこがれる女性が増えてきたことがあると思います。
「草食系」という言葉までできるくらいで、なかなか威厳がある男性に巡り合うことが少なくなりました。
 不景気で社会全体に元気がなくなり、誰もが夢を持つことをあきらめているような気がします。
そんな時代に、戦国武将にスポットが当たるのも必然かも知れません。
 わたしは個人的に織田信長が好きです。
彼は乱世を統一しようと、あらゆる強国との戦いにおいても、新しい戦略や知恵を使い、勝利していったからです。
乱世に通じる厳しい現代だからこそ夢や信念を持ち、貫き通す。
そんな強い志を持った人がもっと多くなって欲しいのです。

―――――――――――――――

あの投稿欄に肯定的に載るのは、「平和主義?」の朝日新聞の意向にそったもの。
また、あの新聞の傾向からして少女の投稿を悪意で持って掲載するとは考えられない。
つまり、「平和」だの「9条を守れ」だの言っても、
本質はこんなもの。

殺し合いの時代を「夢がある」・・・
これは日本人のかなりが抱いているメンタリティです。

投稿: kochia | 2010年2月16日 (火) 05時29分

kochia様 
 あえて異を唱えるつもりはありませんが、いささか誤解されているのではないかと思い、私見をのべさせていただきます。
 投稿した女子高生の主旨は、現今の将来の見えない社会に生きる若い世代の男性に対する叱咤激励であって、けっして戦国時代のような乱世を好み、戦争を志向しているのではないように思います。その論旨を展開していくなかで、たまたま「歴女」(?)である彼女が、戦国時代の武将織田信長を取り上げたまでだと思うのですが。因みに、わたしは作家藤沢周平のことば(信長嫌いで有名)を持ち出すまでもなく、織田信長は嫌いです。
 また、あなたは朝日新聞の、表面上は平和主義を唱えながら、このような投稿を掲載することの偽善性をも問題にされていますが、この投稿を取り上げた当否は別にして、朝日新聞に限らず、今の日本のメディア全体が保守的な傾向にあるようには思います。 
 

投稿: ひろし | 2010年2月18日 (木) 15時42分

はじめまして。懐かしい「兵隊が戦争に~」聴かせて頂き、更に、歌の背景解説も知り、「そ~だったのかと」50数年ぶりに知りました。
あの頃は、意味も余り判らず、アコーデオンにあわせ皆で声張りあげて唄っていました。
ただ、歌詞が少し違っていた様な気がしますが(訳者が違うのか?)・・・たぶんうろ覚えで記憶が薄らいでいますが 「筒先に花さして、太鼓の音に合わせ、兵隊さん戦争に行く・・・・死にでて行くのサ、戦にイクサに.固い愛の誓いもあてにはならない。若い娘も有るの~に馬鹿げた奴メ・・・・
けれども帰る時にや~破れたシャツだけさ、破れたシャッだけさ・・・」こんな感じだったとおもいますが?
 とにかく私の様な戦争体験世代が少なくなるなか、世相は防衛の名のもとに軍事力増強。戦争肯定の世論誘導が見られるような感じがします。
あの若者が行きかうファッションの街の青山通りと神宮通りの角にある銀行前の敷石に、65年前には空襲で焼死した人々が焼け棒クイを並る様にころがっていました。その痕跡が5~6年間、死体から滲み出た油が黒くこびりついておりました。
今は、戦争を知らない若者達がファッションに身を包み、焼死体が転がっていた跡を颯爽と闊歩し愛を語っています。
この愛を語れる平和な日々を再び戦争で失うことが無いようにしたいですね。

投稿: ヒトコマ人 | 2010年2月28日 (日) 17時18分

 若い頃、何気なく「パリの空の下セーヌは流れる」を観て、そのメランコリックな画面と唄に魅せられていましたら、突然この唄が聞こえたのでハッとしたのでした。
 「枯葉」は無駄に死んだ兵士たち。ホント斃死だ。
 すると「小さなヒナゲシ」は彼らが流した血の色。

 ベトミンは武装解除した日本軍の幹部を雇用して、日本式の将校訓練でベトミン軍の将校を教育したのですから、フランス軍は堪りません。

 「カスバの女」に言及していらっしゃいますが、ベトナムの外人部隊を急遽アルジェに転進させたのを、「明日はチェニスかモロッコか」と唄う力量は凄いですね。
 孫牧人の作った曲に魅せられて、歌詞を一夜で書き上げた大高しげるとは何者なのでしょう。彼もまた、ハノイかどこかで、流れ者のフランス女を相手に酒を酌み交わした過去があったのではないかと想像したくなります。
 おそらくは、彼もまた、明日はビルマかフィリピンかと、外人部隊と同じ運命に晒されたのではないでしょうか。
 そうでなければ、到底あんな歌詞は書けないでしょう。
 あの当時、同じような感慨を抱いた復員軍人が相当数いたようです。中学の先生の一人もそうでした。

   

投稿: Narrenzug | 2010年11月15日 (月) 02時50分

歌詞もメロディーも聴く人を共感させるいい歌です。
ところで昨今の日本ですが、尖閣諸島問題では真犯人をあわてて釈放し、月光仮面を処罰するかどうかでもめています。
中国とロシアに完全になめられています。結局はアメリカ頼みでないと生きられない日本でしょうか。情けないことは事実です。覇権主義の中国は、戦前の日本の歩みを彷彿させます。領土問題は一瞬の油断で取り返しのつかないことになります。竹島問題は当時の自民党政府と外務省の失態でした。

投稿: 三瓶 | 2010年11月15日 (月) 10時15分

この歌を私は「現代日本の歌曲集」(1959-5-2 0閣山房刊)で知りました。
その歌集に掲載されていた歌詞は二番目の歌詞ですが、翻訳者の氏名が記載されていなかったのです。
このサイトで、翻訳者が穂高五郎氏だと知りました。
どうも有難うございました。

投稿: Narrenzug | 2013年8月25日 (日) 01時45分

この歌はシューマン作曲の”二人の擲弾兵”と似たところがありますね。

投稿: 三瓶 | 2013年8月27日 (火) 14時51分

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