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かえり船

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:清水みのる、作曲:倉若晴生、唄:田端義夫

1 波の背の背に 揺られて揺れて
  月の潮路の かえり船
  霞む故国よ 小島の沖じゃ
  夢もわびしく よみがえる

2 捨てた未練が 未練となって
  今も昔の せつなさよ
  瞼(まぶた)あわせりゃ 瞼ににじむ
  霧の波止場の 銅鑼(ドラ)の音

3 熱いなみだも 故国に着けば
  うれし涙と 変わるだろう
  鴎ゆくなら 男のこころ
  せめてあの娘(こ)に つたえてよ

《蛇足》 昭和21年(1946)11月、テイチクから発売され、大ヒットとなりました。

 歌手の田端義夫は、気さくな人柄からバタヤンの愛称で親しまれました。ギターを胸の高い位置で水平に構え、「オースッ」と威勢よく挨拶してから歌い始めるのが特徴でした。もっとも、若い頃は、普通の構え方をしていたようです。

 戦前は『大利根月夜』『別れ船』など、戦後は『かえり船』『玄海ブルース』『ふるさとの灯台』『別れの浜千鳥』『島育ち』など、多くのヒット曲を連発しました。
 日本歌手協会の会長を長く務めましたが、平成25年
(2013)4月25日、94歳で亡くなりました。

 この歌は敗戦によって南方諸島や台湾、朝鮮、満州、樺太などから引き揚げてきた人びと、いわゆる引揚者の心情を歌ったものです。なお、軍人の場合は引揚者ではなく、復員兵といいます。

 筆舌に尽くしがたい苦難を重ねた末、やっとたどり着いた日本。船からその影を見たとき、万感胸に迫って泣く人も多かったはずです。帰還前になくした家族や自身が受けた被害、国に残してきた老親や恋人は無事か、家は残っているかなど、さまざまな思いが胸の中で渦巻いたことでしょう。

 引揚者が上陸したおもな港は、博多港、佐世保港、舞鶴港、浦賀港仙崎港、大竹港、鹿児島港、函館港などですが、この歌の舞台になったのは博多港だといわれています。
 一番の小島は博多湾外の玄界島
(上の写真)だと思われますが、船は湾内の能古島(のこのしま)近くに停泊し、引揚者たちは検疫などを受けたのち、上陸したといいます。

 ところで、この歌には故国という言葉が使われていますが、同種の言葉に祖国と母国があります。この3つはどう違うのでしょう。
 ほとんどニュアンスの違い程度ですが、祖国は外国との関係において自分の国をいう場合に使われます。したがって、よく愛国心が絡みます。
 愛国心にも幅があって、アンブローズ・ビアスが
「愛国心はならず者の最後の拠り所(下記注参照)」と皮肉る国家主義的愛国心から、なでしこジャパンが優勝して誇らしいという素朴な愛国心までさまざまです。

 母国は国外にあって出身地をいうときや特定の文物の発祥国もしくは本場を指すときに使う例が多いようです。

 故国は故郷の郷が国に変わった言葉と思えばよいでしょう。外国で生活しているとき、あるいは外国から帰る際、生まれ育った国をひたすら懐かしむときに使われます。

 この歌を歌うとき、故国を祖国と歌う人がいるようですが、以上のようなニュアHikiagesen ンスの違いを考えると、はやはり故国と歌うべきでしょう。

(右の写真は昭和20年〈1945〉10月18日に博多港に到着した朝鮮からの引き揚げ船)。

(注)正確には、この言葉は英語学者ジョンソン博士の辞書の定義で、ビアスが愛国心について書いた言葉のあとに引用したものです。ビアス自身の定義は”Combustible rubbish ready to the torch of any one ambitious to illuminate his name.”

(二木紘三)

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コメント

バタヤンと同じ時代を生きてきた人達にはファンが多い
ですね。あのギターの持ち方はディック・ミネの真似
だとか。戦地慰問もなされ、苦しい時代を明るく生きて
居られます。

投稿: 海道 | 2011年9月30日 (金) 08時50分

バタヤンの歌はファン層が厚いですね。 実はツイッターで二木さんにお願いツイットをだしてみました。
 奇しくも同じバタヤンで知られた曲でした。
「 二木紘三さんにリクエストしてみる
 二見情話(照屋敷さん)、
 旅の終わりに聞く歌は(比嘉栄昇さん)
 なんとか時間つくってMIDIカラオケにしてください」

都合のいいお願いですが、なにとぞよろしく です。

投稿: 木挽屋次郎 | 2011年10月 1日 (土) 09時48分

懐かしくも、切ないバタヤンの持ち歌をアップしていただきありがとうございます。
 この歌の舞台が博多港だとのことですが、わたしたち家族が朝鮮からの引揚げで上陸したのも、この港でした。この歌では、夢にまで見た故国の島影を目の前にした作者の、よく生きて帰ってきたという万感の思いが込められていますが、わたしの場合は、まったく作者のような思いも喜びもなく、忙しなく下船し、真っ暗な博多駅(福岡市もご多分にもれず戦災にあっていました)から下関行きの貨車(客車ではありませんよ)に乗り込んだ記憶しかありません。プサン(釜山)港から引揚げ船(確か徳寿丸だったと思います)に乗船したところまでは記憶にあるのですが、博多港下船までの部分が空白なのです。多分、乗船出来て安心したことと、疲労困憊が重なって眠り込んでいたのだろうと思います。とにかく乗船するまでは生死にかかわる経験の連続でしたから。もし起きていたら、作者と同じ感慨をもったかもしれませんが。もっとも作者は故国への熱い思いと、外地に残して来た女性(恋人?)への別離の思いを同時に感じているのですが、もちろんわたしは、そのようなこととは無縁でした。
 今年66年ぶりに博多港に行く機会を得ました。現在の博多港は海岸線を埋め立てて、随分博多駅から遠くなったとのことです。昔日の面影を偲ぶよすがはありませんでした。 

投稿: ひろし | 2011年10月 5日 (水) 10時43分

いい歌ですね!
二木先生の《蛇足》から永い年月を経て最初のふるさとへのUターンに於ける『かえり船』のストーリーに、あらためて日本で生まれ日本で生きている幸せをかみ締めました。

しかしバタヤン(と気やすく言っていいのか?)のもう1曲のベリーべりー・グッドの歌、それは御前崎灯台に歌碑があり1度見に行って見たい『ふるさとの燈台』です。
  “真帆方帆歌をのせて通う~~~そよ風の甘き調べにも思いあふれて流れ来る流れ来る熱き泪よ”
と全部おぼえていて2番と3番の間奏に江戸子守歌の“ねんねんころりよ・・・”のメロディが入っているバージョンの方がより一層哀愁をそそります。もしかしたら作詞された清水みのるさんのふるさとは、歌詞にある“はるかなる・むらさきの小島”は本当に“ふるさとの小島”ではと思うほど心が安らぎ感動する歌詞で、長津義司さんのイントロと穏やかなメロディも是非皆さんに聴いていただきたいと思うのは私だけでしょうか?
二木先生『ふるさとの燈台』の《蛇足》も是非お願い致します。

投稿: 尾谷光紀 | 2011年10月 5日 (水) 23時26分

前に森の水車にも書きましたが、清水みのるは浜松の伊左地という浜名湖畔の生まれです。お医者さんの息子さんだったと聞きました。それで海に関係する歌が多いのだと思います。伊左地には灯台がありませんので、御前崎の灯台のそばに歌碑を建てたと聞いております。本当にかえり船もふるさとの灯台も素晴らしい歌詞ですね。特にふるさとの灯台はメロディもすばらしいと思います。真帆方帆歌をのせて通う・・なんて情緒のある歌詞でしょうか。清水みのるの子供時代の浜名湖は鄙びていてきっとこの歌詞の通りだったと思います。名歌ですね。私は歌は下手で歌えませんが、尾谷さんやその他の男性の方々の声で一度これらの歌を聞いてみたいものです。

投稿: ハコベの花 | 2011年10月 6日 (木) 15時36分

10/5のひろしさんが言われるように、ロマンチックな歌詞も現実にはそれどころではなく、かさかさしたものかもしれませんね。ちょっと違うかもしれませんが、私は若い頃かなづちだったので、鵠沼海岸でおぼれて姉の会社の人に助けられました。その時、姉も横でおぼれましたが、会社員はまず姉を助けました。「ああやっぱり女は得だな」とそのとき思いました。「こんなことしながら俺は死ぬんだろうな」、そう思いました。
でも、その時「おい!俺につかまれ」と違う男が現れて私に言いました。必死にからだにすがりついたら、「おい、強く掴むな、自分も泳げ」と言われ、足で蹴っ飛ばされました。からだは少し離れたが「ここで離れてはおしまいだ」と思い軽く握りながらバタ足しました。そして助けられました。

でも、文芸は現実に体験した本人にも分からない真実をついた面があるように思えてなりません。2番の「捨てた未練が 未練となって今も昔の せつなさよ」なんかいいですね。

そして、この哀愁の旋律がぞくぞくさせてくれるじゃありませんか。端ヤンがまだ健在なんてびっくりですが、嬉しい情報でした。二木先生、ありがとうございました。

投稿: 藤森 吟二 | 2011年10月11日 (火) 20時40分

「にじむ」か「しみる」か
 2番の「瞼あわせりゃ 瞼ににじむ 霧の波止場の 銅鑼の音」には違和感を持っていました。ドラの音が聞こえてくるのだから「しみる」のほうがすっきりするし、「にじむ」では一旦眼に入り、出て来るような感じになるがな、と思っていました。田端義夫が「にじむ」と唄っていることは知りつつもしっくりと来ませんでした。
 BGMで流している曲を聞いた時驚きました。「しみる」と唄っているではありませんか。慌ててCDを引っ張りだして調べたところ「しみる」と「にじむ」の二通りがありました。
 私の持っているCDは次のとおりです。
  しみる=懐かしのメロディ<下巻> TECE-1017・テイチクエンタテインメント
  にじむ=田端義夫ベスト1 TFC-609・テイチクレコード

 レコードに限れば、少なくとも四、五年は「しみる」と唄っているようですが、「にじむ」に変わった時期は知りません。『別冊・1億人の昭和史・昭和流行史(1978)』では「にじむ」になっています。
 ついでにインターネットで調べてみるともう一箇所変化したところがありました。やはり2番の「今も昔の」を初期は「今じゃ昔の」と唄っています。こちらは早い時期に「今も昔の」になったようです。

投稿: 周山 | 2012年11月19日 (月) 12時18分

沖合を東に通過する引揚船を何度みたことでしょう。年かさの少年があれは興安丸だよと教えてくれた。復員兵も乗船していたのかも知れない。彼らには祖国への`かえり舟`だった。その頃に、この唄を聴いたのかどうか? 記憶の底を覗いても、何も見えないのです。静かにメロディーをまだ聞こえる左耳に導きつつ、微かに浮かぶ景色が見える。戦後まもない心象…

水曜日マギー・サッチャーの葬儀があります。蛇足で仰られる祖国・故国・母国・愛国は、彼女と切っても切り離せませんね。ウェストミンスター聖堂大鐘とビッグベンの鐘を、チャーチル国家葬を参照しつつ、`鳴らす`否`沈黙させる`と議論が喧しい。1980年代、国を二つに割りながら、徹底した自由主義と愛国をUK同胞に刻み付けた稀なる人・マギーさんへの敬意をどう解釈するか、、、

○○国の解説を読みながら、母国の代りに「父国」と言うゲルマン民族を思いました。アイアン・レイディーですから、水曜日のテキストは日本式「母国」の栄えある宰相で良いのではないか…。 合掌。

投稿: minatoya | 2013年4月16日 (火) 07時38分

 “オースッ!千の風になりまっせェ~”と・・・4月25日94歳で旅立たれましたバタヤン! おおきに!おおきに!おおきに!
亡母が良く歌ったバタヤンのデビュー曲「島の舟歌」の終わりの “~ならば千鳥よこの俺と歌を仲間に暮らそうよ” の声が今でも耳に残っています。
 船シリーズの中でもこの「帰り船」の情景はすばらしく、そして「ふるさとの灯台」“~~灯台の我が家よ懐かしき父のまた母の膝はゆりかごいつの日もいつの日も夢をさそうよ (3)歳降りて星に月に偲ぶ紫の小島よ灯台の灯りよそよ風の甘き調べに~~”  心が震えるようなイントロ・・・数度の夜逃げや赤貧や橋の下でのボイス・トレーニング等々で得た哀愁を帯びた声・・・モーサイコーです。
主役で日高澄子と共演した『月の出船』も同名の挿入歌共に心にずーと残っています。
 
 天上のステージでぼろぼろのギターを高めに抱えて歌うバタヤン!心からご冥福をお祈り致します。

投稿: 尾谷光紀 | 2013年4月26日 (金) 17時20分

バタヤン(田端義夫)さん(私の亡き父の年代ですから、大先輩です)のご冥福をお祈りします。
4月26日早朝、NHKラジオ深夜便(作家でつづる流行歌:高橋掬太郎作品集)を聞いていて、番組の冒頭で、アナウンサーが急遽、「前日25日、田端義夫さんが94歳で亡くなった事」を伝え、昭和21年10月発売「かえり船」を流してくれました。
レコード発売は、私が生れる1年前でした。次々に歌の先達が亡くなられ、淋しいかぎりです。

投稿: 竹永尚義 | 2013年4月27日 (土) 17時51分

昨日投稿させていただきましたが、引揚げ船のことに触れずじまいでした。昭和22年九州・小倉市生まれですから、直接的には知りませんが、いわゆる外地から皆さんが死ぬ思い出、やっと西日本各地の港(博多港、門司港、大竹港など)に帰って来られたこと、厚生省引揚げ援護局というのがあり、またラジオでは「尋ね人の時間」というのがあったことを記憶しています。
引揚げ船には、旧海軍の生き残り艦船(例えば、藤山一郎さんが帰還した元の航空母艦「葛城」など)も使われました。よくぞ、還って来られました。
将来の日本人にこんな惨めな思いをさせたくはありません。
以上、追記させて頂きます。

投稿: 竹永尚義 | 2013年4月28日 (日) 17時08分

ラジオから流れる〔かえり船〕を初めて耳にしたのは小学校3、4年のころでしか・・・育った田舎は、玄界灘に面した人情豊かなしずかな村です。北に面した砂浜からみる玄界灘には、烏帽子灯台と小呂島(おろんしま)が重なるように目に入ります。二つの島は、7里隔てていて、手前の烏帽子灯台は岩礁で、砂浜からは7里の海上に浮かんでいます。二つの島の間を黒い煙をはきながら東にゆっくりむかっていく大きな船を何回か見かけました。年を経て、この歌を聴くにつけ、あのときの、あの船が、大陸から博多港あたりに向かう引き揚げ船だったのだと確信しまた。二木紘三先生のコメントにある玄界島も、東に面した白砂青松の海岸からすぐそこに見えます。懐かしい過去を皆様方と共有できて、この上なく満足しています。田端義夫さんのご冥福を祈りつつ指をおきます。

投稿: 亜浪沙(山口) | 2013年5月 3日 (金) 17時38分

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