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かえり船

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:清水みのる、作曲:倉若晴生、唄:田端義夫

1 波の背の背に 揺られて揺れて
  月の潮路の かえり船
  霞む故国よ 小島の沖じゃ
  夢もわびしく よみがえる

2 捨てた未練が 未練となって
  今も昔の せつなさよ
  瞼(まぶた)あわせりゃ 瞼ににじむ
  霧の波止場の 銅鑼(ドラ)の音

3 熱いなみだも 故国に着けば
  うれし涙と 変わるだろう
  鴎ゆくなら 男のこころ
  せめてあの娘(こ)に つたえてよ

《蛇足》 昭和21年(1946)11月、テイチクから発売され、大ヒットとなりました。

 歌手の田端義夫は、気さくな人柄からバタヤンの愛称で親しまれました。ギターを胸の高い位置で水平に構え、「オースッ」と威勢よく挨拶してから歌い始めるのが特徴でした。もっとも、若い頃は、普通の構え方をしていたようです。

 戦前は『大利根月夜』『別れ船』など、戦後は『かえり船』『玄海ブルース』『ふるさとの灯台』『別れの浜千鳥』『島育ち』など、多くのヒット曲を連発しました。
 日本歌手協会の会長を長く務めましたが、平成25年
(2013)4月25日、94歳で亡くなりました。

 この歌は敗戦によって南方諸島や台湾、朝鮮、満州、樺太などから引き揚げてきた人びと、いわゆる引揚者の心情を歌ったものです。なお、軍人の場合は引揚者ではなく、復員兵といいます。

 筆舌に尽くしがたい苦難を重ねた末、やっとたどり着いた日本。船からその影を見たとき、万感胸に迫って泣く人も多かったはずです。帰還前になくした家族や自身が受けた被害、国に残してきた老親や恋人は無事か、家は残っているかなど、さまざまな思いが胸の中で渦巻いたことでしょう。

 引揚者が上陸したおもな港は、博多港、佐世保港、舞鶴港、浦賀港仙崎港、大竹港、鹿児島港、函館港などですが、この歌の舞台になったのは博多港だといわれています。
 一番の小島は博多湾外の玄界島
(上の写真)だと思われますが、船は湾内の能古島(のこのしま)近くに停泊し、引揚者たちは検疫などを受けたのち、上陸したといいます。

 ところで、この歌には故国という言葉が使われていますが、同種の言葉に祖国と母国があります。この3つはどう違うのでしょう。
 ほとんどニュアンスの違い程度ですが、祖国は外国との関係において自分の国をいう場合に使われます。したがって、よく愛国心が絡みます。
 愛国心にも幅があって、アンブローズ・ビアスが
「愛国心はならず者の最後の拠り所(下記注参照)」と皮肉る国家主義的愛国心から、なでしこジャパンが優勝して誇らしいという素朴な愛国心までさまざまです。

 母国は国外にあって出身地をいうときや特定の文物の発祥国もしくは本場を指すときに使う例が多いようです。

 故国は故郷の郷が国に変わった言葉と思えばよいでしょう。外国で生活しているとき、あるいは外国から帰る際、生まれ育った国をひたすら懐かしむときに使われます。

 この歌を歌うとき、故国を祖国と歌う人がいるようですが、以上のようなニュアンスの違いを考えると、はやはり故国と歌うべきでしょう。

Hikiagesen
(上の写真は昭和20年〈1945〉10月18日に博多港に到着した朝鮮からの引き揚げ船)。

(注)正確には、この言葉は英語学者ジョンソン博士の辞書の定義で、ビアスが愛国心について書いた言葉のあとに引用したものです。ビアス自身の定義は”Combustible rubbish ready to the torch of any one ambitious to illuminate his name.”

(二木紘三)

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コメント

バタヤンと同じ時代を生きてきた人達にはファンが多い
ですね。あのギターの持ち方はディック・ミネの真似
だとか。戦地慰問もなされ、苦しい時代を明るく生きて
居られます。

投稿: 海道 | 2011年9月30日 (金) 08時50分

バタヤンの歌はファン層が厚いですね。 実はツイッターで二木さんにお願いツイットをだしてみました。
 奇しくも同じバタヤンで知られた曲でした。
「 二木紘三さんにリクエストしてみる
 二見情話(照屋敷さん)、
 旅の終わりに聞く歌は(比嘉栄昇さん)
 なんとか時間つくってMIDIカラオケにしてください」

都合のいいお願いですが、なにとぞよろしく です。

投稿: 木挽屋次郎 | 2011年10月 1日 (土) 09時48分

懐かしくも、切ないバタヤンの持ち歌をアップしていただきありがとうございます。
 この歌の舞台が博多港だとのことですが、わたしたち家族が朝鮮からの引揚げで上陸したのも、この港でした。この歌では、夢にまで見た故国の島影を目の前にした作者の、よく生きて帰ってきたという万感の思いが込められていますが、わたしの場合は、まったく作者のような思いも喜びもなく、忙しなく下船し、真っ暗な博多駅(福岡市もご多分にもれず戦災にあっていました)から下関行きの貨車(客車ではありませんよ)に乗り込んだ記憶しかありません。プサン(釜山)港から引揚げ船(確か徳寿丸だったと思います)に乗船したところまでは記憶にあるのですが、博多港下船までの部分が空白なのです。多分、乗船出来て安心したことと、疲労困憊が重なって眠り込んでいたのだろうと思います。とにかく乗船するまでは生死にかかわる経験の連続でしたから。もし起きていたら、作者と同じ感慨をもったかもしれませんが。もっとも作者は故国への熱い思いと、外地に残して来た女性(恋人?)への別離の思いを同時に感じているのですが、もちろんわたしは、そのようなこととは無縁でした。
 今年66年ぶりに博多港に行く機会を得ました。現在の博多港は海岸線を埋め立てて、随分博多駅から遠くなったとのことです。昔日の面影を偲ぶよすがはありませんでした。 

投稿: ひろし | 2011年10月 5日 (水) 10時43分

いい歌ですね!
二木先生の《蛇足》から永い年月を経て最初のふるさとへのUターンに於ける『かえり船』のストーリーに、あらためて日本で生まれ日本で生きている幸せをかみ締めました。

しかしバタヤン(と気やすく言っていいのか?)のもう1曲のベリーべりー・グッドの歌、それは御前崎灯台に歌碑があり1度見に行って見たい『ふるさとの燈台』です。
  “真帆方帆歌をのせて通う~~~そよ風の甘き調べにも思いあふれて流れ来る流れ来る熱き泪よ”
と全部おぼえていて2番と3番の間奏に江戸子守歌の“ねんねんころりよ・・・”のメロディが入っているバージョンの方がより一層哀愁をそそります。もしかしたら作詞された清水みのるさんのふるさとは、歌詞にある“はるかなる・むらさきの小島”は本当に“ふるさとの小島”ではと思うほど心が安らぎ感動する歌詞で、長津義司さんのイントロと穏やかなメロディも是非皆さんに聴いていただきたいと思うのは私だけでしょうか?
二木先生『ふるさとの燈台』の《蛇足》も是非お願い致します。

投稿: 尾谷光紀 | 2011年10月 5日 (水) 23時26分

前に森の水車にも書きましたが、清水みのるは浜松の伊左地という浜名湖畔の生まれです。お医者さんの息子さんだったと聞きました。それで海に関係する歌が多いのだと思います。伊左地には灯台がありませんので、御前崎の灯台のそばに歌碑を建てたと聞いております。本当にかえり船もふるさとの灯台も素晴らしい歌詞ですね。特にふるさとの灯台はメロディもすばらしいと思います。真帆方帆歌をのせて通う・・なんて情緒のある歌詞でしょうか。清水みのるの子供時代の浜名湖は鄙びていてきっとこの歌詞の通りだったと思います。名歌ですね。私は歌は下手で歌えませんが、尾谷さんやその他の男性の方々の声で一度これらの歌を聞いてみたいものです。

投稿: ハコベの花 | 2011年10月 6日 (木) 15時36分

10/5のひろしさんが言われるように、ロマンチックな歌詞も現実にはそれどころではなく、かさかさしたものかもしれませんね。ちょっと違うかもしれませんが、私は若い頃かなづちだったので、鵠沼海岸でおぼれて姉の会社の人に助けられました。その時、姉も横でおぼれましたが、会社員はまず姉を助けました。「ああやっぱり女は得だな」とそのとき思いました。「こんなことしながら俺は死ぬんだろうな」、そう思いました。
でも、その時「おい!俺につかまれ」と違う男が現れて私に言いました。必死にからだにすがりついたら、「おい、強く掴むな、自分も泳げ」と言われ、足で蹴っ飛ばされました。からだは少し離れたが「ここで離れてはおしまいだ」と思い軽く握りながらバタ足しました。そして助けられました。

でも、文芸は現実に体験した本人にも分からない真実をついた面があるように思えてなりません。2番の「捨てた未練が 未練となって今も昔の せつなさよ」なんかいいですね。

そして、この哀愁の旋律がぞくぞくさせてくれるじゃありませんか。端ヤンがまだ健在なんてびっくりですが、嬉しい情報でした。二木先生、ありがとうございました。

投稿: 藤森 吟二 | 2011年10月11日 (火) 20時40分

「にじむ」か「しみる」か
 2番の「瞼あわせりゃ 瞼ににじむ 霧の波止場の 銅鑼の音」には違和感を持っていました。ドラの音が聞こえてくるのだから「しみる」のほうがすっきりするし、「にじむ」では一旦眼に入り、出て来るような感じになるがな、と思っていました。田端義夫が「にじむ」と唄っていることは知りつつもしっくりと来ませんでした。
 BGMで流している曲を聞いた時驚きました。「しみる」と唄っているではありませんか。慌ててCDを引っ張りだして調べたところ「しみる」と「にじむ」の二通りがありました。
 私の持っているCDは次のとおりです。
  しみる=懐かしのメロディ<下巻> TECE-1017・テイチクエンタテインメント
  にじむ=田端義夫ベスト1 TFC-609・テイチクレコード

 レコードに限れば、少なくとも四、五年は「しみる」と唄っているようですが、「にじむ」に変わった時期は知りません。『別冊・1億人の昭和史・昭和流行史(1978)』では「にじむ」になっています。
 ついでにインターネットで調べてみるともう一箇所変化したところがありました。やはり2番の「今も昔の」を初期は「今じゃ昔の」と唄っています。こちらは早い時期に「今も昔の」になったようです。

投稿: 周山 | 2012年11月19日 (月) 12時18分

沖合を東に通過する引揚船を何度みたことでしょう。年かさの少年があれは興安丸だよと教えてくれた。復員兵も乗船していたのかも知れない。彼らには祖国への`かえり舟`だった。その頃に、この唄を聴いたのかどうか? 記憶の底を覗いても、何も見えないのです。静かにメロディーをまだ聞こえる左耳に導きつつ、微かに浮かぶ景色が見える。戦後まもない心象…

水曜日マギー・サッチャーの葬儀があります。蛇足で仰られる祖国・故国・母国・愛国は、彼女と切っても切り離せませんね。ウェストミンスター聖堂大鐘とビッグベンの鐘を、チャーチル国家葬を参照しつつ、`鳴らす`否`沈黙させる`と議論が喧しい。1980年代、国を二つに割りながら、徹底した自由主義と愛国をUK同胞に刻み付けた稀なる人・マギーさんへの敬意をどう解釈するか、、、

○○国の解説を読みながら、母国の代りに「父国」と言うゲルマン民族を思いました。アイアン・レイディーですから、水曜日のテキストは日本式「母国」の栄えある宰相で良いのではないか…。 合掌。

投稿: minatoya | 2013年4月16日 (火) 07時38分

 “オースッ!千の風になりまっせェ~”と・・・4月25日94歳で旅立たれましたバタヤン! おおきに!おおきに!おおきに!
亡母が良く歌ったバタヤンのデビュー曲「島の舟歌」の終わりの “~ならば千鳥よこの俺と歌を仲間に暮らそうよ” の声が今でも耳に残っています。
 船シリーズの中でもこの「帰り船」の情景はすばらしく、そして「ふるさとの灯台」“~~灯台の我が家よ懐かしき父のまた母の膝はゆりかごいつの日もいつの日も夢をさそうよ (3)歳降りて星に月に偲ぶ紫の小島よ灯台の灯りよそよ風の甘き調べに~~”  心が震えるようなイントロ・・・数度の夜逃げや赤貧や橋の下でのボイス・トレーニング等々で得た哀愁を帯びた声・・・モーサイコーです。
主役で日高澄子と共演した『月の出船』も同名の挿入歌共に心にずーと残っています。
 
 天上のステージでぼろぼろのギターを高めに抱えて歌うバタヤン!心からご冥福をお祈り致します。

投稿: 尾谷光紀 | 2013年4月26日 (金) 17時20分

バタヤン(田端義夫)さん(私の亡き父の年代ですから、大先輩です)のご冥福をお祈りします。
4月26日早朝、NHKラジオ深夜便(作家でつづる流行歌:高橋掬太郎作品集)を聞いていて、番組の冒頭で、アナウンサーが急遽、「前日25日、田端義夫さんが94歳で亡くなった事」を伝え、昭和21年10月発売「かえり船」を流してくれました。
レコード発売は、私が生れる1年前でした。次々に歌の先達が亡くなられ、淋しいかぎりです。

投稿: 竹永尚義 | 2013年4月27日 (土) 17時51分

昨日投稿させていただきましたが、引揚げ船のことに触れずじまいでした。昭和22年九州・小倉市生まれですから、直接的には知りませんが、いわゆる外地から皆さんが死ぬ思い出、やっと西日本各地の港(博多港、門司港、大竹港など)に帰って来られたこと、厚生省引揚げ援護局というのがあり、またラジオでは「尋ね人の時間」というのがあったことを記憶しています。
引揚げ船には、旧海軍の生き残り艦船(例えば、藤山一郎さんが帰還した元の航空母艦「葛城」など)も使われました。よくぞ、還って来られました。
将来の日本人にこんな惨めな思いをさせたくはありません。
以上、追記させて頂きます。

投稿: 竹永尚義 | 2013年4月28日 (日) 17時08分

ラジオから流れる〔かえり船〕を初めて耳にしたのは小学校3、4年のころでしか・・・育った田舎は、玄界灘に面した人情豊かなしずかな村です。北に面した砂浜からみる玄界灘には、烏帽子灯台と小呂島(おろんしま)が重なるように目に入ります。二つの島は、7里隔てていて、手前の烏帽子灯台は岩礁で、砂浜からは7里の海上に浮かんでいます。二つの島の間を黒い煙をはきながら東にゆっくりむかっていく大きな船を何回か見かけました。年を経て、この歌を聴くにつけ、あのときの、あの船が、大陸から博多港あたりに向かう引き揚げ船だったのだと確信しまた。二木紘三先生のコメントにある玄界島も、東に面した白砂青松の海岸からすぐそこに見えます。懐かしい過去を皆様方と共有できて、この上なく満足しています。田端義夫さんのご冥福を祈りつつ指をおきます。

投稿: 亜浪沙(山口) | 2013年5月 3日 (金) 17時38分

この歌はラジオから良く流れており存じていましたが、復員船の歌と知ったのは最近です。
幼少時代ラジオからは「尋ね人」の時間があり、「昭和19年当時、ハルピンで〇〇に従事していた△△さん、弟さんが・・・・」という現代の伝言ダイヤルのような放送が連日されていました。また、興安丸という復員船が舞鶴に入港というニュースも晩御飯を食べながら良く聞いていた記憶があります。戦争・戦災の直接体験のない世代ですが、戦争の傷跡は幼少期の記憶として残っています。

投稿: タケオ | 2014年11月26日 (水) 20時41分

 戦後抑留から帰還した人々を歌った異国の丘があります。僕はその頃流行ったこの歌は恋歌とずっと思っていました。小学生でした。後年、詩を吟味してはじめて望郷の歌であることを知りました。田端は大阪駅に到着した帰還兵の上に自身のこの歌が流れていて感涙したそうです。「異国の丘」に勝る歌だと思っています。
 定年後、カラオケ初体験の級友に覚えさせました。それから歌が彼の持ち歌になりました。音痴ながら忘我の境地で毎回歌っていました。
 先年病に倒れ病臥中。回復を祈りつつ、「おい起てよ!かえり船歌わんか!」

投稿: 鈴木 英行 | 2015年4月19日 (日) 20時05分

 「蛇足」にビアスの「・・の辞書」が引用されていることに先ほど気づきました。皮肉な解釈を加えたこの本は学生のとき日本語の類似の本「日本語笑辞典」?で知りました。後年ビアスの辞書も買いましたが、読んだのは一部分であとは本自体を始末したようです。今見当たりません。
 また、私も引き揚げ家族だったのですが、あまり語ってくれず、どこに引き揚げたのかさえわかりません。今は聞くすべがないのです。

投稿: 今でも青春 | 2015年4月20日 (月) 20時39分

 満員の復員兵を乗せた、薄暗い灯に照らされた夜行列車の車内。
 みんな押し黙って列車の振動に身を任せている時、網棚に寝転んでいたバタやんが、横臥した姿勢でやおらギターを取り出し、歌い始めたのが帰り船でした。 聞き入る兵隊さんの疲れ果てた顔に涙が流れてました。
 武装警官隊という映画でした。当時、日本の警官はピストルを持たされていなかったため、敗戦国の日本人に対して横暴にふるまっていた外国人の暴力団等への有効な対抗手段として、占領軍の許可により持つことが出来るようになり、その結果、大阪駅前を不法占拠していた闇市を潰す事が出来たのです。
 その映画の一シーンでした。
今でもこの歌を聞くと、あの夜行復員列車の光景が思い出されます。
 おぉ、波また波、雲また雲よ、果てしなき大海原、
燃える希望と憧れを、、、という泉詩郎の映画説明が入っているレコードがあるのですが、これを覚えてカラオケで歌う時の前口上してやってみたいと思っているのですが、セットになっていて結構なお値段なので
そのままになっています。

投稿: たーサン | 2015年4月23日 (木) 21時21分

♪波の 背の背に 揺られて揺れて…。一世を風靡したバタやん、田端義夫さんが亡くなられて2年がたちましたね。庶民派バタやん、私の大好きな尊敬する大歌手でした。いまでもカラオケのときはこの歌を必ず歌います。なぜ私がバタやんを好きで尊敬するかというと、彼の歌にはどの歌も必ず人生の哀歓がにじみ出ているからです。それは、バタやんが苦労に苦労を重ねて大歌手の道を通りおおせたからにほかなりません。昭和28年の暮れに、まだ本土に復帰していなかった鹿児島県の奄美大島の戦災孤児福祉施設をバタやんが慰問に訪れた時、バタやんが童謡の「浜千鳥」を涙ながらに歌って彼らを慰め、以後彼らとの交流はずっと続いたということです。そんなバタやんに、国民栄誉賞をあげたかった。いつまでも心の琴線に触れる歌、バタやんの歌を歌い続けます。

投稿: 光男 | 2015年10月 4日 (日) 11時15分

「帰還船みな密封の過去を持ち」

 私の拙い川柳です。私の友人は、中国の琿春(フンチュン)という、今の北朝鮮との国境で生まれ、幼児の時に終戦になり、親に手を引かれ何とか日本に帰って来ましたが、いつか機会があったら故郷に行ってみたいと思っていました。たまたま日本語ボランティアとして、日本語を勉強している学生たちにネイティブの日本人が会話の相手をしてあげる旅行に参加しました。その時、そこの高校の校長先生は、自分の娘が現在日本へ留学をしていると言い、歓迎の意味でその町に沢山あるカラオケ屋さんに我々を招待してくれました。そこで友人は東海林太郎の「国境の町」を歌いました。そして、彼は翌日、その先生に自分の出生がこの地であり、親に連れられて日本へ必死の思いで帰ったが、この地が忘れられないと話したところ、先生は役所の人に話してくれ、自分の生家や、思い出の地を案内してくれたそうです。興奮して嬉しそうに私たちに語る彼に、我々はみんな中国人の友情にジンとなりました。我々は今、中国人の悪口を言いますが、政治と現実とは違います。あの大戦の時、置き去りに、あるいははぐれてしまった日本人の子供たちを、沢山の情け深い中国の方が我が子として育てて下さいました。それが「中国孤児」です。その後、日本への望郷の思いに駆られて、中国孤児たちは続々と日本へ帰ることを希望し、実際に帰りました。でも、育てた中国の母はいかばかり悲しかったことでしょう。この子のために日本へ帰らしてあげたいという深い母心で、「私のことは考えるな、お前は故郷の日本へ帰りなさい」と言いましたが、別れの汽車のホームで「帰らないで!」と叫んだエピソードは私の胸を打ちます。もし私がその立場なら帰りません。

 「行かないで!義母(中国母)が叫んだ風の駅」

投稿: 吟二 | 2016年12月 7日 (水) 22時43分

吟二さまの
人情味あふれるコメント
哀切なエピソードの紹介に胸が熱くなり
思わず涙が込み上げました。
繰り返し二木先生の演奏を聴いては又涙が込み上げます。

11年前 初孫に男児を授かった時に
「この子を戦場に送る世だけは来ないでください」と祈りました。(無神論者のこの私がです)

投稿: りんご | 2016年12月 8日 (木) 08時30分

昭和20年 まだ2歳にも満たない長女と妊娠中の大きなお腹を抱えて戦火を逃れ、軍人の夫を残して中国(新京)から引き上げてきた家内の母親が、TVから流れてくるバタやんの「かえり船」を聴くたびに大粒の涙を流しながら口ずさんでいたことを思い出します。
かえりの船の中でひどい下痢の為、ぐったりした我が子(私の家内)を抱きかかえ隠し持っていたビオフエルミンを飲まし続け、なんとか親子2.5人で故国の土を踏んだ時のことや、それから数年してシベリヤに抑留されていた家内の父が舞鶴に引き上げてきた時のことなどが思い出されて込み上げてきたのでしょう…。
三人姉妹の女系家族の中で、長女の婿である私に新京時代の思い出を懐かしそうに話してくれた親父とお袋のことが思い出されて「かえり船」を聴くたび思わず目頭が熱くなります。吟二様のコメントにあるような話も、おふくろから涙ながらにたくさん聞かされました。“生みの親より育ての親”とも言うじゃありませんか…。

投稿: あこがれ | 2016年12月 8日 (木) 12時52分

みなさんのこの歌に対する思いを拝読し胸が詰まってきました。管理人にまず感謝を申し上げます。

私は昭和18年満州奉天で生まれ、昭和20年2月には下の妹が奉天満州医科大学で生まれました。
父の自叙伝や生前の話によると、父は昭和20年3月末奉天からハルピンに転勤で単身赴任、3月とはいえ天地、草木すべてが凍結しているハルピンの寒さは痛く感じたそうである。
満鉄勤務の父は毎週土曜日に世界一と称された超特急アジア号で奉天の満鉄社宅に帰ってきた。

日本の戦況不利と言われる中、7月下旬に生後6か月の妹も連れて4人はソ連により近い北満のハルピンに引っ越した。

家族がハルピンで生活をはじめて10日余りの、昭和20年8月9日午前1時頃の深夜に突然 ものすごい爆発音があり隣家の人も全員 戸外に避難したそうである。
「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄してソ連軍が参戦したそうである。翌朝 満鉄に出社すると「ソ連とは日ソ不可侵条約があるから大丈夫。攻撃などしてこない」と議論している者もいたそうである。

ハルピン市内は大火災、ロシア人、朝鮮人などは無許可で職場放棄していなくなってしまう。父は書類等の焼却、塹壕堀、またソ連軍の暴虐を屈辱を避けるためモルヒネや劇薬を獣医室から持ち出し皆に分配したそうである。
8月10日頃から沢山の避難民がハルピンに逃げ込んでくる。ソ連軍は興安嶺を突破した情報も入ってくる。
満鉄社員には「職場を離れず死守すべし」という命令が下る。学校や集会所は難民で一杯になり、列車も超々満員で
混乱している。

そんな中 8月13日父に召集令状が来た。父は「決して早まるな」と何度も語気を強めて母に「青酸カリと砂糖袋」を渡したそうである。母は乳のみ児の妹を抱き終始うつむいて受け取ったそうである。2歳半の私はそばで無心に遊んでいたそうだ。

父はお世話になった方々にも黙って静かにハルピンを南下、新京に向かったそうである。新京に到着すると日本人の家だけが燃えている。暴徒の反乱各地で生起している。

8月17日の夕方 部隊長から「現地召集兵は逃走するように・・」との命令が出た。
独身者は安全な奉天、大連に南下したが、家族持ちの父は北に残っている家族を救出するためソ連軍占領下のハルピンに北上しなければならない。・・・
 
 ・・・
父たちはハルピン駅に命からがら到着したが、ハルピンはソ連軍がいたるところで威嚇発砲している。悲惨で阿鼻叫喚な市街に変わり果てた中を 父は「家族は生きている。大丈夫だ」と祈りながら家族を探しまわったそうである。

母はハルピンにきて1か月弱 知人もなく知らない街を、逃げ回ったそうである。この時の恐怖、不安、どんな行動をとったかを 母は口にしたことがない。父は知人や家族のいそうな建物を探し回るが、ソ連軍占領下なので見つからないように苦労したそうだ。

8月18日の夕方 父ははじめてたずねる馬家溝の街の入口に避難し潜んでいた私達を奇跡的に探しあてたそうである。
父は 神仏のお導きではないかと言ったりする。

昭和21年9月 コロ島から博多港へ引揚げることができた。
この間にも奇跡的な出来事が沢山あるようである。私は今生かされていることに感謝したい。
 管理人さんにこの歌写真、説明をとりあげていただきあらためて感謝します。

投稿: けん | 2016年12月 9日 (金) 11時32分

5年ほど前に、このブログにコメントした者です。戦後71年も経てば、先の大戦ですら風化してくるのですから、敗戦による外地からの復員や民間人の引揚げ時の苦労話が話題にのぼることは、まずないでしょう。せめて、わたしは、この歌を引き揚げという、未曾有の体験を思い出すよすがにしています。
 間違った国策によって多くの国民を死地に陥れ、塗炭の苦しみを与えた戦争は、もう二度と繰り返してはなりません。そのためにも、次の引揚げ時の悲劇を皆様に、是非知っていただきたいと思います。
 わたしが今、住んでいる横須賀に浦賀港という良港があります。この港は昭和21(1946)年から翌年まで引き揚げ港に指定され、期間中約56万人の復員兵や民間人の引き揚げ者を受け入れました。しかし、折角故国に還って来ても上陸できず、中には悲劇的な最期を遂げた人もいました。感染症(とくにコレラ)の流行があったからです。コレラ患者が出た船では、GHQ(連合国軍総司令部)の命令で徹底的な水際作戦がとられ、検疫所の許可が下りるまで、最低でも14日間の洋上待機が義務付けられました。指定引き揚げ港は全国で12港ありましたが、コレラ患者が一人でも出た船は、すべて浦賀港に回航されましたので、多い時には20隻以上の船がぎっしりと浦賀水道を埋めていました。この間、食糧事情の悪化や医薬品の不足、不衛生な環境、心理的な閉塞感などから暴動まで起きた船もありました。船旅の途中でなくなった方々は水葬されたケースが多かったようですが、夢にまで見た故国を眼前に亡くなった方々の想いは、いかばかりだったでしょう。無念の想いを抱いて亡くなった方々を荼毘に付した所に、現在は供養塔が建っています。約2,000人が亡くなったそうです。
この事実は横須賀市民でも知らない人が多く、そのため横須賀市は市政100周年の事業に組み入れ、8年前に「浦賀港引揚げ記念の碑」を浦賀港に建てています。なお、供養塔は場所柄一般の人の拝観はできません。

投稿: ひろし | 2016年12月 9日 (金) 15時17分

続、皆様のコメントに(ひろし様、けん様、あこがれ様)またもや胸が詰まりました。
奔放な美貌の母は置いといて、皆様のご両親は
なかにし礼の「赤い月」さながらの壮絶な体験を潜り抜けられたのですね。「流れる星は生きている」の藤原ていさんも他界されましたね。惨い戦争は絶対に繰り返してはいけませんね。

投稿: りんご | 2016年12月 9日 (金) 18時08分

けん様、ひろし様の体験談に言葉もありません。戦争末期生まれのため終戦時の新聞・ラジオ報道は記憶にないですが、バタヤン歌唱や二木先生演奏を聴くにつけ、本曲解説掲載の引揚船の写真と相まって、引揚者や復員兵の想像を絶する苦労の一端が伝わってきます。
引揚者や復員兵が国土復興の一翼を担い、朝鮮特需を経て高度経済成長へとつながっていったわけですが、1948年に東京新橋・渋谷・湾岸工場地帯・進駐軍施設を撮影した鮮明な35mmフィルム(ハリウッド映画「東京ジョー」の背景に使った映像)を視ると、特に新橋の通勤風景など、これが戦後タッタ3年後の姿かと感嘆するくらい表面的には目覚ましい復興の一端が見える映像です(ただし湾岸の空襲で鉄骨だけが焼け残った工場群は敗戦国の象徴です)。
himag.blog.jp/45957239.html(コピペ願います)

投稿: 焼酎百代 | 2016年12月 9日 (金) 20時02分

あこがれ様、けん様、ひろし様の切々と述べられるコメントを拝読し、胸が締めつけられました。

私の体験では、皆様のコメントには程遠い感がします。
私は、1940年10月に東京都、現在の三鷹市で生まれました。
当時、父が「中島飛行機」の荻窪工場に勤務していました。
第二次世界大戦の末期、1945年3月10日東京大空襲で多くの方々が犠牲となられました。
悲しいことです。

私ども家族は、父の知人を頼りに富山、群馬、三重県などへ転々と疎開をしました。
疎開先では、兄と妹を含め親子4人・・・両親は食べるものには大変苦労したそうです。
疎開先のある海岸では、米軍のB29爆撃機が無数飛んできたのを記憶しています。

やがて終戦となり、父の会社は閉鎖となり、両親の故郷である九州の佐賀に身を寄せることになりました。
父が胸を患い病弱であったため、母が日用雑貨の行商をして何とか生計を立てていたようです。

戦後71年、今思えば戦争の悲惨さ・・・二度と繰り返してはいけないとつくづく思います。

戦後間もないころから、バタヤンのこの曲を聴くたびに、やっと戦争は終わったんだ、これからは平和な国に向かうのだと励ましてくれました。

それにしても、二木先生の演奏には心に沁み込みます。
ありがとうございました。

投稿: 一章 | 2016年12月10日 (土) 10時59分

私も1940年生まれです。戦争の悲惨さを知っているのは私たちの年代あたりまででしょう。でも外地から引き揚げてきた人の事を思えば、家も家財も消失してしまっても、土地があってバラックも建てられて家族が生きていただけでもマシだったと思います。小学校2年の時、引き上げ者住宅に住んでいた級友が長く休んでいたので、お見舞いに行きました。屋根と柱と周りは板で囲ってはありましたが、仕切りのない、ひと家族当たり3畳ぐらいのところに多分10家族ぐらいが住んでいたと思います。土間は雨漏りがしたのかドロドロで、不衛生だと子供でも思いました。その子はいつも同じ服をきていましたから、着替えも無かったのでしょうね。街中なのに外で豚を飼っていました。その汚さを今でも思い出すとゾッとします。お母さんが持って行った花を空き瓶にさして喜んでくれました。食べ物ならもっと喜んでくれたでしょうが、皆、飢えていましたから・・もう2度とあの時代に戻りません様にと願うばかりです。

投稿: ハコベの花 | 2016年12月10日 (土) 12時11分

前の投稿、今、読み直したらおかしいところがありました。1家族当たり3畳ぐらいの部屋と言っても低い仕切りがあるだけですが、それが10か所ぐらい並んでいたわけです。プライバシーなどは全くなかったでしょうね。どのくらいの期間住んでいたかはわかりません。級友もいつの間にか学校で見ることがなくなりました。幸せになっていたらいいのですが、消息はわかりません。
まだ防空壕に住んでいた子もありましたが、冷えたのでしょうか、風邪を引いてあっという間に亡くなってしまいました。皆、栄養失調でしたから、結核も多かったです。風邪は死に直結していました。親の苦労に頭が下がります。

投稿: ハコベの花 | 2016年12月10日 (土) 23時15分

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