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くちなしの花

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo



作詞:水木かおる、作曲:遠藤 実、唄:渡 哲也

1 いまでは指輪も まわるほど
  やせてやつれた おまえのうわさ
  くちなしの花の 花のかおりが
  旅路のはてまで ついてくる
  くちなしの白い花
  おまえのような 花だった

2 わがままいっては 困らせた
  子どもみたいな あの日のおまえ
  くちなしの雨の 雨の別れが
  いまでも心を しめつける
  くちなしの白い花
  おまえのような 花だった

3 小さな幸せ それさえも
  捨ててしまった 自分の手から
  くちなしの花を 花を見るたび
  淋しい笑顔が また浮かぶ
  くちなしの白い花
  おまえのような 花だった


《蛇足》 昭和48年(1973)8月21日にポリドールから発売され150万枚の大ヒットとなりました。

 この歌が作られたいきさつについて、遠藤実は日本経済新聞に連載した『私の履歴書』のなかで次のように書いています。

 ……ポリドールから「渡哲也さんの曲を書いてほしい」という話がきたのは四十八年のことだった。不思議なことにタイトルだけは先に決まっていた。「『くちなしの花』です」と山口光昭ディレクターは言う。 もともと山口さんは著名人に戦没学徒の遺書を朗読してもらう企画を進めていた。その依頼に行った作家の曾野綾子さんから見せられたのが、宅島徳光(のりみつ)海軍飛行予備中尉の遺稿集『くちなしの花』。その中に恋人を思って綴った詩があった。
   「俺の言葉に泣いた奴が一人
   俺を恨んでいる奴が一人
   それでも本当に俺を忘れないでいてくれる奴が一人
   俺が死んだらくちなしの花を飾ってくれる奴が一人
   みんな併せてたった一人……」
                                    (大光社刊『遺稿くちなしの花』から)
 宅島中尉は訓練中の事故で亡くなっていたため、戦没学徒の遺書を著名人に朗読してもらったレコードには収録されなかった。しかし山ロディレクターは、二十四歳の命を空に散らせた若きパイロットの詩から受けた感動を忘れられなかった。詩からにじみ出る男の強さと優しさ。そのイメージに近い渡哲也の新曲を手がけると決まったとき、タイトルは『くちなしの花』しか思いつかなかった。
 水木かおるさんの詞を受け取った私の目が、一番の「いまでは指輪も まわるほど」のところで止まった。
 まだマーキュリー専属のころ、結婚式も挙げないまま苦労ばかりをかける妻に、いつかは指輪のひとつも買ってやれるようになりたいと思っていた。西荻窪駅前の時計店のウインドーに飾られた小さなオパールの指輪を毎日のようにじっと見詰めていた。
『からたち日記』がヒットして初めてまとまった印税が入った。それで買った指輪を大事そうにはめてほほ笑む妻の面影が、脳裏に鮮やかな映像を結んだ。水木さんに「おいしいものは一番先に食べようよ」と言って、歌い出しに持ってきた。『くちなしの花』は昭和四十八(一九七三)年に発売され大ヒットしたが、後に渡さんから「レッスンでピアノを弾きながら泣いていましたね」と言われた。確かにあのときは、辛かった日々と節子のぬくもりが胸によみがえって、鍵盤に涙がにじんだ。

 これによって、この曲が海軍飛行予備中尉・宅島徳光の遺稿集『くちなしの花』がきっかけになって作られたことが明らかになりました。

 しかし、作詞家はなぜ、戦没学徒という特殊な運命を背負った男の心情を幾分かでも感じさせるフレーズを入れなかったのでしょうか。
 この作品の制作経緯を全く知らないものとして、歌詞を読んでください。別れた女性を気遣う男の優しい気持ちは感じられても、宅島徳光という戦没学徒の運命を匂わせる何かを感じ取るのは無理でしょう。
 作詞家は宅島徳光の5行詩からインスピレーションを得て「別の詞」を書いたのです。

 宅島徳光の5行詩は「不可避の死を控えているがゆえに愛する女性に身を切る思いで別れを告げなければならなかった痛切な思い」がテーマで、主体は宅島徳光です。
 いっぽう、水木かおるの詞は、自ら身を引いて去って行った女性のことを男が歌っており、主体は女性です。
2つの詩は構成上、主体が逆になっているといってよいでしょう。

 上記引用文に、遠藤実がピアノを弾きながら泣いていたとありますが、これは自分の思い出に泣いたのであって、5行詩から感じられる宅島徳光の過酷な運命に涙したわけではありません。歌詞にはそれは表れていないからです。
 水木かおるが「おいしいものは一番先に」といった指輪のフレーズは、遠藤実の思い出話を活かしたものです。

 この曲は優れた作品であるからこそ大ヒットしたわけですが、制作のきっかけが宅島徳光の遺稿集『くちなしの花』で、作詞家がそこからモチーフを得たから、彼への鎮魂歌だとするのは無理だと思います。鎮魂歌を意図したのなら、それとわかるようなフレーズが少なくとも1か所ぐらいは入っているはずです。
 遺族がこの歌を愛息への鎮魂歌として喜んでいたというのは、また別の話です。

 これは私の想像ですが、『くちなしの花』というタイトルを決めてから、作品制作を依頼してきた山ロディレクターは、宅島徳光もしくは戦没学徒への鎮魂の思いが籠もった歌を作りたかったのではないかと思います。戦没学徒遺稿の朗読集を企画したような人ですから。

 なお、遺稿集『くちなしの花』からインスピレーションを得て作られた歌に、松山善三作詞の『一本の鉛筆』と『八月五日の夜だった』があります。これらには、穏やかながら反戦の思いを示すフレーズが入っています。
 また、宅島徳光の5行詩に美空ひばりが補筆し、船村徹が作曲した『白い勲章 』という歌もあります。鎮魂歌というなら、むしろこちらでしょう。

(二木紘三)

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コメント

 戦没学徒宅島徳光さんの詩集を知ったのは、十数年前の定年頃でした。親父も海軍に徴用され護送船団の先頭で撃沈されたので、哀惜と同時に無念さを感じます。
 くちなしの花の生まれた経緯を初めて知りました。歌の誕生した経緯も知らず歌っていました。鎮魂歌「白い勲章」を聴きました。
 何時も有難うございます。

投稿: タケ坊 | 2011年11月 2日 (水) 19時32分

宅島中尉の遺稿集「くちなしの花」、そして「くちなしの花」制作秘話、はじめて知りました。ただ山口ディレクターも水木かおるさんも、せめてタイトルだけは変えてほしかったなあと思います。

投稿: 林 一成 | 2011年11月 8日 (火) 13時23分

大好きなヒット曲にこのような“秘話”があったとは知りませんでした。
だからと言って、この曲のメリットが下がるとは思いません。作詞家のインスピレーションは自由です。まして、渡哲也さんが歌うとなると・・・
ただ、宅島徳光予備中尉の想いはしっかりと胸に秘めたいと思います。

投稿: 矢嶋武弘 | 2011年11月 9日 (水) 17時31分

こういう“秘話”に基づく歌と知りますと、視聴する感覚が違ってくるから不思議です。
“くちなしの花”の花言葉はもちろん<沈黙>ですが、同時に<秘めた愛情>という意味もあります。そうしてみますと、水木かおる氏の詩は、状況こそ違え、まさに宅島中尉の詩の根本を捉えていて、遠藤実氏がそれを表現したという風に聞こえてきます。

投稿: 飯田 | 2011年11月10日 (木) 11時45分

「くちなしの花」・私はこの曲を聴くと、なぜか胸が切なくなります。この曲が作られたいきさつや、この曲にまつわる秘話とは、全く関係のない想いが私の胸を熱くするのです。あの阪神・淡路大震災のあった半年後に結婚し、兵庫県・芦屋の狭い社宅で結婚生活をおくっていた娘に、2年後待望の女の子が生まれました。私にとっては3人目の可愛い孫でした。 でも、この子には軽度の染色体異常があり、他の子供に比べると、成長がゆっくり、おまけに癇が強く眠りも浅い! とても育て難い子供でした。 子育ての経験も無く、近くに助けてくれる知り合いもいなかった娘にとっては、毎日が苦労の連続。そんな娘を見るにみかねて、私は遠く離れた地から、時々、子育ての応援に出かけたものでした。
夕飯の準備で忙しい時間になると、きまって愚図りだす孫は、まだ首もすわらないのに、なぜか斜め抱きを嫌がりました。 そんな孫を、私は立て抱きにして、外に連れ出し、近くの公園を歩きまわったのを昨日のように思い出します。 
 そう、あの時、あの公園には、くちなしの白い花がいっぱい咲いていました。
あの甘ーい香りと、街路灯の灯りにキラキラと反射して輝いていた白い大きな花と濃い緑色の葉っぱは、今でも私の頭の中に鮮明に残っております。
 あれから14年、孫はゆっくり、ゆっくり成長し、体は相変わらず小さいけれど、今では中学2年生になりました。 住まいも東京に移り、弟も出来ました。
孫に会う度、私はひとり「くちなしの白い花、おまえのような花だった」と口ずさんでおります。

投稿: ガーネット | 2012年2月 3日 (金) 20時17分

「くちなしの花」「アカシアの雨」を作詞された水木かおるさんは奈良県高市郡明日香村阿部山のお方で、この歌が作詞された当時は、明日香村の岡郵便局の局長代理の仕事をしておられました。
昭和48年といえば高松塚古墳壁画が発見された事で日本中が明日香村に目を向けていました。
 岡郵便局は高松塚記念切手シートの発売で、連日、記念押印に明け暮れました。このあと岡郵便局も明日香郵便局と名前を変えました。
 水木かおるさんの本名は西川さんで、高松塚古墳の側の、後にキトラ古墳が発見された大字安部山にお住まいでした。
「アカシアの雨がやむとき」の歌詞にもあるアカシアは、大字安部山の入口近くに、大きな大きなアカシアの木がありました。今もあると思います。その頃西川さんのご長男が他界されたと聞いております。その悲しいやるせない気持ちが、歌詞に影響を与えると思います。西川さんも今では二上山の西方の国で、我が子と再会されて永遠の子等を思う歌を作詞されていることでしょう。

投稿: 勝川京子 | 2012年3月21日 (水) 17時13分

かなり以前に NHKの番組 『歌はこうして生まれた』( ?)で放映されませんでしたか  紺野美沙子さんがナレーターだったような記憶があります

その時、このお話を知りました
久し振りにこの歌に接していると無性に投稿したくなった次第です 

梔子は私の古里にはたくさんあり、あの香りとともに、花びらを食べていましたよ  食料のなかった時代です  懐かしいですね
 

投稿: くろかつ | 2012年6月30日 (土) 11時18分

水木かおるの孫です。
私は、祖父がどんな詩を書いていたか、全く知らずに育ちました。

「水木かおる」は、今は私の祖父とは違う方となってますが、今はその経緯を知る者は居ません…
祖父が亡くなり、祖母が亡くなり、今年の二月には祖父の二男の叔父が亡くなりました。今では身内は母親だけです。
何となく、祖父が書いた詩を見たくなり調べていると、このページに辿りつきました。
祖父の書いた詩は、今でも愛されてるんだな…と思うと、心が暖まりました。

投稿: くちなし | 2012年9月18日 (火) 23時20分

くちなしさん、こんにちは。

二松学舎大学附属図書館に「水木かおるコーナー」があるのはご存知ですか?
「旧蔵書、約12,000冊(雑誌・レコード等を含む)を、
 令夫人奥村睦子氏より、本学へ、寄贈・・
 2005(平成17)年4月、附属図書館(柏)内に開設・・」
 と書いてありますよ。
http://www.nishogakusha-u.ac.jp/tosyokan.htm

Wikipedia に“主な作品”が書いてありますが、
“データーベース検索”の“著作者名”に名前を入れると、
登録してある 581件 載っていますよ。
http://www.minc.gr.jp/index.html
“奥村聖二”でもありますが、同じ方でしょうかね。
及川三千代(愛と死のかたみ・夕日の波止場)
叶修二(すてきな奴)好きな歌です。

“作詞者名”で検索できます。
http://www.uta-net.com/ 
http://www.utamap.com/

曲名、歌手名、歌詞等が分かれば、動画サイト等で歌が聴けますね。

・・・・・・・・・・・・
管理人さん、
「白い勲章」動画サイトは消えて変わっています。
「八月五日の夜だった」「白い勲章」
以前アドレスを入れていましたが、
「うたごえ喫茶 “のび”」に3曲とも載っています。

投稿: なち | 2012年9月19日 (水) 12時35分

 わたしはくちなしの花の香も嫌いではありませんが、汚れを知らない、純白無垢の花に多く魅せられます。艶がある濃緑の葉とのコントラストは、花ことばの「清浄」、「清潔」を具現しているように感じられます。ところが、この純白無垢の色合いは長くはもちません。数日後には見るも無残な姿になります。美から醜への変化が極端で、あたかも絶世の美女が、一炊の間に老残をさらけ出すように見えて、人生の儚さを感じるのです。この花をこうした思いで見るのは、わたしだけでしょうか。

勝川京子 様
 コメントを拝見して、いくつか疑問が生じましたので、お答えいただければ幸甚です。
①水木かおるの本名は「西川」とありますが、ネットで検索しますと、「奥村聖二」となっています。いつから姓名が変わったのでしょうか。
②かれは昭和33年にポリドールの専属作詞家になっていますが、「アカシヤの雨がやむとき」や、「霧笛が俺を呼んでいる」(いずれも昭和35年)などのヒット曲を出した後も、岡郵便局に在職していたのでしょうか。
 以上の2点です。よろしくお願いいたします。 

投稿: ひろし | 2012年9月19日 (水) 14時58分

私のブログを検索していて、目次の中からこのご質問を見つけました。私の記憶では、「水木かおる」というペンネームは次々と受け継がれていくと聞いております。現在もこのペンネームは使われているようです。何代目の「水木かおる」か調べるのも関心事です。隣町の地元の郵便局に転勤され、局長代理を定年まで勤められて、郵政事業で叙勲も受けられました。
 その後も作詞は続けられており、奈良県高市郡高取町の文化協会の役員などもされました。
 
 明日香村制定(昭和46年)三ヶ村合併(飛鳥・坂合・高市村)十五周年記念と記された「明日香村民の歌」作詞 西川正夜詩、作曲 八洲秀章、の楽譜があります。これは昭和49年にl出版されています。私達は現在も文化祭で歌っています。
 1.飛ぶ鳥の 明日香の里は さわやかに 
  みどりに映えて 風かおる
  古代の遺跡 そのままに
  山めぐらして 雲青し 
  あゝうるわしき わが明日香
 2.万葉の 明日香の里に おきふして
  こころに通う 飛鳥川
  文化のながれ 遠くより
  水清らかに はてしなく 
  あゝたくましき わが明日香
 3.神名備の 明日香の里の よろこびは
  天地のめぐみ わくところ
  歴史のすがた 保ちつつ
  希望(ゆめ)おゝらかに ひらけゆく
  あゝゆたかなる わが明日香

また明日香村のために「明日香詩情」「明日香慕情」「明日香盆唄」も作詞されています。
 

投稿: 勝川京子 | 2012年12月23日 (日) 11時30分

上記の投稿後にポリドールに勤務されていた水木かおる氏がおられたことを知りました。
 私が書きました西川正夜詩氏は隣町の郵便局から主人の母が局長をしていた明日香郵便局へ転勤してこられて定年まで勤められました。上記の書き込みは勤務局が反対になっています。
 今私が思いますには、ポリドールの水木かおる氏の傘下には無名の作詞家が歌詞を提供していたのではと言う推測です。私は「アカシアの雨が止む時」についての思いを投稿しましたので、他の歌に付いては知りません。
 

 

投稿: 勝川京子 | 2012年12月23日 (日) 13時15分

勝川京子 様
 わたしの勝手な質問にお答えくださり、ありがとうございます。
 あなた様からのお答えで解ったことは、次のようにまとめてよろしいでしょうか。
①「水木かおる」名の作詞家は代々受け継がれて、複数いるようである。(このことは、本ブログの「くちなし」様のコメントからも理解できます。)
②『アカシアの雨がやむとき』の作詞家「水木かおる」は、定年まで岡(明日香)郵便局に勤めた、西村正夜であることは事実である。
③しかし、『アカシアの雨……』がどういう経緯で、本名奥村聖二の「水木かおる」名になっているのかは不明である。
④おそらく、無名の作詞家が、複数の「水木かおる」に歌詞を提供しているのではないか。③は、そのことと関係しているのかも知れない。
⑤本歌を含め、「水木かおる」作詞による歌曲のなかで、『アカシアの雨……』以外に、「西川正夜」によるものがあるか、否かは不明である。
 

 お忙しいなか、お手数をおかけしました。重ねて御礼申します。
 こうした例は、音楽界に限らず、さまざな分野に見られるようですが、これこそが、持ちつ持たれつのファジーな人間関係を得意とする、日本社会特有のものなのかも知れません。しかし、何か空しい気もしますね。

投稿: ひろし | 2012年12月24日 (月) 15時06分

くちなし様
 西川正夜詩作詞・桑野靖子作曲の「明日香詩情」という明日香歌曲があります。
 後の世までも伝えたい歌だと思いますので、歌詞を掲載させて戴きます。

 「明日香詩情」
そのかみの 水の流れは いまもなお 美しく
ああ 清らかに 万葉の 歌の調べを ひびかせる 
瀬々の玉藻の 飛鳥川

名もゆかし 明日香風ふく ふるさとは
みかんの花の 咲くところ
ああ さわやかなその素顔 飛鳥采女を 想わせる 
白いうなじの ひとゆえに

甘樫の 丘にのれば 神名備の 山並み青く 絵のすがた 
ああ ほのかにも 夢さそい 飛鳥古京を 偲ばせる 
石の舞台も 謎かけて

明日香路は いまも昔に つづく道 さびたるものの 声がする 
ああ つややかなうつし世に 何を嘆くか はじけるか
大和三山(みやま)に雲が湧く


投稿: 勝川京子 | 2012年12月26日 (水) 01時56分

 かつて、カラオケバーでこの歌はよく聞きました。
おぼえやすい歌ですが、まあ、好きでもきらいでもない歌で、歌ったことなしです。
 しかし、遅ればせながら、今日はじめてこの<蛇足>を読み、すくなからぬ感銘がありました。
 曽野綾子経由で、宅島中尉の遺稿を見た山口光昭ディレクター。
そして作詞を手がけた水木かおる氏。さらに作曲をした遠藤実氏。
三者三様の受け止め方で『くちなしの花』ができあがっていく過程が、なんとも不思議です。
 ひとりの感銘や感動は、当然ながら他人にまっすぐには伝わらない。
受けとめる人それぞれの屈折率で歪められ、感動の内容が取捨選択される。
山口氏の思いとは違ったものになったでしょうが、それはしかたのないことです。
 
 なぜ水木かおる氏は、戦没学徒の思いを歌詞の上に全く残さなかったのでしょうか。
 私も、戦没学徒の思いを歌詞のどこかに伝えてほしかったと思いました。
しかし、世の中には『きけわだつみの声』を読むだけで、軍国主義の美化だと叫ぶ人がいます。
実際、私の友人にもいます。彼らにとって,『きけわだつみの声』は禁書あつかいで、きちんと読んだこともない。
天皇陛下万歳といっているからアウトだそうです。
 連中は、曽野綾子と聞いただけで「あの右翼が~」とまちがいなく言います。とほほ。
 
 ある時、私がカラオケで、『吉田松陰』(尾形大作)を歌った。「なにももたない 若者たちの 無欲無限の 赤心が 日本の明日をつくるのだ~」の歌詞に因縁をつけられた。「赤心とは天皇への忠誠心だ。それを讃えるのか」と。
「あのね、赤心って、うそいつわりのない、まごころのことですよ」と言いましたが、わかってくれない。
さらに「あのね、伊勢の名物、赤福餅も、赤心慶福、すなわち、お客さんへのまごころをつくし、しあわせをよろこぶという商人の心得を説いたものですよ。天皇は関係ないんですよ」と説明しても、通じなかった、というより、聞く耳を持っていなかった。とほほ。 
自称左翼、自称反軍国主義者に底の浅い人も多い。自分の不勉強を恥じることなく、無知の強さをウリにしている感じ。たまりませんわ。
 世の中には、そんな人もたくさんいる。だから水木氏は、演歌の歌詞に戦没学徒めいたものを入れることを野暮と考えたのでしょうか。
 まあ秘話として伝えられる方が、「知る人ぞ知る話」としてよいと思います。

 最後に・・、宅島中尉は事故死であったと二木先生は明確に書いています。事故死は、戦死とは名誉の上で劣るわけです。兵士の死に等級をつける軍隊の不合理を告発する姿勢を感じました。

投稿: 屋形船 | 2014年9月11日 (木) 15時47分

宅島徳光氏は昭和15年7月、18歳の日記に、母君も好きだったくちなしの花への思いを書いているようです。
 …
 くちなしの花が萎れている。沈思の少女のような格好で。今日も黄昏だ。黄金の光とばらの香りが漂い始める。
  *
 ましろき花 青きうてな
 香ぐわしきかおり深く秘め
 吾が枕辺を一人なぐさむ
 灯消ゆれば青き夜の
 つめたく光る星見えて
 ゆれる葉かげにまたたきぬ

愛息をなくした父君、徳次郎氏の悲しみを忖度して、谷村新司の紺青は作られたのか、と思ったことがあります。
徳光氏が24歳で殉職する前に、運命として断念した恋歌が遺っていますね。
 吾が恋し 多摩の川べの 八重桜 色はにほえど 実のならずして

投稿: 樹美 | 2014年9月11日 (木) 22時28分

西川正夜さんが作詞された「明日香詩情」に曲を作った桑野靖子の息子です。確か中学生だったと思いますが、毎日この曲を聞いてました。向井さんとおっしゃる方だったと思いますが、テノール歌手の方が歌っておられて、いい曲です。(今でも覚えております)。この曲は奈良を描いた映画でも挿入歌となっていたと聞きました。西川さん(水木さん)にはお会いしたことがありませんが、非常に優しい方だと聞いております。
私事ですが、月に10本程度のアコースティックライブをしておりますが、いつかはこのような曲を作りたいと思ってます。。

投稿: 桑野 聡 | 2014年10月15日 (水) 11時03分

くちなし様
勝川京子様

わたくしの父も郵便局に勤めていていました。
父が亡くなった後に兄から『このはがきの差出人は、アカシアの雨がやむとき を作った人や』と『西川正夜詩』さんからのはがきを渡されました。
昭和42年8月29日で奈良・高取局の消印が押されています。表の下段には郵政の研修所でご一緒だったこととご挨拶文が、裏面には『海の讃歌』(樋口翅 作曲・谷田信子 歌)という曲の詞が書かれています。
また、『この思い出の歌は、昭和14、5、14 東京神田、一ツ橋共立講堂において、玉川音楽院主催 第7回「音楽と舞踊の会」で発表した作品集の一つである。
(西川正夜詩)』と書かれています。
わたくしも『アカシアの雨がやむとき』をネットで検索し、水木かおる、本名奥村・・とあるので違うのかなと思っていました。

投稿: みっき | 2015年1月25日 (日) 21時32分

ご無沙汰しています。
「アカシアの雨〜」「くちなしの花」以外、2年前に引越しの為に祖父母の遺品整理をしましたが、何も分かりませんでした(もしかしたら、母はもう少し知ってるかもしれませんが)。ただ、遺品の中に「水木かおる」のハンコ、新聞記事のスクラップを見つけた時に「やっぱり、本当なんだなぁ…」と思いました。祖父に直接聞けない今となっては分かりませんが、時々カラオケで履歴をみて歌ってる方がいると、本当に嬉しい気持ちになります。

二年前に、遺品整理をした時に祖父が書いた短い詩を読んで涙が止まりませんでした。私は「水木かおる」でなく、本名の「西川正義(正夜詩)」しか知りませんが、とても温かで優しくて大好きな祖父でした。
世間での「水木かおる」は、もう祖父ではないかもしれませんが、ずっとずっと愛される詩である事がこのブログを拝見させていただいて感じる事が出来たので、とても幸せです。

ありがとうございます。

投稿: くちなし | 2015年8月 2日 (日) 10時04分

64歳の私はいつの間にか「いまでは指輪もまわるほどやせてやつれたおまえのうわさ」を「いまでは指輪もまわるほどやせてやつれたおまえの指さ」と間違って歌ってきました。先日久しぶりにカラオケで歌い記憶間違いを知りました。指がまわるほどにやつれてしまったお前のうわさを聞いたよという意味なんですね。自分の読解力のなさを再認識した次第です。とほほ。

投稿: SK2 | 2016年10月 5日 (水) 11時40分

この歌の誕生秘話、「くちなしの花」しか思いつかなかったディレクターの話、心に留まるものがあります。今までは、ただ「ああ、あの歌」ということで終わってましたが、なるほどそういうことでしたか。また、作詞者の孫という方のメッセージも読み、なんとなくブログを書きたくなりました。

投稿: 今でも青春 | 2016年10月29日 (土) 21時02分

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