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2012年7月24日 (火)

みなと

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:旗野十一郎、作曲:吉田信太

1 空も港も夜ははれて
    月に数ます船のかげ
    艀(はしけ)の通いにぎやかに
    寄せくる波も黄金(こがね)なり

2 林なしたる檣(ほばしら)
    花と見まごう船旗章(ふなじるし)
    積荷の歌のにぎわいて
    港はいつも春なれや

《蛇足》 明治33年(1900)2月22日発行の小山作之助編『新選國民唱歌(壱)』(共益商社樂器店)に、『湊』というタイトルで収録されたのが初出。書名はのちに『新國民唱歌』と改題されました。
 収録曲の多くは、音楽取調掛→東京音楽学校制作で、西洋音階による音楽を広く国民になじませるのが目的でした。

 のちに出版されたいくつかの唱歌集では、タイトルが『みなと』となっていたり、『港』となっていたりします。
 つまり、『みなと』『湊』『港』 という3種のタイトルがあるわけですが、JASRACのデータベースでは『みなと』を正題としているので、ここではそれに従います。

 『新選國民唱歌(壱)』には、目次と歌詞のところに「作歌 旗野十一郎、作曲 吉田信太」と記載されています。
 旗野十一郎の十一郎は、「たりひこ」とする説もありますが、早大古典籍総合データベースに拠って「とりひこ」とします。

 旗野十一郎
(嘉永4〈1851〉~明治41〈1908〉)は、越後(現・新潟県)出身の国文学者で、陸軍参謀本部で戦史の編纂官を務めたあと、明治25年(1892)から東京音楽学校(現・東京芸大)で韻学と国文学を教えました。旗野は『みなと』のほか、『里祭』『川中島』『旅順口の戦』などの唱歌も作詞しています。

 また吉田信太
(明治3〈1870〉~ 昭和28〈1953〉)は、仙台県(現・宮城県)出身で、東京音楽学校に進み、国文学を旗野十一郎、作曲を小山作之助に学びました。『みなと』のほか、『とんぼ』『鉄道唱歌-北陸編』『牛と馬』などの作品があります。

 『みなと』の曲ができた経緯について、雑誌『教育音楽』(音楽之友社)の昭和30年(1955)7月号学習院大学教授(当時)の小出浩平が、次のように述べています。

 「小山作之助先生が生徒たちを集めて、(旗野十一郎の)歌詞に曲をつけなさいといわれたとき、その場で30分ぐらいで作ったのだそうだ。小山さんが見て回って、これはいいといって選ばれたのだそうだ」  

 吉田は、明治35年(1902)に開設された広島高等師範学校の助教授に就任し、あわせて同時期に開設された広島県立広島高等女学校の教員も務めました

 広島港に面した宇品中央公園に『みなと』の歌碑があり、その横に「昭和48年(1973)に全日本海員組合の宮城伸三氏が『みなと』の作詞・作曲者名と舞台が宇品港であることを確認した」旨の説明碑が建っています。
 しかし、
旗野十一郎が宇品港を舞台として作詞したことを示す文献はありませんし、吉田信太が広島に来たのは作曲したあとのことです。ですから、この碑文は、宮城氏による再発見か再確認に推測が混じったもの、といったほうが適切でしょう。

 それではなぜ「宇品港モデル説」が広まったのでしょうか。
 東京音楽学校出身の渡辺弥蔵
(明治12〈1879〉~昭和53〈1978〉)は、福島師範時代の恩師である吉田の指示で、明治42年(1909)広島県師範学校の教諭として赴任しました。この人は、広島フィルハーモニー合唱団を結成するなど、98歳で没するまで広島県の音楽振興に多大の貢献をしました。
 この人が、昭和40年
(1965)ごろ、広島のNHKテレビに出演した際に、『みなと』のモデルは宇品港だ、と発言したのが広まるきっかけになったようです。発言の詳細はわかりませんが、地元住民へのリップサービスだったかもしれません。

 とはいえ、この歌が作られた前後の広島の状況を見ると、広島市民が『みなと』の舞台は宇品港だと思っても無理はありません。

 瀬戸内海の1船泊港だった宇品港が明治22年(1889)に大幅に整備され、日清戦争が始まると、戦争指揮のため広島に大本営が設けられました。その後も、義和団事変や日露戦争などで、広島は日本軍の大陸進出(侵略というべきか)の拠点となり、宇品港から多くの軍需物資や兵員が運ばれました。
 輸送船や
軍艦に物資や兵員を運ぶ多数のはしけに加えて、漁船や一般の輸送を担う船も行き交って、『みなと』の歌詞さながらに賑わっていたに違いありません。
 そうしたことを考えると、広島市民が『みなと』の舞台は宇品港
(広島港)だと思っていてもいっこうに差し支えないと思います。

 なお、昭和19年(1944)に、2番の歌詞が難しいという意見が教科書編纂委員から出たので、編纂委員の1人だった林柳波が新しい歌詞をつけました(下記)。小学生には歌詞が難しいこと、および港の光景が帆船中心から汽船中心に変わっていたことなどがその理由のようです。
 下記がそれですが、
結局2番も元歌のまま歌われるようなりました。 

    2 響く汽笛に夜は明けて
     いつか消えゆく空の星
     大漁の歌も勇ましく
     朝日を浴びて船帰る

(二木紘三)

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コメント

懐かしいですね、昭和28年当時も小学校3年の教科書に出ていたかと思います。
今見れば何と難しい詩でしょう。「月に数ます」の意味が解らぬまま歌っていました。

投稿: Bianca | 2012年7月18日 (水) 08時03分

小学校6年当時(昭和26年)、クラスのリーダーが振り付けして全員で踊った懐かしい曲ですが、唱歌などの著作権について伝聞に推論を重ねたものですがコメントします。

文部省唱歌など、国が関与して学校教育の場を通じて普及させた曲は、国が詩や曲を買い上げるなどしてさらに合議による編集の手が加えられたとされており、国の買い上げ時点で「事後一切口出しをさせない」という形で著作人格権までも意図的に奪ってしまったようです。

投稿: たしろ | 2012年7月18日 (水) 17時02分

昭和25年(5年生)当時新任の女の先生が教えてくださいました。私はBiancaさんと同様に「月に数ます」のところは「月に霞まず」と思っていたので、今でもメロディが流れると「ツキニカスマズ~」と歌ってしまいます。

その先生とも2年前に偶然連絡がとれ85歳になられていました。

投稿: 旧太郎 | 2012年7月20日 (金) 05時46分

ソラモミナトモ ヨハハレテ
ツキ二カズマスフネノカズ 、、、、

一行目の意味は分かっていた。でもBiancaさんと旧太郎さんのような明確な意識は2行目から無かったと思います。小学生にとって「数を増す」と言うような言い辛い表現はチョット困る…。「数を増す」の後に「船の数」と再びカズですから、私は全く分っていなかったと思いますね。

しかし昭和28年頃の音楽教科書に載っていて、いつも口から無意識に出てきた‘只の文句‘でした。もう一つ灯台守もそうでした「…凍れる月影 空に冴えて 真冬の荒波 寄する小島…」。みなとの近くのページにあったような気がするのです。

みなとは歌知らずで音痴者の原点かもしれません。こんなに懐かしい気持ちになれ、ふたつぎさん、こころから感謝申し上げます。

投稿: TangoMinato | 2012年7月20日 (金) 08時41分

子どもの頃、近所に「かずます」(漢字不明)というの名のおじさんがいて、みんなはカズマッサと呼んでいました。港にも同じ名前の漁師がいて、その人の船が「かずます船」だと思っていました。バカでしたねえ。(^-^;)

投稿: 二木紘三 | 2012年7月20日 (金) 11時06分

懐かしい唱歌『みなと』をアップしていただきありがとうございます。
 この歌の舞台が宇品港であること、それも日清戦争に日本が勝利した後の、活況を呈していた宇品港の光景を詠んだものであることを初めて知りました。 
 わたしが記憶していたのは戦後の新しい歌詞でしたので(2番の元歌は知りませんでした)、この歌の舞台は賑やかな都会の港と、それと対照的な田舎の漁港のありふれた情景を詠ったものとばかり思っていました。
 それにしても、2番の元歌から軍国主義調の匂いを嗅ぎ付けることは難しいように思いますが、終戦直後の混乱した教育行政(例の墨塗り教科書に代表される)がこんなところにも現れているのですね。過剰な自己検閲の結果のような気もします。もっとも、この歌も、他の懐かしい文部省唱歌と同様、今では一切教科書には載っていないようですが。
 どうでもいいことですが、この唱歌の題は戦前は『みなと』、戦後に『港』となったんでしょうか。

投稿: ひろし | 2012年7月20日 (金) 11時50分

ひろし様
「みなと」と「港」が混用されていますが、JASRACのデータベースでは「みなと」が正題となっているので、それに従いました。

>この唱歌の題は戦前は『みなと』、戦後に『港』となったんでしょうか。

投稿: 管理人 | 2012年7月20日 (金) 15時13分

二木様
 早速ご回答くださりありがとうございます。『みなと』と『港』の違いは、小学校で使う、学年配当の漢字と関係があるのでは?という気がしますが、如何でしょうか。現在「港」という漢字は3年生で出て来ます。戦前や戦後は何年生で出て来たのか分かりませんから、憶測でしか言えませんが。わたしが習った、この歌の題がどちらだったか、まったく記憶にありません。
 先のコメントで「どうでもいいこと」などと言いながら、とんだお手数をおかけして申し訳ありませんでした。

投稿: ひろし | 2012年7月20日 (金) 23時02分

二木さんが丹念詳細に追跡をされた。まな板の上に、獲れたばかりの魚が躍っているようです。感銘を受けました。

「東京音楽学校の授業中、先生の小山作之助が『歌詞に曲をつけなさい』と生徒たちに30分の時間を与えた。即効作品で選ばれたのは生徒の一人・吉田信太の作曲だった」…これを小出浩平がリアルに紹介したと言う経緯なんですね。音楽史の醍醐味…と言う想像してみます。

即効だから、小山が綺麗にならしたなんてことはなかったのでしょうか。そして小山はこうした授業のために、前もって同僚である文学者の旗野に詩を依頼していた? それとも詩集のような形で既にあり、そこから後に幾つかの曲も生れたのかも知れませんね。

十一郎を「とりひこ」と読むのは国文学者の面目躍如でしょうか。無知かつ音痴な私には、名をはじめとする固有名詞の漢字読みは何でもあり、好き勝手に思えます^^;

月に数ます船の数、と思ったのですが、漢字「港」と題してYouTube上でフォレスタが歌う台詞は「月に数ます船の影」です。初めの1行を除き、私の歌詞の覚えは極めて曖昧なので、粗相をお詫び致します。

ふたつぎさんの文献追跡によると、みなとは「湊」とされた時もある由。偶然ですが私の先祖屋号も屋を付ける「湊」の方です。港と湊とは雰囲気と言うか味わいを違えると思いますが、「みなと」ならば万人向きで良いように感じられます。

投稿: TangoMinato | 2012年7月25日 (水) 09時00分

ここに登場する港は宇品港が一般的であるようですが、今日手元に届いた高校の同窓会報(現横浜緑ヶ丘高校、旧横浜三中)によると、作曲者の吉田信太さんは三中の音楽教師であり、ご子息も三中の18期卒業生とのことである。
その関係で6月22日(日)に港の見える丘公園の「霧笛橋前広場にて作曲碑の除幕式が行われ、演奏されたそうである。中18期、19期の同窓生を中心に完成したとのこと。
私には良くわかりませんが、当時の横浜港をイメージしていたのかもしれません。
私は勝手に横浜の港と思って歌っていました。

投稿: 栗さん | 2014年7月26日 (土) 15時50分

解説とても興味深く拝見しました。
私が昭和43年に小学校3年生の時この歌を習った際には既に廊下には「みなと」の歌詞が掲示されていましたし、音楽の教諭は「この歌は宇品のみなとを歌ったものです。」と教えてくれました。
めがね橋からの風景との説が有力なようですが、私の住む。向宇品江村岡からの夜明けの月景色は歌詞そのままです。明治初頭に帆船を沖合に停泊させ,宇品の港へ艀で荷物を運んだ様子が歌われ,私はガキながら感心したものです。
廊下の歌詞に書かれた「詞 旗野十一郎」のジュウイチロウはどれがタリヒコなんだろうなと眺めていました。

陸軍の仕事をしていた作者が明治22年から25年の間に陸軍の最先端にあった宇品の地を訪れて情緒ある船宿に泊まった夜明けにこの景色を目の当たりにしたのかもしれませんね。

投稿: 江村岡 | 2019年3月 6日 (水) 08時52分

 小学校低学年の時に習いました。ただただ懐かしい歌です。メロデイは覚えていましたが、歌詞は、1番の「空も港も夜ははれて 月に数ます」と2番の「大漁の旗も勇ましく」だけを記憶していました。
ということは、2番は林郷波氏の改訂版を習っていたということです(<蛇足>の説明による)。

 素人の分限を省みず、言わせていただければ(ま、いつものことですが)林氏の歌詞には、二点ほど難があるように思います。
 ひとつは「大漁旗」です。ええっ、ここは漁港でもあったのか!貿易港(荷物の積み込み、積み下ろしの港)と漁港は併置できるのか共存できるのか?異種船舶の接触事故が起こりそうだけど・・。
 もう一つは「(響く汽笛に)夜は明けて」の歌詞は、1番の「(空も港も)夜ははれて」と類似の重複した表現です。そのために1番の「空も港も夜ははれて」という天地一体となった東雲の風景の雄大さが、二番煎じの表現のくり返しによって、効果が半減するように思います。

 旗野十一郎先生の2番の歌詞にも疑問点があります。
「積荷の歌のにぎわいて」です。
明治時代は、積荷労働などに従事する人々が、歌を歌いながら仕事をしていたのでしょうか。「かあちゃんのためなら えんやこーら」という風に。「にぎわい」を「歌のようなにぎわい」と例えたのでしょうか。それも無理があるような・・

小学校の頃は素直に歌っていたのに。今では「なんで?ちょっとおかしいな?」という虫がすみついているようです。

投稿: 越村 南 | 2019年3月 6日 (水) 17時30分

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