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夕焼け小焼け

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:中村雨紅、作曲:草川 信

1 夕焼け小焼けで 日が暮れて
  山のお寺の 鐘が鳴る
  お手手つないで みな帰ろう
  烏(からす)といっしょに 帰りましょう

2 子供が帰った あとからは
  円(まる)い大きな お月さま
  小鳥が夢を 見るころは
  空にはきらきら 金の星

Yuuyake

《蛇足》 中村雨紅(うこう)が大正8年(1919)に作った詞に草川信が大正12年(1923)に曲をつけて、この名作童謡が生まれました。

 誕生以来、郷愁を誘う詞とメロディが多くの人に愛唱され、今日でも全国各地で、夕刻、子どもたちに帰宅を促すチャイムなどとして流されています。

 詞は、雨紅が生地・東京府南多摩郡恩方
(おんがた)(現在は東京都八王子市)の情景をイメージして書いたものといわれます。
 「山のお寺」がどこかについて、一時期、下恩方の観栖寺
(かんせいじ)、西寺方の寳生寺(ほうしょうじ)、上恩方の興慶寺(こうけいじ)が"本家争い"を演じましたが、雨紅は各寺の梵鐘や記念碑に歌を刻んでおり、どの寺も特別扱いしていません。

 もう数十年前になりますが、私は恩方の酒造家に案内されて『夕焼け小焼け』の舞台だというお寺を訪ねたことがあります。しかし、残念ながらそこが3寺のうちのどこだったかは覚えていません。振る舞い酒でかなり酔っていたせいかもしれません。

 上の絵は2013年の年賀状用にPhotoshopで描いたものです。

(写真は観栖寺の鐘楼)

(二木紘三)

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コメント

 この歌は、小さい頃から聞きなれ、体にしみこんでいるような歌で、私にとって評価以前の歌です。
 幼い頃、小鳥は本当に夢を見るのだろうかと、まじめに考えたこともありました。大きくなってからは「夕焼け」という日本語の美しさに気づいて、あらためて、茜色の空が暮れていくのをしみじみ眺めたこともありました。言葉があるから、美があるという萩原朔太郎の『詩の原理』を読んだ頃のことでした。
 お寺の鐘、夕焼け、お月さま、金の星、つまり、静かな音とかすかな光が、日本の里をたくみにイメージさせるように思います。
 二木先生の絵も夢のある年賀状で、いい年が迎えられそうです。カラスがちょっと悪そうなところがいいですね。

投稿: 浮舟 | 2013年1月 1日 (火) 00時15分

25年2月の「県人会のつどい」で合唱する関係で調べたら、小焼けと言う表現は赤い鳥小鳥、仲良し小よしのように邪魔にならず子供の耳に鮮やかに聞こえてくる挿入句とのことらしいです。

投稿: 海道 | 2013年1月 2日 (水) 14時49分

これ、歌えます。歌を歌えない輩ですら`歌え`知っているから、原風景になっているのでしょう。生まれた海沿い村の浄土宗の‘お寺の鐘‘と、日本海の夕焼けと、稲木(イナキ)にとまるカラスと、、聴くうちに心がうずいてきました。

‘夕焼け小焼け‘は天候物理現象に宗教背景、文章作法上など様々な解釈がされるようです。例えば英語彙への移し替えは難しい。the evening glow & the after reflection of the sunset などピント来ない。むしろ朝夕Twilightに見られる黄や橙の空の輝きが‘夕焼け小焼け‘抒情に近い感じを私は受けます。

昨年暮れにZの文字が見える‘夕焼け‘か‘小焼け‘を目撃して冬も素晴らしいんだと感動しました。ありゃ―、Dämmerungやと後で聞きましたが、、、これも‘夕焼け小焼け‘に及びませんね。

投稿: TangoMinato | 2013年1月10日 (木) 08時36分

作詞家中村雨紅の故郷恩方(現在は八王子市)には、いくつものお寺があって、『夕焼け小焼け』の碑を建てるについては、“鐘の音”騒動ともいうべき現象があったそうです。すなわち、雨紅の聞いた“鐘の音”は、どこのお寺の鐘であったか、という元祖争いです。騒動の元でもある雨紅にとってはありがた迷惑だったに違いありません。しかし、そこは温厚の雨紅のことですから、「あちこちから聞こえて来た」と、うまく納得させたのでしょう。恩方周辺の3つもの寺に『夕焼け小焼け』の碑が建立している理由が、これで分かります。作曲家草川信の故郷長野でも、同じようなことがあったそうです。
 
 雨紅の第二の故郷でもある神奈川県厚木市にも、『夕焼け小焼け』の碑があります。その碑は、東丹沢の山麓に抱かれて、ひっそりとある(あったというべきか)七沢温泉の奥まった旅館元湯玉川館の庭に建てられています。
 雨紅は厚木実科女学校(のち県立厚木高等女学校、現厚木東高校)に奉職したのを機に、厚木に居を移し、故郷恩方に似た“夕焼けの里”を求めて、しばしばこの七沢温泉などを訪れていたようです。なぜ旅館の庭に碑があるのか。かれの教え子に、のちに元湯玉川館の女主人となる方がいて、そのご縁によるとのことです。こちらは美しき師弟愛の結晶と言ってもいいでしょう。

 今では、この歌を知らない日本人はいないくらい、人口に膾炙されています。雨紅が探し求めた、故郷恩方に見た“夕焼けの里”は、ひとりびとりの日本人の心の原風景であり、心のふるさとでもあるように思います。
 
 

投稿: ひろし | 2013年1月21日 (月) 16時13分

子供の頃、この歌に出てくる夕焼けの風景は頭の中で想像するしかありませんでした。私の二階の部屋から見る夕焼けは戦後の焼け跡にバタバタと建てられた安普請のトタン屋根や瓦屋根を照らしながら沈む夕日でした。人間の日常の幸、不幸を象徴するような物悲しい風景でした。結婚して郊外に住むようになって初めて山寺のある丘陵地に沈む夕日を見ました。田んぼの突き当りの山の向こうに沈む夕日の大きさに今でも見とれます。けれどもやっぱり私の夕日の原風景は喧騒な街並みの向こうに沈む夕日です。今はビルの立ち並ぶ街になっていますが、人間の姿が消えてしまっています。車は人間を消してしまいました。もう一度戻ってみたい私の部屋の懐かしい窓へ。

投稿: ハコベの花 | 2013年1月21日 (月) 22時06分

大正半ばに作詞されたとは思えないほど易しい日本語で綴られているから今日まで歌い継がれているのではないのでしょうか。私の通った国民学校は八王子市へ学童疎開しましたので、この歌への親しみは一入です。
 市内の某料亭では、七月には源氏蛍を、八月には平家蛍を、全館消灯して庭に放って鑑賞に供して好評だとか、その蛍は八王子の山間部で飼育しているそうです。八王子は都下では面積人口ともに最大の市ですから、NHKテレビでも、東京の天気予報は都心部と八王子の2地点を表示しますが、八王子は定めしコンクリ砂漠の都心とは違った空気に包まれているのでしょう。ミシュランでクローズアップされた高尾山も確か市内だった筈。

投稿: 槃特の呟き | 2013年1月21日 (月) 23時13分

童心に帰ることのできる懐かしい歌です。現在の子供たちに、もっと童謡を歌ってほしいですね。歌って踊っても悪くないけど、今までの伝統文化を若干軽視する風潮があるかも・・・。

投稿: 三瓶 | 2013年1月26日 (土) 09時58分

良いサイトを見つけました。私は観栖寺のそばに住んでいます。ペンネームは「夕焼け小焼け」でよくブログを書いています。近辺は良いところですよ。

投稿: 夕焼け小焼け | 2013年2月 5日 (火) 03時40分

 恩方に友がいた。
 
 きだみのる、もいた。”仏”仕込みのヨーグルトの作り方を教わった。牛乳瓶のキャップをとり、縁側に置く。発酵し分離する。凝固したものがヨーグルト。若者が集まって沈黙はいけない。
 訥々とした語り。野生人、アウトロー。

 子供時分に馴染み親しんだうた,20歳すぎの想い出、晩年になって、こんな思いを語れる、”うた”って、すごいなぁ、ありがたいなぁ。

投稿: Mr.kanagoe | 2013年3月23日 (土) 13時59分

偶然拝見しましたが、以下ご参考まで。

>もう数十年前になりますが、私は恩方の酒造家に案内されて『夕焼け小焼け』の舞台だというお寺を訪ねたことがあります。

この酒屋は今は廃業しましたが中島酒造だと思います。また、そのお寺は観栖寺だと思います。

中島家は代々観栖寺の檀家総代を務めており(現在は距離を置いていますが)、この本家争いについては、昭和50年代に中村雨紅氏の奥さんが読売新聞の取材の答えています。(あまり知られていませんが・・・)

その記事では奥さんはお寺の具体的な名前は出していませんが、雨紅氏のそれまでの発言・行動、また観栖寺の過去帳から検証した結果、新聞では観栖寺と位置付けています。

なお、中村氏が聞いたお寺の鐘を鳴らしたのは新聞記事によると私の曽祖父です。

また、歌の内容はいかにものどかで平和なイメージですが、実際はあの鐘は観栖寺の当時の住職の息子さんが亡くなり、葬儀の際の鐘を中村氏がそうとは知らずに聞いて作詞したとのことです。

イメージが崩れてしまうかもしれませんが、興味がおありのようですので、事実としてお知らせいたします。

投稿: 恩方在住者 | 2013年4月26日 (金) 23時49分

私は昭和21年生まれの高齢おじちゃんですが、私が若い頃
住んでいた浅川近くの堤防を友達と散策していた時、正面にある高尾山の山あいから赤く染まった夕焼け空をよく眺めていたことを思い出します。その後私の父親が恩方に住んでいた中村雨紅先生直筆の夕焼け小焼けの詩を譲ってもらいました。そせ以後私の部屋に飾ってあり、私の宝物です。

投稿: チャーリー君 | 2015年12月 7日 (月) 17時46分

この歌詞はすっかり中村雨紅先生から独立して国民共有の財産になっている感がします  したがって、『山のお寺』は作詞家の故郷のお寺ではなくても……全国各地にある数万のお寺みんなに共通する思いですね(特に山間部のお寺)  子供たちも、戦前、戦後、平成の子供たちみんなのことと思いたい
いい歌ですよ   

投稿: くろかつ | 2016年4月11日 (月) 07時59分

今年3月28日午後に、八王子市恩方出身の、夕焼け小焼けの作詞者中村雨紅先生のお墓にお参りに行きました。何時か行きたいと思っていましたが、いろいろ理由があって行けませんでした。恩方の山間にある陣馬街道をしたすら車で探しながらながらやっとたどりつきました。のどかな山間の木々に囲まれた白い先生のお墓が右手に見え安心しました。お墓の左に夕焼け小焼けの詩がむかえてくれました。
先生の生家高井名が記されていました。合掌・・・・・
先生直筆の夕焼け小焼けの詩を我が父よりもらい、私の宝物にしています。今後、毎年四季にお参りに行きたいと思います。正に夕焼け小焼けは八王子の日本の永久の宝物です。

投稿: フジチャン | 2017年3月29日 (水) 20時52分

子供のころから大好きな歌です。
私が幼いころ父が小さな家を建てました。3畳の間が二つと6畳の間、それに台所がある平屋です。私は母の実家から月一度くらいの頻度で父の家に遊びに行きました。父の家の近くには川があり、川に沿って遠くの山裾まで田んぼが広がっていました。家からは何もさえぎるものなく田んぼが一面に見渡せました。山のお寺もおててつないで帰る仲良しもいなかったのですが、この曲からこの山と田んぼの見晴らしが私の原風景として思い浮かべられます。

投稿: yoko | 2017年3月30日 (木) 00時04分

先日、母の卒寿のお祝いのため九州の実家に帰省していた時のことです(いま、関西に住んでいます)

夕方、まだ畑や田んぼが残る家の近くを懐かしく思い、ひとり歩いていた時・・・・・・突然あの懐かしい感覚・・
・・感情・・・がふわ~~っとやってきました。

その感覚とは「幸せ・安心・歓び」をひとまとめにしたような何とも言えない幸せに満ちあふれているような感覚でした。そしてそれは子供のころ、ちょうどこの夕暮れ時に、いっぱい遊んで母の待つ家に走って帰る時の感覚でした。

もう何十年も忘れていましたが、今も残っていました・・・・・決して裕福ではなかったけれどそんな時にもあった条件なしの「幸せ感」。このメロディと共に蘇ってきました。

投稿: MIKO | 2017年3月30日 (木) 19時07分

前回のコメントに続けて(父方の)祖母についてコメントしたくなりました。少し長い私事になりますがお許しください。

父と祖母は土蔵の住まい(”田舎の冬”でコメントしました)から出て新居に移りました。私は父の家にはたまにしか遊びに行きませんのでした。その時はいつも御馳走でした。御馳走と言っても”カレー”か”すき焼き”です。祖母は「今日は何にする?」と確かめて買い物に出かけました。

穏やかで優しくて私は叱られたことがありません。祖母は食事は皆が済ませた後、一人で食べていたようです。お風呂も皆の後で、小さな家なのに私の気づかない時に入っていました。6畳の部屋に来客があるときも皆の輪に入って楽しむことはありませんでした。自分の意見を主張する人ではありませんでした。襖で隔てられた隣の3畳の間に一人で静かにしていました。

来客が夜遅く帰った時、襖を開けるとおばあちゃんは寝ていました。寝布団は3畳間の押し入れにありますのでおばあちゃんをまたいで6畳の間に私と父の寝布団を運びました。

父が死んでおばあちゃんは一人残されました。私の母がデイケアに通いました。そのことに私には一抹の不安がよぎりました。月日は流れある日おばあちゃんから私に一通の葉書が届きました。これまでおばあちゃんが文字を読み書きしている姿を私は見たことがありません。達筆でした。母のことも少し書いてありました。私は察しました。おばあちゃんが”助けて”と叫んでいることを・・・。しかし私には何もできませんでした。

さらに数年経ちました。仕事に追われていた毎日でおばあちゃんに会うこともありませんでした。ある日電話がありました。おばあちゃんが入院している、と・・・。面会するとおばあちゃんの姿は老齢で変わり果てていました。しかし私を認知することができ、「アメリカに行ったそうだね」と話しかけてくれました。前日に訪れた私の弟の子供(4歳)についても覚えていて、「男の子なのに女の子のような髪型でおかしかった」と話しました。しかし表情はすでに宙を漂っているように思えました。

お葬式を父の小さな家で行いました。地元のお寺の住職であるご高齢お坊さんは子供の頃の思い出を話されました。
「おばあちゃんがお嫁入された日のことをよく覚えております。それはそれはお祭りのような賑わいでした。お祝いの宴は5日間続きました・・・」、と。
ある方が、私に挨拶に来られました。「私の祖父が車(人力車)を引いていました」、と・・・。祖母が嫁いだ家には人力車の車庫があったそうです。
ある方が、「孫が遊びに来るから嬉しい、とおばあちゃんはおっしゃっていましたよ」、と話されました。
(”美しい十代”でもこのことをコメントしました。)

今ではもう父の家も裏の土蔵もなく家の前の一面の田んぼも住宅地に代わっています。

この優しくて美しい曲は過ぎ去った子供の頃の日々を思い浮かべさせてくれますね。願わくば、人生の最後はこの歌を歌って、また聞きながら終えたいものです。お寺の鐘も聞きたいなぁ。そして小鳥のように眠って、きらきら光るお星さまになれるとよいですね。

投稿: yoko | 2017年4月 2日 (日) 15時17分

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