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信濃山国――俳諧寺一茶

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:石原広文、補作詞:草井吟南、作曲:町田 等、唄:岡本敦郎

1 信濃山国 今年も暮れて
  山が荷になる 旅烏
  捨てた故里 未練はないが
  尾花なぜ泣く なぜとめる
  これが浮世か おらが句は
  「行くな雁 住めばどっちも
  秋の暮れ」

2 信濃山国 山ふかぶかと
  笠に木の葉が 舞いかかる
  行こか戻ろか 時雨(しぐれ)の果ては
  おらが小鬢(こびん)も 霜を置く
  泣いて笑うて おらが句は
  「月花(つきはな)や 四十九年の
  むだ歩き」

3 信濃山国 烏が啼いて
  日暮れは悲し 里恋し
  儘(まま)よ一夜は 御堂で寝るか
  月よ今夜も ともに寝ろ
  旅路の果ての おらが句は
  「寒月や 明日の我が躯(く)
  途(みち)知れず」

《蛇足》 昭和30(1955)11月に放送されたNHKラジオ歌謡です。副題として『俳諧寺一茶』がついていることからわかるように、俳人・小林一茶を歌った作品です。
 俳諧寺はいくつもある一茶の俳号の1つで、俳諧寺単独で使ったり、俳諧寺一茶坊と書いたりすることもありました。

  私はこの歌を、高校時代、1歳年上の友人から教わりました。友人は聡明と噂されていた姉から教わったとのことでした。
 彼は大学時代、あるできごとをきっかけに酒に浸るようになりました。私とのつきあいが切れたあと、アルコール中毒が進んだようで、人生半ばにして泥酔して用水路に落ちて亡くなりました。
 警察の調べでは事故死という判定だったそうですが、私は20数年かけた緩慢な自殺ではなかったかと思っています。

  人にもよると思いますが、10代後半から20代始めごろには、「漂泊」に憧れる一時期があります。私も、ヘッセ『漂泊の魂―クヌルプ』や亀井勝一郎『病める魂と漂泊者の歌』などを読んで、漂泊の暮らしがしたいと思っていました。
 そこで、信州の寂寂
(さびさび)とした晩秋の風景やうらぶれた漂泊者の心情を感じさせるこの歌が、とても好きになりました。

  しかし、若者の漂泊への思い入れは、放浪生活の厳しさ・辛さを知らない観念的な憧れにすぎません。
 一茶の師・二六庵竹阿が九州へ旅したとき、長崎の20代の俳人に供をせがまれ、やむをえずしばらく随行させたことがあります。
 豊前・小倉まで来たとき、漂泊を甘美のものと思いなしている若者を次のように諭した、と竹阿自ら書き残しています。すなわち――

 「今の俳諧者は、私も含めて真の風雅ではなく、風雅を売る人にすぎない。家に帰って父母に仕え、家業に励み、余力のあるときに風雅を楽しむがよい」

  このブログを始めたとき、青春を束の間共有した友人への追憶と、漂泊に憧れた一時期の記憶から、ぜひともこの歌を入れたいと思いました。しかし、楽譜が見つかりませんでした。いくつもの古書検索サイトや楽譜販売サイトで検索したり、音楽出版社に電話したりしても見つからなかったのです。
 結局この歌は信州ローカルの、それも一時期だけの歌だったのだと諦めていました。

  ところが、『思い出のラジオ歌謡選曲集』(全音楽譜出版社)第3集を買ってみると、楽譜はありませんでしたが、巻末の『ラジオ歌謡 曲名一覧』にこの歌の曲名と作詞者・作曲者が載っているではありませんか。
 さっそくOPACで検索してみると、東京芸大・千葉大・国立音大の各図書館と国立国会図書館に楽譜があることがわかりました。そこで、東京芸大の図書館でこの曲の楽譜をコピーして、なんとかmp3を作ることができました。

  一茶のことを少しばかり書きましょう。
 "和せず、同せず"の私がいうのもなんですが、信州人にはほんとうに狷介
(けんかい)な人物が多い。
 狷介は、辞書には「心が狭く、自分の考えに固執し、人の考えを素直に聞こうとしないこと」とあり、類語として狭量  頑固  片意地 などが挙げられています。

  しかし、狷介が一般的な狭量  頑固  片意地と違うのは、狷介な人には自ら恃(たの)むところが厚い人、いいかえれば自信家が多いという点です。周囲の人たちがその才知を十分認めていても、それが自認するレベルより低いと感じると、狭量・頑固・片意地に、場合によっては攻撃的になるのです。
 おもしろい人物だとか才能のある人だと思っても、あまりオトモダチにはなりたくないタイプです。

  歴史上の信州人で狷介な人物というと、まず頭に浮かぶのは化政期の小林一茶と幕末の佐久間象山(しょうざん、ぞうざんとも)でしょう。

  一茶は、北国街道の宿場町・柏原(現・長野県信濃町柏原〈かしわばら〉の生まれで、本名は小林弥太郎。小林家は農業と伝馬役(公用貨客への人馬を提供をする役目)を営み、生活レベルは中の上といったところ。

  3歳(数え、以下同)で生母を失い、8歳で継母を迎えますが、その継母との折り合いがきわめて悪かったため、心配した父親は弥太郎が15歳のとき、江戸に出します。
 私は、江戸では商家かどこかに奉公したのだろうと思っていましたが、そうしたようすはありません。同郷の医師や書家などを頼ったようですが、詳細は不明です。

  29歳のとき初めて帰郷した際のようすを綴った『寛政三年紀行』の冒頭に、「西にうろたへ東にさすら(ニスイ+甲)ひ、一所不住の狂人有。旦(あした)には上総(かずさ)に喰(くら)ひ、夕には武蔵にやどりて、しら波のよるべをしらず、たつ淡(あわ)のきえやすき物から、名を一茶坊といふ」と記しています。
 この一文から、一茶という俳号の由来がわかるとともに、さすらいの生活を続けていたことが読み取れます。

  帰郷の翌年には京、大坂、中国、四国、九州まで足を伸ばします。この西日本さすらいの旅は、足かけ7年にも及びました。
 この費用や生活費をどう工面したか。これを知るには江戸時代の俳人の生活を知る必要があります。

  俳人には遊俳、業俳、雑俳などの種類がありました。遊俳は武士、僧侶、商人、地主などたつきの道をもっていて、閑暇に俳諧を楽しむ者で、業俳は専業の俳諧師、雑俳は前句付けや冠付けなどの懸賞俳諧に応募する投句者です。

  江戸時代はどの文芸でも、有名な戯作者などを除いて、印税も原稿料もないのが普通でしたので、業俳はパトロンをもつか、弟子や信奉者からの"上納金"に頼るしかありませんでした。

  一茶はかなり早い時期に俳句を始め、いろいろな句会にせっせと顔を出したようです。そうしているうちに知り合いも増え、遊俳などからのカンパもあったでしょう。
 句作の力量が認められるにつれて、懸賞俳諧に評点を付ける点者の役割が回ってきたり、各地の句会に指導に呼ばれたりするようになりました。さらに江戸蔵前の札差で俳人の夏目成美
(せいび)などのパトロンもつきましたが、定期収入があるわけではないので、生活はぎりぎりでした。

  帰郷時や西遊時に幾ばくかの餞別はもらっても、それで費用を全部まかなえるわけではありません。その結果、旅先での宿泊は木賃宿がほとんどで、うまくいけば師匠・二六庵竹阿や俳諧仲間の知り合いの家に泊めてもらうこともできました。
 そうした当てもない場合は、廃屋や野良の小屋、寺の床下などで野宿することになります。

  当然、身なりを整える費用はありませんから、外見はみじめなさまになります。42歳のときの句に、「秋の風乞食は我を見くらぶる」があります。乞食が一茶を見てどっちがみすぼらしいか考えているようだ、といった内容です。

  享和元年(1801)、39歳のとき、父が病気と聞いて帰省して看病に当たり、1か月後に父が亡くなると、継母および異母弟と遺産相続争いを始めます。
 一茶が家を離れているあいだ、老いた夫・父を支えて財産を守り増やしたのは継母と異母弟なのですが、一茶は、自分は長子なのだから、全財産を相続する権利があると主張します。
 一茶は江戸に戻ってからもこの主張をし続け、それは12年間にも及びました。根負けした2人は、財産の半分以上を一茶に譲ることで手を打ちます。

  一茶のこのしつこさは、いったい何に由来するのでしょう。1つには、江戸出府以降20数年に及ぶかつかつの生活が辛くなってきたからではないでしょうか。
 20代までは若さで乗り越えられた貧苦も、しだいに耐えがたくなり、さらに老いが迫ってきたらどうしようかと不安が募ってきたはずです。

  また、わずかな報酬や支援を得るために、世辞の1つもいい、ほかの人の意見に迎合しなくてはならないようなことも、一茶の性格では耐えがたいことだったにちがいありません。
 生活に困らない状態で自分の思うような句作に励みたい――こうした気持ちが遺産争いを続ける執念の基底にあったのではないでしょうか。

  遺産争いにけりがついたところで一茶は帰郷し、借家に腰を落ち着けます。一茶は50歳になっていました。52歳で初めて結婚しますが、その後のたがが外れたような交合欲は有名な話です。
 自作の出版のため、何度か江戸と往復したほかは、周辺の俳句愛好家たちの指導に専念、宗匠としても名声は次第に高まっていきます。
 晩年は種々不運が重なり、あまり幸福ではない状態で64年半の生涯を終えました。

  上の歌詞で、1番の「山が荷になる」がわかりにくいかもしれません。これは、信州はどこにも山があるので、歩いている人を前から見ると、まるで山を背負っているようだ、という意味。

  各聯に一茶の句が入っています。
 1番の「行くな雁住めばどっちも秋の暮れ」は、57歳のときの句文集『おらが春』所載。ただし、初出の『一番日記』
(文政2年〈1819〉)では、「どっちも」でなく「どっこも」となっています。

  2番の「月花(つきはな)や四十九年のむだ歩き」は、『七番日記』(文化8年〈1811〉)所載。
 月花には(1)月の光、(2)月と花に代表される風雅な物事、という2つの意味があり、どちらととるかで句のイメージが多少違ってきます。
 (1)なら、月を見上げながら自分の人生を振り返っているというイメージになり、(2)なら、風雅を追い続けてきた自分の人生はいったい何だったんだろう、という述懐になります。

  3番の「寒月や明日の我が躯(く)は途(みち)知れず」の出典がわかりません。一茶についての最大の文献である『一茶全集』(信濃毎日新聞社刊)第1~第5巻を調べましたが、見つかりませんでした。
 いちおう一茶の作品であるとして、解釈してみます。

 字義通りに読むと、明日は私はどの道を歩いていくのだろう、ですが、一茶が属した葛飾派は掛詞や縁語をよく使ったので、躯は句と掛けてあると見ます。
 そうすると、私の俳風は今後どんな方向に向かうのだろう、という意味が隠されていることになります。

 最後に作詞者・作曲者について。
 作曲者の町田等は、明治36
(1903)長野県生まれで、東京音楽学校(現・東京芸大音楽学部)卒業後、岩手県師範学校、長野高等女学校、長野女子専門学校、大阪府立生野高等女学校、信州大学教育学部などで音楽を教えました。島崎藤村の『初恋』や『千曲川旅情の歌』、北原白秋の『落葉松』などに曲をつけています。
 作詞者の石原広文は、明治42
(1909)岡山市生まれの詩人で作家。東洋大学専門部東洋文学科卒。詩集『ぼへみあん・ぷろふゐる』があるほか、戦後は『小説倶楽部』『婦人倶楽部』『平凡』や児童雑誌に小説・物語を執筆しました。

(上の写真は東京都足立区・炎天寺境内にある小林一茶像)

(二木紘三)

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コメント

珍しい歌を有難う御座います。全く知りませんでした。一茶の句には凡人の気付かぬところに目を向けた句が多いですが、この生活が関係しているのでしょうか。

投稿: 海道 | 2013年6月26日 (水) 09時37分

「信濃山国」、題名も不思議なこの歌は、ぼんやりとメロディーを聞けば、股旅物のようですが、歌詞の最後は、各番、一茶の俳句でしめています。実に珍しい御詠歌のような歌で、内容は漂泊者、求道者の歌です。
いい歌ですが、少数派の歌でしょうね。「真理は少数にあり」のあの少数です。
それにしても、味のある歌ではありませんか。「山が荷になる」というフレーズがたまらなくいいですね。

信州は、神戸育ちの私にとっては、はるかに遠い国です。
私の信州人のイメージは、「自分中心の頑固者」「人のいうことを聞かない」「非社交的」「議論好き」「研究熱心」といったところです。それは、読書によって、佐久間象山、真田昌幸の二人から抽出されたものです。
佐久間象山は、自ら「わしのような人間は国家の財産だ」と言いきるほどのうぬぼれやでしたが、おっちょこちょいのご愛嬌とうけとれば、クリアできる人だったかも知れません。しかし、あまり会いたくないタイプですね。そして敵は多く、暗殺を自らよびよせる人物ともいえるでしょう。
真田昌幸は、家康に「日本一の横着者」と言わせたほどの傲慢な男でした。私は彼の信奉者でありまして、昌幸がもう少し長生きをして、大坂の役で指揮をとっていたら、西軍はあんな負け方はしなかったと思っています。(歴史に、「もしも」はナンセンスとわかりつつも、妄想してしまいます)

<蛇足>の中で二木先生が、「和して、同ぜず」をもじって「和せず、同ぜず」の私、と謙遜されていますが、この言いまわしは、言い得て妙ですね。
考えてみれば、和というのは、具体的に確かめることはできず、ある種の思い込みであり、幻想であり、フイクションであると言えます。和は、軽々に口にする言葉ではないかもしれません。二木先生の思いとは違うかもしれませんが、なかなか余韻の残る言葉でした。

もうひとつ、最近、二木先生の<蛇足>の文章が、(前回あたりから)作風が変わってきたように思いますが、私の思いすごしでしょうか。つまり自分の思い入れとか、感情とかを、今まで以上にはっきり打ち出していて、なんというか(失礼ながら)若やいだような印象を受けます。もちろん、新たな二木先生の魅力として、歓迎するものです。


投稿: 越村 南 | 2013年6月28日 (金) 00時46分

一茶とはだいぶ人柄も俳風も違いますが、山頭火や放哉も似たような放浪生活を送りましたね。

投稿: YAMANA | 2013年6月28日 (金) 01時37分

信濃・柏原、一茶――郷愁をそそります。わたしが出た小学校(今は、もう在りません)では、これに野尻湖を加えて、5年生の遠足(修学旅行)の定番でした。わたしが生まれ、育ったところから隣県の柏原へは、当時は汽車で3時間くらいかかりましたから、あまり汽車に乗った経験のない、わたしたちにとっては大旅行でした。
 柏原(今は、黒姫)で下車し、まず一茶が晩年住んだ家、といっても土蔵を見学して、その粗末ななりに拍子抜けさせられた記憶があります。もっとも母屋は柏原大火で焼失したのですが。
 その頃の、わたしたちが一茶に抱いていたイメージの多くは、「一茶さん」(中條雅二作詞、中野二郎作曲)の童謡から得ていたので、雀と遊ぶ、こころ優しいおじさんというイメージが定着していたように思います。後年、井上ひさしや、藤沢周平の「一茶」を読んで、イメージと実在の人物像のギャップに驚かされましたが、一茶のような、当時、かなり名が売れていた俳諧師ですら、確たるたつきの道がなければ、「風雅・恬淡」とは全く相容れない「狷介」な性格にもなってしまったということでしょうか。風雅の道を窮めるのも容易ではなかったのですね。
 
 

投稿: ひろし | 2013年7月 1日 (月) 17時42分

<蛇足>に、一茶の、遺産相続をめぐる義母との確執と、最終的に勝利をおさめた話が紹介されています。
いやあ面白いですね。世の中きれいごとじゃあ済まないという意味で、です。
私自身、若い時分は、俳句に限らず、芸術を目指しながら金銭に細かい人間は、
いやな奴だなと思っていましたが、そうじゃあないですね。
追いつめれたら泥棒もやらなきゃならんわけで、五七五どころじゃあない。
最近の文書(土地証文)の発見ですが、『徒然草』の作者吉田兼好も、京都山科の小野庄に1町歩の田んぼを持ち、
小作をさせて収入を得ていたことがわかっりました。その際、免税措置にせよとか、契約条件も細かくつけています。
世捨て人、風流の人は、浮浪者とはちがうということですね。
とはいうものの程度問題ですね。強欲のレベルまでいくと興ざめです。
日蓮上人や良寛さんも、信者や知人に「味噌送れ、米送れ、銭送れ」と催促していますが、そういうのはほほえましい。
一方、山頭火や尾崎放哉は、ほとんど乞食ですね。そういう人により強く惹かれるのは何故でしょうか。
そんなことを考えながら、「信濃山国」を聴いております。

投稿: 浮舟 | 2013年7月 2日 (火) 01時40分

とても素晴らしい曲でした。残念なことに、ネット上で伴奏しか探せませんでした。

投稿: 任鵬 | 2013年7月13日 (土) 18時59分

二度目の投稿です、
秋の発表会で「信濃山国」ハーモニカで吹きたくて、上野の芸大図書館で楽譜のコピーをしてきました。
何回もこの曲を聴き、マスターしようと思っています。
芭蕉、一茶共、俳諧が大好きです。
有難うございました。
荒ちゃんより。

投稿: 荒沢 信一 | 2013年8月30日 (金) 08時30分

 一茶の句に「秋の夜の 独身長屋 むつまじき」というのがあります。
むつまじきですから、女といちゃついている気配があるということです。のぞき見というか、聞き耳をたてるというか、正直な感覚を感じます。
それにくらべ、芭蕉の「秋深し 隣は何を する人ぞ」はなにかスマートです。けっしてのぞき見なんかしません。しかし、ここを芭蕉の弱点のように言う人がいます。「なんとなく高みに立って見下ろしている感じ」、というのです。
現代俳句の大家・金子兜太です。面白い見方をする人だなあと感心しました。

 私は、俳人一茶のどの辺が偉大なのか、浅学にしてつい最近までさっぱりわからなかった。
「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」
「痩蛙 まけるな一茶 是に有り」
まるで子供が作ったような句で、素人が、現在の句会などで発表したら失笑を買いそうな感じすらします。
しかし金子は「(芭蕉のように)いくら言葉の工夫を重ねても、ありのままのことばにはかなわない」と一茶を高く評価する。
さすがに、口が達者、もとい説得力ある解説に、ひきずられそうになります。
そういえば芭蕉の「旅に病んで 夢は枯のを かけめぐる」も理想主義者の面目をみる思いもしながらも、キザな辞世の句ではないかと思えてくる。
結局は「心の句」か、「暮らしの句」かのちがいなんでしょうが、金子の挑発的なことばにゆさぶられて、一茶像がおおいに変わりました。「信濃山国」を知って、一茶についてどうも気になっていたので、すこし勉強しました。この歌のおかげです。

投稿: 秋山 小兵衛 | 2013年10月23日 (水) 00時18分

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