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長崎物語

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:梅木三郎、作曲:佐々木俊一、唄:由利あけみ

1 赤い花なら 曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
  阿蘭陀(オランダ)屋敷に 雨が降る
  濡れて泣いてる じゃがたらお春
  未練な出船の ああ 鐘が鳴る
  ララ鐘が鳴る

2 うつす月影 彩玻璃(いろガラス)
  父は異国の 人ゆえに
  金の十字架 心に抱けど
  乙女盛りを ああ 曇り勝ち
  ララ曇り勝ち

3 坂の長崎 甃路(いしだたみ)
  南京煙火(なんきんはなび)に 日が暮れて
  そぞろ恋しい 出島の沖に
  母の精霊(しょうろ)が ああ 流れ行く
  ララ流れ行く

4 平戸離れて 幾百里
  つづる文さえ つくものを
  なぜに帰らぬ じゃがたらお春
  サンタ・クルスの ああ 鐘が鳴る
  ララ鐘が鳴る

《蛇足》 昭和14年(1939)10月、ビクターから発売。江戸時代の伝説のハーフ、ジャガタラお春をテーマとした歌です。
 発売から1年ほどはあまり売れませんでしたが、その後軽音楽の桜井潔のステージ演奏が評判になり、それがレコードの元歌に逆流して空前のヒットとなりました。

 この歌の大ヒットもあって、昭和30年代ぐらいまでは、多くの人がジャガタラお春の名前は知っていました。しかし、それ以降に生まれた世代では、彼女のことを知らない人が大部分ではないでしょうか。

 寛永(1624~1645)に入ると、徳川幕府はキリシタン弾圧を強化するとともに、外国との交流を急激に狭め始めました。
 寛永13年
(1636)には、ポルトガル人をポルトガルの植民地・マカオへ追放、さらに寛永16年(1639)には、オランダ商館員を除くオランダ人をオランダの植民地・ジャワ島のバタヴィアに追放しました。いずれも、日本人女性との間にできた子や孫が含まれていました。

 バタヴィアは今日のジャカルタのことで、当時の現地民たちはジャガタラと呼んでいました。ジャガタラはこの地の古称ジャヤカルタあるいはジャカトラから来たとする説が有力です。ここに追放されたり、それ以前から来住していた日本人たちも、ジャガタラと呼んでいました。

 バタヴィアには、世界で最初の株式会社として知られるオランダ東インド会社の商館がありました。株式会社といっても私企業ではなく、商業活動のほか、条約の締結権や軍隊の交戦権、植民地経営権などを与えられた準国家機関でした。
 そのため、後述するようなさまざまな記録文書は、オランダのデン・ハーグにある国立文書館
(Nationaal Archief)に所蔵されており、今も見ることができます。

 追放された日本人は帰国すると死罪で、日本との文通も禁止されていました。
 文通については明暦元年
(1655)ごろから緩和されましたが、それ以前でも、追放された日本人妻や混血児たちに同情的なオランダの商館員や船員、出島のオランダ人との直接接触が可能だった通詞(つうじ)や遊女などを介して密かに文通が行われていました。
 彼らが日本の親戚や友人に送った手紙は、ジャガタラ文と呼ばれております。

 ジャガタラ文のなかでも、イタリア人を父とする少女・お春が、追放から数年後に友人おたつに書いたとされる手紙がとくに有名です。お春は追放時14歳または15歳(後述)、おたつはお春より2歳上で、長崎・筑後町の反物屋の娘でした。

 その手紙は、望郷の思いを切々と訴える哀切なもので、戦前に衆議院議員・貴族院議員を歴任した竹越與三郎は、「『じゃがたら姫』の『じゃがたら文』を読みて泣かざるは人に非ずと申すべし」と述べているほどです。
 また、長崎市の聖福寺(しょうふくじ)に建つお春の記念碑の裏面には、歌人・吉井勇の次の歌が刻まれています。吉井勇については、『ゴンドラの歌』で少し触れています。

 長崎の鶯は鳴く今もなほじゃがたら文のお春あはれと

  お春を悲劇の美少女とするイメージは、江戸中期の天文暦学者・西川如見(じょけん)が、著書『長崎夜話草(ながさきよばなしぐさ)』にお春の手紙として掲載したものから生じたようです。

 『長崎夜話草』は、西川如見が長崎の歴史、異国人・異国船など海外事情、孝子・忠夫・貞婦、長崎土産などについて語った話を、子の正休(まさやす)が筆録・編集したもので、5巻から成り、享保5年(1720)に京都の版元から出版されました。
 お春の手紙は、その第1巻のうち『紅毛人子孫遠流
(おんる)之事ジャガタラ文』の項に載っています。

 この項では、 「(追放された)11人のなかに紅毛人を父にもつ長崎生まれのとても美しい14歳の少女がいて、彼女もたびたび便りをよこした。書道や読書を心得たその少女が3千余里も彼方の島で綴った美しい文がとても珍しく、またとても哀れに思ったのでここに書き留める」と掲載の趣旨を述べ、それに続いて手紙の全文を記しています。

 なお、『長崎夜話草』のコピーは『富山大学学術情報リボジトリ』にありますので、手紙の全文を読みたい方は、そちらをご覧ください。変体仮名で書かれているので、読むのに苦労するかもしれませんが。下記は手紙の冒頭部分です。

Jagatarabumi

 手紙は3000字もある長文で、

千はやふる神無月とよ、うらめしの嵐や、まだ宵月の空もうちくもり、 時雨とともにふる里を出でしその日をかぎりとなし、又ふみも見じあし原の、浦路はるかにへだてれど、かよう心のおくれねば、

 おもひやるやまとの道乃はるけきも
   ゆめにまぢかくこえぬ夜ぞなき

 で始まり、次の言葉で結ばれています。

我身事、今までは異国乃衣しゃう一日もいたし申さず候、いこくにながされ候とも、何しにあらえびすとは、なれ申べしや、あら日本恋しや、ゆかしや、見たや見たや見たや
                                じゃがたら
                                     はるより

  日本
    おたつ様まゐる
 和歌は、「日本への道はとても遠いのに、眠るとすぐそこあるかのような夢を見ない夜はありません」という意味。そのあとは、次のような趣旨の言葉が続きます。

 「昼も夜もふるさとのことは一時も忘れられません。こちらは何もかも日本と違っていて、ふるさとと同じものといえば、月日の光だけです。昼は日の出る方向を眺め、夜は月の出る方角を眺め、あふれる涙に袖の乾くいとまもありません」

 「神様、仏様が憐れんで、たとえ1日、2日でいいから、もう一度日本に帰りたい」

 「この世で会えなかったら、次の世で会いましょう。別れたときあなたにもらった歌を書いた短冊とおしどりの羽は、肌身離さずに持っていますから、それを印にして次の世で会いましょう」

 「私は今まで異国の衣装を一日も着たことがありません。異国に流されたからといって、どうして南蛮人になれましょうか。ああ、日本が恋しい、懐かしい、見たくて見たくてどうしようもありません」

 確かに悲しく切ない手紙です。

 しかし、『長崎夜話草』発表後のかなり早いうちから、お春のじゃがたら文は偽作との疑いがもたれました。
 江戸後期の蘭学者・大槻玄沢
(おおつき・げんたく)は、「疑うべきもなき西川の偽文」と断じ、その弟子の山村才助も、偽作の疑いが強いと書いています。

 その理由は、第一に『伊勢物語』などから古歌を引用するなど、14,5歳までしか日本にいなかった少女としては、教養がありすぎ、また文章が流麗すぎるということ。
 第二に、後年お春がおじの峯七兵衛や峯次郎右衛門に送った手紙は、内容が具体的であるのに対して、西川如見が引用した手紙は極めて情緒的であること。

 また、明治以降の研究によって、西川如見の説明やお春の手紙の内容に、関連史料との食い違いが何か所かあることが判明しています。

 まず追放時のお春の年齢ですが、西川如見は14歳と書いています。しかし、お春が住んでいた筑後町の乙名(おとな)が作った追放者の名簿には、15歳と記されています。
 乙名は長崎奉行の下で町内の行政事務を扱った町役人で、上記の記録は今も残っています。

 もう1つは追放者たちを乗せたオランダ船・ブレダ号出帆の日の天気の食い違い。ブレダ号は長崎でお春たち11人を乗せたあと、平戸に向かい、そこで21人の追放者(合計32人)を乗せます。
 平戸の『オランダ商館長フランソワ・カロンの日記』には、ブレダ号出帆の日
(1639年〈寛永16〉10月31日)の天気は快晴と記されていますが、上記お春の手紙では嵐で時雨が降っていたとなっています。
 もっとも長崎出港の日は嵐だったが、平戸出港の日は快晴だったということなら、食い違っているとはいえません。
 長崎出港の日付と天気については、資料が見つかりませんでした。これについては、折を見て『平戸商館長の日記』などを調べてみるつもりですが、ご存知のかたはご教示ください。

 なお、カロンは宗教的理由によりフランスからオランダに亡命した人物。オランダ東インド会社に就職し、最終的にはバタヴィア商務総監に昇りつめ、のちにフランス東インド会社の長官にまでなりました。
 バタヴィアでは、お春夫婦と親しく交流したようです。

 それでは、西川如見によるまったくのでっち上げかというと、これにも疑問が残ります。ジャガタラに追放された者たちは、多かれ少なかれ望郷の思いを募らせていたはず。
 たとえば、お春たちと同じ船で追放された木田コショロは、平戸の祖母
(うば)にジャワ更紗(さらさ)で作られた袱紗(ふくさ)を送った際、その白地部分に次のような文章を書いています。

 うば様まゐる
 日本こいしやかりそめにたちいでて又とかへらぬふるさとゝおもへば心もこころならずなみだにむせびめもくれゆめうつゝともさらにわきまえず候共あまりのことに茶つゝみひとつしんじあげ候あらにほんこいしや
                                      こしょろ

 お春にも、このような気持ちはきっとあったはずです。
 インドネシアやオランダの国立文書館でお春に関わる記録を調べた岩生成一・東京大学元名誉教授は、次のような可能性に言及しています
(『史伝〔じゃがたら春〕』)

 「西川如見はお春より22歳ほど若いだけだから、長崎で彼女の消息や手紙のことを聞いて、現物か写しに目を通していた可能性がある。それを下敷きにして、伝聞を交えて創作したのかもしれない」

 ありうることです。ゼロからでっちあげるのは手間がかかりますが、何か元があってそれを膨らませるのは、ある程度文才があれば難しいことではありません。

 では、実際のお春はどんな生涯を送ったのでしょうか。
 生年月日は不明ですが、追放時の年齢から逆算すると、寛永の初めに生まれたと思われます。
 父はイタリア人のニコラス・マリン。ポルトガル船の航海士でしたが、ポルトガル人が侵略者の疑いによって幕府の弾圧を受けていたので、船を下り、イギリス人と自称していました。そのため、妻はエゲレス女房と呼ばれていました。
エゲレス女房の本名は不明で、洗礼名はマリアでした。

 2人にはお万、お春という2人の娘がいて、それぞれマグダレナ、ジェロニマという洗礼名をもっていました。
 マリンは寛永13年
(1636)、商用で訪れた平戸で病死、お春は筑後町に住む祖父・小柳理右衛門の養女となり、彼に育てられます。
 お万は、オランダ商館の商務員の下で働くイタリア人のメ-ステル・マルテンと結婚、15歳のとき息子萬吉を生みました。その1年後、マルテンは商用で台湾に行き、2度と長崎に戻りませんでした。

 夫と死別後、マリアがどのように生計を立てていたかは不明ですが、ヒントになりそうなのが、前述した乙名が作った追放者の名簿。名簿は家族単位で作成されていますが、マリア一家は次のようにオランダ人のヒセンテ・ロメインといっしょに記載されています。

阿蘭陀人
ヒセンテ            七十歳
女房(イサベラ) 五十歳
エゲレス女房   三十七歳
娘まん               十九歳
同はる               十五歳
孫萬吉                  三歳

 これを見ると、エゲレス女房、すなわちマリアはヒセンテの世話になっていたのではないか、という推測が浮かんできます。お春はヒセンテとの間にできた子ではないかという説もあるようですが、その真偽はともかく、1家族として記載されているからには、何か特別な関係があったような感じがします。
 もちろん、ヒセンテが厚意で一家を庇護していたという可能性も否定はできませんが。

 一家は追放の航海に出るわけですが、途中で萬吉が船酔い(赤痢という説も)でひどく衰弱してしまったので、船長は彼を台湾で下船させることにしました。台湾にはオランダ東インド会社の出先機関がありました。
 お万の懇請に応じて、船長は出先機関を通じて父親のマルテンを探し出し、地方長官に萬吉の養育を命じてもらいました。

 バタヴィアには、すでに100人あまりの日本人が暮らしていました。マリア一家は日本人たちのリーダー格で裕福な村上武左衛門に引き取られました。
 バタヴィアに着いて3年後、お万は22歳のとき、
武左衛門と再婚しました。しかし、もともと体が弱かったのか、暑熱に耐えられなかったのかわかりませんが、数年後にあえなく亡くなってしまいました。

 お万、お春の母親、エゲレス女房のマリアはどうしたでしょう。『長崎物語』の3番では、

そぞろ恋しい 出島の沖に
母の精霊が ああ 流れ行く

 と歌われていますが、彼女は長崎で亡くならずに、バタヴィアに着いています。しかし、その後の消息がわかりません。バタヴィア到着後、比較的早いうちに亡くなったとする説や、お春が結婚して子を産むまでは生きていたという説など、情報が混乱しています。

 お春はたくましく生きていました。武左衛門や追放仲間で裕福な父親をもつ女性の援助で小商いをやっていたようですが、詳しいことはわかりません。

 1646年10月29日、お春は東インド会社の商務員補シモン・シモンセンと結婚しました。その結婚証明書はジャカルタの国立文書館に残っています。
 シモンセンは、父親が平戸のオランダ商館に勤めていたころ、日本女性との間につくった子どもでした。

 シモンセンは非常に優秀な人物だったようで、商務員補から次々と昇進し、最後にはバタヴィアの税関長にまでなりました。退職後は、胡椒など香辛料を扱う交易を行い、財産を蓄積しました。その豊かさは、20人あまりの奴隷を抱えていたということからもわかります。
 日本との物品のやり取りが徳川幕府から認められてからは、お春は長崎の親戚にかなり高価な品物を送っています。

 しかし、幸せなことばかりではありませんでした。シモンセンとの間に7人の子をなしましたが、そのうち娘マリアを除く6人に先立たれてしまいました。悲運は悲運でしたが、当時としてはまあ飛び抜けて不幸だったわけではありません。

 1672年5月、お春が48歳のとき、突然悲報が舞い込みました。香辛料を仕入れに、セレベス島(現在はスラウェシ島)に行ったシモンセンが、帰りの船で熱病を発症し、亡くなってしまったのです。

 寡婦になったお春は、夫の事業を引き継ぎ、財産を守りました。
 1697年
(元禄10)、お春は72歳で亡くなりました。その遺言書がジャカルタの国立文書館に保存されています。
 それによると、遺産はすべて金に換え、娘のマリアと孫3人の計4人で均分すること、奴隷は全員解放すること、となっていました。
 まことに数奇にして波乱に満ちた生涯でした。

(上図は、時代は違いますが、シーボルトの専属絵師・川原慶賀による『唐蘭館、蘭船入港図(国認定重要美術品)』です)。

(二木紘三)

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コメント

 ♪赤い花なら曼珠沙華 オランダ屋敷に雨が降る~は、昔、母親が何度となく口ずさんでいました。実になつかしい歌です。しかし私は、歌の題名も知りませんでした。お春さんについても、オランダ人のお妾さんか、からゆきさんくらいにぼんやり考えていました。
知らないことだらけだった分、<蛇足>という名の名解説、おもしろく読ませてもらいました。ほとんど論文のような骨子をもつ文章ですね。多くの資料を実証的にとりあげながら、簡潔平明に書きすすめ、お春の一生を、実に執念深く追う姿勢に、二木先生の尋常ならざるエネルギーを感じた次第です。先生の最近の作風たいへん好きです。

西川如見のじゃがたら文をめぐる真偽論争ですが、大槻玄沢の批判は激しく、彼の真理の追究する姿勢には日本人離れしたものを感じます。相手のことをボロクソにいう、蘭学者の面目躍如ですね。「なあなあ」より「ボロクソ」の方が正しいです。進歩がもたらされるからです。この論争、なかなかおもしろいです。

 江戸幕府の鎖国政策は、単に外国人の親を持つお春たちを追放しただけではなく、南蛮貿易でシャム、アユタヤ、マニラなどの日本人町に住んでいた日本人に対しても、突然帰国禁止にしています。幕府は在外邦人に驚くほど冷たかった。棄民といってもいいです。
400年たった今も、日本政府・外務省・在外大使館の在外日本人に対する保護は、形式的でやる気のないものです。それは、海外で日本人がまきこまれる事件をていねいにみればわかることです。

それにしても、お春の生涯は、堂々としたものでした。哀しみに押しつぶされなかった女性でしたね。今この曲を聞きながらあらためて思います。

投稿: 越村 南 | 2013年7月10日 (水) 17時48分

今回の{蛇足}は、もう解説の域を越えて、「{じゃがたら文}に関する一考察」とも呼べる論文ですね。名演奏を聴かせていただいた上に、埋もれた{じゃがたらお春}という史実――鎖国政策の犠牲者――を詳細に教えていただきありがとうございます。
 戦後、この歌がリバイバルヒットしたお蔭で、わたしも{じゃがたらお春}の名前は知っていましたが、もちろん詳しくは知りませんでした。{じゃがたらお春}なんて、中学では教わりませんし、高校の日本史でも教科書には出てきませんから、今ではほとんど忘れ去られているのでしょう。受験の日本史よりも、はるかに詳しい{じゃがたらお春}や{じゃがたら文}の解説をいただき、改めて二木様に感謝申し上げます。
 
 それにしても、越村様も指摘されていますが、国家が権力を行使するときには、必ず犠牲者が出ますね。それもほとんどが弱い立場の人々です。対外政策の場合には、「棄民」ですね。戦後では、中国に置き去りにされた「戦争孤児」や「シベリア抑留者」なども「棄民」に入るのではないでしょうか。
 また、「じゃがたら文」に戻りますが、これが西川如見の戯作にしても、文中の「日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや、見たや」は、「お春」の望郷の心を偽りなく伝えているように思います。

 作曲者の佐々木俊一をネットで検索していましたら、この歌と異名同曲の「ばてれん娘」(佐藤松雄作詞)という歌があったことを知りました。この歌が売れなかったので、「長崎物語」の歌詞に「ばてれん娘」の曲をつけらヒットしたというんですが、歌詞がよかったからなんでしょうか、あるいは他のきっかけがあったからでしょうか。多分、両方なんでしょうね。


 

投稿: ひろし | 2013年7月12日 (金) 17時23分

上ご両名に続き、`蛇足`をじっくり賞味。良質ワインを味わう気分で堪能致しました。

お春さんが生涯住んだBataviaは1619年の命名ですね。英国人を追い出し、言わば要塞を完成させたクーン統領は誕生地Hoornからニュ-ホールンにしたかった。でもVOC(東インド会社)17名役員の承諾を得られず、紀元前後に騎馬軍団として名高く、ローマに仕えたゲルマンの1民族Batavenに因む名前になったそうです。紅毛人≒蘭人の16世紀前の先祖で、勇猛なシンボルだから…。

太陽暦と陰暦の部分について、経緯を呑み込めませんでした。グレゴリアン・カレンダーをオランダが導入実施したのは1700~1701年。新教諸国の実施は復活祭からみで一般に旧教国より後です。平戸出航1639年当時、カロン雇い主VOCリパブリックはまだユリウス歴です。幕府はもちろん陰暦だった。ユリウス歴と幕府採用の暦はほぼ同じと思われます。のちカロンはフランス東印会社トップに再就職しているので、フランス語を母語として既に新しい太陽暦に馴染んでいたのかもしれませんが…。

1639年前後の半世紀、フランス/英国/スエーデン/蘭リパブリックがハドソン川デラウェィ当たりでビーバー皮商いと砦作りの競争をしていました。北米への植民争いですね。お春さんのような肝っ玉母さんや冬生活の過酷さで亡くなる例が後を絶たなかった。彼ら女性たちも大西洋の向う・遠い故国を泣いて忍んだのでしょうか。

投稿: minatoya | 2013年7月13日 (土) 07時19分

minatoya様
グレゴリオ暦の採用はフランス王国が1582年12月20日(10日説も)、オランダのカトリック諸州とベルギーでは1583年1月1日(1582年説も)でした。ブレダ号の平戸出帆は1639年10月ですから、グレゴリオ暦で書かれていた可能性もあるかもしれませんが、オランダ東インド会社のグレゴリオ暦正式採用がご指摘の年なら、やはりユリウス暦で書かれていたと見るべきでしょう。この点についてはもう少し調べてみるつもりですが、その部分の記述を上記のように変えました。ご指摘ありがとうございました。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2013年7月13日 (土) 12時32分

今日もコメントがあるのですね。この歌は高校生の頃覚えました。中学校の同窓会で歌ったのを覚えています。ジャガタラお春はどういう立場の人かうすぼんやりとしか理解しておらず、先ほど大体わかりました。それにしても旋律もいいですね。哀愁を帯びたサックスですか、これもいいです。
 手紙文を印刷して解読して見たくなりました。可能でしょうか。いいお話をありがとうございました。

投稿: 今でも青春 | 2013年7月13日 (土) 21時48分

ホラント/ブラバント/フラーンデレン/ゼーランドの4州はユリウス歴1582年12月21日をグレゴリウス歴1583年1月1日に変更。10日間の人生を盗まれたと憮然とした人々が沢山いたそうです。ほか七つのオランダ州の新太陽暦への移管は1700年になります。

東印度連合会社本部のある自由自治都市アムステルダムのグレゴリアーンセ・カレンダーへの移行がホラント州に従うのか、他7州の1700年になるのか分らずのままです。しかし会社資本への7つの出資都市も自由自治ですから、ブルゴーニュ公国に属するライン川以南のカトリック域であるブラバント/フラーンデレン/ゼーランドと同じ日付けと考えるのは不合理に思われます。

でもフランス人カロンが仏国のupdate太陽暦を用いたのか、20年もの滞日経験のある日本の陰暦を使ったのか、それともVOCユリウス歴を用いたのか? 一寸資料不足で今の段階で測りきれません。長崎`物語`の核心と言うかサワリと遠く思われ、こだわるのは徒労かも…と存じます。

力作`蛇足`に啓発されフト思ったのは、ジャガタラさん女性たちは故国を忍ぶ悲しさに暮れたけれども、海外に出る雄々しき女性の嚆矢として歴史的意味をもつと言うこと。同時に家光の成した幕藩体制の強化と定着化がその後の長い平和を作ったこと。1639年10月前後のブリテン内戦による血を血で洗う地獄、大陸側30年戦争による人心の病弊と主にドイツ域の荒廃とに目を向けるならば、わずか32名の追放劇など片腹痛い。日本国家は開墾面積を広げ、GDP上昇を加速させ、文化の華が咲き、江戸人口は増大を重ねます。それは欧州の(何百万の市民・軍人の犠牲者を要し、つまりマイナスへの人口収縮が起った)非人権的抗争の1639年10月の前後半世紀と正反対のプラスと言わねばならない…気がしますね。

国を閉ざす政策選択あればこそ、当時世界の珍しい平和を享受し、それ故19世紀半ば欧州に伍するまことの革命が起り、21世紀の日本はそれ故に存在している、、、乱暴な感想なのは、経済的ワインの勢いを借りています。深謝。

投稿: minatoya | 2013年7月15日 (月) 09時37分

ああー鐘が鳴る・・もの悲しいメロディーは何かを思い起こさせます。長崎の・・も、鐘の鳴る丘も。いつも涙ぐみながら曲をお借りして一人カラオケしています。歴史の勉強もさせていただきました。有難うございます。オランダのMulderさん、フランスのKasadoさん、お元気でしょうか?

投稿: 瑛之祐 | 2013年7月16日 (火) 15時59分

 さる6月9日にフランスでおこなわれた競売で、江戸時代の蒔絵を施した櫃(ひつ)がアムステルダム国立美術館により約9億5千万円で落札されました。この櫃は1941年のロンドン空襲で行方不明になっていて、あるフランス人が古美術商からわずか約1万5千円で手に入れたものだそうです。持ち主の喜ぶ様子も気になりますが。この櫃のできたのが、ジャガタラお春さんが生きていた時代と重なっていて、私には不思議な感慨がありました。

 この櫃は、産経新聞によれば、1640年に京都で作られ、オランダの東インド会社がフランスの国王ルイ14世の宰相マザランに1658年に売ったものと確認されています。お春は1692年72歳で無くなりましたから、この櫃がバタヴィアに寄港したとき、お春はその地に生存していたということです。

 長崎に視点を置いて、お春さんを考えれば望郷の念に苦しめられた可哀そうな女性でしょうが、バタヴィアに視点を置けば、お春は異国の地でオランダ人やインドネシアの人々と接しながら生きていった、たくましい女性ということになります。
当時のオランダは海上帝国とよばれるほどの隆盛を誇り、アジア貿易でイギリスを圧倒していました。またオランダはスペインのカトリック支配を嫌って独立をとげたキリスト教カルヴァン派の新興国でありました。それゆえローマ教皇の制定したグレゴリオ暦は、ユリウス暦と比べてきわめて精度の高い暦だとわかっていても、新教の立場からすんなりと受け入れができなかった・・等々。ヨーロッパの政治情勢、とりわけカトリックと新教の深刻な対立もバタヴィアからなら見えてくるものがあります。
 ま、しかし世界史は難しいですね。さまざまな民族、文化、宗教が重層的に歴史に流れ込んで、日本史の比ではないからです。
先日の二木先生とminatoyaさんとのやりとり、たいへん刺激になりました。

投稿: 越村 南 | 2013年7月16日 (火) 19時50分

先のメールで「じゃがたらお春は鎖国の犠牲者である」とした私見について、異論をお持ちの方もおいででしょうし、鎖国については、minatoya様のように肯定的にとられるご意見もあると思います。確かに、鎖国によって、平和が保たれたとか、自国産業が発展したとか、日本独自の文化がつくられたとか、さまざまな「功」があったのは事実です。しかし、「罪」の部分もあるのです。産業革命が遅れたとか、日本人の島国根性がつくられたとか、封建制度が長くつづいたとか、たくさんあります。ですから、わたしは、鎖国の「功罪」は結果論で、それを論じてもあまり意味がないように思います。歴史の見方に必要なのは、なぜ幕府は鎖国政策をとったのか、鎖国以外の政策がなかったのか、それらを検討することが、これからの歴史をつくっていく上で必要なことではないでしょうか。
 また、国家権力の行使の仕方によっては、しばしば犠牲者が出ます。「じゃがたらお春」は、その悲劇の主人公と言えば、オーバーかも知れませんが、そういう人々に対しては、やはり一掬の涙を注いであげたいと思います。 

投稿: ひろし | 2013年7月17日 (水) 12時34分

西川如見は長崎で耳にした話に興を注がれたんですね。彼は今で言う調査ジャーナリズム分野の日本人草分け一人になるかも知れません。事実一つづつを探索収集する地味な根気仕事。5巻と言う膨大な作業と時間に見合うべく、願わくばベストセラーにしたい。仮名変体書き文書のアレンジが成されて不思議でない、と充分に理解できました(息子さんの達筆?親孝行ですね)。調査ジャーナリストの使命、と言うか目的は知られざる史実/社会不正義を公にすること(創作過多だと、ロマン(≒小説)やゴシップに傾いていきます)。

寛永16年VOC出航は五次幕府令に従った追放。外国人おおかたは既に出国、残ったオランダ商館`国際結婚`家族が主だった感じを受けます。VOC側と長崎奉行との意向が一致、長崎‐平戸-台湾(Zeelandiaと言う平戸/長崎をずっと上回るVOC直轄・商いの砦がありカロンも責任者を歴任しているようです)から南支那海を抜けバタヴィアへの船旅が組まれた分けです。追放でありながら、人権を尊重した丁寧な扱いに幕府のVOC即ち蘭リパブリック組織のみの貿易/良好関係の維持姿勢を伺えます。

望郷の念を悲劇に脚色したのは如見の並みならぬ才覚と言えましょう。それ故、歌や芝居が愛される。寛永14年お春一行出国を促した島原の乱(キリシタン弾圧)まで各地に一向一揆が頻発。飢饉やお上の激しい年貢に対する死を賭けた抵抗。九州に限れば隠れ念仏(と言ったと思いますが、恐らく仏の背後にマリアを隠す)つまり異端なる浄土宗集まりが密かに行われています。背景は山間の食うに食えない惨憺たる状況です。

時の一揆起こし農民たちの核グループ(大量)処刑は、ブリテン新旧教争いや内戦による首謀者手足4本抜きや百人火あぶり刑と重なります。後のボナパルトの島流し/追放は例外で、敵や反対者は膝まずき首から頭部を落とすくマサカリ刑が普通。この専門処刑職が存在しました。容赦なき時代現象。こうした悲劇が溢れるので、逆にジャガタラさん`ふるさとを忍ぶ`心の傷をヒューマニズムの原点`優しさ`でとらえる発想もあり得る。バタヴィアからの視座と仰る柔軟さと並び、ジャガタラファンになられた方の`優しさ`は偽りない自然な気持ちと察します。

鎖国(語彙)は近代概念です。鎖国と書くから特別と思う。幕府は鎖国のサも用いていません。ポルトガル/スペイン/オランダ連中にとってマア当然の反応だと不思議で無かったようです。`他と関わらぬ引き込む`例は過去に欧/米/支など沢山見られのです。寛永期むこうの明国もしかり。だから九州と密貿易。その上がりはVOCを凌駕します。

2世期近く経ち、おもにパリ界隈でほぼ10年余ドタバタ革命が続く中で、モンロー教書がアメリカ議会で採択されます。`干渉しないで放っといて!(南北アメリカは私の物)`と言う政策決定。独立して自信満々新興国アメリカの鼻息です。13植民地の独立を後押し、財政難に陥ったブルボン朝がぶっ倒れた。「お前さん手出しをしないでね」だから、誇り高いフランス御仁も踏んだり蹴ったりです。モンロー方針は20世紀初めまで機能しました。両大戦初期における米国不参戦の雰囲気はこの延長上にあります。

ひと味もふた味も深い`蛇足`に新鮮な知見をいただきました。ワイン(今宵はローゼーですが)に乗せられる悪癖で、ついブツブツと呟き、アカンナーと反省しきり。落ちとして我が家の東側を走るMaarten Tromp通り名について一言。

彼は共和政期の海の英雄。幾多の海戦一つはダンケルク沖合でした。それはエゲレス女房ことマリアと二人娘お万お春が支那の海を南下していた丁度その時なんです。無敵アルマダ77隻艦隊(2万5千)とリパブリック軍船50余隻との大海戦。戦場を向かいテームズ河口に移し、結局アルマダは70隻を失い海兵半分は海峡の藻屑になった。トロンプ旗下の損害はただの一隻。日露海戦並みですから、彼はリパブリックの東郷平八郎ですね。
西班牙と蘭からみだけなら、80年戦争趨勢を決定する一つの戦役。西班牙を抑えたい旧教ブルボン朝フランスと組み、新教スチュアート朝ブリテンの応援を受けた点で30年戦争の一環になります。

この9年後に焦土に化した`小さな欧州大陸`は再編成される。七つの海にVOC展開する七州組織は晴れて独立国家に昇格します。お春さん未来の商い成功へのインフラが整備されるような塩梅で、まずは芽出度しに候。 

投稿: minatoya | 2013年7月18日 (木) 07時14分

 長崎案内のブログを立てている方がいて、博識でなかなか味のあるブログなのですが、先日、年長の訪問者から「オランダ屋敷は如何に?」という軽い問いかけがありました。意味がわからなかったみたいで、スルーしていました。
確かに、長崎の名所案内にオランダ坂はあっても、オランダ屋敷はないですから。
 若くて「長崎物語」を知らないんですね。長崎には「ジャガタラお春」という、わりと知られたじゃがいも焼酎もありますが、お春については、ほとんどの人が名前しか知らないようです。
私もこの歌は、一日の長で知っているだけなのですが、当ブログを紹介しました。大いに感謝され「ジャガタラの意味もはじめて知りました」とも言ってました。
日本文化の継承に成功したというお話です。(笑)

投稿: 越村 南 | 2013年7月20日 (土) 20時21分

中学3年のとき、図書館で「赤い花なら曼珠沙華…」とノートに書き込んでいると、音楽の先生が「可愛いい歌だね」と肩越しに覗かれ、恥ずかしかった記憶があります。
二木様の《蛇足》でこの歌の背景など詳しく教えていただき感銘しました。先輩方の深いコメントに圧倒されながら、逆ろうことの難しかった激流する歴史を思うと、なぜか、大木惇夫の「戦友別盃の歌」が浮かんできました。八月がまたやってきますね。

投稿: 樹美 | 2013年7月21日 (日) 08時30分

こんにちは。
私は「じゃがたらお春不幸説」には否定的ですね。
なぜなら、現代の「帰国子女」を見ればわかる通り、彼女らの多くは日本よりむしろ欧米諸国に順応し、
親に連れられて日本に帰ってきてから、再び自分の意志で欧米に戻り、就職や結婚をして定住する例が結構あるからです。

まあ、確かにいつでも日本に帰ってこられる「帰国子女」と当時日本を追放された彼女らではえらい違いがあるのは事実です。
お春は知っての通り、海外で幸せを掴んだわけですが、
それなのに混血児としてつらい毎日を送っていたと推測される日本という国をそこまで未練たらしく思ってたとは思いにくいのです。
しかも、お春の場合は家族と一緒に追放されたわけですし、お春は日本をょ「子供の頃過ごした地」とは考えてはいても「大切な故国」とまで思ってたかは疑問です。

投稿: なかとう | 2014年1月15日 (水) 23時17分

二木先生の探求心に感激しました。さらに、追随のコメントにもこと一歌謡曲の背景、又その歴史への考察への探求。長崎県人の一人として有難く感謝の一言です。
本当に有難い限りです。

長崎の自由人

投稿: 谷口 修 | 2014年4月 8日 (火) 17時58分

谷口さまと全く同じ思いです。管理人様に感謝いたします。これだけの内容をお聞きするには「2時間ぐらいの講演会」でも、無理だったと思います。このページを読み進みながらもっと不幸な「お春ちゃん」の過酷な人生が現れるのではと、不安な気持ちを抑えながらの読み進みでした。その結果は最後まで読んでから、この曲を聴くときは「苦労の先に、幸せな人生が送れた一人の女の子・お春ちゃん」の歌と、安心して聞くことが出来て嬉しかったです。
メロデイも物悲しくて、不幸な女の子の人生をうたった曲と思い込んでいた私が、これからも口ずさむことのできる歌になりました。長崎と言えば戦前は【外国航路の客船のボーイ】だった伯父が長崎の出身でした。風貌も外人のようにほりの深いお顔でした。私たち家族と伯父の家族は、一つ屋根の下でくらしており、伯父がフライパンを片手にふりあげて、「ホットケーキ」をひっくり返して焼いてくれた想い出があります。それと玄関に珍しい靴が脱いであり、父から【コンビの靴】と聞きました。
この叔父が私の「オシメカバー」から「ベビー服」「おもちゃ」「お人形」などすべて、アメリカからのおみやげだったとか。靴先が「おかめ」と言われるデザインのくつをみると(今はみかけませんが)伯父を思い出したものです。時計を戻せるならあのころに「束の間」戻ってみたいと、深夜には思ってしまいます。

投稿: mitsuko | 2016年12月14日 (水) 00時27分

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