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面影橋

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞・作曲:天野 滋、唄:NSP

1 きみにはきみを 愛する人が
  いつもそばに いるのに
  ぼくの口づけを 受けた
  わけが わからない
  黄昏せまる 面影橋に
  見送るつもりで 来たが
  帰したくなくなって
  さよならいえない
  ルールも友達も 約束も
  みんな捨てて きみを
  ああ このまま抱いていたい
  面影橋で

2 心のままに 生きたとしても
  幸せとは かぎらない
  ほら ふざけているうちに
  涙が出てきちゃう
  楽しいことも 悲しいことも
  時が洗い流して
  すべてを 思い出という
  ことばに変えてしまう
  ルールも友達も 約束も
  みんな捨てて きみの
  ああ 名前を呼んでいたい
  面影橋で

  ルールも友達も 約束も
  みんな捨てて きみを
  ああ このまま抱いていたい
  面影橋で

《蛇足》 西島三重子『千登勢橋』との地理的つながりから、NSPの『面影橋』をmp3化しようと思い立ちました。奇しくも、この曲がリリースされたのは、『千登勢橋』と同じ昭和54年(1979)です。

 山手線・目白駅から日本女子大の方向に歩き、千登世橋を渡りきったところに明治通りに下りる石段があります。都電荒川線を左に見ながら、明治通りを南に向かって歩いて行くと、やがて神田川に出ます。

 神田川に架かる高戸橋を渡り、新目白通りに出たら、下流に向かって進むと、2つめの橋が面影橋です。そのすぐ近くに面影橋駅があり、次の駅が荒川線の終点・早稲田駅です。

 昭和40年代以前、面影橋から上流・下流に向かって各数キロは、木造の住宅や下宿・アパートが建ち並んでいました。下宿やアパートには、勤労青年や学生が多く暮らしており、「窓の下には神田川/三畳一間の小さな下宿」というかぐや姫の『神田川』の歌詞そのままの情景がよく見られました。

 私は昭和36年(1961)3月、大学受験に来たとき、面影橋のすぐ近くに下宿していた高校の先輩の部屋に泊めてもらいました。面影橋とはなんとロマンチックな地名だろうと思ったので、とくに印象深い場所です。
 先輩の部屋も3畳間でした。この時代、地方から来た大学生の多くが3畳間に住んでおり、少し余裕のある家の子が4畳半、6畳間住まいだとお金持ちの子といった評価でした。私は4年間、3畳間でした。

 あるとき、友人3人と深夜まで飲み歩いたあと、泊まるところがないというので、私の部屋で寝ることになりました。3畳間に4人寝るわけですが、机と本棚がありましたから、全員横向きになって小イワシの缶詰状態で寝るほかありません。

 明け方、外で大きな地響きがしたので、ただ1人目を覚ました私が行ってみると、高架道からトラックが落ちた交通事故でした。しばらくようすを見たあと、部屋に帰ってみると、もはや横になれるスペースはありませんでした。
 やむなく、彼らの枕元のわずかな隙間に膝を抱えて座り、彼らが目を覚ますのを待ったものです。

 バブル期に東京で学生生活を送った私の2人の甥は、それぞれ2DKのアパートだかマンションだかに住まわせてもらっていました。
 そういった生活、あるいはもっと贅沢な学生時代を送った者たちに、「お布団もひとつほしいわね」と歌う『赤色エレジー』や『神田川』的生活の情趣が理解できるかどうかは疑問です。

 もっとも、これらの歌が流行った当時にも、ビンボーくさい歌としか思わなかった者もかなりいたようです。結局、時代や個人の生活状態にかかわりなく、心や情感に対する感度のいい人と鈍い人とがいるということになるのでしょうか。

 さて、この歌は友人の恋人とキスするという話、女性の側から見ると、恋人の友人とキスするという筋書きです。潔癖な人は眉をひそめるかもしれませんが、このようなことは、自分の心をつかみかねている若い男女にはよくあるケースです。
 青春期とは惑
(まど)いの年の別名であり、惑いは通過儀礼の1つであるといってよいでしょう。私などはこの過程を通過できずに、数十年間惑いっぱなしですが。

 NSPは天野滋、中村貴之、平賀和人が、岩手県・一関工業高等専門学校に在学中に結成した歌手グループで、卒業後の昭和49年(1974)に上京、フォーク・グループとして活動しました。

(二木紘三)

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コメント

 『神田川』、『千登勢橋』に続いてコメントさせていただきます。池袋・目白・高田馬場周辺は高校時代の想い出の地であると同時に、現在の生活空間でもあります。ただ私はこの地域にずっと根付いていたわけではなく、大学は京都を選びました。私の京都の下宿は3畳間ではありませんでしたが、それより1畳多いだけの裸電球の灯る細長い部屋でした。まさに貧乏学生でしたが、周りも同じようなものでしたので、逆に食べ物を買う金もない日があることを何処か楽しんでさえいました。
 我々日本人は豊かさと引き換えに大切なものを失ったという人がいます。ビートたけしはもう一度皆で貧乏になりたいと言っていますし、さだまさしは『風にたつライオン』の中でアフリカという後進地域で患う人達が美しい瞳を持っていることと、(そのアンチテーゼとして)我々日本人が大切なところで道を間違えたようだと語りかけます。私は“豊かさ”を決して否定しませんが、若い時期の“貧乏”は貴重な体験だと思っています。ただ私の場合は周りに同じような境遇の者がいて苦にならなかったのであって、最近の社会の中で自分だけあの当時のような貧乏だったらもっと惨めに感じたと思います。
 さて面影橋ですが、この辺りの神田川両岸は桜の名所で、春には多くの人が花見に訪れます。神田川は随分整備されましたが、つい最近夕刻にコウモリが飛び交うの目撃したことがあります。ある種の生態系が成立している証であり、川は生きているという事を実感します。

投稿: yoshi | 2013年11月 3日 (日) 23時11分

二木先生、「面影橋」アップありがとうございました。さっそく曲に合わせて歌ってみました。私の記憶違いの個所が2・3ありましたので、それがわかって良かったです。しかし、2回歌いましたが、一度しみついた記憶はすぐには訂正できないので、まだ、もっと歌いこみたいと思います。

先生の説明を見て、この曲がリリースされた時を計算したら私が38歳の時でした。バリバリの会社人間の時ですが、この頃アフターファイブに私が歌っていたのはど演歌ばかりで、フォークにはあまり関心がありませんでした(ところで、この曲はフォークですよね?)。それなのに高齢になった近年はフォークやバラードやポップなどの名曲がどんどん好きになってきています。進歩かどうかわからないけれど、何十年か遅れて自分も変化しているんですね。

できましたら、いつか「目白通り」(西島三重子唄)のアップも期待しています。

投稿: 吟二 | 2013年11月 4日 (月) 07時49分

天野滋は52歳という若さで、脳内出血で亡くなったそうです。大腸がんも抱えていたようですね。NSPのリーダーとして活躍していたまだ若い頃、およそ朗々とした歌い方でない、弱く素朴な歌い方が、逆にナイーブな若者のこころを感じさせます。「ルールも、友だちも、約束もみんな捨てて」君を抱いていたい面影橋で、というフレーズは、青春期のノスタルジアとともに、社会の掟にがんじがらめになっている我々社会人が、ひそかに皆んな持っている気持ちではないでしょうか。

この曲を聞いたことがない方も、ぜひ一度ユーチューブで歌声とともに聴いて見て下さい。そしてもっと世に知って貰いたい曲だと思っています。

投稿: 吟二 | 2016年2月25日 (木) 14時59分

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