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ねんねのお里

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:中村雨紅、作曲:杉山長谷夫、唄:近藤圭子

1 ねんねのお里は よいお里
  こんもり小山が にしひがし
  みかん畑も 見えてます

2 ねんねのお里は よいお里
  枝から枝へと とびとびに
  駒鳥なんかも 鳴いてます

3 ねんねのお里は よいお里
  ひわ色とき色 こげ茶色
  きれいなお花も 咲いてます

Nenneno

《蛇足》 大正12年(1923)発表。
 戦前にだれが歌ったかは不明ですが、戦後は近藤圭子
(写真)が歌いました。

 昭和20年代の少女スターといえば、まずは松島トモ子、近藤圭子、古賀さと子、小鳩くるみといったところでしょうか。
 童謡歌手としては、正子・孝子・美智子の川田三姉妹や祥子・章子の安田姉妹も人気がありましたが、ビジュアルも含めると、上記4人の人気が圧倒的でした。
『少女』『少女クラブ』などの表紙やグラビアページに、これらの少女スターたちがよく登場していました。

 私は近藤圭子派でした。といっても、当時は小学生の男の子が「オレは松島トモ子だ」「いや、古賀さと子のほうがいいよ」といった話をする雰囲気はまったくありませんでしたし、実際そんな会話をした記憶もありません。
 私は、姉が買ってもらった少女雑誌を見て、近藤圭子ってきれいな顔をしているなァと思っていただけです。

 杉山長谷夫は、勝田香月作詞『出船』 、蕗谷虹児作詞花嫁人形』の作曲者。東京音楽学校(現・東京芸大音楽学部)卒で、バイオリニストとしても活躍しました。

 上の絵は2014年の年賀状用にPhotoshopで描いたものですが、前年の夕焼け小焼け』と同じような構図になってしまいました。この曲も 中村雨紅作詞だから、「ま、いいか」と。

(二木紘三)

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コメント

2014年元旦、そっと開いてみたらアッと!・・・ふるさとの景色そっくりで心がほっこりと今夜の夢に出てきそうなメルヘンチックな色彩に、二木先生の思いがひしひしと伝わってきて嬉しくなりました。
目をつぶるとずーととおい遠い頃聴いたことがあるような懐かしさを醸し出すようなメロディ・・・もしかしたら母のお腹の中で聴いたのかも・・・・。  いい歌を有難うございました。
尚、長野市平柴の春日大神社に歌碑があるそうです。

投稿: 尾谷光紀 | 2014年1月 1日 (水) 19時34分

このメロディ私(昭和25年生)初めて聴きました。
あまりポピュラーな童謡ではなかったのでしょうか。
動画サイトで近藤圭子の5歳くらいの時の歌唱を聴きました。
 近藤圭子、古賀さと子、松島トモ子、小鳩くるみの4人は少女雑誌で頻繁に観ましたね。姉が貸本屋さんからしょっちゅう借りて来ていたので…。 近藤圭子と古賀さと子が「綺麗系」松島トモ子と小鳩くるみが「可愛い系」ですかね。私は柔かな優しい顔立ちの近藤圭子が好きでした。 TV連続活劇「快傑ハリマオ」の出演でトドメです。彼女の唄った「南十字星の歌」は、いまでも耳に残っています。綺麗な声でしたね。

投稿: かせい | 2014年1月 3日 (金) 00時44分

 まったく知らない歌ながら、どこかできいたような、なつかしい旋律です。歌詞は叙景でありながら、メロディはなんとなくものがなしい。昔の人は違和感を感じなかった、そういう感性だったんでしょうね。
 「ねんね」「ひわ色」「とき色」は辞書の力なしでは理解がむつかしい。大正は遠くになりにけりです。
 「こげ茶色」も難物。花の色ではないでしょうから、畑の土の色か、茅葺き屋根の色でしょうか?とつぜん、村の風景を色彩別に分解するとは、印象派の画家みたいです。
 それ以上に不可思議なのは「駒鳥なんかも鳴いてます」の「なんか」です。、なんといいかげんな・・。それとも甚深無量の意味でもあるのかしら・・。素人がこんな詞を書いたら、7文字を埋められないから苦しまぎれに作ったのか!としかられそう。ともあれ、名曲であり、お正月にふさわしい歌だと思います。
 民俗学に「忘れられた日本人」(宮本常一)という名著がありますが、今年のこの歌とこの絵、去年の「夕焼け小焼け」とあの絵、「忘れられた日本の里」を想います。二木先生の企画でしょうね。

投稿: 浮舟 | 2014年1月 3日 (金) 23時46分

明けましておめでとうございます。
この絵は二木さんの作品ですか?素晴らしいですね。「ひわ色、とき色、焦げ茶色」なんかもはいっていますね。

投稿: Bianca | 2014年1月 5日 (日) 20時01分

この旋律は初めて聞きましたが、題名の「ねんねのお里」や「ねんねのお里は よいお里」のフレーズはどこかで聞いた記憶があるなと思い、ちょっと調べてみましたら、『げんげ草』(北原白秋作詞 中山晋平作曲 1922年)の中にありました。

  ねんねのお里のげんげ草
  ぽちぽち仔牛も遊んでる。
  牧場の牧場のげんげ草
  誰だか遠くで呼んでゐる。
  ねんねのお里はよい田舎
  ぽっぽっお汽車で下りたなら。
  道はひとすじ田圃(たんぼ)道
  藁(わら)屋に緋桃も咲いてます。
  (以下略)
 雨紅の『ねんねのお里』は『げんげ草』の翌年(1923年)に発表されていますから、当然かれは上記の詞を知っていたと思われます。かれはこの詞から想を得て、『ねんねのお里』を作詞したとものと推察されます。そこで、両者の詞を比較してみました。同じ「ねんねの里」(幼少時の田舎)を詠っても、両者の生まれ育った環境に対する印象が、微妙に違うように思えたからです。
 ご存じのように白秋の田舎は福岡県の柳川です。筑紫平野は一面田圃で、かつては春にはげんげ(れんげ)草の花で覆い尽くされていました。幼いころの、この強烈なピンクの印象が『げんげ草』という、夢のような詩の世界をつくらせたのでしょう。
 雨紅の田舎は八王子在の恩方村です。草深い田舎だったことは容易に察せられます。それは「駒鳥」が出てくることでも分かります。駒鳥は鳴き方に特徴があり、こどものころは印象に残った鳥だったのでしょう。しかし、不思議なのは「みかん畑」が出てくることです。普通、みかんの栽培は暖地の海岸べりで見かけますが、八王子の付近でみかんが栽培されていたことは、寡聞にして知りません。ここからは想像ですが、かれが幼いころ小田原近辺か、伊豆方面に旅行し、みかん狩りをしたことがあったのか、あるいはみかんが好きで、みかん畑があったらいいなと夢想していたのか、いずれにしても謎は残ります。とは言え、童謡のことです。詩人の想像力の賜物と割り切り、歌の世界に入り込み、楽しめばいいことくらい分かってはいるのですが。
  

投稿: ひろし | 2014年1月24日 (金) 16時28分

小学3年~4年生だったかしら、音楽の教科書にこの曲がありました。郷愁を誘う名曲(詩)ですね。還暦を過ぎたので、暇を見つけてこんな里を探しに旅に出たいですね。この唱歌を教えてくださったのは担任の先生で、少しヒステリックな女子先生でした。よく叱られました。先生も若かったのでしょうね。同級会にご案内すると必ず出席されます。すっかりおばあちゃんになってにこにこほほ笑んでおられ、大人になった教え子の歓談する姿にご満悦のご様子でした。

投稿: ぶっかんば | 2014年2月15日 (土) 17時19分

私も教科書で習い、童謡の本でも見たと思います。二木先生の美しい絵のような、美しい絵があったように思います。詩も曲もしみじみとしてとても好きです。浮舟様の「「駒鳥なんかも鳴いてます」の「なんか」です。なんといいかげんな・・。それとも甚深無量の意味でもあるのかしら」というコメントに心惹かれ、愚かな頭で考えてみました。子守りの少女(「ねんね」)が背中の幼な子に自分の故郷について語っています。子供が子供に話し聞かせるので舌足らずでしょうし、幼な子は鳥の名もあまり知らないでしょうから、優しく話し聞かせようとすると「なんか」になるのかなと思います。幼な子も少女を慕っていますから、山のこと、鳥の名前一つ、色のことを聞いて、十分少女の故郷が美しい場所であることをさとり、そこに思いをめぐらせながら夢路をたどったと思えます。「なんか」は作詞の人の、この少女と幼な子への思いやりの現れのような気がしてきました。

投稿: 加藤 | 2016年10月14日 (金) 11時55分

加藤様
子守りの少女(「ねんね」)とありますが、どうも私の記憶と違うと思って手元の辞書を調べたら、「ねんね=①寝ることの幼児語、②赤ん坊、③人形の幼児語、④年の割に世間知らずの若い女性」とありました。ここでは赤ん坊のことでは。

投稿: 釣り人コマツ | 2016年10月15日 (土) 04時36分

50年以上この歌を「ねえやのお里」の意味であると信じきっておりましたが、 釣り人コマツ様からご指摘を受けまして、まちがっていたことを知りました。勘違い、申し訳ありませんでした。

投稿: 加藤 | 2016年10月15日 (土) 08時13分

加藤様
 差し出がましいことを申しますが、お許しください。浮舟様やあなた様は「駒鳥なんか」の「なんか」の遣い方に疑問をお持ちのようですが、幼児は、こういうことば遣いを普通にするのではないでしょうか。文法的な説明では「なんか」は「など、等」という意味の接尾語ですが、幼児は「○○など」とは言わず、「○○なんか」と言いますね。幼児期独特の言い回しではないでしょうか。童謡詩人の雨紅ならではの表現のような気がします。

投稿: ひろし | 2016年10月15日 (土) 10時25分

私が幼児だった頃はすでに大スターだった近藤圭子さんは、我が家の長女と姉が持っていた少女雑誌で知りました。怪傑ハリマオの前頃でしたが、幼心にも、綺麗な人だなあと思いました。その数冊の本の表紙は、二木先生の蛇足の通りで、近藤圭子さん 古賀さとこさん 松島トモ子さん の写真 他、可愛い人達が載っていました。印象に残っているのは、小学生だった長女の姉が、お弁当箱のフタに、松島トモ子さんの顔絵がついてるのがどうしても欲しいと何度も繰り返してました。
近藤圭子さんの歌を初めて知ったのは、パン売りのロバさんという曲です。それは私の田舎に、本物のロバが、焼いたパンをつんだ荷ぐるまを引いて、近藤圭子さんの歌うこのレコードを大きく鳴らして売りに来ました。この曲が聞こえると、一円玉、五円玉を兄弟姉妹で寄せ集めて、ロバのところまでみんなで走り、一つの大きめパンを買い、みんなで少しずつ分け合って食べました。うそのように美味しかった記憶があります。そんなこともあり近藤圭子さんのファンになりました。
ねんねのお里 仲よし小道 海ほおずきの歌 南十字星の歌 そして パン売りのロバさん どれも大好きな歌で、映像を通し、今も懐かしく思いながら何度も聴いています。


投稿: 芳勝 | 2017年11月19日 (日) 04時16分

 芳勝さまのコメントを拝読しまして、昭和25年に日本橋堀留から現在地に引っ越してきた当時を懐かしく思い出しました。途中結婚してから3年程、調布の深大寺の近くに住んだ時がありましたが、60数年現在住んでいる場所は変わっていません。

 戦後5年しか経っていませんが豊島区もご多分に漏れず、駅前の焼け落ちたビルは鉄骨むき出し、癌研究所(癌研)は焼け落ち廃墟化し、建物の中に入る事は小学校では禁じられていました。でも男の子たちは地下まで行って、薬の包み紙(赤色)を取ってきては骸骨があったとかなかったとかで騒いでいました。女の子は男の子にその正方形の赤い油紙をもらって、唇に当てて「ブーブー」と鳴らして遊びました。

 豊島区は武蔵野台地の縁にある所なので坂の多い土地柄で小山のような(子供には)場所も多く、あちらこちらがむき出しで焼けだされた区でした。
 
 そのような時代でしたが、子供たちの楽しみは紙芝居でした。紙芝居はお菓子を買わないと見せてもらえませんでした。当時父は子供たちの健康を気にしていたようでした。母の話ですと、病気になると医療費も大変だからと言い、今では考えられませんが、荒川へ泳ぎに連れ出したり、上野動物園に連れ出したり、そして駄菓子を買う事は許さなかったようです。ですから私たち兄妹3人はお小遣いなどありませんでした。ですが紙芝居は見たくて仕方がありませんでした。

 ある時、兄はお金を持っていて(いくらだったか分かりませんが、当時50銭からありました) これで「あんず」を買って3人で分けて紙芝居を見ようと言う事になりました。あんずを買う役目は私でした。兄が言ったように紙芝居のおじさんに「あんず一つちょうだい、3人で分けて食べるから」と言ったのをおぼえています。

 長々と歌とは全く関係ないことを書いてしまいました。
芳勝さまの「子供たちがお金を集めて一つのパンを買い、分け合って美味しく食べた」というコメントで「あんず一つと紙芝居」を思い出しました。

 おまけの思い出を一つ。当時の新築の家は安普請でしたので、木の雨戸は節穴が沢山あり、その節穴から朝日が差し込んで光りが長く伸びていたのを蒲団のの中からきれいだなと眺めていました。また雨が降るとバケツや洗面器の中に雑巾を入れて雨漏りを受けていました。長いコメントにお付き合いくだされありがとうございました。

投稿: konoha | 2017年11月19日 (日) 11時54分

konoha様 こんにちわ!
我が家は長男が19年で長女が22年の生まれですので、もしかしたら、長男や長女は、konoha様と年齢が近いのかもと思いました。ここにコメントされています紙芝居のお話とか、雨漏りのお話には、その当時幼かった私にも、覚えがあり大変共鳴できます。紙芝居が来た時は、どうしても見たかったので、小さかった私は、近所の人達が見ている中に、うまく紛れ込みながら見せてもらっていました。その中でも 一つ目小僧 という題目をよく覚えています。
貧乏人の子だくさんとはよく言ったもので、我が家は9人家族で、7人の兄弟姉妹でした。その頃は両親に育ててもらったというより、長男と長女にめんどうみてもらった気がします。
konoha様のコメントのように、雨が降ると、我が家は古かったこともあり、部屋のあっちこっちから雨漏りがして、その都度、鍋 やかん どんぶり 茶碗 などを置いて凌いでいたことも、今となっては、懐かしい想い出になっています。


投稿: 芳勝 | 2017年11月19日 (日) 14時38分

この歌はどこかで聞いてたような記憶しかありませんがいい歌ですね。絵も素敵です。

二木先生の
「まずは松島トモ子、近藤圭子、古賀さと子、小鳩くるみといったところでしょうか・・私は近藤圭子派でした。」
懐かしい表現です。
 松島トモ子は1945年満州奉天市で生まれたので奉子と名前を付けた。という記事を読んだことがあります。
 私は奉天市生まれなので「松島奉子」さんを応援していました。「幼年クラブ」などの本を読んでいました。
 芳勝さん、konohaさんの少女雑誌、紙芝居、雨漏りの話面白いです。私は昭和20年7月下旬に満鉄勤務の父の転勤でハルピンに北上し、戦後の昭和21年9月に博多港へ引揚げました。私たちは引揚げ家族として平家の落人が逃込んだ熊本の山村で中学時代まで過ごしました。
 田舎でしたので紙芝居屋さんの記憶はありません。ただ廃墟を修繕した家に住んでいましたので「雨漏りの時は茶碗、缶詰の缶、洗面器、鍋、やかん」を30数か所置いたようなこと、家の隙間から朝日が差し込んでいたこと、電灯のかさにはウドンゲの花(ウスバカゲロウの卵?)が咲いた?ことなど懐かしく覚えています。
 konohaさんの「正方形の赤い油紙をもらって、唇に当てて「ブーブー」と鳴らして遊びました。」・・私は2年前草笛を教わり「つつじ、スパティフィラム、ベンジャミンの葉っぱ」で童謡を吹けるようになりました。いろいろ試しているうちに「山崎パンの包み紙、お菓子の包み紙」などを葉っぱの形に加工し 童謡を吹いています。
「正方形の赤い油紙」で童謡を吹いていた人いらっしゃいましたか?
 

投稿: けん | 2017年11月19日 (日) 22時34分

 けんさま、老人ホームでの草笛で追憶の演奏は如何でしたか。
残念ながら「正方形の赤い油紙」で何か曲を吹いた子がいたかどうか分かりません。想像を逞しくして考えてみると、「油紙を持って帰って家の人が貸してごらん」と吹いてもらった子がいるかもしれませんね。

投稿: konoha | 2017年11月25日 (土) 20時21分

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