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長崎物語

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作詞:梅木三郎、作曲:佐々木俊一、唄:由利あけみ

1 赤い花なら 曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
  阿蘭陀(オランダ)屋敷に 雨が降る
  濡れて泣いてる じゃがたらお春
  未練な出船の ああ 鐘が鳴る
  ララ鐘が鳴る

2 うつす月影 彩玻璃(いろガラス)
  父は異国の 人ゆえに
  金の十字架 心に抱けど
  乙女盛りを ああ 曇り勝ち
  ララ曇り勝ち

3 坂の長崎 甃路(いしだたみ)
  南京煙火(なんきんはなび)に 日が暮れて
  そぞろ恋しい 出島の沖に
  母の精霊(しょうろ)が ああ 流れ行く
  ララ流れ行く

4 平戸離れて 幾百里
  つづる文さえ つくものを
  なぜに帰らぬ じゃがたらお春
  サンタ・クルスの ああ 鐘が鳴る
  ララ鐘が鳴る

《蛇足》 昭和14年(1939)10月、ビクターから発売。江戸時代の伝説のハーフ、ジャガタラお春をテーマとした歌です。
 発売から1年ほどはあまり売れませんでしたが、その後軽音楽の桜井潔のステージ演奏が評判になり、それがレコードの元歌に逆流して空前のヒットとなりました。

 この歌の大ヒットもあって、昭和30年代ぐらいまでは、多くの人がジャガタラお春の名前は知っていました。しかし、それ以降に生まれた世代では、彼女のことを知らない人が大部分ではないでしょうか。

 寛永(1624~1645)に入ると、徳川幕府はキリシタン弾圧を強化するとともに、外国との交流を急激に狭め始めました。
 寛永13年
(1636)には、ポルトガル人をポルトガルの植民地・マカオへ追放、さらに寛永16年(1639)には、オランダ商館員を除くオランダ人をオランダの植民地・ジャワ島のバタヴィアに追放しました。いずれも、日本人女性との間にできた子や孫が含まれていました。

 バタヴィアは今日のジャカルタのことで、当時の現地民たちはジャガタラと呼んでいました。ジャガタラはこの地の古称ジャヤカルタあるいはジャカトラから来たとする説が有力です。ここに追放されたり、それ以前から来住していた日本人たちも、ジャガタラと呼んでいました。

 バタヴィアには、世界で最初の株式会社として知られるオランダ東インド会社の商館がありました。株式会社といっても私企業ではなく、商業活動のほか、条約の締結権や軍隊の交戦権、植民地経営権などを与えられた準国家機関でした。
 そのため、後述するようなさまざまな記録文書は、オランダのデン・ハーグにある国立文書館
(Nationaal Archief)に所蔵されており、今も見ることができます。

 追放された日本人は帰国すると死罪で、日本との文通も禁止されていました。
 文通については明暦元年
(1655)ごろから緩和されましたが、それ以前でも、追放された日本人妻や混血児たちに同情的なオランダの商館員や船員、出島のオランダ人との直接接触が可能だった通詞(つうじ)や遊女などを介して密かに文通が行われていました。
 彼らが日本の親戚や友人に送った手紙は、ジャガタラ文と呼ばれております。

 ジャガタラ文のなかでも、イタリア人を父とする少女・お春が、追放から数年後に友人おたつに書いたとされる手紙がとくに有名です。お春は追放時14歳または15歳(後述)、おたつはお春より2歳上で、長崎・筑後町の反物屋の娘でした。

 その手紙は、望郷の思いを切々と訴える哀切なもので、戦前に衆議院議員・貴族院議員を歴任した竹越與三郎は、「『じゃがたら姫』の『じゃがたら文』を読みて泣かざる者は人に非ずと申すべし」と述べているほどです。
 また、長崎市の聖福寺(しょうふくじ)に建つお春の記念碑の裏面には、歌人・吉井勇の次の歌が刻まれています。吉井勇については、『ゴンドラの歌』で少し触れています。

 長崎の鶯は鳴く今もなほじゃがたら文のお春あはれと

  お春を悲劇の美少女とするイメージは、江戸中期の天文暦学者・西川如見(じょけん)が、著書『長崎夜話草(ながさきよばなしぐさ)』にお春の手紙として掲載したものから生じたようです。

 『長崎夜話草』は、西川如見が長崎の歴史、異国人・異国船など海外事情、孝子・忠夫・貞婦、長崎土産などについて語った話を、子の正休(まさやす)が筆録・編集したもので、5巻から成り、享保5年(1720)に京都の版元から出版されました。
 お春の手紙は、その第1巻のうち『紅毛人子孫遠流
(おんる)之事ジャガタラ文』の項に載っています。

 この項では、 「(追放された)11人のなかに紅毛人を父にもつ長崎生まれのとても美しい14歳の少女がいて、彼女もたびたび便りをよこした。書道や読書を心得たその少女が3千余里も彼方の島で綴った美しい文がとても珍しく、またとても哀れに思ったのでここに書き留める」と掲載の趣旨を述べ、それに続いて手紙の全文を記しています。

 なお、『長崎夜話草』のコピーは『富山大学学術情報リボジトリ』にありますので、手紙の全文を読みたい方は、そちらをご覧ください。変体仮名で書かれているので、読むのに苦労するかもしれませんが。下記は手紙の冒頭部分です。

Jagatarabumi

 手紙は3000字もある長文で、

千はやふる神無月とよ、うらめしの嵐や、まだ宵月の空もうちくもり、 時雨とともにふる里を出でしその日をかぎりとなし、又ふみも見じあし原の、浦路はるかにへだてれど、かよう心のおくれねば、

 おもひやるやまとの道乃はるけきも
   ゆめにまぢかくこえぬ夜ぞなき

 で始まり、次の言葉で結ばれています。

我身事、今までは異国乃衣しゃう一日もいたし申さず候、いこくにながされ候とも、何しにあらえびすとは、なれ申べしや、あら日本恋しや、ゆかしや、見たや見たや見たや
                                じゃがたら
                                     はるより

  日本
    おたつ様まゐる
 和歌は、「日本への道はとても遠いのに、眠るとすぐそこあるかのような夢を見ない夜はありません」という意味。そのあとは、次のような趣旨の言葉が続きます。

 「昼も夜もふるさとのことは一時も忘れられません。こちらは何もかも日本と違っていて、ふるさとと同じものといえば、月日の光だけです。昼は日の出る方向を眺め、夜は月の出る方角を眺め、あふれる涙に袖の乾くいとまもありません」

 「神様、仏様が憐れんで、たとえ1日、2日でいいから、もう一度日本に帰りたい」

 「この世で会えなかったら、次の世で会いましょう。別れたときあなたにもらった歌を書いた短冊とおしどりの羽は、肌身離さずに持っていますから、それを印にして次の世で会いましょう」

 「私は今まで異国の衣装を一日も着たことがありません。異国に流されたからといって、どうして南蛮人になれましょうか。ああ、日本が恋しい、懐かしい、見たくて見たくてどうしようもありません」

 確かに悲しく切ない手紙です。

 しかし、『長崎夜話草』発表後のかなり早いうちから、お春のじゃがたら文は偽作との疑いがもたれました。
 江戸後期の蘭学者・大槻玄沢
(おおつき・げんたく)は、「疑うべきもなき西川の偽文」と断じ、その弟子の山村才助も、偽作の疑いが強いと書いています。

 その理由は、第一に『伊勢物語』などから古歌を引用するなど、14,5歳までしか日本にいなかった少女としては、教養がありすぎ、また文章が流麗すぎるということ。
 第二に、後年お春がおじの峯七兵衛や峯次郎右衛門に送った手紙は、内容が具体的であるのに対して、西川如見が引用した手紙は極めて情緒的であること。

 また、明治以降の研究によって、西川如見の説明やお春の手紙の内容に、関連史料との食い違いが何か所かあることが判明しています。

 まず追放時のお春の年齢ですが、西川如見は14歳と書いています。しかし、お春が住んでいた筑後町の乙名(おとな)が作った追放者の名簿には、15歳と記されています。
 乙名は長崎奉行の下で町内の行政事務を扱った町役人で、上記の記録は今も残っています。

 もう1つは追放者たちを乗せたオランダ船・ブレダ号出帆の日の天気の食い違い。
 オランダ商館のあった平戸に停泊中だったブレダ号は、長崎から移送されてきたお春たち11人を乗せました。平戸では別に21人の追放者を乗せたので、追放者は合計32人ということになります。
 ブレダ号がバタヴィアに向けて帆を揚げたのは、西暦1639年
(寛永16年)10月31日(和暦10月5日)ですが、このころの天気が『オランダ商館長の日記』に記されています(西暦はグレゴリオ暦、以下同)。すなわち――

 永積洋子訳『平戸オランダ商館の日記4』(岩波書店 1970)には、31日は「昨日と同じく北の風、かなりよい天気」とあり、出帆後の「11月1日、2日も特段変わりなし」と記されています。
 上記お春の手紙にある「嵐で時雨が降っていた」と食い違っています。

 「神無月とよ……時雨とともにふる里を出でし」は、平戸を出帆した日ではなく、その前の長崎を発った日のことではないか、という見方もありますが、これも確認できません。
 乙名が提出した追放者名簿に長崎奉行が裏書きして、平戸の松浦肥前守に回付した日付は寛永16年9月17日
(1639.10.13)で、その回付文面は次のようになっています(幸田成友著『和蘭雑話』〈第一書房 昭和9年12月〉)

 「右之男五人女六人当年罷戻り候阿蘭陀船に慥に相渡し可被申候也」となっています。
 つまり、寛永16年9月17日の日付で、「男五人、女六人を今年戻ってきたオランダ船に確かに引き渡すよう申しつけられた」といっているのです。
 したがって、お春たちが長崎を発ったのは長月とみるのが妥当でしょう。長崎出発が延びて神無月になった可能性もありますが、いずれにしても出発日も、その日の天気もわからないのです。

 それでは、西川如見によるまったくのでっち上げかというと、これにも疑問が残ります。ジャガタラに追放された者たちは、多かれ少なかれ望郷の思いを募らせていたはず。
 たとえば、お春たちと同じ船で追放された木田コショロは、平戸の祖母
(うば)にジャワ更紗(さらさ)で作られた袱紗(ふくさ)を送った際、その白地部分に次のような文章を書いています。

 うば様まゐる
 日本こいしやかりそめにたちいでて又とかへらぬふるさとゝおもへば心もこころならずなみだにむせびめもくれゆめうつゝともさらにわきまえず候共あまりのことに茶つゝみひとつしんじあげ候あらにほんこいしや
                                      こしょろ

 お春にも、このような気持ちはきっとあったはずです。
 インドネシアやオランダの国立文書館でお春に関わる記録を調べた岩生成一・東京大学元名誉教授は、『史伝ジャガタラお春』
(日蘭協会講演記録S47)で次のような可能性に言及しています

 「西川如見はお春より22歳ほど若いだけだから、長崎で彼女の消息や手紙のことを聞いて、現物か写しに目を通していた可能性がある。それを下敷きにして、伝聞を交えて創作したのかもしれない」

 ありうることです。ゼロからでっちあげるのは手間がかかりますが、何か元があってそれを膨らませるのは、ある程度文才があれば難しいことではありません。

 なお、この時期に平戸のオランダ商館長だったフランソワ・カロンは、宗教的理由によりフランスからオランダに亡命した人物です。
 オランダ東インド会社に就職し、1639年
(寛永16年)に平戸のオランダ商館長になりましたが、1641年(寛永18年)に辞し、バタヴィアに移りました。最終的にはバタヴィア商務総監に昇りつめ、のちにフランス東インド会社の長官になりました。
 バタヴィアでは、お春夫婦と親しく交流したようです。

 では、実際のお春はどんな生涯を送ったのでしょうか。
 生年月日は不明ですが、追放時の年齢から逆算すると、寛永の初めに生まれたと思われます。
 父はイタリア人のニコラス・マリン。ポルトガル船の航海士でしたが、ポルトガル人が侵略者の疑いによって幕府の弾圧を受けていたので、船を下り、イギリス人と自称していました。そのため、妻はエゲレス女房と呼ばれていました。
エゲレス女房の本名は不明で、洗礼名はマリアでした。

 2人にはお万、お春という2人の娘がいて、それぞれマグダレナ、ジェロニマという洗礼名をもっていました。
 マリンは寛永13年
(1636)、商用で訪れた平戸で病死、お春は筑後町に住む祖父・小柳理右衛門の養女となり、彼に育てられます。
 お万は、オランダ商館の商務員の下で働くイタリア人のメーステル・マルテンと結婚、15歳のとき息子萬吉を生みました。その1年後、マルテンは商用で台湾に行き、2度と長崎に戻りませんでした。

 夫と死別後、マリアがどのように生計を立てていたかは不明ですが、ヒントになりそうなのが、前述した乙名が作った追放者の名簿。名簿は家族単位で作成されていますが、マリア一家は次のようにオランダ人のフィンセント・ロメインといっしょに記載されています。フィンセントは、名簿ではヒセンテとなっています。

阿蘭陀人
ヒセンテ            七十歳
女房(イサベラ) 五十歳
エゲレス女房   三十七歳
娘まん               十九歳
同はる               十五歳
孫萬吉                  三歳

 これを見ると、エゲレス女房、すなわちマリアはヒセンテの世話になっていたのではないか、という推測が浮かんできます。お春はヒセンテとの間にできた子ではないかという説もあるようですが、その真偽はともかく、1家族として記載されているからには、何か特別な関係があったような感じがします。
 もちろん、ヒセンテが厚意で一家を庇護していたという可能性も否定はできませんが。

 一家は追放の航海に出るわけですが、途中で萬吉が船酔い(赤痢という説も)でひどく衰弱してしまったので、船長は彼を台湾で下船させることにしました。台湾にはオランダ東インド会社の出先機関がありました。
 お万の懇請に応じて、船長は出先機関を通じて父親のマルテンを探し出し、地方長官に萬吉の養育を命じてもらいました。

 バタヴィアには、すでに100人あまりの日本人が暮らしていました。マリア一家は日本人たちのリーダー格で裕福な村上武左衛門に引き取られました。
 バタヴィアに着いて3年後、お万は22歳のとき、
武左衛門と再婚しました。しかし、もともと体が弱かったのか、暑熱に耐えられなかったのかわかりませんが、数年後にあえなく亡くなってしまいました。

 お万、お春の母親、エゲレス女房のマリアはどうしたでしょう。『長崎物語』の3番では、

そぞろ恋しい 出島の沖に
母の精霊が ああ 流れ行く

 と歌われていますが、彼女は長崎で亡くならずに、バタヴィアに着いています。しかし、その後の消息がわかりません。バタヴィア到着後、比較的早いうちに亡くなったとする説や、お春が結婚して子を産むまでは生きていたという説など、情報が混乱しています。

 お春はたくましく生きていました。武左衛門や追放仲間で裕福な父親をもつ女性の援助で小商いをやっていたようですが、詳しいことはわかりません。

 1646年10月29日、お春は東インド会社の商務員補シモン・シモンセンと結婚しました。その結婚証明書はジャカルタの国立文書館に残っています。
 シモンセンは、父親が平戸のオランダ商館に勤めていたころ、日本女性との間につくった子どもでした。

 シモンセンは非常に優秀な人物だったようで、商務員補から次々と昇進し、最後にはバタヴィアの税関長にまでなりました。退職後は、胡椒など香辛料を扱う交易を行い、財産を蓄積しました。その豊かさは、20人あまりの奴隷を抱えていたということからもわかります。
 日本との物品のやり取りが徳川幕府から認められてからは、お春は長崎の親戚にかなり高価な品物を送っています。

 しかし、幸せなことばかりではありませんでした。シモンセンとの間に7人の子をなしましたが、そのうち娘マリアを除く6人に先立たれてしまいました。悲運は悲運でしたが、当時としてはまあ飛び抜けて不幸だったわけではありません。

 1672年5月、お春が48歳のとき、突然悲報が舞い込みました。香辛料を仕入れに、セレベス島(現在はスラウェシ島)に行ったシモンセンが、帰りの船で熱病を発症し、亡くなってしまったのです。

 寡婦になったお春は、夫の事業を引き継ぎ、財産を守りました。
 1697年
(元禄10)、お春は72歳で亡くなりました。その遺言書がジャカルタの国立文書館に保存されています。
 それによると、遺産はすべて金に換え、娘のマリアと孫3人の計4人で均分すること、奴隷は全員解放すること、となっていました。
 まことに数奇にして波乱に満ちた生涯でした。

 上図は、オランダ人宣教師モンタヌスが1669年に著した『東インド会社遣日使節紀行』に描かれた平戸オランダ商館。平戸オランダ商館は、幕府の命によりフランソワ・カロン在任中に取り壊され、長崎の出島に移されました。

(二木紘三)

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