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歌の町

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:勝 承夫、作曲:小村三千三

1 よい子が住んでる よい町は
  楽しい楽しい 歌の町
  花屋は ちょきちょき ちょっきんな
  かじ屋は かちかち かっちんな

2 よい子が集まる よいところ
  楽しい楽しい 歌の町
  雀は ちゅんちゅん ちゅんちゅくちゅん
  緋鯉(ひごい)は ぱくぱく ぱっくりこ

3 よい子が元気に 遊んでる
  楽しい楽しい 歌の町
  荷馬車は かたかた かったりこ
  自転車 ちりりん ちりりんりん

4 よい子のお家が ならんでる
  楽しい楽しい 歌の町
  電気は ぴかぴか ぴっかりこ
  時計は ちくたく ぽんぽんぽん

《蛇足》 昭和22年(1947)8月にビクターから発売されました。発売されると、すぐヒットしました。

 この曲は4分の2拍子で、1拍がほぼ付点8分音符+16分音符の組み合わせになっています。『お富さん』でも述べましたが、こうした構成だと、スウィング感が強くなります。
 とくに歌詞が七五調だと、跳ねるような弾んだ感じになります。正確な七五調でなくても、おおむね7音と5音の組み合わせになっていれば、そうした効果が得られます。コーラスグループやアマチュアバンドのメンバーは、このような曲を「ピョンコ節」と呼んでいました。言い得て妙です。

 かじ屋や荷馬車、ぼんぼん時計は、ほとんど目にしなくなりました。4番の「電気」は電灯または照明器具の指していると思われます。
 そういえば、昭和20年代には、夕方になると、父親などが「暗くなったな。電気をつけよう」といっていたような記憶があります。電気≒電灯だった時代に比べると、エネルギーの消費形態はなんと複雑になったことでしょう。

 上の絵は、昭和35年(1960)刊行の『講談社の絵本ゴールド版童謡画集 2』に掲載された武井武雄の挿し絵です。

(二木紘三)

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コメント

本当に軽やかな気分になる歌ですね。
幼稚園で習いました(昭和30年)。田舎町でしたから、歌詞に出てくる「花屋」「かじ屋」「雀」、「荷馬車」も「自転車」も、すべて周りにあったなぁ。夕方になると「すずらん灯」がピッカリコと点くのです。その頃、電気は 五時、六時頃に来てましたね。台風がやってくるとなると、ホヤのランプ磨きを
やらされて・・・。手拍子を打って、スキップを覚えたのもこの「歌の街」だったかなぁ〜。
 都会風なオシャレなお店はひとつもない、小さな町でしたけど、活気溢れた小売店が並んだ明るい街でした。
 ・・今はシャッター街になっちゃったかなー・・。

投稿: かせい | 2014年7月 9日 (水) 00時27分

懐かしいです。昭和30年前後、私の町(村ですが・・)もその通りでした。

小学校の帰り道、かじやさんで、真っ赤に焼けた鉄が取り出されて叩かれているのを飽きずに眺めました。
舗装されていない道を馬車が通っており、馬の糞がぽたぽた落ちていました。
我が家には電球が二つあり、一つはお風呂場に、もう一つは居間につるされていました。居間の電球には紙を切り抜いた作った傘が掛けられていました。
柱には時計が掛けられており時々踏み台に登ってぜんまいを巻きました。正にちくたくぼんぼんぼんと鳴っていました。

電球が切れると小銭(子供には大金ですが・・・)を握って、近居のお店に買いにゆきました。
お店は普通の民家で、玄関のドアを開けると、土間や畳みの上に雑貨が並べてありました。

敗戦直後にこのような楽しい歌が生まれるとは、日本は素晴らしい国ですね。日本語も素晴らしいですね。

投稿: yoko | 2014年7月 9日 (水) 03時02分

私の父は戦時中、中島飛行機に勤務し、零銭を造っていたのを自慢していました。終戦後、出身地の田舎町に帰り、金属関係の仕事の経験を活かし、鍬や鎌などの農機具の製造をしていました。いわゆる村の鍛冶屋です。
小学校でこの歌を斉唱すると、決まって「かじ屋はかちかちかっちんな」という部分をみんなが大きく歌うのでとても恥ずかしい思いをした思い出があります。その父もすい先日十三回忌の法要をしました。

投稿: タケオ | 2014年7月24日 (木) 19時06分

私は戦後生まれで、面識もないのですが、戦艦長門の設計に携わられ、戦後の一時期郷里に帰られた方が近所にいらしたそうです。その方は海水を汲んで、風呂釜で焚き、塩を作っておられたそうです。目に見える仕事は良いですね。子供たちにとっては尊敬の対象だと思います。中学校の木工の実習で大工の息子が素晴らしいカンナがけをするのを見て目を見張りました。彼は勉強もスポーツも容姿も目を引く生徒ではなかったです。子供の時、腕の良い職人になりたいと思ったこともありました。思いは適えられませんでしたが、退職後、今はボランタリーで山の仕事に参加しています。汗をかき、木立の中で小鳥の鳴き声に耳を澄ますのも最高です。

投稿: yoko | 2014年8月 8日 (金) 12時33分

私が育った町に花屋さんはありません。この歌を最初にどこで知ったのか覚えていないのですが、なぜ花屋さんが”ちょきちょき ちょっきん”なのかが理解できず不満でした。「それ、床屋さんだよね?」、と反発してました。

小学一年生の頃百円玉を握って床屋さんに行っていた頃が思い出されます。散髪してくださったのはお店のご主人と息子さんです。その時息子さんはまだ十代だったと思います。髪は黒々ふさふさで、細くて、背が高くて、優しそうで・・・、好きで憧れていました。羽生結弦さんのようなイメージ、かな。散髪に行くとき、今日はお父さんだろうか、お兄さんだろうか、いつも楽しみでした。

しかしやがて床屋に行くのが辛くなりました。床屋の鏡に映る自分の顔が嫌になったのです。色が白くてのっぺりしてて、弱そうで・・・、前髪を額の前できちんと揃えて、整えられて出来あがる自分の顔が嫌で耐えられませんでした。そしてそれをお兄さんによって仕上げられてゆくのが、恥ずかしくて逃げ出したかったのです。散髪の後は町を歩くのも嫌で、学校にも行きたくなかった。それで、小学校の終り頃に別の床屋さんに鞍替えしたのです。

新しい床屋さんはおじいさんでした。散髪した私の顔の出来上がりは相変わらずだったのですが精神的には随分楽になりました。お兄さんに見つめられていなかったからでしょう。

時々お兄さんに会いたいなぁと思うこともありましたが、機会もなく、中学、高校が過ぎ去りました、そして町を去り、就職しました。たまに町に帰った時、お兄さんのお店の前を通り、赤白青のサインポールが回転しているのを見て、まだ営業されてるんだ、とホットし嬉しく思っていました。今度お店に入って挨拶してみよう、もう一度散髪もしてもらいたいなぁ、と思ったりしてました。

昨年、同郷の知人と会った時、「あの床屋さんまだ営業されてるかなぁ」、と尋ねてみました。」「亡くなったよ」という返事でした。
そうか・・・、あれからもう60年も過ぎ去ってしまったもんなぁ。もう一度散髪してもらいたかった」。悲しく悔やみました。

羽生結弦さんのようなイメージ、と言いましたが実はお顔はもう思い出せないのです。でも美少年だったような気がします。好きでしたから。彼の青年期、壮年期、老年期の姿は何も知らない・・・。ただ、お店のサインポールをみて、お店の中に彼がいる、いつか会いたいと思っていただけでした。少女のような憧れですね。

”歌の町”に相応しくない話で申し訳ありません。

投稿: yoko | 2016年4月 7日 (木) 00時11分

この歌を聴くと終戦直後の情景が目に浮かびます。焼け跡にバラックが建ち始めお店があちこちにできて、疎開先から子供たちも戻って、毎日、日暮れまで遊んでいました。道路はバスと、トラックが通り始め、殆どの人が自転車か徒歩でした。荷馬車もありました。男の子はかちん玉(ビー玉)やめんこ、女の子は縄跳び、マリつき、小遣い1日、5円、みかん水が1本3円、酢昆布1円、飴1つ1円、勉強なんてまったくしませんでした。「ご飯だよ」の声で家にかえり、麦やアワ、すぐとろけてしまううどんなどを食べました。良い子、悪い子、取りまぜでした。親の苦労など全く知らず元気であればいいの毎日でした。大人になって皆散り散りになりました。今はビルが立ち並び子供が全く見えなくなっています。皆の生死さえわかりません。良い町がきえてしまいました。楽しい町でした。「ごはんだよ~」どこかで聞こえるような気がします。

投稿: ハコベの花 | 2017年7月26日 (水) 15時32分

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