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ミラボー橋

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:ギョーム・アポリネール、作曲・唄:レオ・フェレ、日本語詞:薩摩 忠

1 橋はミラボー 川はセーヌ
  水も恋も 流れて行く
  思い出そう 喜びは
  苦しみ悩みに 続いて来たの

2 手に手をとり 向かいあえば
  二人の手の 橋の影を
  疲れはてた まなざしが
  波打ち渦巻き 音もなく流れる

3 時も恋も 滅びるもの
  流れて行く 水のように
  この物憂(ものう)い 人の世の
  歩みの遅さよ 激しい希望(のぞみ)よ

4 橋の柵に 寄りかかると
  遠い日々が よみがえるよ
  夕べの鐘 鳴り響け
  月日は流れる 私は……
  とどまる

    Le Pont Mirabeau

Sous le pont Mirabeau coule la Seine
Et nos amours
Faut-il qu'il m'en souvienne
La joie venait toujours après la peine

    Vienne la nuit sonne l'heure
    Les jours s'en vont je demeure

Les mains dans les mains restons face à face
Tandis que sous
Le pont de nos bras passe
Des éternels regards l'onde si lasse

    Vienne la nuit sonne l'heure
    Les jours s'en vont je demeure

L'amour s'en va comme cette eau courante
L'amour s'en va
Comme la vie est lente
Et comme l'Espérance est violente

    Vienne la nuit sonne l'heure
    Les jours s'en vont je demeure

Passent les jours et passent les semaines
Ni temps passé
Ni les amours reviennent
Sous le pont Mirabeau coule la Seine

    Vienne la nuit sonne l'heure
    Les jours s'en vont je demeure

《蛇足》 原詩は、フランスの詩人ギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire, 1880~1918)が1913年に刊行した詩集『アルコール』のなかの1作品。これにシンガー・ソングライターのレオ・フェレ(Léo Ferré、1916~1993)が曲をつけ、1953年4月に発表しました。
 『ミラボー橋』には、何人もの作曲家が曲をつけましたが、レオ・フェレのものが最も有名で、イヴェット・ジローなど多くの歌手がカヴァーしています。

 フランス近代詩のなかでもとりわけ人気のあるこの詩は、アポリネールが、画家マリー・ローランサン
(Marie Laurencin)との6年にわたる恋とその終焉を歌ったものといわれます。

 アポリネールは19歳のとき、母親や弟たちとともにイタリアからパリに出ました。父親はシチリア王国退役将校でしたが、ポーランド貴族の娘である母親とは正式な結婚ではありませんでした。
 同じ頃、パブロ・ピカソはスペインからパリに出てきて、モンマルトルの「洗濯船」
(Le Bateau-Lavoir〈ル・バトーラヴォアール〉と呼ばれる安アパートにアトリエを構え、制作活動を行っていました。

 洗濯船には、ピカソのほか、詩人で画家のマックス・ジャコブや、ドンゲン、オルランなど貧乏な画家たちが住み、創作に励んでいました。
 洗濯船という呼び名は、嵐になると、建物が揺れてキーキー鳴り、セーヌ川の洗濯船のようだというので、ジャコブがつけたものといわれます。

 洗濯船には、ドラン、ヴラマンク、ユトリロ、コクトー、マティス、モディリアーニ、ブラックなど、モンマルトルや南のモンパルナスに住む若い芸術家たちが出入りし、新しい芸術活動を創り上げようとする熱気に包まれていました。
 アポリネールもその1人で、とくにほぼ同年齢のピカソと親しくしていました。
 洗濯船は、日本の漫画史でいうと、トキワ荘のような存在ですね。
 モンマルトルに住んでいた若手の芸術家たちは、数年後、ほとんどがモンパルナスに移動しました。

 1907年5月、アポリネールは、クロヴィス・サゴ画廊で開かれたピカソの個展で、マリー・ローランサンに紹介されました。そのとき、彼女は23歳で、アカデミー・アンペールの画学生でした。
 その後、芸術家たちの集まりにローランサンを伴って現れるアポリネールの姿が、しばしば見られるようになりました。
 1908年には、アンリ・ルソーが、アポリネールとローランサンの肖像画をもとにした『詩人に霊感を与えるミューズ』と題する大作をアンデパンダン展に出品し、2人の恋愛は芸術関係者たちに広く知られるところとなりました。

 1909年10月、アポリネールは、パリ16区オートゥイユ地区のグロ街15番地に、翌年10月に同32番地に移りました。グロ街は、ローランサンが住むフォンテーヌ街37番地のすぐ近くです。
 オートゥイユ地区はセーヌ川の右岸にあり、左岸とはグルネル橋、ミラボー橋(写真)、ガリリャーノ橋でつながっています。セーヌが蛇行しているので、オートゥイユは川の西側になります。

 いずれにしても、ミラボー橋は、2人が行き来したり散歩したりするときに渡った思い出の橋だったはずです。

 橋の名前になったミラボーは、フランス革命の初期、貴族だったにもかかわらず、民衆の側に立って活動しましたが、革命が比較的穏やかだったうちに病死しました。病死しなかったとしても、ジャコバン政府によってギロチンにかけられたことでしょう。ジャコバン党のリーダーだったダントンでさえ、首を落とされたのですから。

 2人の恋は1912年の晩夏に終わりを告げます。その前年に起こった美術史上に残る大盗難事件をきっかけとして、ローランサンが急激に冷たくなったのです。事件のいきさつを見てみましょう。

 1911年8月21日、ルーブル博物館から、世界の至宝『モナ・リザ』が盗み出されました。その有力容疑者として、まず名前が挙がったのが、アポリネールとピカソでした。(ルーブルは、日本では美術館と呼び慣わされていますが、展示物の構成から、博物館と呼ぶほうが適切なようです)。

 なぜ、2人の名前が浮かんだのでしょうか。話は1907年に遡ります。
 ピカソは常々、イベリアの彫刻に対する傾倒を口にしていました。それを知ったアポリネールの秘書ジェリ・ピエレは、ルーブルからイベリアの彫刻をいくつも盗み出し、出所をいわずにピカソにプレゼントしました。喜んだピカソは、1体につき50フラン渡したといいます。

 ピエレはその後アメリカに渡りましたが、食い詰めて1911年に舞い戻り、アポリネールのもとに身を寄せました。
 無一文のピエレは、ルーブルから美術品を盗んで売るつもりだとアポリネールにいいました。驚いたアポリネールは、そんなことをしたら、家から追い出すときつく言い渡しました。
 すると、ピエレは意趣返しのように、ルーブルからフェニキアの小像を盗み出し、それをアポリネールのアパルトマンに隠しました。5月11日のことです。

 やがて、モナ・リザ盗難事件が起こります。ピエレは、謝礼を得る絶好の機会と考えて、アポリネールの作品をよく掲載していたパリ・ジュルナル社に行き、「ルーブルから美術品を盗むのは簡単だ。その証拠に、盗んだフェニキアの小像をある作家の家に隠した」と告げました。それは記事になり、パリ・ジュルナル紙に掲載されました。

 それを読んで仰天したのがアポリネールです。ピカソがピエレから彫像をもらったことを知っていたので、至急善後策を相談しようと、南仏に行っていたピカソを呼び戻しました。
 パニックになった2人は、馬鹿げた対策をいくつも考えたあげく、彫像をスーツケースに入れてセーヌに捨てるしかないという考えで一致しました。
 2人は深夜、スーツケースを持ってセーヌ河岸をさまよいましたが、刑事から尾行されているような気がして、どうしても捨てることができませんでした。

 午前2時頃、くたくたになって帰宅し、眠れないまま朝を迎えたアポリネールは、パリ・ジュルナル社にアンドレ・サルモン記者を訪ねました。そして、フェニキアの小像を引き渡すが、自分の名前は絶対出さないで、ルーブルに返還してほしい、と頼みました。

 翌日、「ルーブルから盗まれた彫像、本紙に引き渡される」という記事が同紙に載りました。それに飛びついたのが、モナ・リザ盗難の手がかりがまったくつかめず焦っていた警察です。警察は同社を奇襲し、サルモン記者を逮捕するゾと脅して、アポリネールの名前を聞き出しました。

 9月7日、アポリネールは、盗品隠匿および窃盗共犯の容疑で逮捕されました。予審判事の尋問を受けたアポリネールは、累が母親や恋人のローランサンにまで及ぶのを避けようと、あっさり罪を認めました。そして、矛盾する供述を繰り返したのち、モナ・リザはピエレが持って逃げたといったのです。アポリネールは、ラ・サンテ刑務所に留置されました。
 なお、フランスの予審判事は、日本の司法体系でいうと、検事のような役職のようです。

 ピエレがピカソのもとに足繁く出入りしていたことをつかんだ警察は、ピカソもモナ・リザ窃盗に関わりがあるものとにらみ、出頭させました。
 予審法廷で顔を合わせたアポリネールとピカソは、お互いに相手を知らないように振る舞いました。
 ピカソは最初虚勢を張っていましたが、予審判事の厳しい尋問が続くと、持ち前の男っぽさが消え、さらに「おまえは国際的美術品窃盗団の一員だな」と決めつけられると、崩れ落ち、すすり泣きながら、イベリアの彫刻が盗品とはまったく知らなかった、信じてほしいと懇願しました。

 そして、判事がアポリネールを指して「この男とは知り合いか」と尋ねると、ピカソは「知り合いどころか、一度も会ったことがない」と答えました。
 予審判事は、ピカソはモナ・リザ盗難に関係ないようだと判断し、釈放しました。

 アポリネールは留置し続けられましたが、9月9日、逃走中のピエレが、マルセーユから「アポリネールは無実だ」という手紙を予審判事に送ってきたこと、アポリネールの供述が二転三転して証拠もなかったことから、9月12日に釈放されました。

 予審法廷における振る舞いから、アポリネールとピカソの親友関係は終わり、以後つきあいはあったものの、冷え冷えとした間柄になりました。
 アポリネールにとってもっと痛手だったのは、留置中にローランサンの気持ちが冷めてしまったことです。1912年夏、アポリネールがオートゥイユを離れて、17区ベルティエ通りの友人の家に移ったことによって、ローランサンとの破局は決定的になりました。

 以上の後日談ですが、犯人はヴィンチェンゾ・ペルージアというイタリア人で、モナ・リザを盗む目的で塗装工としてルーブル博物館に入り、隙を見て盗んだものです。ペルージアは、事件から2年半後に逮捕され、8か月の懲役刑に処せられました。
 それから数日後に第一次大戦が勃発、アポリネールは入隊したものの負傷して除隊、1918年11月9日にスペイン風邪で病死しました。享年38歳。ペール・ラシェーズ墓地に眠っています。

 アポリネールと別れてから、ローランサンは画家としての評価を次第に高め、1914年にドイツ人の男爵オットー・フォン・ベッチェンと結婚しました。しかし、1920年に離婚し、以後はバイセクシャルとして過ごしたと伝えられています。

 パリに戻ったローランサンは、夢見るような少女像という独特の画風を確立し、売れっ子になりました。パリの上流婦人たちは、争うようにローランに肖像画を描いてもらったといいます。
 三好達治のエッセイ『ケシの花』の冒頭に、次のような一節があります。

 ケシの花はマリー・ロランサンの絵を思はしめる。後者はまた前者を連想せしめる。双方はかなげで、煙となって消えさうで美しい。はかなげといっても、それがきっぱりしてゐて、何やら凜としてさへ見える。

  1956年、心臓発作により死去。72歳。

《上記の記述は主として次の2つの文献を参考にしています。鈴木信太郎・渡邊一民編『アポリネール全集』(紀伊國屋書店)の年譜、John Richardson:’A Life of Picasso-Vol 2’(Random House)のうちモナ・リザ盗難事件に関する部分の抄録》

 『ミラボー橋』については、窪田般弥、福永武彦、飯島耕一など多くの人が訳しており、いずれも名訳ですが、私の頭にまず浮かぶのは、堀口大学の訳詞(下記)です。とくにリフレイン部分は、最初に読んでから50数年経ても、折に触れて自然に出てきます。
 いずれの訳詞でも、上のメロディでは歌えません。歌う場合は、薩摩忠の日本語詞でどうぞ。

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
わたしは思い出す
悩みのあとには楽しみが来ると

  日も暮れよ、鐘も鳴れ
  月日は流れ、わたしは残る

手に手をつなぎ顔と顔を向け合はう
かうしていると
われ等の腕の橋の下を
疲れたまなざしの無窮の時が流れる

  日も暮れよ、鐘も鳴れ
  月日は流れ、わたしは残る

流れる水のように恋もまた死んでいく
恋もまた死んでゆく
生命ばかりが長く
希望ばかりが大きい

  日も暮れよ、鐘も鳴れ
  月日は流れ、わたしは残る

日が去り、月がゆき
過ぎた時も
昔の恋も 二度とまた帰って来ない
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる

  日も暮れよ、鐘も鳴れ
  月日は流れ、わたしは残る

(二木紘三)

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コメント

私の大好きな詩です。多分高校1年生の時に教科書に載っていたのではないかと思います。曲が付いているのを今まで知りませんでした。アポリネールがこんな波瀾に満ちた人生を送ったのも知りませんでした。ただミラボー橋があまりにありきたりの橋だったのでがっかりした思い出はあります。「われらの恋が流れる」「月日は流れ 私は残る」今、しみじみと詩の意味が胸に沁み込んできます。

投稿: ハコベの花 | 2015年2月14日 (土) 09時35分

ハコベの花様
ハコベの花様の数々のコメントから物語が想像されます。
切ない恋愛名画ができますね。
30代の折にエキゾチックな美貌に恵まれたシャンソン歌手「金子由香利」に魅せられました。ジャケットを購入。
「ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ」彼女の深い声を繰り返し繰り返し聴きました。女は恋愛して、二人の娘の母となり平凡な日常を生きていても埋火を託っているものですね。あのときめきを再び~なんちゃって。
「夫婦となり月日は流れ
 我らの恋も無きが如くに流れ
 わたしは思い知る
 楽しみの後には苦しみが待っている」
 7人姉兄の末弟ながら転勤生活に老母を伴う運命を
 呪っていた私でした。
憧れの金子由香利さんのコンサートに行けたのは
今から15年前でした。S席、大枚8000円も叩いたのに、席は左端、しかも中段の。
音響も悪く、ささやくようなフレーズは聴こえず、歌い上げるフレーズは耳をつんざき~泣きたいりんごでした。
しかも、新幹線で二駅の当時の社宅に帰りました。
古希目前にして聴く「ミラボー橋」は一入心に沁みます。
シャンソンが大人の歌であることを今更ながらに思い知ったりんごです。
追記
彼女の再会も好きです。
金子さん以外のシャンソン歌手が歌ってる
庄内弁、山形弁バージョンの再会も味があります。

投稿: りんご | 2015年2月14日 (土) 14時54分

 私からすれば、1世代どころか、2世代ほど昔の人々の詩ではないかなと記憶しています。高校の時、教科書にもこの詩はなく、読書で、アポリネールを知りましたが、『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」に似た、良い詩だな、ていどの感想でした。
「で、その次はないの?フランスの詩というのは、このていどなの」という、生意気な高校生でした。
 カール・ブッセの「山のあなたの空遠く・・」が、落語で笑い話になる時代でした。これについては、笑う人が悪いのではなく、詩の言葉の寿命が短いということだと、ばくぜんと認識していました。

この詩の最後に
「月日は流れ 私は残る」(堀口 大学訳)
とありますが、それはどうかなとおもいます。
「私」も、変質して残ってはいないのではないか・・
「時代」が主役であり、命を持っていて、同時代人である「私」が、わずかな時間だけ、生命力を共有し、すぐに置いていかれる。時代からすてられた「私」はだんだん古びていく。
それゆえ、変わらぬ自分がいると考えるのは、、自分がそう思いたいだけの、おおいなる錯覚であるだろう、と考えます。

投稿: 浮舟 | 2015年2月16日 (月) 00時06分

浮舟様
詩の解釈は人それぞれであっていいと思いますが、「月日は流れ、私は残る」は、私は「月日はどんどん経っていくに、私は思い出のなかにとどまって」ととらえました。ローランサンとの痛切な破局の後に作られた詩ですから。いずれの聯も恋に関するヴァースで構成されていますから、時代は変わるが、自分は取り残されている、という恋に関係のない一般的な述懐ではないと思います。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2015年2月16日 (月) 00時19分

管理人さま
 <いつまでもたっても、大事なあの人を忘れられない自分がいる、とどまっている自分がいる。>
なるほど、です。
 少ないながらも、失恋の経験はあります。たしかに「置いてきぼりのさびしさ、残されたさびしさ」がありましたわ。(笑)
私、一般論から入るところがあります。味わうより、理で押してゆくという性分が・・(もはや治りませんが、心したいと思います)
ご指摘、感謝いたします。「なんたる愚見」と見過ごしてもよかったはずなのに、指摘いただくことで、二木先生と対話できました。それは先生の勇気でもあります。見過ごしても、なんと言うこともなかったはずです。対話できたことは、大変な幸せと思っています。
これからもビシビシと、お願いします。
懲りずに独断的見解を述べてみます。(笑)しかし、<文章をまず味わっているか、その上で吟味しているか、屁理屈はいかんぞと自省しながら>
けっして皮肉でも、負け惜しみでもなく、このブログの4年来の愛好者として、そう思うしだいです。

投稿: 浮舟 | 2015年2月16日 (月) 02時19分

ミラボー橋、色んな逸話の絡まる楽曲なんですね。
シャンソンなのでしょうか?
聴いた事、ないんです。
読んでみて、聴きたくなりました。
ピカソやマリー・ローランサンの作品が頭に浮かびました。

投稿: みやこ路快速 | 2015年2月16日 (月) 05時56分

二木先生、ハコベの花、浮舟様のコメントに啓発されるりんごです。
理知的なコメント、先生の的確な解説に
「雰囲気のりんご」は感銘の一方で穴があったら入りたい心境です。
みやこ路快速様
「ミラボー橋」は歌い上げるのではなく
曲に合わせての朗読です。
歌とは異なる魅力があり、時折聴いては涙にくれるりんごです。ユーチューブで簡単に聴けます。金子由香利さんのファンでした。例によって支離滅裂なコメントをお許しください。

投稿: りんご | 2015年2月16日 (月) 09時28分

“ミラボー橋の下、セーヌは流れる…” 学生時代はフランス文学を貪るように読みましたが、私は不覚にも二十代になってから初めてこの詩を知りました。何人の方も言及されておられる金子由香里さんの朗読でです。ところで、フランス革命以降のフランス近代史は、物語を読むように面白く、多くの固有名詞が記憶に残ります。しかしランボーとヴェルレーヌの例を挙げるまでもなく、この国における芸術家・文筆家同士の人間関係は時に滅茶苦茶になってしまうようです。我が国でも、一人の女性をめぐる中原中也と小林秀雄の葛藤や、柳原白蓮などの例もありますが。

投稿: Yoshi | 2015年2月20日 (金) 10時18分

彼等は過剰な愛を芸術に昇華させたのでしょうか。中原中也と小林秀雄の件も奇怪でしたが先日読了の「花筏」鳥越碧著にみる谷崎潤一郎と佐藤春夫の件、谷崎本人の恣意的な女性関係の華やかさにも圧倒されたものです。これも鳥越碧著と記憶してるが「女優」を読み島村抱月と松居須磨子の件にもただただ驚愕。つい昨日は井上洋子著{西日本人物誌「20」}柳原白蓮を読了。どっと疲れました。伊藤伝右衛門に同情致しました。飛躍するが有島武朗、波多野秋子の心中も世を騒がせ、凄惨な鬼気迫る現場(軽井沢の別荘)の描写が浮かんできます。アキコの名を持つ有名女性は愛欲に走った人が多い。白蓮の本名は燁子、異性愛、同性愛と世間を騒がせた青鞜の平塚雷鳥も本名は明子。奔放にして官能の歌を詠んだ略奪愛の歌人、与謝野晶子など。アキコさんアキちゃんごめんなさ~い。

投稿: りんご | 2015年2月20日 (金) 13時18分

続けてのコメントをお許しください。
松居須磨子伝「女優」の著者は渡辺純一でした。
彼の評伝ものは小説とは一線を隔し濡れ場は皆無で
史実に忠実と思われます。

投稿: りんご | 2015年2月20日 (金) 14時41分

 「ミラボー橋」の背景は複雑な人々の運命や思いがクロスしているということを知りとても勉強になりました。
金子由香利の朗読や低いソフトな歌もいいですね。特に1982年パリ・デルフイーヌ・スタジオ収録でC.インノセンツイ作曲といわれる「Adieu」は、彼女の中では最高にピアノと共に心に響かせてくれます。

投稿: 尾谷光紀 | 2015年2月21日 (土) 21時00分

続けてのコメントをお許し下さい
二木先生
このサイトを知れば知るほど先生に対しての敬意を深めるりんごです。心の襞に埋没していた歌の数々を蘇らせて下さったことに感謝しております。

尾谷光紀様
大切な忘れ物に巡り合えました。
Adieu昔あれ程愛した歌を忘れていたとは!
「眠ってる間に、夢見てる間に、時は時は過ぎてゆく」
思わず涙が込み上げました。この年になってこの歌がしみじみと胸に沁みてきます。まさに「時は時は短い」
眠ってる間に夢見てる間に古希目前となりました。
再会♪にも又涙致しました。シャンソンは人生そのもですね。

投稿: りんご | 2015年2月22日 (日) 22時33分

りんご 様
 25日でこうき(光紀)も高齢者になりますが、誰かのセリフ「人生下り坂 最高!」と正にそのものずばりの日常は、音楽フレンドやさつき盆栽仲間に囲まれてのボランティアがビタミン剤になっているようです。
また白蓮や秋子・須磨子・晶子等情熱が沸騰する方々の他、忘れてはならないのは『平城山』を作詞したといわれています北見志保子・・・夫で歌人の橋田東声の弟子で12歳年下の浜忠次郎との恋のはざまで、奈良の磐之媛陵(現在のJR平城山(ならやま)駅あたり)をさまよった際に詠んだ連作の1部に、平井庚三郎が1935年に曲をつけてこの名曲が生まれたとのことです。
 ‘10年9/5「奈良平城遷都1300年祭」で、薬師寺においてこの曲他9曲の奉納演奏(二胡・柳琴・キーボード・ソプラノサックス(自分))を致しました。
 命短し恋せよ乙女・・・若者よ恋をしろ身分やお金がなくっても恋すりゃ希望が湧いてくる・・・昔々誰かが歌っていましたが、あと短い下り坂は平和を願い周囲に感謝しつつ一歩ずつ・・・今の信条です。

投稿: 尾谷光紀 | 2015年2月23日 (月) 22時51分

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