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2016年1月29日 (金)

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:竹久夢二、作曲:小松耕輔

ふるさとの 山のあけくれ
みどりのかどに たちぬれて
いつまでも われ待ちたまふ
母はかなしも

幾山河 とほくさかりぬ
ふるさとの みどりのかどに
いまもなほ われ待つらむか
母はとほしも

《蛇足》 竹久夢二の詩に、作曲家で評論家の小松耕輔が曲をつけたもの。作詩の時期はわかりませんが、作曲されたのは大正8年(1919)、小松耕輔が35歳のときです。

 小松耕輔は東京音楽学校(現・東京芸術大学)出身で、日本初のオペラ『羽衣』を作曲したことで有名。学習院などで永く音楽教育に携わり、合唱活動にも貢献しました。

 成長して遠くに行った息子は、なかなか帰りません。いつ帰るかわからない息子を、母は待ち続けます。
 『谷間のともしび』では、息子が絶対に帰れない状況にいるとも知らずに、毎夜ランプを点して帰りを待ちます。ロシア歌謡『マリーナの鐘』では、母は出征した息子を窓辺に座って待ち続けます。必ず生きて帰ると信じて。

 戦争のない時代でも、息子はめったに帰りません。私がそうでした。そして、母が亡くなってから、『吾亦紅』のように、「仕事に名を借りたご無沙汰/あなたにあなたに謝りたくて」墓参りに帰ってくるのです。

 女性遍歴を重ねる男には、単なる色好みと、無意識に「母」を求め続ける男の2タイプがあると思います。"恋多き男"竹久夢二は、まちがいなく後者でしょう。

 詩のなかで「さかりぬ」は、漢字では「離りぬ」と書き、遠ざかること。
 写真は竹久夢二の生家。

(二木紘三)

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コメント

始めて聴いた歌です。歌は下手なので歌わずに聴いているだけです。でも歌詞の中の母の気持ちはよくわかります。母親にとっては息子は幾つになっても幼い子供と一緒です。男の子は不器用で要領が悪く心配の種が尽きず、いつも懐の中に入れておきたい存在なのです。遠く離れていれば尚更です。会えばすぐ口げんかになるのに、それでも傍にいて守ってやりたいのですね。私の母は兄を溺愛していたのでいつも母親に「あんたは継母だ」と言っていました。今、息子二人を持って母の気持ちが分からない訳ではありません。伊藤久男が歌っている「ふるさとの雨」「母あればこそ」も大好きです。私の母は私が中学の時に亡くなっていますので、懐かしいとか恋しい気持ちがありません。小さい時から冷めた目で母をみていました。母にとっては嫌な娘だったと思います。

投稿: ハコベの花 | 2016年1月30日 (土) 10時41分

続いての投稿お許し下さい。母が急に無くなって家事をする人が無いため、家政婦紹介所から家政婦さんが来てくれました。その中の一人、60代のおばさんが来たとき、夕方になると一目で極道と分かる男が我が家の前に立っていました。そのおばさんの息子でその日おばさんが働いた一日分の給料を取り上げに来ていたのです。働いても働いてもすべて息子にお金を取り上げられていました。他の家政婦に代わって貰ったのでそのあとの事はわかりません。悲しい母の代表だと思いました。親は子供が幸せなら自分の不幸は我慢できます。が食費まで取り上げる極道にだけはならないで欲しいですね。せめて老後は穏やかであります様に。

投稿: ハコベの花 | 2016年1月30日 (土) 19時35分

管理人様、ハコベの花さま、毎夜一度はページを開いて楽しいひと時過ごしております。説明の最後に「夢二」に関して書かれていましたので、80年代からの「夢二」との関わりを書かせて頂きます。岡山市内に【夢二郷土美術館】がございます。岡山の企業家が東京のある画廊で「夢二」の作品に出合われて以来各地にある「夢二作品」が集まってきた(所蔵家の談話)とのことです。見事な作品が展示されております。2000年以降は足を運んでいませんが今もさらに充実したことだと思っています。
企業家が惹かれた作品が、ほっそりとした和服の女性が土手に、座っている何気ない風景がですが、亡くなられたお母上をそこに見つけられて以来「夢二」収集に力を注がれました。偶然私たち数人が企業家のおばさまと言う方と懇意になり、岡山にたびたび足を運ぶたびに、企業家が直接解説して下さるという幸運に恵まれました。
特に最初に出会われた作品を紹介されるときの表情に、人とこういう芸術作品との出会いの「運命」と言うのも存在するのだと信じました。
その後「夢二の生家」も保存されました。その家には夢二のお姉さんが嫁ぐ時、夢二が見送った場所の柱に確か【墨で書いた字】があったはずですが・・・・・
あの日哀しい思いで書いた字を皆でそっとなでた思いでも、はるかかなたに・・・・。足の丈夫な間に頑張ってもう一度、尋ねようと決心しました。
長いメールで申し訳ありません。どうぞお許しを・・・・・

投稿: mitsuko | 2016年1月30日 (土) 22時17分

割り込みめくがご容赦下さい。
ハコベの花様のコメントに触れて遠い遠い記憶が蘇りました。46年前のことです。新婚の私が勤めていた米織の会社社長宅の婆やさんのことです。当時は母屋と工場と寮(女工さん達)が敷地内にありました。その住込みの婆やさん、今の私の年齢より若かったのではと思われます。文盲でした。
月に一度息子から金の無心の封書が届きました。
その度に読んでくれと頼まれました。「なんて親不孝な」と私は胸がつぶれる思いでした。僅か3年後、七人姉兄の末弟ながら転勤族の私たちは資力の乏しい姑を引き取りました。その姑に主人より10才の上の義兄が金を無心していました。若い私は許せませんでした。今になって姑の悲しみが理解できるようになりました。母というものは哀しいものですね。毎日のように亡き姑に詫びています。

投稿: りんご | 2016年1月30日 (土) 22時39分

同好の皆様 泣きのりんごの続投をお許しください。
今朝の「たれか夢泣き」の岩下様の「うた物語に辿り着かなかったら多分知らないままに終わっていたと思います」を拝読してここに参りました。
拙コメントがあって驚きました。すっかり忘れれていました。夢路の歌以上に二木先生の文章に惹かれるりんごです。私の理解力を助けてくれる存在です。
憧れ様
母の前に「長崎の鐘」を再読。あこがれ様のコメントに
又 泣きました。あこがれ様を泣かしめた吟二様のコメントはどの歌?「給食費が無いとて押し入れに頭を突っ込んで泣かれたお母さま」のことでしたね。私も泣いたことだけは覚えています。

今時の 学童の親は何でしょう。
給食費を払わずにパチンコや車 遊興費に派手に使うものが少なくないとか。なんでも給食費の回収率の悪い学校は給食の質が悪いそうですね。当地のような田舎では不払いは少なく。転勤してきた親が」「給食の美味しさに感動した由。

投稿: りんご | 2017年9月12日 (火) 09時05分

りんご 様

雨が降っています。薄暗くどんよりとした雨空を眺めているとよけいにメランコリックな気分になります。
つい3日前にぎょっとするような誕生日を迎えたばかりですが、母親というものは幾つになっても恋しいものですね。もう2時間もすれば、六甲に上がりますが、この年までなんとか元気に守ってくれてる母に感謝しながら、元気出して頑張ってきます。
京都検定2級の勉強も、合間にぼちぼちやっていますが、過去問1200問の平均点が76点とまだまだ不安な状態です(合格ライン=70点)せめて80点以上は確保できるようにしたいと思っています。
4年前とは、記憶力のレベルが圧倒的に違うことを痛感していますが、12月10日の試験日まで頑張ります。今までなにも誇れるものはありませんが、このチャレンジ精神だけは失いたくないと思っていますし、今は亡き母親に、せめてもの親孝行「京都散策」をプレゼントしてやれれば・・・なんてこじつけています。

投稿: あこがれ | 2017年9月12日 (火) 10時44分

徒然なる儘に不図この歌に辿り付き、最新の投稿が3年前ということに意外の感を受けました。母がテーマなのだからもっと盛り上がってもいいのにーーと。

此の歌も大好きですが、私のベストスリーは、
①母の歌(野上弥生子、下総皖一)➁里ごころ(北原白秋、中山晋平)③お母さん覚えていますか(北原節子、高田信一)。聴くたびに涙ぐましい思いになります。

4人の兄姉の後に5番目の末っ子に生まれましたが、母から格別に依怙贔屓された記憶もなく、どちらかといえば厳しい母でしたが、姉に言わせると「アタシたちに厳しかったけどお前はに甘かったね」となります。いつも私の方が勝手に甘えていたのだろうと思います。
学校で何か嫌な不愉快なことがあっても、帰宅して母の顔を見るとスッカリ安心して「ウン、大丈夫」とスッキリサッパリ青天白日の気分になるのは大学生になっても変わりませんでした。

親に反抗するという発想が元々なく、私には反抗期の経験がない。親に対して乱暴な口をきく、反抗するなどは不幸の極みである、と今でも考えています。
多分、私はマザコンでした。が、7年程前、ポプラ社の坂井宏先さんという社長さんが、ある雑誌で、
「最近は、マザコンはダメ男のような風潮がありますが、子どもはマザコンでいいんです。大いなるマザコンがいい。男の子にとって、母親というのは最高の恋人ですからね」と語っていられるのを読んで深く同感したのでした。

そんなこともあって私は童謡が迚も好きです。童謡は圧倒的に母と子の世界です。父が顔を出すのは私の知る限りでは次の3つ。
こいのぼり(やねよりたかいこいのぼり おおきなまごいはおとうさん)
里の秋
あした(お母さま泣かずにねんねいたしましょ 赤いお船で父さまのかえるあしたをたのしみに)

後はお母さんです。思い付くものを挙げると
「十五夜お月さん」「みかんの花咲く丘」「ないしょ話」「ふたあつ」「ママのおひざ」「やさしいお母さま」「肩たたき」「仲良し小道」
「ないしょ話」にはちょっと言葉がありません。

これにやや異質ですが、美空ひばり「私は街の子」、森進一「おふくろさん」、美輪明宏「ヨイトマケの歌」を加えてもいいかなと思います。

これに「死にたまふ母」でダメをおせば私の心は満足します。

一人で車に乗る時は大抵童謡を聴きます。運転席に収まった姿勢は母の膝に抱かれているか、ひょとっしたら母の胎内に戻った気持ちにしてくれる。童謡を聴きながら母に甘える。1909年に生まれ74歳で死んだ母もその時若い。私も幼い。母との思い出の断片が蘇る。
童謡はそんな母を何時の間にか時間をかけて、実際の母よりも尚一層母らしい像に彫琢していったようです。そして、それがある限り、私は自分の人生の幸せの温もりを味わい続けていけるのです。

2021年、年が明けると79歳が目の前ですが、こんな話は今日に至るまで妻や息子、娘にしたことがありません。つい「母」の歌に挑発されてしまいました。
私自身まだ老いさらばえた醜悪な外見を呈しているとは思いませんが、内心・外見不一致の文を綴ったような気がして少々含羞の思いあり、です。


投稿: 中川秀夫 | 2020年10月21日 (水) 12時13分

承前

もう一つ大切な、忘れてはならぬはずの歌を忘れていました。
小唄勝太郎の「勝太郎子守唄」(西条八十、佐々木俊一)です。

坊や今頃なにしてか ひとりおもちゃと遊んでか
父さんに抱かれてねる夜は お乳ほしかろ 寂しかろ

母を慕うて泣く声が 遠くきこえるこの夜更け
坊や許して母さんも 泣いて眠れぬ 旅の宿

趣味らしい趣味もなく5人の子供を育て平凡な主婦として終わった母が、不図、何気なく鼻歌のように口遊んでいたのがこの歌でした。母が歌ったのはこの一曲だけです。
仮構の歌の悲劇的な世界の感傷を楽しんでいたのかもしれません。この歌のような悲哀とは無縁の人でした。

母逝いてひと月ほどのこと、ある日の夕暮、車を運転していると、当時NHKの夕方の番組、広瀬久美子アナが仕切る「リクエストアワー」から突然「勝太郎子守唄」が流れてきたのです。聴くほどに涙が後から後から溢れ出てきます。また歯をくいしばっても抑えることが出来ない声が喉をついてきます。歔欷でも嗚咽でもなく号泣、慟哭の声。殆ど前が見えなくなりました。
母を喪った悲しみと、いま目の前が見えない危険とでパニックに陥りましたが、救ってくれたのは前方の信号機でした。涙の中に赤くなったのが分かりました。

何とか窮地を脱したのですが、今思うことは、あの時、何物にも邪魔されず、あの激情の涙と声に最後まで心ゆくまで身を任せたかったという仄かな心残りです。

投稿: 中川秀夫 | 2020年10月22日 (木) 11時37分

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