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愛のために死す

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞・作曲・唄:Charles Aznavour、日本語詞:土岐雄一郎

差し伸べる両の手を
すり抜けまた逃げて
からかう運命(さだめ)は ほほえむ
暗い闇のなかに 安らぎを求めて
さまようこのぼく
死ぬほど 死ぬほど
きみの夢を見ては
身も心もよじれ
うつろな夜 うつろな我が身
みんなは笑うだろう
だけどかまわないさ
きみのためならば 死んでもいい

引き出しを開ければ
愛の言葉の数かず
書き連ねた文字
そんなものかき集め まとめて
焼き捨ててしまえよ
残るはただ愛
心と心が見つめ交わすだけで
結ばれぬ恋なら
そんなものは だめな恋さ
きみの心は春 ぼくの心は秋
風は吹きすぎる
運命(さだめ)の喜び 死んでもいい


     Mourir D'aimer

Les parois de ma vie sont lisses

Je m'y accroche mais je glisse
Lentement vers ma destinée
Mourir d'aimer

Tandis que le monde me juge
Je ne vois pour moi qu'un refuge
Toute issue m'étant condamnée
Mourir d'aimer

Mourir d'aimer
De plein gré s'enfoncer dans la nuit
Payer l'amour au prix de sa vie
Pécher contre le corps mais non contre l'esprit

Laissons le monde à ses problèmes
Les gens haineux face à eux-memes
Avec leurs petites idées
Mourir d'aimer

Puisque notre amour ne peut vivre
Mieux vaut en refermer le livre
Et plutot que de le brûler
Mourir d'aimer

Partir en redressant la tete
Sortir vainqueur d'une défaite
Renverser toutes les données
Mourir d'aimer

Mourir d'aimer
Comme on le peut de n'importe quoi
Abandonner tout derrière soi
Pour n'emporter que ce qui fut nous, qui fut toi

Tu es le printemps, moi l'automne
Ton coeur se prend, le mien se donne
Et ma route est déjà tracée
Mourir d'aimer
Mourir d'aimer
Mourir d'aimer

《蛇足》 シャルル・アズナブール(Charles Aznavour 1924年5月22日- )が1971年に発表したシャンソン。
 この曲は、1969年に起きた高校の女性教師と生徒との恋愛事件にインスピレーションを得て作られたものといわれます。フランス中を騒然とさせ、保守派と進歩派との論争を巻き起こしたのは、次のような事件でした。

 ガブリエル・リュシエ(Gabrielle Russier)は1937年4月29日生まれ。31歳のとき離婚し、ふたりの子どもとの生活を安定させるために、マルセイユ北地区のサン゠テグジュペリ高校に文学の教師として就職しました。
 彼女の授業は、一方的に講義するだけでなくで、車座を組んで討論させたり、喫茶店で雑談したりといったユニークなもので、生徒たちに大変人気がありました。

 生徒のなかにクリスチャン・ロッシ(Christian Rossi)という16歳の少年がいました。彼は、同級生たちに比べひときわ大人びており、意見発表なども才気あふれる話し方をしました。ガブリエルは、次第に彼に惹きつけられるようになりました。
 2学期の終わりには、2人は愛し合うようになっていました。

 クリスチャンの父親は、エクス゠マルセイユ大学(注1)の教授で、ガブリエルの授業のおもしろさについて熱を込めて語るのを、母親ともども喜んでいました。が、両親は次第に2人の関係に危険なものを感じるようになり、彼女の授業への出席に反対するようになりました。

 夏休み、ロッシは級友とイタリアとドイツにヒッチハイクで旅をしてくると両親に告げましたが、実際に同行したのはガブリエルでした。それを知った両親は、ただちにガブリエルとの関係を断つように命じましたが、クリスチャンはこれを拒否して、ガブリエルと同棲し始めました。

 1968年10月15日、両親は少年裁判所に提訴。判事は調停案として、クリスチャンをスペイン国境に近い町のアルジェレス高校という寄宿学校に転校させると決定しました。
 互いに手紙を書くことができるし、万聖節
(11月1日)にはガブリエルと逢うこともできるという条件でした。しかし、実際にはガブリエルの手紙は、両親の意を受けた学校当局によって、クリスチャンには渡されませんでした。

 とうとう、クリスチャンは自殺すると学校当局を脅し、ガブリエルにもそう書きました。衝撃を受けたガブリエルが、クリスチャンを学校から連れ出そうとすると、学校の通報によって駆けつけた憲兵隊に逮捕されてしまいました。
 ガブリエルは、まもなく釈放されましたが、クリスチャンと逢うことはできませんでした。

 11月16日、クリスチャンは脱走し、サン゠テグジュペリ高校の親友の家に隠れ、そこでガブリエルと落ち合いました。
 その15日後、クリスチャンの父親は、未成年者誘拐の罪でガブリエルを告訴しました。1968年12月、予審判事
(注2)は、未成年者誘拐罪で公判相当と決定し、彼女を勾留(注3)しました。

 クリスチャンは、少年裁判所の判事に付き添われて出頭し、「わたしは誘拐されたのではなく、自らの意志で出たのだ」と異議を申し立てたので、ガブリエルは5日後に釈放されました。
 しかし、クリスチャンは別の学校に転校させられ、さらに両親の要求により精神病院で睡眠療法を受けさせられました。

 退院後、休養のためとして、遠方の祖母の家に移されましたが、厳重な監視の目をくぐって逃げ出し、ガブリエルの許に走りました。
 2人が頻繁に会うのを止めなかったので、ガブリエルは数日間勾留され、さらにクリスチャンの居場所を明かさなかったため、1969年4月25日から1か月と20日間勾留されました。

 クリスチャンが隠れ、ガブリエルと逢っていた場所は不明です。下記の映画では、石切場となっていますが、それが事実かどうかはわかりません。
 勾留中、ガブリエルはエクス゠マルセイユ大学に言語学助手の求職願を提出しましたが、それは学長によって拒否されました。

 ガブリエルには、地元はもちろん、全国から批判や非難が寄せられ、各地の新聞やラジオ、テレビの記者たちが、次々と取材に訪れました。サン゠テグジュペリ高校の父母たちは、2人を引き離して醜聞を消すよう、学校当局に迫り、署名運動を行いました。

 1969年7月10日、ガブリエルはマルセイユの軽罪裁判所に出頭を命じられました。検事は禁固1年を求刑しましたが、判決は執行猶予付きの禁固1年でした。ただし、ガブリエルは、罰金500フランとクリスチャンの両親への慰謝料1フランを納付しなければなりませんでした。
 カトリック保守派が支配するエクス゠マルセイユ大学理事会は、この判決は軽すぎると不満で、その圧力のもと、検事は控訴を決めました。

 同年10月の控訴審の前から、ガブリエルの精神状態は悪化し、抑鬱症状を示すようになっていました。勾留中、とくに求職願が却下されたころから、検事や予審判事、生徒の父母たち、大学の理事会など、社会全体が自分を敵視し、憎んでいると感じるようになっていたようです。

 心配した父親は、付き添いをつけて保養所に入れ、気分転換を図ろうとしましたが、むだでした。ガブリエルは、マルセイユの自分アパートに戻り、9月1日、ガス管を加えて自殺したのです。32歳でした。
 彼女は、大統領恩赦の対象になっていたともいわれます。これが非公式にでも伝えられていたら、自殺はしなかったかもしれません。

 次の日、生徒との恋愛が原因で高校の女性教師が自殺したという短信が、2つの新聞に載りました。あれだけ2人の恋愛や裁判について騒いだテレビやラジオは、ほとんど無視していました。
 しかし、彼女の死が全国に伝わると、有識者の間で批判が巻き起こりました。
 1969年は、前年の五月革命
(『圭子の夢は夜ひらく』参照)によって、旧来の政治・社会・文化的な制度・習慣が根底から揺さぶられ、それがようやく沈静化した時期でした。

 そこで、"ガブリエル事件"は、女性の権利や性的自由、プライバシー、成年と未成年、家族制度、学校教育、司法など、社会的現実や規範に対してどういうスタンスを取るかの指標になったのです。
 ノーベル生理学・医学賞受賞者のジャック・モノーやフランソワ・ジャコブ、著名な作家やジャーナリストたちは、判決の不当性を訴え、裁判のやり直しを求める人びとの先頭に立ち、法務省への請願書に署名しました。
 保守派の人びとは、もちろん判決や・エクス゠マルセイユ大学理事会の動きを支持しました。

 五月革命のあと、「新しい社会を作る」と約束して大統領選に当選したジョルジュ・ポンピドーは、新聞記者からこの事件について感想を求められた際、慎重に言葉を選びながら、「この件について私がどう思ったか、何をしたかについては何もいうつもりはない」といったあと、ポール・エリュアールの詩の一節を引用しました。
 それは、1944年、パリがナチス・ドイツから解放されたときに発表した"Comprenne qui voudra"という詩の一節でした。
 下記は、全5聯のうちの最初の聯です。

Comprenne qui voudra
Moi mon remords ce fut
La malheureuse qui resta
Sur le pavé
La victime raisonnable
À la robe déchirée
Au regard d’enfant perdue
Découronnée défigurée
Celle qui ressemble aux morts
Qui sont morts pour être aimés

解りたいものには解るだろう
このわたし わたしの悔恨
それは 舗道のうえにのこされた
あの不幸な女だった
服をひきさかれて
まよい子の眼ざしをして
冠をもぎとられ 顔をねじくられた
もっともないけにえ
愛されるために死んだ
死者たちに そっくりな女

(高村智編訳『自由Ⅱ ポール・エリュアール
第二次大戦期詩集』北洋社 1972)

 この詩には、詩人自ら書いたコメントがついています。それに歴史的事実を加えてパラフレーズしてみましょう。

 エリュアールは、早くから反ファシズム運動に携わり、フランスがナチス・ドイツに占領されると、パリ市内や田舎の隠れ家を転々としながら、反独活動に挺身しました。ゲシュタポに捕まると必ず死刑にされる危険な活動であり、実際、彼の仲間の詩人や文学者のなかには、ゲシュタポに殺された者が何人もいました。

 パリ解放後、田舎から戻ってきたエリュアールは、グルネル街で無残な光景を目にしました。何人かの女たちが理髪店の外で丸刈りにされ、さらし者にされていたのです。そこに集まった人びとは、彼女たちを罵り、あざ笑い、つばを吐きかけ、足蹴にしたりしました。対独協力者への懲罰として行われた行為でした。

 しかし、彼女たちの大半は、生活ために掃除婦や洗濯婦、料理人としてドイツ軍人のもとで働いていたにすぎませんでした。なかには、ドイツ軍に強要されて情報を伝えた者もいましたが、それはうわさ程度のゴミ情報でした。彼女たちは生活に手一杯で、彼らの役に立つような情報を入手できるポジションにはいなかったのです。

 女性へのこのようなリンチは、フランスだけでなく、オランダやベルギーなどドイツに占領されていた町や村でも行われました。ドイツ軍人と恋仲になったり愛人になったりした女性のなかには、丸裸でさらし者にされた者もあったといいます。

 エリュアールは、みんなが正義と信じて疑わないこうした行為のいかがわしさ、いいかえれば"正義の相対性"を指摘するためにこの詩を作ったのです。
 相思相愛だったのに、旧来のモラルや社会規範に従ってガブリエルを一方的に非難したのはおかしい、とポンピドーはいいたかった。
 しかし、彼は保守系の政治家でしたから、保守派の反発を招くようないい方は避けたかった。そこで、詩を引用するという方法で、自分の考えを婉曲に表現したのでしょう。

 それにしても、恋愛事件というより社会的事件についてコメントを求められると、このような詩がすっと口から出てくる点、彼我政界リーダーの教養や言語表現力の差にしばし呆然とします。ミゾユウやデンデンではねえ。

 後日談を少しばかり。
 ガブリエルの死後、クリスチャンは両親によって精神病院に入れられ、そこを出たあと、マスコミの攻勢を避けるために、牧師のミシェル・ヴィオーに引き取られて隠されました。

 病院を出てヴィオー牧師の許に移るほんのわずかな時間に、ある記者が彼のコメントを取るのに成功しました。クリスチャンはこういったといいます。
 「ガブリエルの死にぼくは責任はない。彼女を殺したのは硬直した社会であり、ブルジョワの僕の両親だ」

 ガブリエルの遺体は、そのヴィオー牧師が取りしきった葬式のあと、パリに運ばれ、ペール・ラシェーズ墓地に葬られました。

(注1)現在のエクス゠マルセイユ大学は、周辺の数大学が合併して2012年に創設された公立大学。
(注2)検察官の公訴提起を受けて、被告事件について捜査・尋問を行い、公判に付すべきかどうかを決める役割。
(注3)勾留は判決が確定するまでの間、被疑者・被告人の身柄を拘束しておくこと。拘留は禁固刑より軽い刑罰。

 この事件は、1971年、アンドレ・カイヤット監督により、『愛のために死す(Mourir D'Aimer)』というタイトルで映画化されました。
 一足先にリリースされたアズナブールの同名の曲は、音楽監督ルイギの意見で国内版のサウンドトラックには入れられませんでしたが、海外版には入りました。
 アズナブールの曲名も映画の題名も、ポンピドーが引用した聯の最後の行"morts pour être aimés"から発想されたものだろうと思われます。

 『愛のために死す』の日本語詞としては、ちあきなおみが歌った下記の詞が有名です。ただし、これはよくある男女の別れ歌で、上記の詞のほうがガブリエルとクリスチャンの恋を反映したものといえます。

日本語詞:水谷啓二、唄:ちあきなおみ

2本目の煙草に あなたは火をつける
それを喫ったなら 行くのね
ほんの少しの時間(とき) それはあなたの為?
いいえ 私への優しさ?
いいのよ 気をつかわなくても
どうぞ お行きなさい
あの女(ひと)の待つ処(ところ)へと
今夜かぎりだけど 特別な言葉は
かけずに送るわ あなたを

別離(わかれ)を美しく 飾り立てるほどに
若い心など 無いのよ
あなたと暮らし出す とうの昔にもう
そんな幼さは 捨てたわ
いいのよ 全て捨ててしまう
だから 忘れた頃
電話かけたりしないでね
今夜一晩だけ 昨日(きのう)をそのままに
主人(あるじ)を失くした 愛さえ

いいのよ 何も残さないで
だけど この心は
持ち去らないで出て行って
明日の今頃は きれいに忘れるわ
きっと忘れるわ
忘れてみせるわ あなたを

 生徒と女性教師との恋といえば、マクロン・現フランス大統領とブリジット夫人の関係が思い浮かびます。

 既婚のブリジットが私立高校の教師をしていたとき、15歳のマクロン少年を知ったのが1992年。マクロン少年がブリジットに求愛したのがその2年後の17歳のとき。そのあとに関係ができたと思われますが、クリスチャンとガブリエルのような問題にはなりませんでした。
 2人が冷静に事を運んだためか、社会の規範が変わっていたためかはわかりません。

 マクロン29歳、ブリジット54歳のとき、2人は結婚しました。年齢差25歳。ブリジットには、前夫との間に、高校でマクロンの同級生だった娘がいます。

(二木紘三)

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コメント

始めて聴きました。切ない歌ですね。
アズナブールは健在との由。嬉しいことです。

投稿: Hurry | 2017年7月29日 (土) 09時13分

 聞き覚えのあるメロディをバックに『蛇足』の名文を読みました。考えたことをすこし・・。
 先生と生徒の恋愛は時々話題になる。モラルに外れた許されざる行為という聖職論に多くの人が同調する。
とくに女の先生がそういう関係になると「年増が若い男の子をたぶらかした」というニュアンスも加わって非難される。女性の人生の生き辛さがうかがえる。
『欲望という名の電車』の主人公ブランチには、自分の学校の生徒に手を出して町を追放されたという過去がある。札付きの中年女を描き出すのにぴったりの履歴のようだ。
 私のように「先生も人間、年上の女も木石じゃない」とわりきれば、あまり問題もないと思うが、風紀の乱れを憂うる人がいる。真面目ですこし頑固な人だ。個人の問題に口を挟むなと思うのだが、真面目な人は、自分が正しいと信じているので、主張を曲げないし、自分を疑わない。とくに性の問題は、真面目な人ほど、性を抑圧的に考える傾向があるようで厄介だ。
 教師ガブリエルが、世間から指弾され、精神的に追いつめられていく様子はじつに痛ましい。彼女の死によって、はじめて有識者たちが、覚醒したかのようにゆっくりと動き出す。私は、なにをいまさらといった気持ちにしかなれなかった。似たような事件がおこれば、人々は前の事件をまったく忘れて、またモラルを守れという主張の尻馬に乗るだろうと思うのだ。
 「マクロン現フランス大統領とブリジッドの間に、ガブリエルのような非難はおこらなかった、なぜだろう」という二木先生の問いかけがあった。「時代が変わったのか、二人がうまくやったのか」という先生の推定もなるほどですが、私見を・・。 
 マクロンは、パリ政治学院、国立行政学院を卒業し、フランス財務省の財政監察官を勤めるエリートで、結婚した時、すでにエスタブリッシュメントの仲間入りをしていた。大衆というか、世間というか、匿名でうごめく不気味な人々は、一介の無名の教師や学生なら容赦なく非難し、叩くが、エリートに対して陰口はしても、表立っては叩かない。すでに劣等感という呪縛をうけているから叩けないのだ。無名の無力な相手だからこそ安心して叩く、嵩にかかったように攻撃し、生贄のように追いつめることをする。世間、大衆のもつ狂気について考えさせられた名文でありました。

投稿: 越村 南 | 2017年7月30日 (日) 16時19分

この歌の蛇足を読みながら私は愛する人のために死ぬことが出来るだろうかと思いました。そんなに深く人を愛したことはなかったと気が付きました。
ブリジットさんは勇気がある人ですね。私は自分が年を取って肌が汚くなり、皺が寄ったりする姿を若い彼にみられたくありません。自分が惨めになります。耐えられないと思います。それを堂々と乗り越えて恋を貫くなんて根性の座り方が並みではありません。こんな強さを持っていたら、20年前にやっと巡り合えた32歳年下の私の理想の青年と一緒に神田の古本屋街を巡って見たいと思います。「ぜひ東京に来てください」と言われているのに、その青年に悪いからと我慢しています。女性が年を取るってそういうことなのです。ブリジットさんは素晴らしい!!

投稿: ハコベの花 | 2017年7月31日 (月) 16時42分

美しくて悲しい曲ですね。ずいぶん昔によく流れていた懐かしい曲です。私は映画、演劇、演奏会に行かず、家でテレビ、ラジオ、レコード等に触ることもありませんでしたのできっとどこかの喫茶店で聞いていたのだと思います。二木先生に背景の実話を教えていただき、メロディの美しさも悲しさも一層しみこみます。

小学生の時の塾の先生と結婚された女性のことを思い出しました。こんな恋もあるんですね。お二方を祝福し、お幸せをお祈りしたい気持ちになりました。

また小学校で私の担任であった男先生のことを思い出しました。
先生は学期途中で急に学校にいらっしゃらなくなりました。担任は交代の先生になりました。理由はわかりません。このことについては話さないようにとかん口令もなされていたと思います。一度漏れ聞いた話ですが、先生がクラスのある女の子を贔屓している、と女の子たちの間で広まり、父兄から学校に苦情が上がった、と聞いたことがあります。

私は先生のことが心配になり年賀はがきをお送りしました。先生からお返事をいただきました。先生は元気にしていらっしゃる、とホッとした覚えがあります。

投稿: yoko | 2017年8月 1日 (火) 23時07分

 アンドレ・カイヤット監督の『愛のために死す』を日比谷の映画館で観ました。主演はアニー・ジラルドでしたね。
 テーマ曲はアズナブール歌唱のものだったようですが、その頃私はまだアズナブールを知らなくて、曲はとても印象に残りました。 主演のジラルドは本国フランスでは人気のある演技派女優ですが、日本では玄人好みファン以外、あまり知られていない女優でした。  ドヌーブやバルドーのような大衆受けする容姿と違い、知性を含んだやや陰のある容貌をしてましたね。この映画でも苦悩と葛藤に揺れる女教師を上手く演じてたと思います。21歳の私には内容的には、感情移入が難しく、3流館に流れてから観直すか…と思わされた映画でした。 アズナブールのピアフ譲りの独特のビブラート唱法がちょっと苦手なので、インストゥールメンタルで聴くようにしてます。
 ジラルドは名女優として、本国では惜しまれつつ亡くなりましたが、アズナブールのほうは、92歳の昨年来日ツアーをこなして、元気バリバリです。私は役者としてのアズナブールを買っています。『ブリキの太鼓』のときのユダヤ人の演技はすばらしかったです。

投稿: かせい | 2017年8月 2日 (水) 01時18分

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