« 五番街のマリーへ | トップページ | 黒い花びら »

野球小僧

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:佐伯孝夫、作曲:佐々木俊一、唄:灰田勝彦

1 野球小僧に 逢ったかい
  男らしくて 純情で
  燃える憧れ スタンドで
  じっと見てたよ 背番号
  僕のようだね 君のよう
  オオ マイ・ボーイ
  朗らかな 朗らかな
  野球小僧

2 野球小僧は ウデ自慢
  凄いピッチャーで バッターで
  街の空地じゃ 売れた顔
  運が良ければ ルーキーに
  僕のようだね 君のよう
  オオ マイ・ボーイ
  朗らかな 朗らかな
  野球小僧

3 野球小僧が なぜくさる
  泣くな野球の 神様も
  たまにゃ三振 エラーもする
  ゲーム捨てるな 頑張ろう
  僕のようだね 君のよう
  オオ マイ・ボーイ
  朗らかな 朗らかな
  野球小僧

《蛇足》 昭和26年(1951)の大映映画『歌う野球小僧』(渡辺邦男監督)の主題歌で、レコードはビクターから発売されました。

 無類の野球好きだった灰田勝彦が、久米正雄の新聞小説をもとに企画し、自ら主演を務めたミュージカル仕立ての野球映画。
 小僧というと男の子を思い浮かべますが、この映画での小僧は、商店などで御用聞き
(注文取り)や配達などをする青少年のこと。『サザエさん』に出てくる三河屋の三郎さんのような若者ですね。もちろん、中学を卒業したばかりのような少年もいました。

 灰田勝彦が演じたみなしごの早田克太も、叔父のクリーニング屋で働く店員でした。映画は、早田克太がエースで四番を務める小僧チームが強豪のライバルチームと戦って勝つという筋書き。たわいないといえばそれまでですが、まあ、明るく楽しい映画です。

 灰田勝彦は、その人好きのする性格から人脈が広く、野球界にも友人・知人が何人もいました。その縁で、毎日オリオンズや大映スターズの選手たちが出ています。

 野球といえば、小学校低学年のころは、三角ベースをよくやりました。塁が本塁・一塁・二塁の3つだけだったので、三角ベースといったのです。
 ピッチャーが下手投げで投げたゴムボールをバッターが手のひらで打つ、というのが基本ルールで、そのほかのルールは、参加人数によって適宜変わりました。道具はゴムボールだけで、ちょっとした空き地があればできました。貧しかった時代の子どもの遊びです。

(二木紘三)

|

« 五番街のマリーへ | トップページ | 黒い花びら »

コメント

ハイカツと言えば野球小僧・野球小僧と言えばハイカツまさに独壇場でした。昔は三角ベースで日暮れまでヘボ野球熱中でした。
戦後、高校野球、大学野球、ノンプロ、プロ野球が“復興”。ノンプロでは昭和34年都市対抗優勝の丸善石油がどういう訳か印象に残っています。
しかし今は、セリーグは4球団(巨人、阪神、中日、広島)のみ昔からの球団名、パリーグは昔の球団名(南海、西鉄、大毎、東映、阪急、近鉄)は消滅で、大阪発祥ホークスが福岡、福岡発祥ライオンズが所沢・・・様変わりです。
http://www.youtube.com/watch?v=x9s9PAPodtM

投稿: 焼酎 | 2017年10月24日 (火) 20時06分

懐かしい歌を有難うございます。

昭和20年代後半小学生だった私たちは焼酎さんたちと同じく毎日「野球」ばかりやっていました。
田舎育ちでした。野球のバットやボール、グローブを買うお金もなかったので、まっすぐな棒、布や芋がらで作ったボール、手袋を何枚も重ねて ミット変わりにしていました。
5年生の時、サンタクロースが枕元に「グローブ」を置いてくれた嬉しさは今でも残っています。。(父の粋な計らいだと思いますが・・)

西鉄ライオンズの熱狂的ファンでした。ラジオから聞こえる野球中継に耳を傾けていました。そのうちに力道山や木村政彦、ルーテーズなどプロレスブームになりましたが 私は野球一辺倒でした。

投稿: けん | 2017年10月24日 (火) 21時39分

焼酎さんけんさん有難う。お陰様で与那嶺とか川上、西沢なんて名選手の時代を思い出しました。あの頃僕ら悪ガキもやっぱりつぶれたゴムまりもどきで野球をやりました。ゲッツーなんてあれは英語だなんて知りませんでした。それから懐かしい木村政彦さん。マラカナンの悲劇の翌年ヒクソン・グレイシイのおじいさんと戦った木村ロック。今でも語り草と思います。そういえば数年前「木村政彦は何故力道山を殺さなかったのか」などという物騒な題の本が出ましたね。内容は冷静な表現で穏当なものと思いました。話変わっておおとといの村田もいずれ英雄として名が残るのでしょうか。やっぱりスポーツは良いですね。もっともこの頃は二・ニ六事件の本を漁っています。軍隊の英雄たちの実像は如何なのでしょうか。そして選挙の英雄たちは。

投稿: 林 滋 | 2017年10月25日 (水) 13時58分

戦後すぐの頃は空き地が一杯で、子供たちがあちこちで野球をしていましたね。兄たちがタコ糸を巻いてボールを作ったり、グローブも厚地の布で作っていました。私は今の野球には全く興味がありません。高校野球もプロ野球も上手すぎてエラーがめったにないからです。でも、この歌は小さいころから好きでした。さわやかでとても楽しいですね。私はエラーや三振がある野球が好きです。人間も完璧な人はちょっと敬遠したいですね。面白味がありません。そういえば山本ハチローさん、よくケンカしていましたね。面白かったです。真面目な野球好きの方すみません。

投稿: ハコベの花 | 2017年10月25日 (水) 20時44分

ハコベの花様 女性で山本ハチローさんをご存知の方がいらっしゃるとは嬉しい限りです。昭和30年代の東映フライアーズで大活躍でした。おっしゃるように闘志溢れすぎてよくケンカをしましたがファンとしては憎めないキャラクターだったと思います。同期に巨人軍へ入った坂崎などがいた浪華で優勝もあったと思います。懐かしい選手を思い出させていただき有難うございました。”私の”野球小僧時代ですが、今も不思議に思うのはあんなに日暮れまで街中で野球をしたのに近所の家のガラスを割ったり木の枝を折ったりという思い出がないことです。焼け野が原の空き地で子供野球なのとボールが破れたゴムまりを繕ったもので打っても遠くまで飛ばなかったためでしょうか。他にメンコやビー玉、ベーゴマそして冬は学校の休み時間の日当たりでのけん玉等随分子供ながら充実していました。女性の方は小学校時代どんな遊びをしましたか。よくゴム飛びとかたま突きを見かけました。勿論一緒に遊んだことはありませんでしたがたま突きの時の歌が思い出されます。
 轟く砲音飛び来る弾丸 荒波寄するデッキの上に
 ・・・・・
 杉野は何処  杉野は居ずや
当時は歌の文句も題名も知りませんでしたがずっと後になって「広瀬中佐」の歌と知りました。昭和20年代中頃の田舎町の小学校のことです。タイムスリップのマシンがあればいいなと思います。

投稿: 林 滋 | 2017年10月26日 (木) 14時02分

“暴れん坊東映”と言われた東映フライヤーズ山本八郎(別名ケンカ八郎)、浪商で同期だった巨人坂崎まったく懐かしい名前です。暴れん坊東映はハチローに毒島に吉田勝豊に張本・・・一くせも二くせもある暴れん坊でした。
昭和30年代当時は南海と西鉄の全盛期でしたが大毎のファンで、ミサイル打線と謳われた榎本・山内・葛城の打撃は豪快でした。それにしても女性で山本八郎の名前を知っているのは実に珍しいです。

投稿: 焼酎 | 2017年10月26日 (木) 17時37分

この曲久し振りに懐かしく拝聴いたしました。
明るくて爽やかに、まるで野球の球が大空を舞いあがるようで心が躍るようです。
私も灰田勝彦の大フアンで、彼独特の声の何とも言えない美声に惚れ込んでいる一人でもあります。
この曲にコメントされておられる諸氏の方々は、子どもの頃から草野球などに親しまれ野球通に感じられ羨ましくさえ思います。
小生は、子供のころからスポーツが苦手で(勿論、野球もですが)
学生時代、体育の時間が苦になり早く終わればと思ったこともしばしばあったことを思い出しております。
ところで、本日夕方のテレビニュースでは、プロ野球ドラフト会議で、早実の清宮幸太郎君が日本ハムに1位指名され笑顔で会見する姿が印象的でした。
野球に疎い私でさえ・・・頑張れ!頑張れ!清宮幸太郎君!
と応援したい!
福岡ドームでのソフトバンクとの試合を楽しみにいたしております。

投稿: 一章 | 2017年10月26日 (木) 21時42分

三角ベースは小学校1~2年生の頃何度か近所の子供たちで集まって遊んだことがあります。幼稚園の時はなかった遊びで、少しお兄ちゃんになったんだんだなぁ、という気持ちになれました。

空き地の隅に小さな小屋の便所があり時々ゴムボールが転がってその便所の壷にポチャンと落ちました。「ウエー、キタネエー」と言いながらもゴムボールは貴重です。棒切れで拾い上げて地面を転がし、土と砂でボールをまぶし、近くの川で洗って再使用しました。

5~6年生になると野球仲間のグループができました。私は引きこもりで級友が遊びに声をかけに来ても知らんぷりで返事をせず居留守を使っていました。

ある日母が野球帽とグローブを買ってきました。私は欲しいとも買ってくれとも言っていないのにです。母は、私に、「家の中に閉じこもっていないで外に出て皆と一緒に遊べ」、と言いたかったのかもしれません。

帽子の前面にはジャイアンツのマークがついていました。私は、野球少年でもないのにこんな帽子被って街を歩けるか!恥ずかしい!、と思いました。その帽子を被ることはなかったと思います。グローブの方は嬉しかったですね。近所の級友T君と道でキャッチボールをして遊びました。T君は野球少年で野球のボールも持っていました。ゴムボールとは違うボールの重さ、手触り、スピード感、グローブで受け止める衝撃など、快感でした。

T君は今私と同じ東京都内に住んでいます。会ってみたいなぁとは思うのですがなかなかその誘いの声がかけられません。障害の一つは私は酒が飲めないことです。酒が飲めると、「酒飲みに行かないか」と誘えるのですがね。仕方がないから、「飯食いにいかないか」と誘ってみようと思ってはいるのですが・・・・ 私はかつ丼とかチャーハンとか食えれば満足なのですが、普通は酒とかビールが必須なのでしょうね。ともに都内であるとはいえ結構離れているのです。

投稿: yoko | 2017年10月27日 (金) 13時07分

実は私も一章様と一緒で運動はすべて嫌いで、野球は国鉄スワローズの金田しか知らなかったのですが、喧嘩になると面白いので大喜びでハチローさんを見ていたのです。今でも、ナイターで野球が始まると自分がやっていないのになぜあんなに熱中して応援出来るのだろうかと不思議に思います。でも、立教大に長嶋がいた時の6大学野球は楽しかったですねぇ。良い選手がどの大学にもいました。
私は東大を応援していました。ピッチャーが良かったように思います。それ以来野球には興味が無くなってしまいました。ハチローさんは貴重な存在でした。昔の野球のほうが何でもありで面白かったような気がします。

投稿: ハコベの花 | 2017年10月27日 (金) 13時20分

yoko さん  コメントよく読ませてもらっています。女性の方とばかり思っておりました。三角ベースの思い出は共通のものです。思い出すとメンバーは4~5人、時には3人でやったこともあります。自分はピッチャーか一塁でした。溜め壺の経験はありませんが山羊や犬の糞でボールが汚れることはよくありました。そんな時は一番小さな子に草で拭わせていました。本当に悪ガキでした。それから野球帽、メンバーの一人が巨人の帽子を買ってもらってかぶっていました。私はこんな帽子が欲しくて欲しくてたまりませんでした。でも羨ましくても母親には言いませんでした。母も当時必死で働いていたようなのが分かったからです。友人の話。このメンバーの中で一番気が合った子でその後もずっと相棒できましたが50代で肺癌で死にました。老齢の今、あんな仲間はもうできないでしょう。yokoさんためらわずTさんに声をかけてみてください。酒なんかどうでもいいんです。きっと喜んで会いに来てくれると思いますよ。

投稿: 林 滋 | 2017年10月28日 (土) 08時39分

灰勝の名曲野球小僧のコメントが賑わって御同慶の至りです。昔、某県某郡某町で三角ベースでヘボ野球に明け暮れていた頃、上級生にはヘイコラして下級生には親分風を吹かせる典型的な悪ガキでした。
戦後の焼け跡闇市時代から幾星霜、新幹線高速道路は全国津々浦々四通八達し、東京大阪名古屋から地方まで超高層ビル乱立し、TV食べ歩き番組でもチマタでもラーメンに寿司に焼肉と美食贅沢三昧の今日この頃ですが、今こうやってスーパー安売りのツマミで紙パック入り1.8ℓ芋焼酎など飲みながら「うた物語」を聴くのが無趣味人間の唯一の楽しみです。
(1948年東京新橋渋谷湾岸:ハリウッド映画ハンフリーボガード主演「東京ジョー」の背景映像だそうです)http://himag.blog.jp/45957239.html

投稿: 焼酎 | 2017年10月28日 (土) 14時24分

ここのところ、立て続けに季節外れの台風に見舞われ、六甲山荘の玄関前の柴栗の大木が倒れたり、屋上テラスの人工芝が強風に煽られて剥がれて飛んでいったり、テレビのアンテナが折れてしまったりと散々な状態で、宿泊客のキャンセルと合間に修繕片付け作業の立ち合い等で、閑なような忙しいような落ち着かない日々を過ごしています。
それにしても、今年ほど季節の移ろいを感じながら楽しむ間もなく『秋』が終わってしまいそうな年は、私にとっては珍しいことです。

そんな中でも「能勢の赤ひげ」様 ロスの微妙な心境が影響してか?少しセンチメンタルな気持ちになっていました。
でも、そんな時こそ慰め勇気を与えてくれるものも「歌ものがたり」なのですね。皆さんのコメントを拝見していると、まるで自分の幼少年時代そのままで、ぼろ布を丸めて麻糸でぐるぐる巻きにしたボールが肥たご(つぼ)のなかに落ちたり、バットがわりに畑の杭を抜いてきたり、半ズボンの膝小僧を擦り傷だらけにしながら、日暮れまで走り回ってましたね。
当時、仲良しでよくキャッチボールをして遊んだ山崎○○君(名前が思い出せない)が、山口県岩国商業高校に進み、南海ホークスに内野で入団したが(昭和33年ショート広瀬の時代)そのまま音信不通となりました。今頃どうしているかな~?

野球小僧で思い出すのは、ハイカツと巨人軍の別所投手が仲良く並んで写真に写っていたような気がしますが・・。どこで見たのだろう?

投稿: あこがれ | 2017年10月28日 (土) 16時13分

懐かしい歌をアップして下さり、ありがとうございます。
 灰田勝彦さんの歌といえば、好きな歌が多いですが、「野球小僧」も、「森の小径」、「新雪」、「東京の屋根の下」などと並んで、お気に入りの歌です。
 戦後の混乱期に少年期を過ごした私自身、特に野球少年だった訳ではありませんが、長調で明るく、調子よく歌える「野球小僧」からは、聴いたり、歌ったりする度に、元気を貰った気がします。
 関西在住のせいか、近年、「野球小僧」を耳にしますと、その曲想から、「六甲颪」(「阪神タイガースの歌」)を思い浮かべること、少なからずです。

投稿: yasushi | 2017年10月28日 (土) 17時57分

凄い人気ですね。

野球好きの二木少年が「野球をやろう」と声を掛けたら広場にみんな集まってきました。

 三角ベースのまわりには焼酎さんと焼酎さんを慕う下級生、スポーツに造詣の深い林滋さんなど「三度の飯より野球好き」の少年たちが集まり、試合の約束事を話会っています。
一塁側、三塁側の応援席には一章さん、ハコベの花さん、yokoさんなどのお顔もみえ段々人が集まってきました。

 私は久米正雄の「学生時代」を読んでいましたが、みなさんの歓声を耳にして戸外に飛び出しました。私はゲタを脱ぎハダシで三角ベースに参加しました。

 そのうちゴムトビをしていた私の好きな同級生の女の子も応援にきていることが分かりました。私はその子に「いいところをみせよう」と思い力一杯バットを振れば三振、野手として一塁めがけてボールを投げれば暴投・・。

 三角ベースに夢中になっていたら、元気な母が広場にきて「夕食のアブラアゲを買ってきなさい」、「お使いが終わったら学校の宿題をしなさい。野球はその後・・」
 その頃の友達の名前を忘れかけていますが みなさんのコメントを読んでると野球に明け暮れた少年時代を思い出しました。

投稿: けん | 2017年10月28日 (土) 20時39分

けん様
思わず笑ってしまいました。本当に私がそこにいるように思いましたよ。私も今、久米正雄の文学全集を読んだ遠い日を思い出していました。『受験生の手記』『競漕』は60年以上経っているのにまだ覚えています。
一緒に遊んでいれば下手も上手いもなく、皆、仲間だったのですね。私たち女子は6年生の時はソフトボールをやっていました。普通はドッジボールでしたが、私はボール恐怖症でボールが飛んでくると逃げたくなりました。ただ、仲間というだけで、ボールが飛んでこない所に立っていました。今では考えられないほど子供が毎日外であそんでいましたね。喧嘩をしながら人間関係を学んだと思っています。今夜は男子の野球の応援をしている夢を見るかも。どなたがホームランを打つのでしょうか。皆様、頑張って下さい。楽しみです。

投稿: ハコベの花 | 2017年10月28日 (土) 21時31分

続けてのコメントをお許しください。
けん様 私も、ハコベの花同様に思わず吹き出しました。
でも、チームリーダーのお陰でまとまったチームに成長し、将来は?・・・甲子園球場に行けるのではないでしょうか?・・・
「うた物語に集う」仲間のみんなで大きな夢を見たいものですね!
けんさま ありがとうございました。

投稿: 一章 | 2017年10月28日 (土) 22時03分

 いいなあ〜男の子っていいな〜 と羨ましく皆様のコメントを読ませて頂いていました。そうしたらけん様が応援席を設けてくれました。ハコベの花さま、一章様に続いて私も応援席にいれてください。応援大好き人間です。孫娘が高校のチアリーダーをしていますので、孫に習って女子のチアリーダーを結成して、一章様がはちまき姿の応援団長で野球少年たちに声援を送ります。想像しただけですごく楽しいです。

あの頃男の子は大人の自転車の三角乗りをしていましたよね。これも羨ましかったです。

投稿: konoha | 2017年10月28日 (土) 23時08分

野球と言えば、放課後も担任の先生の指導を受けていた同窓生を思い出します。
東映、ヤクルト、解説、監督・・と活躍して若くして亡くなられました。
小学校の卒業文集、彼は思い出の作文でなく、
プロ野球の好きな選手の名前等を書いていました。
腕白でひょうきんだった彼、恩師や同窓生と天国で昔話をしていることでしょう。

あこがれさんの幼馴染みもプロ野球の選手だったのですね。
学校名で検索して Wikipedia の出身者に載っている方ですかね?

投稿: なち | 2017年10月29日 (日) 06時16分

 「あ、yokoさんお茶を買いにいかれていたの?席が空いていたから座っちゃた。さあ早く一章さんの隣りに座って、試合が始まるわよ」。

投稿: konoha | 2017年10月29日 (日) 10時36分

戦後、5,6年の汚さは経験したことがない人にはわからないでしょうね、汚いランニングにツギの当たった汚れたズボン、お下がりのだぶだぶだったり、小さくなったつんつるてんのズボンだったり、栄養失調であばらが見える身体、でも、それが元気の源だったのです。そうです、皆が貧乏で平等、自由があったのです。その自由さが私たちには懐かしいわけです。統一されない自由、それが豊かになってくるとだんだん統一された美しさを求めるようになります。私たちの世代にはあの天真爛漫な自由の時代が懐かしいのではないでしょうか。汚い怒声、それに負けない根性、あの時代が懐かしいのは本当の自由があったからなのです。今のような統一された応援や、スポーツにはその自由な明るさが無いように思われます。私たちの精神の土台は戦後の焼け跡で培われたと思っています。私の今の野球の応援がきらいなのは皆がそろって同じことをするからです。どこか怖さをを感じます。

投稿: ハコベの花 | 2017年10月29日 (日) 10時53分

なち 様

いやあ~ びっくりしました。65年も前で、とっくに記憶の彼方へ飛び去っていた懐かしい幼なじみの名前を見つけて下さり有り難うございました。そうでした!山崎 清 くんでした。Wikipediaでは(1940ー )となっていますので、彼はまだ健在ということですよね! それにしてもこんな取るに足らないような情報でも、即 明らかになる、恐ろしく便利な世の中になったものですね。
彼 山崎くんとの思い出は、キャッチボールしててもすごく速い球がきて、小学生の頃から野球のうまい少年として周囲から一目置かれていたような感じでした。何度か彼の家に遊びに行きましたが、なんか古い神社の離れみたいな所で少し高台の土塀越しに僅かに集落の家々が見下ろせたような記憶と、すごく綺麗なお母さんが、貧乏な我が家ではとても味わえないそーめんを出して下さり何倍もお代わりをした記憶だけが鮮明に残っていますが、その他のことはあまり記憶に残っていません。
入団して数年で退団したようですが、プロの道は厳しかったのでしょう。でも よかった! なち様のお陰で、懐かしい昔に帰れました。ありがとうございました。

投稿: あこがれ | 2017年10月29日 (日) 13時04分

konoha さん

まだyokoさん見えませんか?
お茶を売ってる店は遠いし・・今回の広場に行くまで砂利道、確か彼はゲタをはいていたので鼻緒が切れたのかな?

私の家には自転車がなかったので、友達が大人用の自転車で三角乗りをするのが羨ましかった。その友達の妹はお転婆でやや膨らんだブルマーを履き、三角乗りが上手だった。
友達の家の自転車を借り三角乗りをした。背が低く足と手が短いので左手でハンドルの先を握り、右わきでサドルを抱え右手で前輪と後輪を繋ぐパイプを持つ。短い右足で右のペダルに裸足をつけるが バランスを取るのが難しい。
 その頃の夢はいつか自転車を買ってもらい好きな女の子の前で恰好良く「男乗り」をすることだった。

 そんな思い出に耽るうちに試合が始ってしまう。

投稿: けん | 2017年10月30日 (月) 12時10分

子供時代がまざまざとよみがえってきました。
外が子供たちの声で騒がしくなればなるほど僕は家の中に閉じこもってしまう引きこもりでした。

構わず遊んでください。僕は子供に戻って家で漫画を読んでます。

投稿: yoko | 2017年10月30日 (月) 13時45分

なにをおっしゃるyokoさん、 みんな自分の都合で遊んでるよね、私ね、手塚治虫の漫画なら 『地球の悪魔』、『孫悟空』、『りぼんの騎士』、『漫画大学』などから始まって『アドルフに告ぐ』まで持っているから、今度貸すね。『漫画王』もあるよ。
でも試合だけは一緒に応援しようよ。

投稿: konoha | 2017年10月30日 (月) 14時46分

けん様、konoha様、

皆様の迫真の演技で私もリアルな子供の世界に連れ戻されてしまいました。でありますとバーチャルな世界の自分を取り繕うことはできません。お茶を買いに行くふりをして逃げてしまうのがリアルな本当の私です。それに気づかれたkonoha様はさすがです。ホント、見透かされたと思ってドキッとしました。

自転車は5~6年生の頃大人の自転車を借りて三角乗りで練習しました。ペタルは半漕ぎでしたね。ペタルを一周回すことができるまでには結構時間がかかったような・・・

友達の家に遊びに行ったときにはまずキョロキョロと部屋を見回して漫画本転がっていないかどうか探りました。面白くないことに、私の母は”小学〇〇年生”という学習雑誌しか買ってくれなかったのです。それでも面白く読んだのですが、やはりおどろおどろしい漫画本にはかないませんね。

投稿: yoko | 2017年10月30日 (月) 22時19分

灰田勝彦は私より37歳も年上です。私は少年の頃、何となく日系ハワイ人二世の人だと思っていました。声もハワイアンが似合いそうな軽い鼻声で、どことなくハーフみたいに見えました。キザっぽい眼鏡もそう見えました。その頃、私は、アメリカ人ならカッコいいが、ハーフの日本人はどこか裏切り者みたいで好きになれませんでした。多くの日本人はそう感じていたのじゃないかと私は思っています。その後、彼は喧嘩っ早く悪いことが大っ嫌いな大和男子だと何かで読みました。

私が65歳くらいになった時、彼の「野球小僧」や「アルプスの牧場」を改めて聞いたら、すごくいい曲だなと思いました。そしてはまって、その頃何回ももカラオケで歌いました。暴力をいいとは言いませんが、彼の男気は大和男の子の心意気です。人は声で判断してはいけないと思いました。

投稿: 吟二 | 2017年11月28日 (火) 20時18分

 星野仙一さんのご冥福をお祈り申しいあげます。

「打倒・巨人」と巨人への反骨心を支えに中日のエースとして活躍。巨人の10連覇を阻止、宿敵から通算35勝をマーク・・など判官びいきのファンの心を掴み、監督としては「燃える男」、「闘将」と呼ばれて熱血指導。中日、阪神、楽天のリーグ優勝など数々の偉業を達成。

選手を支える選手の家族、特に夫人の誕生日には花束などを送る優しさ、ぶら下がり取材の記者にもぬくもりのある言葉をかけるなど人間的な優しさを持ち合わせていた人。

人間力の素晴らしい人。残念です。
   星野さん 有難うございました。

  ・・お疲れ様でした。 安らかに・・

投稿: けん | 2018年1月 7日 (日) 07時55分

闘将星野仙一氏逝去に合掌
↓【追悼】星野仙一氏秘話(動画提供カミナリ速報!さん)
http://www.youtube.com/watch?v=ceMc6L20Ok8
<星野仙一氏>評伝 強さと優しさと責任感(河北新報)
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/.../20180107_14010.html

投稿: 焼酎 | 2018年1月 7日 (日) 10時48分

 吟二様のコメント('17-11-28)を閲覧して、私が初めて灰田勝彦さんの歌に出会った頃のことを思い出しました。
  昭和18年、私の一家は旧・満洲牡丹江市に在住していました。 その頃、私は6歳の軍国少年で、ラジオから流れてくる「加藤隼戦闘隊」(灰田勝彦 唄 S18)の歌を聴き覚えて、ある日、家族の前で歌ったことがありました。両親は褒めて聴いてくれ、私は歌詞が載っている歌の本を買って欲しいと求めました。その翌日、何と、両親が、それぞれ、同じ歌の本を買ってきたのです。驚きと感謝でした。その後、「ラバウル海軍航空隊」(灰田勝彦 唄 S19)も出て、伸びやかで、勇壮な歌声に、子供心に格好良さを感じたものです。
  「燦めく星座」、「森の小径」、「新雪」などの灰田勝彦さんの戦前・戦中の歌謡曲をも愛唱するようになったのは、戦後、旧・満洲から引揚げてから後のことです。
  

投稿: yasushi | 2018年2月 4日 (日) 13時31分

ヤスシ様 コメント有難うございました。私は黄土には行っておりませんが遠い異国で聞く日本の歌は真から心に響くのを私も体験しております。ぼたんこう付近でしたらあの端野イセさんの息子さんが行方不明になった場所ですね。実の息子でないのに本当の親子以上の親の愛は胸に響きます。人の人生には他人ではわからない事情があるのでしょうね。
歌の話に戻るとブラジルで聞いた愛国行進曲が私も歌いながら涙が出てしまいました。移民三世と思われる若い人たちがこの歌を誇らしげに歌っていました。一番しか知らなかった自分が恥ずかしくなりました。今後も日本の歌は代々歌い継がれてゆくのでしょうね。

投稿: 林 滋 | 2018年2月 5日 (月) 11時30分

焼酎様
【追悼】星野仙一氏秘話(動画提供カミナリ速報!さん)をあらためて 拝読しました。
 大雪や極寒で日本列島が冷凍庫に入っているような毎日ですが、セ・パの各チームは外国や南九州等でキャンプインしましたね。各選手は怪我に気をつけて頑張って頂きたいです。

 星野監督に関し「今だから話せる秘話」。
プロ野球全体の活性化、大局的観点からのチーム強化策、驚愕の選手のトレード構想など、すごい監督でしたね。
 監督になる人の資質の巣晴らしさも自分なりに納得できました。 有難うございます。

吟二様、yasushisama、林 茂様 
 灰田勝彦さんの歌との出会い、男っ気、灰田さんの歌った軍歌、戦前・戦中の歌謡曲、異国で聞く日本の歌の響き・・有難うございます。
 なんとなく灰田勝彦さんの歌を聞いているだけでしたのでホンとに参考になりました。有難うございます。
 二木先生が「野球小僧」を取り上げていただいたことで皆さん方との出会いができ感謝します。
 

投稿: けん | 2018年2月 5日 (月) 13時53分

けん様
コメント有難うございます。プロ野球はキャンプイン、センバツ高校野球は代表校決定と、野球ファン待望の球春到来となりました。けん様コメントの通り各選手には怪我がないよう頑張ってもらいたいです。
鶴岡一人、川上哲治・・・野村克也・・・星野仙一・・・野球監督で一時代を築いた人間の資質は素晴らしいです。けん様コメントの通り二木先生うた物語「野球小僧」を通して出会いができたのは素晴らしいです。

投稿: 焼酎 | 2018年2月 5日 (月) 16時53分

今の時代と違い

 我々の育った時代は (団塊の世代の一年目)

  野球 相撲 プロレス が子供達の人気のスポーツでした
   
 相撲は 鏡里 吉葉山 千代の山 栃錦
    あとに 続いて 初代 若乃花
      脇に 大内山 など おられました

 プロレスは いわずもがな  力道山
   相手に ルーテーズ  シャープ兄弟
     レフェリー  沖識名
  いろいろ 思い出します

 まだ テレビは 各家庭には普及しておらず
  時間が許せば 歩いて数分の 遠い親類のラーメン屋へいき
  お客さんにまじって 見せてもらっていました

 肝腎の野球ですね  
 やはり 子供のころは プロ野球からはいりました 
 神戸の西の繁華街で育ったのですが
 まわりは ほとんど阪神ファン
 でも 僕だけが へそ曲がりの巨人ファン

 幼稚園 小学校低学年のころ  インパクトの強い記憶があります  
 寝ながら ラジオから聞こえてくる実況中継が    脳の襞にのこったのでしょう
 代打逆転サヨナラ満塁本塁打
 日本で最初にうったのが 巨人の加倉井 実 だと記憶にのこっておりました

 しかし ほんとうは 巨人の樋笠 一夫 1956年3月25日 
  ここらはウィキぺディアは便利です 
 何故に 加倉井 実と思い込んでいたのか??? ですが   
 ほぼ同時期に 巨人に在籍されていますので  
 寝ながらの記憶で 聞き間違ったのかもしれないです

 また その樋笠 一夫の記事には  藤尾 茂さんの名前が
 小学校4年で 西宮にひっこすのですが
 藤尾さんのお兄さんたちが開業しているお家の隣だったのです
 ですから 小学校高学年の時には  藤尾さんが 関西遠征で
 甲子園にこられると お兄さんところで 泊まられるので 
 こられたら よくよんで遊んでいただきました 
 セの藤尾 パの野村 といわれていたころです 
 
 藤尾さんは 独特の打撃フォームをされていました
  打率ベストテンにはいられたとき  お兄さん方 が新聞を目にして
 よしよしと満足顔をしておられるのにも 遭遇しました   
 藤尾さんに抱っこされて また 握手してもらっている 写真も残っており 
 思い出深い記念写真です
 上のお兄さんが内科医 次のお兄さんが歯医者さんてした  
 もともとの巨人好きが どんどん巨人ファンになっていくのは当然でしたね

 野球については いくつも 思い出がありますが
   今日は これくらいで

 灰田勝彦さんの 軽快な 気分ののる 野球小僧から
   素晴しい思い出に つながりました

   有り難うございました

  藤尾 茂さまの ご健康をお祈りしております

投稿: 能勢の赤ひげ | 2018年2月 5日 (月) 23時28分

灰田勝彦ファンの一人として、「野球小僧」が盛り上がっていることを嬉しく思います。また、林 滋様、けん様から、共感の言葉を頂戴して、有難いことです。
  灰田勝彦さんの歌では、どちらかと言えば、明るく、軽快な長調の歌を思い起こしますが、短調の歌もいいなあと、最近、認識を新たにしております。例えば、♪都バタビア 運河も暮れて…♪の「ジャワのマンゴー売り」(門田ゆたか 作詞、佐藤 鋤 作曲 S17)や、♪ラーラー ラーラー 火焔木(フレーム・ツリー)の木かげに…♪の「バタビアの夜は更けて」(佐伯孝夫 作詞、清水保雄 作曲 S18)です。舞台は、いずれも、今のインドネシア共和国の首都ジャカルタで、南国情緒溢れる歌詞と、しみじみ歌う灰田勝彦さんの歌声が、心に沁みます。
  

投稿: yasushi | 2018年2月 6日 (火) 10時08分

薬を服用しても 眠られず
 
 またまた 二木先生のサイトに

 プロのことも 書きたいことも多けれど
   今晩は 高校野球でいきましょうか

 心 躍る 灰田勝彦さんの 野球小僧をききながらーー

 昔は  高校野球で一番充実し 面白いのは
  準々決勝の四試合といわれていました 
 (今は 子達の怪我防止も考慮し 準々決勝を二日間でやるようになっていますね) 
 力量の近しいチームが残ってくる戦いだから面白いと

 甲子園の夏?  一度だけ準々決勝を見に行ったことがありました  四試合すべての記憶はありませんが
  後に 巨人入りした淡口のいる三田学園
  広島商業? 広陵?の 将来を嘱望されていた投手佐伯
 らが でていました (プロは 広島にいかれたかな) 
 勝敗も???ですが
  なつかしい  準々決勝でした
  三田は準々で敗退だったかな

 また 強烈なインパクトがあり 今も忘れられないのは
  作新学園 江川の投球練習を目の前で見られたことです
 これには 訳があります   今はどうかな???
  当時は 甲子園球場の救急対応の医師として H大の一外 と 二外の若手の医師が
 交互でバイトで派遣されていたのです

 僕も 二回まわってきました  
 一回のとき 救護班の待機場が うぐいす嬢がアナウンスしたり 
 プロ野球のオーナーがつめていたりする
 グラウンドから少し地下にもぐったような部屋が バックネットのところにはならんでいますね   
 その一つが救護班の部屋だったです 
 そこからグラウンドを臨んだとき 
 丁度江川が試合前のウォーミングアップをしていました 
  のびてくるボールに感動でした

 途中で スコアーボード側の救護室まで移動したり 楽しい時間でした  
 ちなみに 僕は大きな怪我 重傷の観客にもあわずラッキーでしたが

 白衣をきて グラウンドまで走り 皆さんの注目をあびなければいけないこともありますしね

 一人 好投しているエースがボールがあたり指に裂傷をおってしまったことがあり 
 (僕のときではないですよ)
 その傷をナート(縫合) してしまい  異物(縫合の糸)が指についてしまったため  
 投球規則違反??の判定で投げれず
 逆転で そのエースのチームが負けてしまったこともありました
 バンドエイドでの救急処置なら どうだったのでしょう 異物でも 平坦なものなら 許可されたのでしょうか

 などなど いろいろ 記憶にのこっています

 やはり 自分が 実際にプレーする子たちと年齢が近いときが もっとも 興味がありましたね

 今は そうでもなくなっているのですが


 家内の友人の孫さんが 報徳の一番ショート小園君で
 U-18の海外遠征のメンバーにも選ばれ 清宮君なんかと一緒に試合に出ていました  まだ華奢な子ですが
 才能はあるようで プロからも 声がかかっているようです  がんばってほしいですね

投稿: 能勢の赤ひげ | 2018年2月 8日 (木) 01時55分

赤城尋常小学校を検索中にこの欄を見つけました。能勢の赤ひげさんとあまり歳が変わらない後期高齢者の一人です。

私は東京神楽坂界隈に高校まで住んでおり、小学生の頃は家の裏が神社の境内でしたので三角ベース野球で遊びました。

勿論、その頃は裕福な家でない限り道具はなくミット、バットも手づくりで遊んでました。家から友達と一緒に歩いて後楽園球場へ。新聞拡販で巨人戦のチケットでタダで見られました。それ巨人戦以外には都市対抗、女子野球、日米オールスター戦などもタダ券で見た覚えがあります。
監督 水原 
ピッチャー 別所、藤本、大友、多田、中尾(のちに藤田、)、
キャッチャー 内堀、武宮、(のちに藤尾、森)
1塁 川上(坂崎)、2塁千葉、3塁宇野(のちに長嶋)、遊撃平井(のちに広岡)、外野手加倉井、エンディ宮本、与那嶺、青田、樋笠、南村、小松原
と言った布陣でした。樋笠のホームラン覚えています。

特に私は大友 工投手、川上哲治が好きでしたが、そのころ「紅梅キャラメル」が子供たちに人気で、巨人選手カード9人分を集めるとグローブ、バットが貰え少ない小遣いでよくキャラメルを買いました。(なかなか全員揃わなかった・・・)

懐かしい子供時は貧しいながら知恵を絞って遊びを工夫したり、今とは違い夕方暗くなるまで外で遊んでたね。   

投稿: すかんぽ | 2018年2月 8日 (木) 17時03分

 すかんぽ さま  のコメントから

 またまた 野球の記憶の壺が 台湾の地震のように
  ゆすぶられました

 有り難うございます 
 
 (地震を揶揄したつもりではありません  
今日昨日の事実を書き添えておきたかったからです 
 台湾の方々には 大変でしたね しんどいでしょうが 
 がんばりましょうと伝えたいです

  
 福井の豪雪の渋滞に 中華料理を差し入れした 
料理屋さんがあったと 報道されています 
 これが 日本人の 真心 惻隠の情でしょう 
 阪神大震災のときにも 震災二日目くらいから 
 もっこす というラーメン屋さんが無料で 
被災者にラーメンを提供した事実ものこっています
 
 東北の津波の際 台湾の方たちの ご支援 
 大層温かかったと きいております 
 日本人あげて 復興に協力していきます)


 いやぁ  子供心に残る なつかしい巨人の選手の名を
並べていただいて  血湧き肉躍る  感じです

 あこがれさまは 広島の大ファンのようですから
   このやろうと 思われているかもしれません
 これはこれ ということで ご容赦ください

 別所 (高校時代 甲子園で骨折をおして投げた豪腕)  
 大友 (僕らの記憶には最初にでてくるアンダースローかな  
 それとも東映から現役最後には巨人にきた 早稲田の安藤かな 
 いや やはり大友の方が 先でしょうね
 あとにつづくは 南海の杉浦  すごい方でした) 
 藤田 (シュートボールの切れる慶応ボーイ 
 ばったばったと面白いようにダブルプレーの山をきずいた  
 もちろん 後に 巨人の監督をつとめられた その方です)
 川上 藤尾 広岡 エンディ宮本 与那嶺 青田 南村
 言わずもがなの名前が並んでいます
 南村さんは 後 長く名解説をされましたね
  小西 得郎さんとは 違った感じでしたが

 青田さんとは 二三年 個人的につながりのあったことがあります   
 かわいいきれいな娘さんばかりに囲まれた 
 (四五人おられたかな 一人は女優さんになっておられたはずです  
 皆さん元気にしておられるのかな)
 やさしいお父さんという感じでした

 懐かしい気持ちで 胸がつまってきます

 昭和天皇の 巨人 阪神 の天覧試合
  このときの スターティングメンバーに 藤尾 茂の名を見つけたときには
 何故か 興奮するくらい嬉しかったことを覚えています 
 最近のことです

 追記として 
 高校野球と記憶がかぶってくる選手  安藤投手です

 坂出商エースで 甲子園に出られ いいところで負けてしまったのですが   
 本来 サヨナラで勝っていた試合でした  
 センター前にボールがころがり サヨナラのところ 打者が喜びのあまり 
 一塁まで走らずに
   センターゴロ でスリーアウト  センターは???かな
 試合が続行され 坂出がまけたのです  
 ひょっとしたら 安藤投手は
 甲子園の優勝投手としても名が残っていたかもしれません

 現在の ルールの徹底した時代とは違い
 少しはゆっくりしていたころでしょうか 
  古き良き時代です
 そこのけそこのけ 自分だけがよければ それでよい
 そんな時代ではなかったですね

 これは 高校野球の記憶のもっとも古いものです
 何故か  坂出のメンバーのうち 三人の名前が
 自分の小学校の友達の名前と 三人も一致していたからです

  佐久間 大山 この二人の名前は確かです

 神戸の 諏訪山小での 友たちです

  時間は 絶え間なく流れていきます
  ときには 思い出を記憶の壺から呼び起こしたいものです

  有り難うございました 

投稿: 能勢の赤ひげ | 2018年2月 8日 (木) 19時48分

能勢の赤ひげ 様

半世紀以上も前の万年5位とか、最下位にならずによかった!と、いう頃の市民球団カープの姿からすれば、隔世の感があります。
広島県営球場(観音球場)の時代、大きな樽をおいて観客からの寄付をお願いしたりして、歩んできたカープの歴史は 広島市民の歩みそのものといっても過言ではないでしょう。
長谷川、備前、松山、平山、田中、藤井、大和田、・・・小さな大投手 長谷川の快投は貧乏球団 広島の灯でした。

原爆の悲惨な焼け跡から立ち上がり、広島県民みんなで力を合わせ、手作りで作り上げてきた広島カープは、広島県民全ての生きて行く望みであり証だったのです。

日鉄二瀬から、名ショートと言われた古葉が入団し、外木場、安仁屋、法政大学から名セカンド 小坂、興津、そして法政大学三羽烏の一人 山本浩二が入団し、平安高校から強健キャッチャーの衣笠、広陵の佐伯、此花商業の金城 等々

そして夢にまで見た1975年の初優勝! 泣きました!
営業先から会社に、直帰の電話を入れては甲子園球場の三塁側スタンドでカープの応援旗を振り続けた甲斐がありました。
誰彼かまわず抱き合って号泣した思い出は、生涯の財産です。

優勝記念に広島県人会から頂いた選手名入りのレリーフ スタンドは今も大事にとってあります。
苦難の時代から半世紀もの時を経て、今やメジャーな存在となった広島カープは、広島県民の誇りであり、生きる糧なのです。

巨人フアンには、申し訳ありませんが、昨今のギャイアンツの体たらくぶりは、目を覆うばかりで、あの栄光の巨人軍はどこにいったのか?と、巨人フアンならずとも心配になります。完成された力のある選手ばかりお金で集めて、あげくの果てには、使い物にならなくして放り出す。
もっと、広島の選手の育て方を見て勉強して欲しいなと思います。
基礎的な練習が充分に出来てないと、今のような惨状になることをフロントや指導者は、肝に銘じて頑張る必要をかんじますね!

あ~ すっとした!!

話はかわりますが、阪神タイガース時代の小林繁投手とは神戸の親しい友人と一緒にゴルフをしたことがあります。
上下共ブラックのウエアーで抜群の格好でしたが、ゴルフの腕は??でした。

投稿: あこがれ | 2018年2月 9日 (金) 12時41分

 あこがれさま

 思うところを存分にだされて すっきりされましたね

   よかったです

 あこがれさまの 熱き情熱の一端を垣間見させていただき有り難うございました

 長年の 応援チーム  これはそれぞれ良しですね

 最近の巨人の低落  お説ごもっともです

 広島は 続々と 若手を育てているのに
   巨人は 坂本 以降 出ていません
 ドラフトのくじ もまったく 運からもみはなされています  フロントも駄目です   

 また 極論で おしかりをうけるでしょうが

 政権につながる 阿る 黒幕  A 応援団
 Y の存在がすべてではないかと考えています
 老害 以外のなにものでもない  
 今の 政治の 悪き縮図をみる如くです

 個人的には  阪神の連中との繋がりはつよいです
  誰とは いいませんがーー いろいろありました

 巨人 もかわって  ほんとうに 強いチームをめざせるメンバーの集合がまたれます 
 哲のカーテン  いろいろ揶揄されましたが  9連覇  
 これはこれで  素晴しい歴史でした

 因みに 阪神も 今のオーナーがいる限り
  優勝はできない  と考えています

 何度か 試合に負けた後  
  おまえがオーナーか
  おまえが いる限り 阪神は優勝せんわ
 との 罵声をファンから浴びせられています

  阪神ファンは威勢はいいですから

 僕の私見ですが  坂井君が降り 新しい阪神愛をもつ方たちの 集合も必要なのでしょうね
  キャッチャー 島田兄  を監督にすればーーー

 阪急の 上田監督のような いい監督になるのでは
 との思いがあります  夢です ロマンです

投稿: 能勢の赤ひげ | 2018年2月 9日 (金) 13時36分

先にご投稿の皆様。

私は九州・小倉の生まれ育ち、高校の2年間は広島でした。
小学生の頃は、亡き父の影響で、西鉄ライオンズを熱心に応援しました。「稲尾さま、神さま、仏さま」の時代です。とは言っても、実際に球場で見た事はありませんでした。今は茨城のお百姓ですが、近年、広島の高校の同期生とのメールのやり取りで、「最近は、ライオンズ贔屓のブルーが少しピンクがかって来ました」と申し上げました。
 それ位、幼い頃は野球に親しんだものでした。弱小球団が、金満球団に偶に勝ってくれるのが、嬉しいのです。
 本ブログの女性の方々には、気持ちを理解していただけないでしょうが・・・。

投稿: 竹永尚義 | 2018年2月 9日 (金) 18時06分

どなたかが書かれた早稲田の安藤投手、下手投げの変わった投げ方をしていましたね。今でも,もくもくと投げている姿が私の頭に焼き付いています。
これは余談ですが、私の知り合いの息子さんが某球団に8千万の契約で入りました。今から30年前です。本人の手元に来た時は2千万になっていたそうです。途中でどこへ消えて行ってしまったのでしょうね。不思議ですね。

投稿: ハコベの花 | 2018年2月 9日 (金) 21時24分

またも懐かしい名前有難うございます。下手投げの安藤投手ですね。早慶六連戦。確か昭和35年の秋の東京六大学野球でした。安藤投手は初戦で勝った後3戦目から4連投し味方の打撃不振に苦しみながらも不振だった4番の徳武の加点もあって早稲田は慶応に逆転で優勝しました。早慶ともこの期間は大学は休講となり学生は神宮球場と麻雀屋の往復となった(笑)と聞きます。卒業後安藤投手は東映フライアーズに入り後に巨人軍にも在籍しましたがプロ1年目の活躍が翌年からは続かずわずか3年で退団。その後某社の営業重役として活躍したと聞きます。今も胸躍る早慶六連戦を思い出させていただきまさにカムサハムニダ。

投稿: 林 滋 | 2018年3月 2日 (金) 07時30分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 五番街のマリーへ | トップページ | 黒い花びら »