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お使いは自転車に乗って

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:上山雅輔、作曲:鈴木静一、唄:轟夕起子

1 お使いは 自転車で
  気軽に行きましょ
  並木路 そよ風 明るい青空
  お使いは自転車に乗って 颯爽と
  あの町 この道
  チリリリリン リン

2 そよ風が 頬っぺたを
  そっと撫でてゆくよ
  お日様もあの空で 笑って見ています
  お使いは自転車に乗って 颯爽と
  籠を小脇に ちょいと抱え
  チリリリリン リン

3 雨の日も 風の日も
  どんな天気の日も
  私は元気に 市場がよい
  お使いは自転車に乗って 颯爽と
  あの町 この道
  チリリリリン リン

4 私はすこやかな
  すこやかな娘
  気軽で元気で 明るい心
  いつもいつも 自転車に乗って
  飛んで歩くけど
  心はしとやかな 花のハナ子

《蛇足》 昭和18年(1943)4月にコロムビアから発売。
 この楽しく朗らかな歌が、太平洋戦争まっただ中に発売されたと聞くと、びっくりします。軍部が
嘘の大本営発表で国民をたばかっていた昭和17年(1942)には、まだ『新雪』とか『森の水車』など明るくさわやかな歌が発表されていました。

 しかし、日本の敗色が明らかになってきた翌年から、締め付けがいっそう強まり、軍歌や戦意高揚歌一色になってきました。そうした状況のなかで、戦争の重圧を吹き飛ばすかのようなこの歌が発表され、庶民の心を癒やしたのでした。
 ただし、この歌も戦意高揚や戦争協力に深く関わった歌です。

 昭和18年2月25日、マキノ正博(のちに何度か改名)監督による映画『ハナ子さん』が公開されました。雑誌『主婦之友』に連載された杉浦幸雄のマンガ『銃後のハナ子さん』を原作にして、ミュージカル仕立てで作られました。
 陽気で活発なハナ子さんを中心に、隣組の住人たちが戦費調達に協力し、出征兵士を明るく送り出し、空襲に対処するといった生活が描かれています。上の写真は、その一場面です。
 この映画の主題歌が、『お使いは自転車に乗って』でした。
マキノ正博の妻で、主演の轟(とどろき)夕起子が歌いました。

 戦後の昭和22年(1947)、NHKラジオ歌謡として放送され、人びとに希望を抱かせるのに一役買いました。歌自体には戦時色がなかったのがよかったのでしょう。『リンゴの歌』や『青い山脈』などとともに、敗戦後の歌謡史を彩る歌の1つになりました。

 右の絵は2018年の年賀状に使ったものです。
Jitensha  ずーっと昔、連れ合いの両親に、お二人の娘さんはこんな日々を送っていますよと知らせたくて、絵に短文をつけた葉書を何回か送りました。『寒い朝』に入れた絵も、そのうちの1つです。稚拙な絵ですが、大変喜んでもらいました。
 今回は、年賀状用の適当な絵柄が浮かばなかったので、そのうちの1枚を流用しました。ただし、空のグラデーションだけPhotoshopで手直ししました。

(二木紘三)

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コメント

新年あけましておめでとうございます。

明るく爽やかになれる歌を新年早々聞くことができ
いい年になれそうです。
他県でホームにお世話になっている99歳の母を
思い出しています。
昭和20年代 小学生だった私の家に男乗りの大人用の
自転車が1台のみ。我が家では最高の財産でした。
母は背中に次女を背負い、荷台に弟を、サドルの前に
長女を横向きに座らせ4年生の私は自転車の横を走って
隣町に行っていました。
砂利道を地下足袋で走っていたような記憶が・・?

投稿: けん | 2018年1月 1日 (月) 08時42分

あけましておめでとうございます。
ここに集う皆様のご多幸をお祈りいたします。

この歌さえも戦意高揚の意図で作られたとは驚きです。

ほのぼのとした二木先生の絵に心癒されます。

けん様
たくましいお母様でしたね。
私は昭和21年生まれですが、30年代でも農村部では
自転車は貴重品でした。
三角乗りで田んぼや小川に突っ込んだりしたのも
今は懐かしい思い出です。

追記
生涯 自転車も乗れず理不尽な父に忍従していた母の人生が思い出されます。

投稿: りんご | 2018年1月 1日 (月) 09時36分

りんご様

あけましておめでとうございます。
二木先生の素晴らしい演奏を通じてお会いしたこともない皆さんと交流できるサイトに巡り合い 感謝しています。
山形の方の積雪はいかがですか?
雪道でも自転車に乗られるのでしょうか?

りんごさんは三角乗りで田んぼや小川に突っ込んだり・・気軽で元気で明るく心はしとやかなお嬢様だったんでしょうね。
淑やかを名前(淑子)にしている妻は 昭和40年代結婚するまで自転車に乗ったことがなく買い物に苦労していました。バスも少なくお店まで数キロある不便な田舎に住んでいました。
私の強い指導で妻は自転車乗りを練習しました。妻は運動神経は普通でしたが砂利道で何度も転び擦り傷が絶えませんでした。・・・妻はその時のことを「私を肴にして」孫たちに語っているようです。りんごさんのお母さんのご苦労が忍ばれます。
草笛で「リンゴのひとり言」を吹けるようになりました。
本年もよろしくお願いします。

投稿: けん | 2018年1月 1日 (月) 10時15分

二木先生
うた物語同好の皆様 へ

明けましておめでとうございます。
今年も、二木バンドの素晴らしい演奏と名解説、皆さんのコメントを楽しみにしています。
このサイトには、定年は無いようですので、私も頑張ってコメントしたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

投稿: あこがれ | 2018年1月 1日 (月) 13時32分

皆様、明けましておめでとうございます。
今年も皆様とともにうた物語を楽しませていただきたいと思います。よろしくお願いします。

自転車、と聞いて少し書きたくなりました。

田舎の物置に少しさびて埃をかぶった自転車が打ち捨てられていました。長く何の疑問も持たなかったのですが、ある日誰の自転車だろう、何のために・・・と気になりました。女物の自転車です。母に問うたところ祖母の自転車でした。

二十四の瞳にある女子先生(高峰秀子さん)のような女性であれば自転車に乗った姿も美しく魅力的ですね。残念ながら私の祖母は背も低く小太りで自転車で疾走している祖母の姿を当時の人々が魅力的に感じたかどうかは疑問です。

私が物心ついてからの祖母はほぼ毎日畑仕事や鶏の世話でしたが、祖母は助産婦で戦後の昭和22,23,24年のベビーブームの時は自転車で走らなければ仕事がこなせなかったほどの需要がありました。近隣の村なども周り年に100人くらいの赤ちゃんを取り上げたと言っていました。三晩続けて徹夜したこともある、と豪語していましたが・・・本当かどうか、まゆつばかも知れません。

しかし私が中学校の頃は世間の人は皆病院で出産するようになり、祖母へのお声はかからなくなりました。祖母はなんだか悲しそうでした。たまに呼ばれて勇んで出かけた時も、あまりに困窮されている家だったのでお金は要求できなかった、と呟いていたこともありました。

ある日、緊急に祖母への呼び出しがかかりました。赤ちゃんが死んだ、と言う連絡です。医者も見放したそうなのです。祖母は飛び出して行きました。そして祖母が心臓をマッサージして赤ちゃんは息を吹き返したのだそうです。祖母は皆から「名医だ!名医だ!」と称賛されました。祖母は家に帰って嬉し泣きをしていました。残念なことにその赤ちゃんは二日後に亡くなりました。

私はこの祖母の自転車を使って練習し自転車に乗れるようになりました。

息子には小学一年生のとき補助輪付きの子供用自転車を与えました。しかしこの時はどうしようもなかったです。教えるということ自体が無理で全く進歩はありませんでした。時が経ち、息子が27歳のときもう一度挑戦しました。この時は彼も私の言うことを理解でき、本人も乗れるようになろうという意欲がありました。数か月で乗れるようになり、私も親の役目の一つを果たせたような嬉しい気分でした。

投稿: yoko | 2018年1月 1日 (月) 15時29分

明けましておめでとうございます。
   この歌の登場を本当に嬉しく思います。  
  昭和12年生まれの私にとって、「お使いは自転車に乗って」は、女性が主人公の歌とはいえ、子どもの頃から現在に至るまで、大切な愛唱歌の一つです。
  昭和21年に旧・満洲から引揚げて、生活を維持することがやっとだった我が家では、最も自転車に乗りたい私の少年時代に自転車を持つことは叶わぬ夢でした。でも、この歌を歌えば、心はいつも自転車に乗っているようでした。  
  この歌が出来た頃は、自転車は庶民の身近な移動手段の花形だったでしょうが、現在では、ちょっと用足しに出かけるにも、バイクやマイ・カーを使うのが常識になっていて、時代の流れを感じます。
  とは言っても、今でも比較的近所への往来には、自転車が便利なことは確かで、私は週二日の囲碁定例会には自転車を愛用しております。
  ついでながら、先年、高校の同窓会(同期会)の寄り合いのカラオケの席でこの歌を歌ったところ、意外にも友人達の多くがこの歌を知っていないことを発見し、多少寂しい思いをしました。

投稿: yasushi | 2018年1月 1日 (月) 18時23分

私は38歳まで自転車に乗れませんでした。子供の頃大人の自転車で三角乗りをするのが怖くて出来なかったのと、家の前がバス停で自転車に乗れなくても困らなかったのです。ところが田舎に越してきた途端、お使いに行くのが不便で困りました。その頃ママチャリが出始めて足が地面につくので買った次の日から子供を後ろに乗せて走ることが出来ました。嬉しかったですね。今は電動自転車でとても楽に走ることが出来ます。轟さんがテレビの中でにこやかに歌われているのを見たことがあるのですが、いつの頃か思い出せません。白黒テレビの頃だと思います。自分が自転車に乗れるなんて今でも不思議に思います。初夏の頃田んぼの中の道を走る爽快さを味わえるなんて夢のようです。

投稿: ハコベの花 | 2018年1月 1日 (月) 20時08分

二木先生! 「うた物語」に集うみなさん!
明けましておめでとうございます。
ほんとに懐かしい「お使いは自転車に乗って」をアップしていただきありがとうございました。
この歌は、現役のころ、ある職場に在籍のころ、ある年の忘年会の席上、各課対抗で何か出し物を五分以内で演技披露することになりました。私の職場全員8人で、当時流行りの「コント55で、(ある公園の片隅で)」の演技をしましたが、その時の「バックミュージック」がこの歌でした。
因みに、私の役は「ある公園のベンチで彼氏とデイトする彼女の役でした」・・・詳細については・・・

話が横道にそれますが、今年、また一枚年輪が増えてしまいます。でも、年輪が一枚増える毎に開けるカーテンの先に見えるものがどんなものか、今年はどんなことで心を揺るがせ、感動を呼びこませることができるのか楽しみで胸が膨らんでいます。

惣菜、食材等の宅配、六年目に入りました。毎朝、5時20分起床は、寒い中、正直言ってすごく辛いです。
でも、私を心待ちにしておられるお客様に喜んでいただけるように安全運転で頑張りたいと思っています。

二木先生!うた物語のため、選曲と素晴らしい素敵な演奏をありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。

投稿: 一章 | 2018年1月 1日 (月) 22時18分

二木先生、皆々様 明けましておめでとうございます。
 新年の曲は何かしらと昨年末より楽しみにしていました。
初めて聴く曲でしたが、軽やかで爽やかなリズムでいいですねえ。
また、「蛇足」の最後にありましたように、先生のお人柄が偲ばれる文面に、優しさがあふれていて素敵でした。

 自転車にはいろいろ思い出があるんですね。私が小5の時代は近所でまだ子供自転車がある家はありませんでした。(気がつかなかっただけかもしれませんが)5年でクラス替えになり、自転車をもっている子と友達になりました。その子の家は学校と我が家の中間で、自転車をもっているのが分かり、今思うとそれで友達になったようです。いつも遊びに行っては自転車を借りてその子の家の近所で一緒に遊んでいました。ある日その子の家に遊びに行ったら、「皆なで出かける」とのこと。私の様子で自転車が目当てだと分かったのでしょう、その子のお母さんが「いいわよ、自転車を庭に入れておいてね」と言ってくれました。

 私の地域は平な道が少なく、どこへいっても坂道です。当時は住宅街はどこも舗装されていませんでした。小学校に面した道は幅が広く、長くわりと急な坂道でした。そこを自転車でかけおりました。途中すごいスピードになり、こわくなり自動車がきたらどうしようと思った瞬間、もろに横転してしまいました。うでもひざも大きな擦り傷を作ってしまいました。自転車デビューの話です。
 
今年もどうぞよろしくお願いお願い致します。

投稿: konoha | 2018年1月 2日 (火) 12時52分

 自転車に乗った女性といえば、『おはなはん』や『二十四の瞳』の大石先生の颯爽とした姿がまず浮かぶ。そういう活発な女性を乗せた自転車にも、何かしら封建的な空気を打ち破るイメージがあった。『青い山脈』では、若者たちがサイクリングをするシーンがあったが、人間を日常から解放し、快適な場所へと運ぶ夢の乗り物のように思えた。今じゃ、チャリンコと呼ばれ、日常的に放置されたり、盗難も多い。恐ろしいのは、自転車の盗難があってもそれほど驚かず、またかと受けとめる自分だ。映画『自転車泥棒』(1948年)では、自転車の盗難は、貧困の不条理や家族の苦悩を考えさせる深刻なテーマだったのに・・

 昔、自転車はけっこう高い買い物だった。貧しかった我が家では、中学1年(昭和37年)頃に中古自転車を買った。乗り始めた頃、嬉しくて休日に知らない田舎町に遠出して、道に迷って日が暮れてしまった。なんとか家に帰ることができたが、夜遅くなって両親が心配していた。芥川龍之介の『トロッコ』を身に染みて読むことができる私の体験です。

投稿: 越村 南 | 2018年1月 3日 (水) 19時15分

 皆さん、自転車の思い出がありますね。私も子ども用の自転車を見たのは、小学校3,4年の頃です。近所に勤め人のおられた家族でした。そこの長男は私と近くの勤務地でしたが、早世されたようです。大学がいっしょで、大学祭で脚光を浴びておられました。
 また「二十四の瞳」に言及されている方もおられますが、この映画は小さい頃見て心に残っています。この歌もいいです。
 また、近所の方で他県からよく帰省される友人と自転車で遠出をして、坂道で危ないめに遭いました。幸い怪我はしませんでしたが、片手運転をした友人が怖い思いをしていました。

投稿: 今でも青春 | 2018年1月 4日 (木) 11時29分

私の中学生時代 家には男性用の中古自転車が1台ありました。普段は母が仕事や買い物に使っていました。
中学校までは約4キロある起伏のある山道でしたが私も妹も徒歩で通いました。
お金持ちの同級生が「期末テストが10番以内になれば自転車を買ってもらえる」と吹聴していました。私は両親にそのことを言って「自転車が欲しい」と意思表示をしましたが「そのことはその家のやり方。私の家は自転車を買えない。自分で買えるように頑張りなさい」と相手にしてくれませんでした。
 
砂利道なので 中古自転車はよくパンクをしていました。
自転車のパンク修理やチェーンがはずれた時の修理は長男である私の仕事でした。パンク修理の要領やチェーンのかけ方を近所のお兄さんに教えてもらいました。

 約25年前、私は都城に単身赴任。休日はウオーキングをすることにしていました。広域農道を歩いていたら小学生の男の子数人の騒ぐ声がしました。
 数十m離れた子供たちが「おじさあ~~ん」と私を呼んでいます。子供から声をかけられることは滅多にないので「なんだい?」とそちらの方に近づいてみると子供たちの手足が油や泥で汚れています。1人の子供の自転車のチェーンが外れたので自転車のスタンドをたてたまま、直そうと四苦八苦していたようです。
 私はすぐさま自転車をひっくり返し小さい方のチェーンをかけ大きい方を回したら「数十秒」で元通りになりました。子供たちはビックしていました。そしてお礼を言ったあと颯爽と走り去りました。
「知らない大人には近づくな」と言われる昨今、子供たちから声を掛けられた大人であることを嬉しく思いました。

投稿: けん | 2018年1月 4日 (木) 13時40分

この曲を聴くと、スカートの裾を翻しながら 風をきって颯爽と走り抜ける若い女性の姿を思い浮かべこそすれ、男の子の姿を思い浮かべたことはありません。
同年代の大方の男性諸氏にとって、青い山脈の原節子や杉葉子、二十四の瞳の高峰秀子さんは いわば青春の象徴であり健全な憧れであり、年と共に浄化されながらいつまでも残っていくもののようです。

20数年前、乗鞍温泉のちょっと洒落た露天風呂付きのペンションに家内と泊まった時、夕食までのひとときを二人で借り物の自転車でサイクリングしましたが、目的地の白樺林までは結構なアップダウンがありましたから、私は家内に対して “ちょっとスピード出すけど 迷わずについて来いよ!”と、えらそうに命令してさっと走り始めました。
最初の1kmくらいは、心地よい高原の涼風をきって颯爽(?)と、かなりのスピードで走りぬけましたが、そこから先が少しゆるめの上り坂~ペダルを踏む足も重くなり、息遣いも段々荒くなり始めました。それでも後続の女房殿を気遣い、時々後ろを振り返り“大丈夫か?”と、声を掛け 首に巻き付けたタオルで流れる汗を拭きながら懸命にペダルを踏み続けました。
時々、私とそれ程年も変わらないであろうと思われる 中年のおっさんが軽やかに私を追い抜いていく姿に妬みと羨望の眼差しを送りながら、上りのかなり上の方までこぎ着けましたが、ふっと気がつき 斜め後ろを振り向いて“○代、大丈夫か?”と、少し大きめな声で家内に声を掛けましたが、返事がありません! 慌てて自転車をとめ、後ろの遠くの方まで見渡しながら“お~い!○代 大丈夫か!”と 叫びましたが、尚も返事がありません! ひょっとして道沿いの林の中にでも倒れ込んでいるのとちゃうやろか?と心配になり、後方の林の辺りに目を凝らしながら佇んでいると、遥か30~40m近く上の方から“パパ~パパ~ どうしたの?”と、呼ぶ声が聞こえるではありませんか・・・
ええ~! なんで!いつの間に!? 
ペンションまでの帰路、それが当然のごとく すごすごと女房殿の後ろに従って走ったのは言うまでもありません。

投稿: あこがれ | 2018年1月 5日 (金) 00時12分

二木先生、その他ご投稿の皆さま、明けましておめでとうございます。
あこがれ様の1月5日の投稿を見て、私の圃場横の農道(市道)を仲良くサイクリングするある老年のご夫妻の事を思い出し、思わず笑ってしまいました。いつも奥さんが先頭で走って来られ、圃場先の交差点で、奥さんが右腕を横に伸ばし、右折されるのです。ご主人は、いつも後ろです。
 今では、そのご夫婦とは、年賀状の遣り取りをしています。
 確かに、この歌が流行った頃は、「青い山脈」にしろ何の歌にしろ、颯爽と自転車に乗る若い女性の姿は、戦後の「軍国主義からの開放」の象徴でした。「軍国主義」の世の中に戻らぬ事を望むのみ。

投稿: 竹永尚義 | 2018年1月 5日 (金) 04時56分

わたしも少しだけ自転車の思い出を。

1948(昭和23)年生まれのわたしですが、家には子供用の自転車がありました。5歳上の兄が小学校低学年のときに買ってもらったものでした。その当時、子供用の自転車がある家は少なくて、たいてい子供たちは大人用の自転車を「三角乗り」していました。今考えると危ない乗り方ですね。そんなわけで、わたしの家には「うちの子を乗せてやって欲しい」と頼んでくる親がたくさんいました。

わたしもこの自転車で乗り方をおぼえたのですが、上に5人も兄や姉がいるものですから、わたしが乗る頃にはもうボロボロで、ブレーキがまったく利かなくなっていました。止めるには足を地面につけなければなりません。わたしが親ならもっときちんと整備して乗せていたと思いますが、何せ子供が多いので目が届かなくなっていたのでしょう。

この自転車でわたしは大阪の町のなかを走りまわりました。自動車も少なかったし、まだ荷馬車が通りを歩いていた時代です。おかげで大阪の道と地理はすっかり頭のなかに入ってしまい、迷子になることは一度もなかったと思います。もう大阪を離れて半世紀以上になりますが、そのときの地理感覚はほぼ残っていますね。

投稿: 舟人 | 2018年1月 5日 (金) 09時14分

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