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憧れのハワイ航路

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:石本美由起、作曲:江口夜詩、唄:岡 晴夫

1 晴れた空 そよぐ風
  港出船の ドラの音(ね)(たの)
  別れテープを 笑顔で切れば
  希望(のぞみ)はてない 遥かな潮路
  ああ 憧れの ハワイ航路

2 波の背を バラ色に
  染めて真赤な 夕陽が沈む
  一人デッキで ウクレレ弾けば
  歌もなつかし あのアロハオエ
  ああ 憧れの ハワイ航路

3 常夏(とこなつ)の 黄金月
  夜のキャビンの 小窓を照す
  夢も通うよ あのホノルルの
  椰子の並木路(じ) ホワイトホテル
  ああ 憧れの ハワイ航路

《蛇足》 昭和23年(1948)10月にキングレコードより発売。
 オカッパルこと岡晴夫は、前年1月発売の『啼くな小鳩よ』に続く大ヒットで、スター歌手の地位を不動のものにしました。

 昭和21年(1946)から数年間に、アメリカないしその文物への憧れを歌った歌がいくつも発表されました。『ジープは走る』や『アメリカ通いの白い船』などで、『憧れのハワイ航路』もそうした歌の1つです。
 明るく快調なメロディで、"未知のパラダイス"ハワイへの憧れをかき立てました。

 この時代から昭和38年(1963)3月まで、ドル流出を防ぐため、ビジネスや視察、留学といった明確な目的がなければ、海外旅行は許可されませんでした。
 同年4月に一部緩和されましたが、一般の市民が観光で海外に行けるようになったのは、昭和39年
(1964)4月以降です。
 しかし、持ち出せる外貨は500ドルまで。1ドル360円の時代ですから、18万円までということになります。

 『憧れのハワイ航路』は、昭和25年(1950)に新東宝が同名で映画化しました。斎藤寅次郎監督で、岡晴夫が岡田秋夫という名前の主役を務めました。そのほか、美空ひばり、花菱アチャコ、古川緑波など、この時代について記憶している人には懐かしい名前が並んでいます。

 題名からして、ハワイが出てくるかと思われますが、舞台は東京の下町で、主役がハワイ生まれというだけ。アメリカの観光映画からとったらしい映像が、あまり意味のない場所に挿入されています。
 前述したような理由で、ハワイロケは無理だったのでしょう。

 ところで、客船が出航するときに紙テープを投げる風習は、日系アメリカ人が考えたものだそうです。
 1915年のサンフランシスコ万博に、東京日本橋の笠居株式会社が商品ラッピング用の紙テープを出品しました。しかし、アメリカアではすでに布テープが普及していたために、まったく売れませんでした。

 その窮地を見かねたのが、サンフランシスコで近江屋商店というデパートを経営していた日系移民の森野庄吉。彼は、テープの在庫を安く買い取り、港に持っていって、「送る人と送られる人が、このテープで別れの最後の握手をしませんか」と呼びかけたところ、買い求める人が続出しました。
 これが欧米など各国に広まったといわれます
(杉浦昭典著『海の慣習と伝説』舵社 1983年)

 当初は、見送り人が岸壁から船上目がけて投げていましたが、届きにくいというので、船客から見送り人に投げる方式に変わりました。
 しかし、この風習は、欧米では廃れ、現在は日本でしか行われていないもようです。それも、ツァー会社もしくはクルーズ船が企画したときにだけ行われるようです。
 テープ投げは、海を汚すというので、規制されたときもあったようですが、今は水に溶けるテープが使われており、とくに問題はないようです。

(二木紘三)

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コメント

ぱっと日本が明るくなる歌です。明るい声で元気よく。見渡す限りの焼け跡に未来の明るい日本が見えるような気がします。日本をいちばん明るくした歌ですね。作った人に文化勲章を上げたいです。

投稿: ハコベの花 | 2018年8月 8日 (水) 10時04分

戦後歌謡曲黄金期の代表とも言える「憧れのハワイ航路」の登場、大歓迎です。「白い船のいる港」(東辰三 作詞・作曲、平野愛子 唄 S23)、「アメリカ通いの白い船」(石本美由起 作詞、利根一郎 作曲、小畑実 唄 S24)などとともに、好きな”船・港”ソングです。
  カラオケで、自分の出番が廻って来て、”はて、この場で何を歌おうか”と迷うとき、この歌を選ぶことが多いです。明るく軽いノリで、皆一緒に楽しめる、良い歌だと思います。
  《蛇足》の、二木先生の”別れテープ”に関する蘊蓄は、なかなか興味深いですね。歌詞に”テープ”が出てくる歌はいろいろあろうと思いますが、私が直ぐに思いつくのは、♪暗い空だよ きらりと光る 切れたテープか かもめの鳥か…♪の「港に赤い灯がともる」(矢野亮 作詞、八洲秀章 作曲、岡晴夫 唄 S22)、♪テープをどんなに つないでも 切れた縁(えにし)を なんとしょう…♪の「あの日の船はもう来ない」(西澤爽 作詞 、上原げんと 作曲、  美空ひばり 唄 S30)です。    

投稿: yasushi | 2018年8月 8日 (水) 13時08分

へー、そうなんですか。紙テープでの別れは日本だけになってしまったんですか。さすが日本のウェットな文化には残っているんですね。管理人さんの蛇足はいつも新鮮な知識を与えてくれます。

8年くらい前、私はある中国の女子大学生に日本語を教えていました。と言っても、ペンパルです。日本語学科の彼女が勉強のために書いてきた日本語の手紙を、正しい日本語に直して返信していました。数年後大学を卒業した彼女は、日本の大学院で学びたいと日本に留学に来ました。当初は、はとバスで東京見物に行きました。そして、もう3日後に帰国という日、女房と3人で車で房総半島へ日帰り旅行に行きました。帰り道、もうとっぷり日が暮れてレインボーブリッジに差し掛かった時です。今までおしゃべりだった彼女が急に押し黙ってしまいました。あとで聞いたら「この日本の夜景を永久に胸にとどめておきたかった」とのことでした。 ”異国の灯饒舌ふっと貝になる”(吟二)

何故この娘のことを書いたかというと、彼女は首都大学(まえの都立大学)の大学院に入学したのですが、ある時、学校の費用負担で教授がゼミの学生数人を連れて小笠原諸島に行ったそうです。楽しかった日々もあっという間に過ぎ帰る日、船の彼女らを島民の方々が紙テープで別れを惜しんでくれたたそうです。そして船が離れると、数隻のボートや、イルカたちまでが後を追ってきてくれたそうです。この情緒は日本の優しさを彼女の胸に忘れられないものにしたと思います。

話が変わりますが、数年前まで上野公園の夜桜見物に行っていました。その頃、毎年オカッパルの歌だけ歌うグループが歌っていました。私はいつも立ち止まって聞いていました。また、ハモニカのグループもいました。みんな4年くらい前からいなくなりました。よりお年寄りになったせいだと思います。残念です。でもオカッパルの歌は明るく元気が出ますね。

投稿: 吟二 | 2018年8月 8日 (水) 22時14分

~晴ァーれた空ァー、そォよぐ風ェー、港ォ出船のォー、ドラの音たのしイ~♪

『昭和23年、敗戦の混乱で 世相はまだ乱れたまま暗かった。 軍国主義から民主主義へ、手のひらを返すような大転換になじめず、庶民はなかば自棄の高笑いや自閉の鬱屈を抱えて暮らす。 そんな世相を吹き飛ばす歌声で、岡は時代の寵児になった。
高級船員風マドロス姿、ポマードを光らせたリーゼントの髪、鼻にかかった独特の高音、明るく野放図な歌唱、冒頭の引用で判るとおり、歌詞の歌い伸ばしには母音が多く、それが開放感を強めている。

当時の地方巡業は乗り打ちの旅、公演後に移動して 翌日は別の土地で歌う忙しさで 取引はもっぱら現金、旅先の一行の豪遊は、トランクに詰めたギャラの札束から支払われたが、翌朝トランクは全然軽くならなかったと、前座歌手からマネージャーに転じた島津晃氏から聞いたことがある。

藤山一郎に代表される それまでの歌手は、多くが音楽学校の出身。 クラシック育ちの折り目正しさで歌い、流行歌手ご法度の母校の目をそらすため、芸名や変名でレコーデイングをした。 

ところが岡は、盛り場のギター流しから のし上がる。
適度の不良性が言動にあり、型破りの活力が新しい魅力として庶民に愛された。
歌の題材は、ハワイ旅行。 昨今は、日本の一部かと思うほど日本人で溢れかえっている観光地だが、出国を禁じられていた戦後しばらくは、ハワイ旅行など 夢のまた夢だった。』

昭和の歌 100
君たちが居て僕がいた
小西良太郎:著   より・・・。

投稿: あこがれ | 2018年8月 9日 (木) 14時33分

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