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2005年10月 3日 (月)

ありがとう・さようなら

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:井出隆夫、作曲:福田和禾子

1 ありがとう・さようなら ともだち
  ひとつずつの笑顔 はずむ声
  夏の日ざしにも 冬の空の下でも
  みんなまぶしく 輝いていた
  ありがとう・さようなら ともだち

2 ありがとう・さようなら 教室
  走るように過ぎた 楽しい日
  思い出の傷が 残るあの机に
  だれが今度は すわるんだろう
  ありがとう・さようなら 教室

3 ありがとう・さようなら 先生
  しかられたことさえ あたたかい
  新しい風に 夢の翼ひろげて
  ひとりひとりが 飛びたつ時
  ありがとう・さようなら 先生

  ありがとう・さようなら みんな みんな
  ありがとう・さようなら みんな

《蛇足》 昭和60年(1985)、NHK「みんなの歌」として発表され、以後、多くの小学校で卒業式の歌として歌われるようになりました。

 福田和禾子(ふくだ・わかこ)にはほかに『北風小僧の寒太郎』『赤鬼と青鬼のタンゴ』などの傑作童謡があります。平成20年(2008)10月5日没。
 東京芸大出身で、父親は『サーカスの唄』『花言葉の唄』などのヒット曲をもつ戦前のスター歌手・松平晃。

(二木紘三)

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コメント

この歌を作曲された福田和禾子さんが2008年10月5日に亡くなられました。
「みんなの歌」などを通じ、子どもたちのために沢山の素晴らしい歌を発表していただきました。
ありがとう・さようなら 福田先生。

投稿: 橋本茂樹 | 2008年11月 9日 (日) 23時07分

娘が幼稚園で、年長さんに向けて歌いました。
懐かしい気持ちになりました

投稿: 山下 ゆかり | 2011年3月20日 (日) 09時40分

すいません
この曲の音楽が出て来ないんですけど!

投稿: 桒山雅妃 | 2014年3月 9日 (日) 13時31分

昭和50年から小学校の教師をしていました。
この曲は卒業式によく歌われましたが今聴くと、子供たちと共に過ごした教室、子供たちの笑顔が思い出されます。
ここで教え、歌い、笑い、集い・・・・・私の人生の全てでした。
退職した今、わけもなく涙があふれます。
ありがとうございます。

投稿: miko | 2016年7月 8日 (金) 09時04分

こんばんは  

 この ありがとう・さようなら  ははじめて聞く曲でした  よい曲なのでしょうね    でも 我々の世代の
 卒業のその場での その曲は  仰げば尊し これしかありませんでした   二木先生のうた物語に投稿されている皆様の 思い 考察 はよくみさせていただいています   皆様の思いを 否定するのではありません  ただ 僕にとっては  仰げば尊し が一番涙を流したものでした

 mikoさまの短いコメントから 大きなインパクトが与えられました  当然のような日常から 離れなければいけない日がきてしまう  自分では まだできる まだしたいと考えても離れなくてはいけない そのつらさ 十分すぎるほど分かります  ましてや 純粋な成長過程の子供達との仕事ですもの 余計です   その気持ちのままに この曲への出会いが どれほどmiko先生の琴線にふれるか よくわかるつもりです   みておられた子供たちの 将来に幸あれと祈るばかりです    僕は定年制のない職業で有り難いですが 今後は老害を ふりまかないよう留意して過ごして生きたいと思います

 miko先生の ぽっこりあいた心が また清らかな心でいっぱいに充填される日が早からんことも願っています

投稿: 能勢の赤ひげ | 2016年7月10日 (日) 22時29分

能勢の赤ひげさま、私のコメントを心にとめていただきありがとうございます。
卒業式の思い出の曲は年代によってそれぞれ違いますね。「仰げば尊し」は昭和28年生まれの私も心に響く好きな曲です。
長い教師生活の間、卒業式で歌われる曲も次々に変わっていきました。
その曲と共に学校生活の思い出や先生、友の顔がクローズアップされその人にとって思い出の曲になっていくのでしょうね。
最近では「旅立ちの日に」がよく歌われます。
ピアノ伴奏もきれいですばらしい曲です。

投稿: miko | 2016年7月13日 (水) 17時07分

今は89歳大企業に勤務して。混声合唱団で藤山一郎先生と福田和禾子先生はいつも明るく楽しくたくさんの歌を教えて下さいました。お陰様で今も茅ヶ崎で山田耕筰と赤トンボの会というサークルで歌っております。心から感謝とお二人の先生のご冥福をお祈り申し上げます。

投稿: 稲垣 嘉正 | 2017年9月17日 (日) 19時00分

学校の映画鑑賞で泣いてしまわれたというkonohさまのコメント(山の吊橋)で私も一つ学校映画を思い出しました。

今はない私の小学校は木造の一階建てでした。二つの学級を仕切っている壁を取り外し、机と椅子を廊下や教室の隅に押しやって、窓に暗幕をかけると映写室ができました。生徒は床に座って映画を鑑賞しました。私の学級の生徒数は50人弱で、保育園、幼稚園から、小学校の6年間、皆一緒でした。

小学4年生か5年生の時だったかと思います。”つづりかた兄妹”が上映されました。後で知ったことですがこれは当時、全国に知られた感動的な同名の書籍、実話、を基にしたもので団塊の世代であればほとんどの生徒が学校で鑑賞したのではないでしょうか。

そんなこととはつゆ知らず国語嫌いで作文が大嫌いな私は、”先生はまた生徒を作文好きにしようと図っている”と斜に構えていました。私は作文といえば一行か二行書くのが精いっぱいでした。実際そんな作文を提出したこともあります。映画のあらすじは思い出せません。土砂降りの雨の中で子犬を抱いたずぶ濡れの少年が立っている情景が脳裏に残っています。

映写が終わり暗幕が取り除かれ、教室が明るくなりますと何人かの女の子が泣いていました。わがクラスの悪ガキ坊主どもは、女の子一人一人の顔をのぞき込み、泣いてる、泣いてる、とはやし立てました。

私はその時泣いた覚えはないのですが、最近気になってネットで調べていて泣いてしまいました。驚いたのは映画の主人公でふうちゃんのモデル野上房雄君のお墓の写真を見た時です。墓石には「ふうちゃん 1948 8.22 -1957 6.4」と刻んでありました。彼は僕と同じ学年です。そして小学3年生で亡くなっているのを知りました。

つづりかた兄妹の話に感動し、うた物語にコメントしたいなぁ、と思っていたのですが、どの曲に関連させてよいのかわかりませんでした。

そして今日、”ありがとうさようなら”、これだ、と思いました。私の小学校の級友は今年集まって古希のお祝いをします。50人弱の級友ですが、7人が亡くなっています。
私はふうちゃんにも”ありがとうさようなら”と言いたい気持ちなのです。

書籍”つづりかた兄妹”も読んでみたくなりました。図書館でとりよせていただくことになりました。

投稿: yoko | 2018年4月 4日 (水) 23時31分

今月はこの曲にハマっていました。メロディが気に入って自分も歌えるようになろうと練習していました。

しかし難しい曲ですね。街を歩きながら口ずさもうとしても、メロディも音程も思い浮かばなくなるいことがしょっちゅうでした。結局家に帰ってパソコンで「うた物語」を開き二木先生の演奏を聴くまで歌えませんでした。

次に難しかったのが歌詞を音符に合わせることです。youtubeで子供たちの合唱を聴きながら練習しました。

最後の難関は1番から3番までの歌詞を覚えること。今ではなんとか歌えるようになったのですがそれでも歌っていてフッと歌詞が頭から消えてしまうのはしょっちゅうです。

youtubeで見る幼稚園児の合唱には感心します。皆1番から3番まで元気に歌っていますね。皆覚えているんだ、すごいなぁ。そこで昔のことを思い出しました。僕は幼稚園の頃から歌が覚えられなかった。いつも隣の子が歌っている言葉をこっそりと聴きながら後追いでマネしながら歌っていました。「仰げば尊し」も「蛍の光」も「故郷」もそうでした。

記憶できないのは今に始まったことじゃない。生まれた時からそうだったのだ。そんな風に考えると残りの人生も少し楽になりますね。もう頑張ることって必要ないんだ。

歌詞を覚えるのは辛いし、覚えてもすぐに忘れてしまうのも悔しいですが、もうテストもないし、先生に怒られることもない。今は悠々自適、人生万歳です。

投稿: yoko | 2018年4月19日 (木) 21時54分

yokoさま

この曲にハマっていらっしゃるのですね。
私もこの曲は大好きです。いまだに3番まで歌えます。
私は子供たちに「さあ歌いましょうと」教える側でしたので歌えない子の苦悩や友達の後追いをして歌うふりをしていた子のかわいらしさを改めて知りました。

でも歌が苦手でもなかなか覚えられなくてもいいんですよ。そんなことでその子の価値は決まりませんから。
私自身も子供のころは音楽や体育が苦手でしたが、笑ってごまかしていました。
そして絵や文章を書くのが好きでそちらの方に意識を向けて自信をつけて生きていました。
厚かましいもんが「勝ち!」です♪♪

yoko様のおっしゃる通り、もう歌詞をまちがっても誰も怒りませんので「ありがとう さようなら」好きに歌ってください。


投稿: MIKO | 2018年4月20日 (金) 21時13分

MIKO様

国語が苦手で、作文嫌い、読書感想文嫌い、の私でしたが、図書館で「つづりかた兄妹」を借りて読みました。昭和20年代、30年代の私と同世代の子供の世界がまざまざと甦りました。外地からの引揚げ、家族の別離、再会、貧困と家族の温かさ、団結に感動して泣きました。うた物語にコメントされている皆様の子供時代の体験と重なる部分があります。

読み終えて今日はその返却日だったのですが愛着が沸き、返すのが惜しくなり延長して借り続けることにしました。

主人公のふうちゃん(野上房雄君)のお墓参りをしたくなり、最寄りの公的機関にお聞きしたところ「つづりかた兄妹」のことはご存じありませんでした。4才年下の読書好きな私の妻ですらその本のことは知りませんでした。私はてっきり日本全国の人だれもが知っている有名な本と思い込んでいましたが、もう世の中、世代は交代しているんですね。このまま忘れ去られてしまう話なのでしょうか。寂しいなぁと思います。

近々関西を訪れる予定ですので、この際だから是非ふうちゃんのお墓参りをしたいと思っています。

投稿: yoko | 2018年4月20日 (金) 23時43分

「つづり方兄妹」は学校から観に行った良い映画です。
本を買って洋子さんにお便りしたらお返事を戴きました。
「・・色々なことが次々と起こります・・」と。

数年前に YouTube で映画が全部観れましたが消えていますね。
「つづり方兄妹」Google検索で沢山載っていますが、
上の「画像」へ進むとそこからも行けます。
60才位から年下の方は教えて貰わないと知らないでしょうね。
ネットでお墓の写真を見た時に、色んなことを考えてしまいました。

管理人さん、歌と関係のないことなので、
後日、削除してくださって結構です。

投稿: なち | 2018年4月21日 (土) 08時22分

「つづり方兄弟」のことは、まったく知りませんでした。
学校から観に行ったこともなく、大阪に住んで半世紀近くにもなろうというのに、大阪の交野市の私部共同墓地に ふうちゃんのお墓があることも全く知らずに過ごしてきました。 恥ずかしいことです。

振り返ってみると、私の少年時代は一体なにをして過ごしてきたのだろう? 女きょうだいばかりの中で、わがまま放題で、ありがとう・さようなら なんてことを感じたり実践してきた記憶も全然ありません。

今、この年になって、やっと周囲が見えてきて、人としての優しさに目覚め、やり残したことを一生懸命に追いかけているような気がいたします。
yoko さんや皆さんのコメントを拝見しながら、もっともっと優しくなりたいな と、思っています。

歌とかけ離れたコメントになりました。お許し下さい。

投稿: あこがれ | 2018年4月21日 (土) 11時00分

古希のお祝いを兼ねた小学校のクラス会が無事終わりました。
色々と嬉しいことやサプライズがありましたがミ〇エさんとのことを書いてみます。

ミ〇エさんとサ〇コさんと僕の三人でしゃべっていた時、
「ミ〇エさんて高校の時綺麗で美人だったよね」と僕は口をすべらしました。サ〇コさんは、
・・・またか、また言っている・・・と呟いてうんざりした顔をしました。

僕は”しまった。良くないこと言ったかな”、と気づいたのですが、ミ〇エさんは次のように応じました。

「そんなこと思っていたんなら、声くらいかけなよ。私はあんたは勉強ばかりしている違う世界の人だと思っていたよ、わたしゃ、あんたが本が詰まったカバンを抱えて、本をたくさん包んだ風呂敷を下げて歩いていたのを見たよ」

”誤解だよ・・誤解”、僕は風呂敷に本を包んで歩いた覚えなんてないし、それにどうして風呂敷の中が本だなんて決めつけるんだ・・・。しかし、彼女は「私は見た・・・」の一点張りです。

そりゃ確かに高校時代僕は引きこもりで外には出なかったが勉強していたわけじゃない、しかし、そう思われてもしかたがないかなぁ・・・と思っていたのですが、
彼女はなぜか言い訳じみたことを言い出しました。

「あの時、私ね、妊娠してたのよ・・・」
彼女はこの言葉を二度繰り返しました。

”えっ!、あの時?、妊娠?、って何?”
僕はその時、あの時、が理解できないまま、彼女との話を終えました。そしてホテルのベッドで一人で考えました。

”あの時”って何だろう。そしてぼんやりと思い出しました。

大学生になった夏休み、お盆近くに田舎に帰省していた時、道でミ〇エさんのお母さんにであいました。

「あら、お帰りになりましたね。お元気ですか・・・」
「元気ですよ。ミ〇エさんは?」
「ミ〇エも元気ですよ、今帰ってますよ」

僕は今まで同級生の女の子に自分から話しかけたことはない男でしたが、なぜかその時、咄嗟に、「話に行っても良いですか?」とお母さんに尋ねました。

ミ〇エさんのお母さんは、
「エ~、エ~、来なさい、来なさい、ミ〇エも喜びますよ」と答えられたので、
私はさっそくその夜ミ〇エさんの家に出かけたのです。

しかし、ミ〇エさんは姿をみせず、お母さんからは、「ミ〇エは今出れないの、後にして・・・」と返答がありました。

僕は・・・あ~あ、振られてしまったなぁ、もう二度と会うものか・・・となさけなく、打ちのめされました。

その後50年経って、この度のクラス会で彼女に再開したのです。

そうか、”あの時”って、あの時のことだったんだ・・・、僕はほとんど忘れかけていたのに彼女はあの時のこと覚えていたんだ・・・

夢うつつの中で地震の揺れを感じました。ドスンドスンと強烈な揺れを感じ、なかなかその揺れがおさまりません。これは大変な地震だ、震源はどこだろう、日本が壊滅するぞ、などと思いつつ目が覚めました。

気が付くと夜の高速バスの中でした。バスは一路、大阪から東京へと走り続けていました。

ミ〇エさんとのあの時のことも夢だったのかなぁと感じます。

投稿: yoko | 2018年6月 8日 (金) 13時43分

yoko 様

yokoさんの思い出話、いつも面白い。
話の内容を、時系列的に整理しながら2~3回読み直し、あ~なるほど、なるほど と頷きながら、楽しく読ませて頂きました。

最後の地震のところ、夢か現か・・・
”遠い昔の懐かしい思い出”も、所詮は夢のようで、現実に向かって走る高速バスの中に置き去りにされていくような
・・・そんな思いで、読ませていただきました。

いつもの yoko さんの掌編小説風なコメント、楽しみです。

投稿: あこがれ | 2018年6月 9日 (土) 07時42分

あこがれ様

読後感ありがとうございます。
書いた自分で言うのもなんですが、自分でも読むと、ちょっぴり可笑しくて、懐かしくて、悲しくなってしまいます。

今回は5泊(内車中2泊)4日の京都、大阪の旅でした。予定していながらも実現できなかったこともありました。

1.からおけ、クラス会実行委員の方針でしないことになりました。私は何曲か練習していたのですが・・・
2、ふうちゃん(野上房雄君)のお墓参り、スケジュール上できませんでした。
3、あこがれ様ご紹介の傘のある喫茶店、残念ながらみつけられませんでした。三年坂とイノダコーヒー清水店のあたりを上り下りしてみたのですが・・・時間も足りませんでした。

クラス会で特筆すべきサプライズがありました。小学校2年時の担任であった先生が、この60年間、生徒の作文を保管していらして、それがこのたび文集として皆に配られたのです。400字詰め原稿用紙にたどたどしい字で頑張って書いた小学二年生の皆の作文に歓声が上がりました。そして私も亡くなった級友7人の作文に涙を誘われました。

最後は、次回も生き抜いて必ず会おうね、という約束の”ありがとうさようなら”の別れでした。


投稿: yoko | 2018年6月10日 (日) 08時47分

古希のクラス会にはS君も参加しました。S君は脳梗塞で過去2度倒れ、今では歩行も少し困難です。バスツアーで大原三千院を訪れた時は山道を数十分歩くコースを辞退されました。私も心臓と足の調子が良くなく皆と同じペースで歩けないため辞退し、S君と二人で観光バスの中で待機しました。S君は自分の体が何時まで持つのかが心配でクラス会を早くしてくれ早くしてくれと要求していたそうです。

このS君とは「丘に登りて」でコメント(2016年2月 5日)しましたS君のことです。思い出での追加です。失礼しました。

投稿: yoko | 2018年6月12日 (火) 14時27分

私が学んだ小学校は卒業して4年後、隣の村の小学校と統合され廃校になりました。校舎はしばらく取り壊されずそのままでしたのである日様子を探りに行ったことがあります。

ガランとして誰もいない教室にはいつものように机と椅子が並べられていました。かっての小学一年生と三年生のときの教室を見て驚きました。なんてちっちゃな机と椅子なんだろう!この教室でS君が僕の名前を挙げてほめたことが思い出されます。その時僕は皆の視線が恥ずかしくてこの小さな机の下に隠れるように潜ったのです。

小学校1年生のときのF先生の思い出を「たなばたさま」でコメント(2014年7月 6日)しました。
F先生がお亡くなりになったことをクラス会で知りました。

小学校3,4年生のときのK先生の思い出を「ゆき」(2016年1月13日 )、と「みどりのそよ風」( 2014年6月15日 )でコメントしました。

皆が大原三千院に行っている間、S君と僕はバスに残って話をしていました。彼はすっかり痩せて表情も穏やかで優しくなっていました。

僕は、「痩せた方が健康にいいし長生きできるよ。」と言いました。そして得意の節約術を披露しました。

「お米を1/4合炊いて納豆を1/2パック、醤油かけてそれが僕の朝食だ」と話しました。
すると彼は、本格的に料理とか買い物の話を細かにし始めたのです。

私は驚いて、「奥さんは?・・奥さん、料理しないの?」と聞くと、「死んだ・・・」、「じゃあ、今一人?」、「そう・・・」、「そりゃたいへんだなぁ・・・」

そうか、これが現実なんだ、もう若くはないんだから・・・と思いました。カミさん、長生きしてくれ、大切にするから・・・

そうこうしているうちに、皆がガヤガヤと三千院から戻ってきました。
はじけるような笑顔のかっての級友たちです。
昔も今もかわりません。

ありがとうさようなら ともだち♪
ありがとうさようなら 教室♪
ありがとうさようなら 先生♪
ありがとうさようなら みんなみんな♪

投稿: yoko | 2018年6月16日 (土) 11時22分

最近のコメントでこの歌を連続して私が占有してしまっているようで心苦しいのですが、一つ訂正をお許しください。

”2018年6月 8日 (金)”のコメントで、ミ〇エさんは、私が本を風呂敷に詰めて歩いているのを見た、を言い張り、私はそんなことない、誤解だ、と否定した、と書いたのですが、思い出しました。ミ〇エさんの記憶が正しかったです。

その日私は受験勉強用の本と参考書を風呂敷に詰めて受験浪人として京都に立つため駅に向かいました。そんな姿を村人に見られたくなく裏通りを歩きました。

その通りはある箇所でミ〇エさんの部屋に面していました。そしてちょうど彼女の部屋の前を通りかかったとき風呂敷の結びが緩んで本がこぼれ落ちたのです。そしてその時、ミ〇エさんが部屋の中からそれを見て笑っているのに気づきました。みっともなさと恥ずかしさで僕は本を拾うと何も言わずに黙って通り過ごしました。

彼女はそれを覚えていたんですね。私のこの記憶も深いところで50年間眠っていたのです。不思議だなぁ、突然思い出しました。これも”うた物語”のおかげですね。

彼女の正しさを認めるためにも訂正しなくては、と思いました。

投稿: yoko | 2018年10月22日 (月) 09時51分

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