ローレライ
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
日本語詞:近藤朔風
1 なじかは知らねど 心わびて 2 美し少女(おとめ)の 巖頭(いわお)に立ちて 3 漕ぎゆく舟びと 歌に憧れ |
1. Ich weiß nicht was soll es bedeuten, 2. Die Luft ist kühl und es dunkelt, 3. Die schönste Jungfrau sitzet 4. Sie kämmt es mit goldenem Kamme, 5. Den Schiffer im kleinen Schiffe 6. Ich glaube, die Wellen verschlingen |
《蛇足》 ローレライは、ライン川中流域の右岸にそびえ立つ、高さ130メートルほどの巨岩の名前です。ライン川はここで急角度で湾曲するとともに、急に川幅が狭くなっています。この地形のせいで、ローレライの近くでは、こだまがよく聞こえます。
ローレライの古名ルーレライは「待ち岩」を意味し、これは、古いドイツ語で「こだまを岩(ライ Lei)のそばで待ち受ける(ルーレン lûren)」ことから来ていると言われます。lûrenはlauern(待ち受ける)の語源です。
ローレライの付近は流れが速く、水面下に多くの岩が潜んでいたため、かつては多くの船が事故を起こし、人命が失われました。そんなことから、ローレライの岩には水の精が棲んでいて、その歌声に魅せられて我を失った船人が舵を誤って沈没したという伝説が生まれました。現在は、幾度にも渡る工事により大型船が航行できるようになっています。
ただし、キャロル・ローズの『世界の妖精・妖怪事典』では、ローレライの伝説は、古くからある伝承ではなく、ロマン派の詩人C. ブレンターノの創作であるとされています。彼の譚詩『ローレ・ライ』は、次のようになっています。
ローレ・ライは見る者を虜にしないではおかない美女で、多くの男たちに言い寄られましたが、愛する人がいたため、すべてはねつけました。しかし、何人もの名士たちを惑わせた魔女として宗教裁判にかけられ、有罪を宣告されてしまいます。
そのころ、恋人の裏切りに遭って絶望していた彼女は、火刑による死を願いました。しかし、裁判を司った司教さえも彼女の美しさに心を奪われ、死なせるには忍びないと、火刑を免じて修道院へ送ることにしました。
護送の途中、彼女は、最後の思い出に、恋人がかつて住んでいた城を岩山から見たいと願い出て、許されると、隙を見てライン川に身を投げました。護送に当たっていた3人の騎士たちは、どういうわけかその岩山から降りられなくなり、そのままそこで朽ち果てました。
その後、水の精となった彼女は、美しい歌声で船人たちを誘惑し、次々と破滅へと導いたといいます。
この物語自体はブレンターノの創作ですが、それ以前に伝承がなかったというのはどうでしょうか。古代ローマ・ゲルマニアの昔から、ライン川は西ヨーロッパの水運の中心であり、この岩の近くでこだまが聞こえ、多くの船が座礁・沈没していたことを考えると、基になった伝承が何かあったと考えるのが自然でしょう。ちなみに、ブレンターノが『ローレ・ライ』を発表したのは1801年のことです。
この伝承に基づき、何人もの詩人がこの題材を採り上げて発展させました。そのなかでもとりわけ有名なのが、ハイネの詩『ローレライ』(1823年または1824年)です。これにF. ジルヒャーが曲をつけて以来、民謡のように広く親しまれてきました。
日本でも、近藤朔風の訳詞(明治42年〈1909〉)で愛唱され、今日も合唱曲として歌い継がれています。
1番の「なじか」は「なぜか」と同じ。「わびて」は「気落ちして、辛く思って」、「神怪しき」は「不可思議な、神秘的な」の意。
原詩第4聯最後のMelodei(メロダイ)は、その上のdabei(ダーバイ)と脚韻を踏むために使われた雅語で、現代語のMelodie(メロディー)と同じです。
このMelodeiについて、友人の森田明君(名古屋市立大教授・ドイツ語学)から、次のようにご教示を得ました。
Melodeiは、ラテン語やギリシア語からの借用語で、14~17世紀のいわゆゆる「初期新高ドイツ語」では、Melodeiと綴っていました。
16世紀ごろからフランス語の影響もあって、Melodieという形が生まれました。しばらくは2つの形が並行して使われましたが、やがてMelodieが優勢となり、現在に至っています。いっぽう、Melodeiは詩語・雅語として、19世紀の中ごろまで詩文のなかに散見します。
ところで、今の日本の学生は、この『ローレライ』を知りませんね。学校の音楽の授業で取り上げられなくなって、もう久しいそうです。近藤朔風の訳は、原詩の意味や雰囲気を余すところなく捉えたすぐれたものですが。文語体が嫌われたのでしょうか。
もっとも、1972~1973年の留学時に体験したのですが、当時の若いドイツ人たちもこの曲や歌詞をほとんど知りませんでした。作詞者ハイネがユダヤ人であることから、ヒトラー支配の時代にメロディーはともかく歌詞は「詠み人知らず」とされたことが原因だ、との説明を聞きました。でもどこか釈然としません。要は、文部省唱歌に採用されたからこそ、本国ドイツでよりも、日本で広まり、長く歌い継がれたのではないでしょうか。このような例はほかにも多いことと思われます。
(二木紘三)
コメント
『私は知らない、私がこのように寂しいと思う理由を』・・・なじかは知らねどこころわびて。『古い時代からの伝説が私の胸を去らない』・・・昔の伝へぞ、そぞろ身に染む。『山々の頂上が夕方の太陽の光の中で輝いた』・・・入日に山々赤く映ゆる。ドイツ語を習い始めたころ、ハイネの原詩と和訳を比べて、本当に驚きました。この訳者のひと、昨晩食べた御飯のおかずが少し違ったのではないか・・と。何と言う譬え!それ以来、類書で『近藤朔風』のことを調べたのですが、うまく当たりませんでした。いまはインターネットの時代。先日ふと思い立って『近藤朔風』で検索してみると一発でした。但馬国出石町の出身で、実父桜井勉博士は日本測候所生みの親と・・・。便利な世の中になったものです。
投稿: 乙女座男 | 2007年6月27日 (水) 11時28分
息子が読んでいた童話集に、ローレライの話が載っていました。ライン川のほとり、バッハラッハという町に美しい娘が住んでいました。娘の恋人が旅を終えてライン川を下る途中、ローレライのあたりで難破してしまいます。恋人の死を悲しんだ娘は、岩から身を投げてしまい、それから、水の精となった娘が岩の上で歌う、美しい歌声が聞かれるようになりました。ハイネの歌に出てくるメルヘンはこの物語かもしれませんが、分かりません。1975年、ライン川の船下りでローレライの岩のあたりを通りましたが、バッハラッハの娘のことを思い、涙が流れて止まりませんでした。
投稿: Patrickbyname | 2008年6月29日 (日) 17時06分
「ローレライ」は中学のとき音楽の授業で習いました。この曲を聴くと、このころを思い出して懐かしくなります。まもなく、そのころ一緒だった友人たちと同窓会があります。そうですか、この歌も、二木先生の解説によると、「仰げば尊し」と同じように本国より日本愛唱されていた歌なんですね!YouTubeには私の大好きな島田祐子さんによる「ローレライ」(↓)がアップされていました。お楽しみください。
http://www.youtube.com/watch?v=z-ulZJfb7so&feature=plcp
投稿: KeiichiKoda | 2012年11月10日 (土) 13時17分
美しき少女の歌声とラインの流れを思い浮かべながらこの曲を聴きますと確かに魂もさまよってしまうように感じます。私はドイツ語は全く分かりませんが乙女座男様のコメントで原文と訳詩との対比を拝見しますと同感です。驚くべき訳ですね。Wikipediaによりますと近藤朔風氏は酒好きで35才没とあります。彼もまたラインの巌頭に立つ少女に誘われてしまったのでしょうか。
投稿: yoko | 2017年5月13日 (土) 14時43分
流れるようなメロディ、明るいメロディ、起承転結もバッチリ、の魅力的な曲です。
これほど魅力的な曲はほかにないのでは、と思います。
これと比較して、歌詞や言い伝えは、怖い内容です。
3番の終わりなど、魔女の歌かと思うほど。
この乖離をいつも思っていました。
これほど魅力的な曲なら、恋愛の歌詞とか思い出の歌詞が相応しいのでは、といつも思っています。
音楽自体は大変すばらしいので、この曲は、いつも歌詞無しの音楽だけを聞いています。
投稿: cattleya | 2020年2月22日 (土) 19時01分
長崎のsitaruです。私は、外国の歌唱音楽の中では、ポップスやクラシック系の歌曲を聴くことはあまり好きでなく、古く日本に輸入されて文部省唱歌などとして広まった曲や、子供向けに比較的新しく作られた曲を聴くのが好きです。「ローレライ」は、中学一年の教科書で習った記憶がありますが、当時から好きでした。後に、NHKの古い「名曲アルバム」の映像を見て、ああ現地に行ってみたいなと思いました。それは、松尾葉子さん指揮、東京フィルの伴奏で、日本合唱協会が歌ったものですが、ライン河畔の映像が素晴らしいと思いました。この歌唱も、私が習ったものと同じ近藤朔風による訳詞で、その後、島田祐子さん、土居裕子さん、鮫島有美子さんなどの歌唱に親しんで今日に至っていますが、この曲に限っては、学生時代に聴いたドイツ語原詞による或る歌唱が忘れられず、今も時々聴いています。それは、ゾーリンゲン・ブッファーホーフ男声合唱団という合唱団によるもので、格調高く、雄渾な歌唱に感動しました。この歌唱は、今から40年以上も前、1978年か1979年頃にNHKのFMで放送されたもので、偶然に録音できたものです(今は録音したカセットテープを繰り返しの引っ越しのどこかで紛失し、正確な録音日がわかりません)。私は、1978年の夏に初めてステレオコンポを買い、少しずつレコードを買っては聴き、またFM放送の録音(いわゆるエア・チェック)を始めていました。或る日の午後、何気なくNHKのFM放送に周波を合わせたところ、流れて来たのが、「この一曲で音楽史に残った作曲家たち」(うろ覚えで、正確な題ではありません)という特集でした。その中で紹介されたのが、作曲家フリードリヒ・ジルヒャーのこの曲でした。そのほかに、テクラ・バダジェフスカの「乙女の祈り」(中村紘子さんのピアノ独奏)、ジョニー・ハイケンスの「セレナーデ」(ボリス・メルソンと彼のオーケストラ)、カール・タイケの行進曲「旧友」(西ドイツ国防軍司令部軍楽隊)、ヨゼフ・ワーグナーの行進曲「双頭の鷲の旗の下に」(英国近衛兵軍楽隊)などが含まれていました。ヨハン・パッヘルベルの「カノン」(ロンドン交響楽団)もそうだったと思います。これらの曲のうち、「双頭の鷲の旗の下に」だけは、小学校の運動会で、鼓笛隊の一員として楽器を担当しましたので、よく覚えていました。これらの演奏の大部分は、その後に聴いたどの演奏より良いものだったと思っています。特に、中村紘子さんの「乙女の祈り」は、優雅で繊細という一般的なイメージ(?)を、良い意味で裏切った、力強く、ダイナミックな演奏で、感動しました。
蛇足になりますが、私は大学の教養課程の第二外国語にドイツ語を選択しました。その理由は、ドイツ語の発音は、ローマ字式読みで大体済ませると先輩に聞いたからで、要するに楽をして習得しようと考えたからです。研究者になった後は、日本語と関係が深い中国語やコリア語をもっと勉強しておけば良かったと後悔しました。ドイツ語を実際に勉強し始めて、その格表現の複雑さに驚きました。結局、基礎会話さえも碌に身につかず、二年間だけの勉強で終わりました。いつの日か、好きだった女の子に「Ich liebe dich」(=I love you)と言えることを夢見ていたのですが、終にその日は訪れませんでした。ドイツ語の歌詞で有名な、シューベルトの「菩提樹」やベートーヴェンの「歓喜の歌」の一節は、少し覚えましたが、完全に歌いこなすことは出来ませんでした。
投稿: sitaru | 2020年11月30日 (月) 21時05分