明治一代女(その2)
(その1から続く)
箱屋・八杉峯吉との関係
ここで登場するのが事件の副主人公、箱屋の八杉峯吉です。事件当時は34歳でした。
お梅は芸者の頃、旦那の河村伝衛から引き出した金を歌舞伎役者の沢村源之助にせっせと貢いでいました。その源之助の男衆(付き人)だったのが峯吉です。
お梅はその頃、こんな事件を起こしています。
源之助がある出し物で芸者の役をやることになったと聞いたお梅は、高価な衣装を新調して贈りました。ところが、源之助は、芝居が終わったあと、それを喜代治という芸者にやってしまったのです。
それを聞いたお梅は、剃刀を逆手に源之助の家に暴れ込んだ、と当時の事情を知っている者が語っています。
事件は警察沙汰にはなりませんでしたが、それで源之助との縁は切れました(篠田鉱造著『明治百話』)。
衣装を別の芸者にやったとお梅に告げたのが峯吉で、そのため、男衆をクビになったという説があります。酔月楼の開業に際して彼を雇い入れたのは、お梅がそれにいくぶんかの責任を感じていたためかもしれません。
確かないきさつはわかりませんが、とにかく峯吉の直接の主人はお梅だったはずです。
ところが、峯吉は専之助の味方についてしまいます。前述の回顧談で、お梅は次のように語っています。
「峯吉は、私が家を飛び出したあとで、福田屋の女将さんに『金は自分が働いたように心得て、あればあるだけ使って、始末がつかない。早くいやァ馬鹿でしょう。あんな女を主人にしていた日にァ、これだけにした財産が台無しになる』って言ったんですって。何というあくたいでしょう」
しかし、峯吉は自分に恩を感じているはずという思いがあったので、お梅は彼に相談してみようと思いつきました。
お梅は辻待ちの人力車夫に小遣いを渡して、峯吉を呼び出そうとしましたが、彼は使いに出ていて留守でした。
そこで、しばらく待ってみようと大川端でぶらぶらしているうちに、柳橋のほうから帰ってきた峯吉とばったり出会いました。
お梅は、カッとなって飛び出したものの、やはり家に戻りたいが、どうしたもんだろうと彼に話しかけます。
お梅、峯吉を刺殺
ここからいよいよ6月9日夜の犯行の場にかかるわけですが、事件を裁いた重罪裁判所の公判記録(明治20年11月8日)では、次のようになっています。
「峯吉は『父が中々立腹し居れば、急に帰る訳にも参り難ければ、兎も角懇意の者の家に行き参れ』と申し、余り無礼なりと腹立たしく、且つ恋慕の事を申掛け、『其意に従わば帰宅し得る様取扱わん』との意味合いの如くに思われしが、其懇意の者の家に行くはイヤだと申したり。何分此場合の事実は夢中にて能く覚えず。慥(たし)か峯吉に自分の右肩を突かれて打転びし際、右手にて逆に出刃包丁を執り、打つ手を払いたり、一度突きたる儘、自分は駆出せしが、峯吉も歩行(あるき)て一方に逃げ出したる様覚えたり」
簡単に言えば、オレの女になれば父親に取りなしてやってもいいと峯吉がいった、というのです。
しかし、これは大いに疑問です。前述したように、峯吉は近所の女将にお梅のことをくそみそにけなしています。そういう相手に恋慕していたとは、ちょっと考えられません。
少しでも罪を軽くするために思いついたお梅の作為でしょう。ちなみに、出獄後の回顧談で、お梅は次のように語っています。
「それからってもの、毎日がくさくさして、そっちこっちと歩くうちに、色々の考えが出てくる。また峯吉が憎くなってきたんです。初めは自分だけ死のうと思いました。が、考えりゃ考えるほど、峯吉が悪い、あいつを残しておくにゃ及ばぬと、ふと胸に浮かんだのです」
明らかに殺意をもって峯吉を呼び出しています。相談すると言いながら、出刃包丁をもっていった事実がそれを裏付けています。
各紙、派手に書き立てる
ところが、これが新聞記事になると、なんとも派手なことになります。
犯行から3日後の6月11日付『東京日日新聞』は、公判記録の「恋慕の事を申掛け」の部分を思いきり拡大して、次のように報道しました。『東京日日新聞』は『毎日新聞』の前身です。
「五月雨煙る大川端の闇に……白刃一閃
花井お梅箱屋峯吉を刺す
以前は柳橋の秀吉、新橋の小秀
今は待合酔月の女将――年は四六の花盛り」
という見出しに続いて、次のように書かれています。
「そもそもこの騒動のてん末はと聞きただすに、かねて此家に居る箱屋の八杉峯吉(三十四)は、主人のお梅に深く懸想し、折節言い寄る事もあるを、かかる商売とて、召使う雇人にすら愛嬌を損なわぬが第一なれば、お梅は痛くも叱り懲らさず。峯吉は、さては彼方も左(さ)ばかり意なきには非ざりけん、されど向うは世に聞こえたる古る兵(つわもの)、殊には恋の山かけて、もともと深くいい替せし情夫もあれば、一筋縄ではウンというまじ、この上は威しに掛て口説き落し、本意を達するが近道と思惟しけん」
このあと、峯吉がお梅を手込めにしようとしたしたところ、激しく抵抗されたので、「もはやこれまで」とお梅を殺そうとしたが、もみ合っているうちに包丁が自分に刺さってしまった、という記事が続いています。
事件とは逆の成り行きになってしまっています。
記者はよく調べもせず、公判記録の一部から想像をふくらませて記事を作り上げたわけです。
江戸時代の瓦版の伝統を引いたせいか、当時の新聞では、こうした記事作成法が珍しくなかったようです。(その3へ続く)
(二木紘三)
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