琵琶湖周航の歌(その1)
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:小口太郎、原曲:吉田千秋
1 われは湖(うみ)の子 さすらいの 2 松は緑に 砂白き 3 浪のまにまに 漂えば 4 瑠璃(るり)の花園 珊瑚(さんご)の宮 5 矢の根は深く 埋(うず)もれて 6 西国十番 長命寺 |
《蛇足》 大正6年(1917)6月27日、旧制第三高等学校(現在京都大学)水上部(ボート部)の部員のうち、二部のメンバー7名は、学年末恒例の琵琶湖周航に出発しました。
旧制高校の制度は時代によってかなり違いますが、このころは一部が法文系進学コース、二部が理工農進学コース、三部が医学部進学コースで、各コースは甲類=英語、乙類=ドイツ語、丙類=フランス語をそれぞれ第一外国語とするクラスに分かれていました。
また、この時代、高等学校と大学は9月11日が学年初め、翌年7月10日が学年末でした。
周航は、クルーの1人・小口太郎が親友の小玉博司に送ったはがきや、山内(吉田)敬行が同窓会報に書いた『琵琶湖周航の記』などから、次のような日程で行われたことが明らかになっています。
第1日目は琵琶湖南端の大津三保ヶ崎を出発後、西岸沿いに北上し、雄松で宿泊。2日目も北上し、今津で宿泊。3日目は今津から東進し、竹生島を経て、東岸の長浜で昼食を取ったのち、南下して彦根で宿泊。4日目は彦根を出発して、長命寺で昼食を取ったのち、南下を続け、大津に至る(右図参照)。
歌集のなかには、1番の「志賀の都」を「滋賀の都」としているものがありますが、まちがいです。
志賀は琵琶湖南西岸、現在の大津市一帯の古称で、柿本人麻呂の歌に「ささなみの志賀の唐崎幸(さき)くあれど大宮人の船待ちかねつ」「楽浪(ささなみ)の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも会はめやも」(万葉集巻一の三〇、三一)とあります。
周航の出発地が大津三保ヶ崎なので、「志賀の都よいざさらば」としたわけです。
『琵琶湖周航の歌』の原形ができたのは、2日目の今津の宿でした。小口太郎が作った詩を見て感心した中安治郎が、「小口がこんな歌を作ったゾ」とクルーに紹介したのです。
このとき、何番まで書かれたかは明かではありません。今津滞在中ということから考えて3番までだったかもしれないし、翌日向かう予定の竹生島のことを考えて、4番まで書いたとも考えられます。
今日歌われている6番までの歌詞ができあがったのは、翌大正7年(1918)のことです。中安治郎ほかのメンバーのアイデアを取り込んで、小口太郎がブラッシュアップしたと伝えられています。
さて、今津の宿で小口の詩を見た面々は、それをなんとか歌えるようにできないかと考えました。クルーの1人・谷口謙亮がふと思いついて、当時三高のなかで流行っていた『ひつじぐさ』のメロディで歌って見たところ、歌詞にピタリと合いました。
小口自身は(曲も自分で)と考えていたようですが、それができないうちに、『ひつじぐさ』のメロディで歌うことが定着してしまいました。やがて『琵琶湖周航の歌』は、水上部だけでなく、三高の代々の学生たちによって歌い継がれていくことになります。
現在、大津三保ヶ崎はじめ、彼らが宿泊・寄港したすべての地に、この歌の歌碑が建っています。そのうち、長命寺の歌碑には、ちょっとおもしろい話があります。
6番は「西国十番長命寺」と歌われていますが、十番札所は宇治の三室戸寺で、長命寺は三十一番札所です。学生たちの勘違いでした。
長命寺港桟橋の後方に歌碑を建てることになった際、住職の好意ある対応により、歌碑文が「黄金の波にいざ漕がん 語れ我が友 熱き心」とだけ書かれ、問題は回避されました。
ただし、現在は「西国十番長命寺」が入った歌碑が建てられています。
『琵琶湖周航の歌』は、長い間、一部の若者たちの間で歌われていただけで、一般にはほとんど知られませんでした。その状況を一変させたのが、昭和46年(1971)にリリースされた1枚のレコードです。
昭和46年4月、加藤登紀子は、日本各地の「知られざる叙情歌」を集めて『日本哀歌集』というアルバムを発表、同年5月、そのなかから『琵琶湖周航の歌』と『知床旅情』をシングルカットして発売しました。この2曲が、折からの「ディスカバー・ジャパン」ブームに乗って、爆発的にヒットします。「ディスカバー・ジャパン」は、当時の国鉄が展開した旅行キャンペーンです。
『知床旅情』の作詞・作曲者が大物俳優の森繁久弥だということは知られていましたが、『琵琶湖周航の歌』の小口太郎については、知る人がほとんどいませんでした。それが、この大ヒットをきっかけとして「ルーツ探し」が行われ、上述したような歌の成立状況が明らかになるとともに、小口太郎についても知られるようになったのです。
小口太郎について少し見てみることにしましょう。
以下の記述は、おもに昭和46年8月4日付け『夕刊フジ』と、昭和52年(1977)2月発行の私家本『小口太郎と「琵琶湖周航の歌」』(安田保雄編・中安善也発行)の記述に基づいています。両方とも、小口太郎の縁者や後輩へのインタビューに基づいて構成されています。
小口太郎は、明治30年(1897)8月30日、信州諏訪湖西岸の湊村(現岡谷市湊)で生まれ、旧制諏訪中学(現諏訪清陵高校)に入学しました。
彼の人となりについては、諏訪中学校で同級生であり親友であった小口大次が、次のように語っています。
「容姿は端麗、優雅、女性的であり、しもぶくれの顔立ちで両眼は細く、笑った時には糸を引いた様になり、両頬には可愛らしい笑窪が出来た。性格は温和、従順で、他と争う様なことは絶無であったが、胸中に自己の堅い信念らしきものを持っていた様に思われる」
大正5年(1916)9月、小口太郎は旧制三高の二部乙、すなわち理工農進学コースのドイツ語クラスに進みます。級友や後輩たちの小口についての記憶も、上と同じようなものでしたが、さらに「きわめて頭脳明晰で真摯」という印象が付け加わります。
三高卒業後、東京帝国大学理学部物理学科に進み、その3年在学中に「有線及び無線多重電信電話法」を発明し、数か国の特許を得ました。このことからも、彼が並みの頭脳の持ち主ではなかったことがわかります。
東大卒業後、同大学の航空研究所に入りましたが、徴兵検査を受けたあと、病を得て退所しました。東京府下淀橋(現北新宿)の病院で療養につとめたものの、そのかいなく、大正13年(1924)5月16日に亡くなりました。26歳の若さでした。
そのころ彼は、諏訪中学の後輩だった浜徳太郎の妹・すずと婚約していましたが、浜家には「太郎は脳溢血で亡くなった」と伝えられたといいます。
しかし、実際は自殺でした。太郎の弟・秀雄がインタビューに対してそう語っています。ウツ病による自殺だった可能性が否定できません。
徴兵検査に合格すると、入営しなければならず、その間、研究から引き離されることになります。太郎のような一途な性格の研究者には、それが耐えられないことのように感じられたのでしょう。これが発症の原因だったのではないでしょうか。 (その2へ続く)
(二木紘三)
コメント
「琵琶湖周航の歌」のルーツを知ることができました。ありがとうございました。
「知床旅情」と並んで、加藤登紀子がヒットさせたことも、納得のゆくことでした。「百万本のバラ」が、歌声喫茶で多く歌われながらも、それ以上には広がらなかったのに、加藤登紀子が歌った時からブレークしました。歌い手の力を知ることができました。
「琵琶湖・・・」と「知床・・・」のヒットが、ディスカバージャパンに結びつけられるのは、(事実としても)ちょっと残念です。歌い手の力の違いが忘れられそうなのと、ディスカバージャパンが、その数年前から米国で展開されていた「Discover America]の焼き直しだったからです。
極めて個人的な受け止め方をして、楽しませていただきました。
投稿: Leafman | 2006年9月14日 (木) 17時39分
はじめまして。この「琵琶湖周航の歌」の成り立ちがよくわかりました。
ネット検索の理由は「歌の意味」でした。地名に纏わる古事が歌詞に織り込まれているのでしょうが、勉強不足の為か理解できない部分もあります。その辺りがわかっているのといないのでは違いが大きいですよね。
琵琶湖八景や近江八景など思い浮かべながら、深い意味を理解し聴いてみたいです。
投稿: 瑠璃 | 2006年10月28日 (土) 00時12分
琵琶湖周航の歌は 高校時代から
知っていたような気がします。
加藤登紀子さんは 多分同世代。
彼女の 旦那さん 藤本氏
の 顔は知りませんが うわさは大学時代に聞いてました。東大を嫁にもらった幸せ者?テな感じで 先輩がブツクサ言ってました。
それにしても 作詞作曲の人も若くなくなっていられるには やはり 時代を感じます。団塊の苦労知らずの 初老人の感想です。1947年生まれ。
それにしても 素晴らしいページ
いつも有難うございます。
投稿: 二宮 博 | 2007年3月 3日 (土) 05時11分
今から40年以上も昔のことですが、私が某テレビ局に入社して3年目の頃、滋賀県出身の先輩記者Yさんが急逝しました。たしか27歳くらいだったと思います。
Yさんは極めて優秀な記者で、労働省や組合関係の取材で幾度も特ダネを物にしていました。彼の夭折は同僚や関係者らに大きな衝撃を与え、局の近くの寺で営まれた葬儀・告別式には多数の人が参列しました。
当時、天をも衝く勢いだった総評の岩井章事務局長らも参列していましたが、Yさんの棺が寺から出てゆく時、同期生(私の3年先輩)が期せずして歌い出したのがこの「琵琶湖周航の歌」でした。
Yさんが滋賀県出身だったのでそうなったのでしょうが、その時の歌声と同期生らの涙声が忘れられません。この歌を聴く時、いつもYさんを思い出します。Yさんもこの歌の作詞者である小口太郎氏も、26~7歳の若さであの世へ旅立っていったのですね。
投稿: 矢嶋武弘 | 2008年2月12日 (火) 21時15分
祖父は旧制三校のボート部でした。その頃はまだこの歌はありませんでした。それでも祖父、祖母は、旧制高校の寮歌が好きで、子供達と一緒に歌っていたそうです。64歳になる私も都ぞ弥生、一高、三高、早稲田の校歌、応援歌、慶応応援歌など父母と一緒に歌ったものです。この琵琶湖周航の歌を聞くと、家族で歌ったことを昨日のことのように懐かしく思い出されます。
投稿: 昔の少女 | 2008年5月25日 (日) 18時25分
この曲は、私の故郷の歌として古くから唄われておったようです。遠い昔とはなりましたが、私の大学通学時には、夜間コンパなどがありますと、湖の浜で焚き火を囲い唄った懐かしい記憶が残っております。
投稿: 水本爽涼 | 2008年6月 3日 (火) 15時26分
友人が長野県岡谷市にいるので時々遊びにいきますが、その時私は決まって諏訪湖の水門近くにある小口太郎氏の銅像を見に行きます。銅像は多くの方の寄付で建てられ、歌碑の文字は大学の後輩でノーベル物理学賞を受賞した江崎玲於奈氏が書いたと記憶しています。歌碑にあるボタンを押すと曲が流れます。小口太郎氏は今尚、人々の心に生きています。
投稿: 中村和己 | 2008年8月14日 (木) 20時47分
学生時代には、コンパやゼミ旅行で、友人と肩を組んで歌っていました。もう長いこと、母校にも立ち寄っていません。卒業から丸26年も経ってしまいました。ゼミのOB会にも随分ご無沙汰の状態です。。。。自分にとって青春時代を想い出させてくれる名曲です。
投稿: 本田雅生 | 2008年8月25日 (月) 21時21分
本当に興味の尽きない物語を知るところとなりました。実は小生、勤務していた電話会社の研修にて「特殊無線技師(多重)」の免許を取得しておりますが、作詞者小口様該当の技術と思われます。加藤登紀子の百万本のバラ、愛の暮らしとともに大好きな曲の一つです。“蛇足”有難うございました。
投稿: ゆうさん | 2009年2月27日 (金) 21時37分
知人が本日近江路へ旅します その中に長浜があり、この歌を思い出しました 元唄を聴いてキーの異なるところを初めて知り驚きましたが、S46年にリリースされた時に今のメロディに編曲されたのでしょうか こちらのほうが耳慣れして聴きやすいのですが 作詞家の小口太郎氏が理科系の専攻だったのも新鮮味を感じます
当時の寮歌の作詞・作曲を見聞きすると、とても20歳前後の若者の作とは思えません どのような教育がなされてこんなハイレベルに達したのか今でも不思議です 世相というより若者の息吹を感じます
投稿: くろかつ | 2010年4月26日 (月) 05時42分
はじめまして
琵琶湖周航の歌は滋賀県民の私としてはなじみ深い歌で、最近は歌碑めぐりをしています。
投稿: sirasu | 2010年11月 5日 (金) 06時27分
http://www.youtube.com/watch?v=kvxHrNEHc4I&playnext=1&list=PLA1A215324E169835&index=7
この歌の歌詞は大好きです。今日又別の歌詞を見つけました。
yu-tabu で見つけました。東海林太郎の歌っている「琵琶湖就航」です。哀愁に満ちた良い歌詞です。
投稿: totoro | 2010年11月14日 (日) 01時01分
「琵琶湖周航の歌」♪遠くかすむは彦根城・・
「琵琶湖哀歌」 ♪われは湖の子 さすらいの・・
「七里ヶ浜の哀歌」♪真白き富士の根 緑の江の島・・
3曲は別々の歌です。
「琵琶湖周航の歌」の歌は高校の音楽部で習っていたので、
加藤登紀子さんの歌を聴いたのはそれから十年後位です。
投稿: なち | 2010年11月14日 (日) 08時07分
「琵琶湖周航の歌」♪われは湖の子 さすらいの・・
「琵琶湖哀歌」 ♪遠くかすむは彦根城・・
「七里ヶ浜の哀歌」♪真白き富士の根 緑の江の島・・
訂正 歌詞を入れ替えてました。
投稿: なち | 2010年11月14日 (日) 08時11分
学生時代、私は大学の漕艇部員でした。戸田ボートコース、荒川、相模湖。。。卒業後その記憶は遥か遠くのものとなっていくばかりでした。頭髪に白いものが混じり始めた頃に起業、しかし、仕事は上手くいかず失意の連続、ドン底に落ち、フラフラと琵琶湖に一人旅(何故琵琶湖だったのか今でも解りません)、竹生島行の船上で漫然と景色を眺めていると、となりの女学生三人が口ずさんでいた歌、琵琶湖周航の歌。ハッと我に還る思いでした。走馬灯の様に若かりし頃の漕艇の想い出が巡り、涙が止まらなかった。今から考えると、ここが青春に還る原点となりました。その後、不思議なぐらい仕事も順調、そして昔の漕艇部の仲間が集まって、また艇を漕ぐ様になりました。老体にムチ打って。。。きっと琵琶湖に住む漕艇の神様が憐れんで、私を琵琶湖に招き入れてくれた。と思っています。
投稿: 横浜黄昏 | 2011年9月15日 (木) 11時25分
初めて竹生島に行ってきました。船着場に琵琶湖周航の歌の碑が立っていました。少しだけ若返ったような気がしました。学生時代の仲間たちはどこにいるのでしょうか?またいつか皆で肩を組んで、周航歌を歌うことはあるのでしょうか?
投稿: 本田雅生 | 2011年9月26日 (月) 22時43分
入学時に大学からの書類と一緒に運動会発行の冊子が送られて来ましたが、その中に学生歌とともに旧制第三高等学校の寮歌が紹介されていました。この冊子に西国十番が長命寺でないのは、小口自身も知っていたが、字余りになるためにそのまま修正されなかったというようなことが書かれていたような記憶があります。
私が好きな歌詞は5番です。
矢の根は深く埋もれて 夏草しげき堀のあと
古城にひとり佇めば 比良も伊吹も夢のごと
そこには、藤村『千曲川旅情の詩』や晩翠『荒城の月』に通ずる無常観が描かれています。日本人は古城に特別の思い入れがあるようですが、こういう感慨を詠むことができる素養と感性を旧制高校の学生は持っていたようです。
投稿: Yoshi | 2011年9月28日 (水) 17時05分
先生のこのコーナー楽しく拝見させて頂いています。
さて、この曲の6番目の最後、『熱き心』の部分、「こころ」と読んでは音数が合いません。
加藤登紀子さんの歌では6番が省かれていて解りません。
私は音数を合わせるために、勝手に「あつきむね」と
約し歌っています。正確な読みをお教えください。
投稿: 高原 勉 | 2012年6月 9日 (土) 13時58分
上記の追加
6番2行目「遠く去りて」も字余りです。
ここはかく行「5音」で収まっています。
「とおくさり」で十分意味も伝わると思いますが。
歌われる方はこの2か所をどう表現されているか
知りたいです。
投稿: 高原勉 | 2012年6月 9日 (土) 14時15分
西國十番長命寺
穢れの現世とほく去り
白い銀波をいざこがん
語れ吾が友あつき心
西國十番長命寺
汚れの現世(ウツシヨ)遠くさりて
黄金の波にいざこがん
語れ我が友 熱き心
西国十番長命寺
汚れの現世遠く去り
白銀の波に漕ぎゆかん
語れよ友よ熱きこゝろ
6番の歌詞の変遷との事です。
投稿: 海道 | 2012年6月 9日 (土) 16時44分
海道様
「6番の歌詞の変遷」の記載ありがとうございました。
いろいろ御調べ頂いたことと存じます。お手数おかけいたしました。
やはり、「遠く去りて」では字余りになると感じた人も
あった訳ですね。
しかし、最後の句、「青春の心情」伝えるには「熱きこころ」が一番素直な表現ですが、「歌の歌詞」としては5音でないと収まりがつきません。
しかし、百年近く歌い継がれてきた歴史は素直に受け入れておくことと致します。
この歌のメロディ・ラインは美しいです。
投稿: 高原勉 | 2012年6月 9日 (土) 19時28分
YouTubeで、小鳩くるみさんや倍賞千恵子さんが、6番まで歌っているのを聴くことが出来ます。
「遠く去りて」も「熱き心」も、ごく自然に収まっているように私には聴こえましたが…。
投稿: 迷子 | 2012年6月 9日 (土) 20時49分
迷子様
YOUTUBEの情報ありがとうございました。
早速小鳩くるみさん、さくらさんの歌聴いてみます。
ありがとうございました。
投稿: 高原勉 | 2012年6月 9日 (土) 22時26分
ゼミの先生を偲ぶ会で、先輩ゼミナリステンが遺影を前に、朗々と歌い上げられた場面が眼に浮かびます。「師たる教師」であった先生のゼミ会員親睦会が今年も7月15日に開催されますが、出席出来ません。よき想いでの美酒は、明朝、シベリウスのフィランディァにより、また吾を壮健に導いてくれそうです。
投稿: 夏橙 | 2012年7月13日 (金) 20時43分
折にふれて自然と口ずさむ歌ですが、作詞した小口太郎が、長野県岡谷市の生まれで、しかも諏訪中学(旧制)の出身だとは、今の今まで知りませんでした。驚きです。というのも、私は諏訪の生まれですから。今は故郷を離れていますが、諏訪湖はいつも私の心の中にあります。湖といえば諏訪湖のイメージしかなかった私にとって、初めて琵琶湖を見た時には、その大きさに驚いたものです。もしかしたら、小口にとって、琵琶湖は諏訪湖に通じていたのかもしれません。岡谷へ行く機会があったら、水門近くにあるという銅像をぜひ訪れてみたいと思います。
投稿: うさぎさん | 2015年2月 7日 (土) 10時36分
このサイトは楽しく見ています。二木先生の綿密な調査と的確なコメントに感嘆しています。この歌は愛唱歌で折にふれ口ずさんでいます。加藤さんのヒットで世に広まりましたが、正式な速さはどうなんでしょうか。楽譜を見たことはありませんが昔NHKの行く年で京大合唱団が歌っているのをみたのですが、恐ろしくスローでした。遠漕のボートでオールの動きに合わせたらゆっくりが正調なのでしょうか。それと2番4番に「乙女子」が出てきます。歌う時の順番の目安にしていますが、バンカラな旧制高校生といえ現代の教養課程の若者とみれば、異性への関心も高く「熱き心」になるのでしょう。
投稿: しょうちゃん | 2015年2月22日 (日) 21時41分
こんにちは。滋賀県と言えばこの不朽・不滅の名曲が思い浮かびます。特にお登紀さんの抑揚を効かせたバージョンは泣かせますね~☆
投稿: なにわのヒバゴン | 2016年2月20日 (土) 18時15分
今も琵琶湖周航の歌を歌う、昭和一桁の俳諧朗人です。
岡谷市の小口太郎像にある歌碑のボタンで流れる、琵琶湖周航の歌。 実は1990年頃、昔私が居た会社で納めた「メロデーブリッジ」なる製品で、既に往事茫々の思い出になります。
岡谷音楽協会・諏訪交響楽団・三高同窓会の協力でCDも制作しました。
同窓会の斉唱では、滋賀の都よ・・・みや「こよ~」は「レレソ~」の正調で歌われて居ます。
現在歌われる「レドラ~」は、戦後の歌集復刻に際して、音符の誤記が介在したというう事でしょう!
寮歌等では、歌詞やメロデーの多少の変遷は良くある事。この歌も生まれて間も無く一世紀、今も尚我らを青春に
回帰させ、明日への活力を与えてくれる不思議な歌です。
投稿: 保科 盛 | 2016年9月29日 (木) 22時12分
長男夫婦からの招待で、一昨日~昨日と眼下に琵琶湖を見下ろす高台の純和風温泉旅館にくつろぎましたが、道中 比良山系は、真っ白な雪景色、琵琶湖の水面も見るからに寒々として、まさに肌を刺すような冷たい風でした。
さすがに遊覧船もボートの影もなく、夜は対岸の灯りが真冬の湖面に映えて、ロマンチックな眺めでしたが、はしゃぎまくる孫の相手でくたびれ果てました。
帰りは草津在住の倅に最寄り駅まで送ってもらい、JRで帰りましたが、駅のホームは震えあがるほどの寒さでした。
それにしても、山形県肘折は438cmの積雪とのこと・・大変どころじゃない!と、思います。
りんご 様 大丈夫ですか? 雪に埋もれないように気をつけて下さい。
投稿: あこがれ | 2018年2月13日 (火) 17時18分
あこがれ様はじめ同好の皆様
連日の報道で山形県がすっかり有名になりましたね。
肘折は山深い温泉郷です。本来なら人間が住む地域ではない?ほどの山奥です。
といいつつも今朝の新聞に載るほど昨日は当地も降りました。雪の回廊で天然冷蔵庫に暮らしているような塩梅です。もうひと踏ん張りです。ご心配ありがとうございます。
投稿: りんご | 2018年2月13日 (火) 21時23分
りんご様、他ご投稿の皆さま
九州の生まれ育ち、今は何故か、茨城県で定年有機農業を営む者です。以前、何かの歌へのコメントに書きましたが、学生の頃、夏休みに工場実習(今の言葉で言うと、インターン)で2週間位、長野県下水内郡栄村と言う所(新潟県境)の水力発電所でお世話になりました。最寄りの国鉄・飯山線「森宮の原駅」の広場には「昭和20年2月、積雪7m85cm」と言う記念塔が立っていて、度肝を抜かれました。
雪深い土地には、暖地に比べ、春を迎える、より大きな「喜び」があるのだと推察します。
お元気に、春を迎えられますように。
投稿: 竹永尚義 | 2018年2月14日 (水) 17時01分
竹永尚義様、同好の皆様
竹永様ご心配ありがとうございます。
福井の方々の事を思えば不平不満は禁物です。
当地でも37年ほど前のクリスマスイブに大雪に見舞われ
交通がマヒ、歩いても往復20分のケーキ屋に命がけでケーキを取りに行った記憶が蘇りました。県都を出発したバスが隣接の街についたのは翌日の午後。しかし福井県の場合はその三乗ほどの惨状が想像されます。一日も早い回復を祈っております。
又地吹雪で 今回の福井の様に幹線道路が麻痺しておにぎりなどの救済活動(長井市)のニュースも何年か前にありました。
竹永様 滋賀はよく行きました。湖北の観音様、彦根城、、近江八幡のヴォ~リズ建築、比叡山坂元、石山寺、三井寺等々。
10年ほど前の二月 近江豪商の館のひな人形と、井伊家の雛道具展のツアーに参加したのが昨日の様に甦ります。(京都駅、八条口発着)。山形は深い雪なのに、近江八幡では雪柳が咲いていました。琵琶湖に沿ったさざ波街道を往復いたしました。
茨城県には霞ケ浦がありますね。湖水つながりでしょうか?ご自愛ください。
投稿: りんご | 2018年2月15日 (木) 20時46分
竹永尚義 様
またしても粗忽のりんご。サザエさん度全開をお詫びいたします。竹永様が滋賀県から茨城県にいらしたものとばかり思ってました。竹永様は九州お生まれでしたね。
滋賀県出身で定年後横浜から茨城県に移り野菜作りをなさってる方のブログにコメント投稿しておったので間違えた模様です。取手市の方でした。数年も前のことです。
「かんちゃんの何とか~}というタイトルでした。
悪しからずご了承ください。
投稿: りんご | 2018年2月16日 (金) 20時25分
りんご 様
全然構いません。私信の遣り取りになるので、手短に。
現役の頃、滋賀県長浜市近郊に出張があり、高月町?
虎姫町?の千手菩薩菩薩様にも、いつか逢ってみたいと思ってはいます。1泊した長浜の町には、伊吹山からの清冽な水が流れていました。 湖東の雰囲気も好きです。
以上。
投稿: 竹永尚義 | 2018年2月17日 (土) 18時27分
琵琶湖就航の歌から 少し離れるかも知れませんが、彦根城や石山寺は懐かしい思い出があります。
安政の大獄を行った大老 井伊直弼と参謀 長野主膳の隠密として芸妓の経験を生かし、尊王攘夷派 倒幕派の情報収集にあたり生涯を賭して直弼に愛を捧げた村山たか女と直弼の波乱の生涯を描いた『花の生涯』船橋聖一著を読了して数日後、たか女 縁の金福寺を訪れ、そこで たか女が捕らえられ三日三晩三条大橋で晒し者にされたが、宝鏡寺(百々御所 人形寺・・歴代皇女が住持になった由緒ある門跡寺院)の尼僧に助けられ、金福寺で出家して67才で没した事や、又金福寺が俳句の聖地で与謝蕪村により芭蕉庵が再興されたことなど知りました。芭蕉の碑像があり、そこから洛中が一望できたことも思い出しています。金福寺は、詩仙堂から歩いてすぐのところでした。
石山寺は、紫式部が源氏物語を起筆したところといわれ、瀬田川をのぞむ高台の小さな部屋に式部の木像があります。また近くには源氏物語ミュージアムや日本最古の木造建築の宇治上神社等があります。さわらびの道を散策しながら、のんびりと歴史に浸ったひと時を思い出しています。
京都検定もバーチャル世界だけでなく、実際に散策して肌に感じ、学ばないと中々難しいものです。
投稿: あこがれ | 2018年2月17日 (土) 21時58分
久々にお邪魔しています。
以前にもお邪魔しました。
琵琶湖周航の歌、いつ聴いても感動です。
この初夏の時期にまわりの新緑をみながら聴くとなおさらですね、
歌詞を読んでいるとなぜか涙があふれます。
すばらしい曲ですね。
投稿: choji | 2019年5月19日 (日) 10時10分
「琵琶湖周航の歌」は好きな歌です。
歌詞がいい、メロディがいい。つい、♪われは湖(うみ)の子 さすらいの…♪と、気軽に口遊んでしまいます。
多くの歌い手さんが、ソロで、コーラスで歌っていますが、最近になって、やはり、加藤登紀子さんの歌声が、最も心地よく感じられることを再発見しました。
次いでながら、歌詞2番の”乙女子(おとめご)”が登場する情景は、そのまま思い描くことができますが、歌詞4番の”乙女子”が登場する情景を思い描くことは易しくありません。なぜ、”乙女子”なのだろう?とか、…。竹生島に伝わるとされる古い伝説を訪ねることが、詩情理解への第一歩ということでしょうか。
投稿: yasushi | 2021年6月 1日 (火) 17時27分
josame様から、「琵琶湖周航の歌」歌詞4番の舞台である竹生島について、仮想旅行の仕方をご教示下さり有難うございました。ご親切なお心遣い、身に沁みます。
合わせて”交流掲示板”にお示し下さった細部要領に従って、竹生島仮想旅行を試みようとしましたが、そのベースとなるGoogleマップ(アプリ)が、私のPCに搭載されていないことに気付きました。
Googleマップをインストールし(倅の支援のもと)、改めて、竹生島仮想旅行にトライしてみようと思います。
投稿: yasushi | 2021年6月 3日 (木) 09時23分
josame様からご教示に従い、「琵琶湖周航の歌」歌詞4番の舞台である竹生島について、仮想旅行することが出来ました。
自分がそこにいるかのごとく、歌詞4番の歌詞が刻まれた石碑や、お寺の様子が分かり、感無量です。
ネットで、”Googleマップ”から入れたのですね。
自分のPCに、Googleマップというアプリを持っていなければならないと、勘違いしていました。いい勉強になりました。有難うございました。
投稿: yasushi | 2021年6月 3日 (木) 13時43分
josame様に教えて頂いた、~Lefa~(リーファ) さんが歌う「琵琶湖周航の歌」を初めて聴きました。
なかなか個性的で、好感を持てました。歌詞6番まで歌われていて、聴きごたえがありました。また、josame様も述べておられますように、YouTubeのビデオにも、歌詞を思い起させる景色がつぎつぎに登場し、趣きを添えていました。
私が人並みのデジタル力を持っていたら、josame様に二度手間をおかけすることはなかったのにと、反省しきりです。どうか、ご容赦のほどを。
投稿: yasushi | 2021年6月 4日 (金) 11時10分
茨城県東海村のJRRI(日本実験原子炉一号)で中性子照射実験をすませ、東北山形を周り、富山から高山線経由で岐阜にでました。昨日来の雨も上がり米原で下車して竹生島にわたりました。昭和35年の秋のことです。竹生島から大型の観光船に乗り換え大津にむかい帰路につきました。そのころ、この歌があるとは知らず、比良の山並みに沈む夕日を船べりで眺め、一抹の涼秋(哀愁)に浴していました。船内で琵琶湖の湖水真珠を一粒買い求めました。野菊一輪をそえた手作りのサンドイッチを差し出しながら出発の駅のホームに見送りにきてくれた同級生にそっとお礼のつもりの一粒の真珠の珠です。同級生は、何日かの後に指輪にしたいといいだしました。わたしはいいとも悪いとも言えず、二人の間に時が流れ過ぎました。その同級生は一昨年の春、一人さみしく旅立ちました。この歌を聴くと60年もまえの青春に立ち戻ることができます。
投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2021年6月 8日 (火) 15時01分
josame様からのご案内(’21-6-10)に基づき、Googleマップよる、歌詞6番の長命寺の仮想参拝をさせて頂きました。
因みに、実地を訪れたことはなく、初めての訪問でしたが、これによって、歌詞6番への親近感が芽生えたように思います。有難うございました。
なお、”交流掲示板”の[2172]長命寺への仮想参拝(’21-6-10)でご教示ありました『「琵琶湖周航の歌」歌詞の変遷』が素晴らしく、興味深く拝読しました。
その結果、歌詞4番の竹生島の歌詞についての理解が一層進み、抱いていた多少の疑問も解消されたと感じています(’21-6-1の拙コメントをご参照)。合わせて、感謝申し上げます。
ついでながら、ここ2、3日、YouTubeで出合った、島田祐子さんが歌う「琵琶湖周航の歌」に惹かれて、繰り返し聴いています。
投稿: yasushi | 2021年6月10日 (木) 10時33分
長崎のsitaruです。この「琵琶湖周航の歌」は、私の好きな曲の一つてすが、初めて聞いたのは比較的遅く、20代半ばの頃だったと思います。元来私は学校の校歌、応援歌、寮歌などにあまり興味が無く、卒業した大学の校歌も未だに全く知りません。私の学生時代は、全体として学生は左傾化しており、これらの歌の古色蒼然とした歌詞には無関心でした。大学には制帽や学生服がありましたが、そんな服装をした学生をたまに見かけると、小馬鹿にしたり、右翼かと警戒したりしていました。ですから、後にこの歌に出会った時、歌詞は確かに文語調ですが、その叙情性に打たれ、たちまち好きになりました。この歌は、旧制第三高等学校ボート部の部歌とのことで、本来男声合唱が一番相応しいと思います。ですから、ヒットした加藤登紀子の、やや男性的なドスの利いた歌い方が、ソロ歌唱としては最も近いように思えます。とは言え、カヴァーが好きな私は、この曲のカヴァーがたくさんあるのは嬉しく思っています。
この歌の舞台となった琵琶湖は、日本の西端に生まれ育った私も、小学生の頃から知ってはいましたが、実際に見たのは20代半ばになってからのことでした。博多始発の新幹線で、京都駅を過ぎ、トンネルを抜けると琵琶湖が見えてきました。しかし、それは全景にはほど遠く、建物の陰からそのほんの一部を覗き見たという程度でした。その後も新幹線で東京に行くことが何度かありましたが、いつも同じ風景でした。
(これ以降の文章は内容が『琵琶湖周航の歌』から離れますので、「交流掲示板」に移しました。投稿番号2174。管理人)
投稿: 坂口至 | 2021年6月10日 (木) 18時29分
このコメントは、内容的に「交流掲示板の」のほうがふさわしいと判断しましたので、そちらに移しました。投稿番号2175。管理人
投稿: sitaru | 2021年6月11日 (金) 00時37分
コメントは400字程度がよろしいです。重箱の隅をつつきながらの学識を振りかざすことには重々慎みたいと念じています。
投稿: 匿名希望 | 2021年6月12日 (土) 12時45分
匿名希望様、皆様
長崎のsitaruです。匿名希望様のご指摘、まことに御尤もで、わたくし自身も毎回書きながら「長いなあ」と思っておりました。ですから頻繁にコメントさせていただくことを控えていたつもりです。
わたくしは、研究者のはしくれですが、研究の出発点を、できるだけ身近なことばを例にとって考える所に置いています。そして、できるだけ分かりやすく説明するよう心掛けて来ました。このブログに出会った時は、好きな歌のことを自身の経験を交えて自由に語れる素晴らしいブログだと感じ、ついつい長い文章になってしまいました。
わたくしは、いつでも、日本語の面白さを一人でも多くの学生に伝えたいという気持ちで授業に臨んで来ました。ですが、やはりここは場違いであったようです。これまで、多くの方に不快な思いを与えていたかと思うと、心苦しい限りです。皆様に深くお詫び申し上げるとともに、潔くこの場を撤退したいと思います。
最後に、管理人様、これまでわたくしのわがままをお許し下さり、ありがとうございました。では、この辺で失礼いたします。皆様の今後のご健康とご長寿をお祈り申し上げます。
追伸 josame様
お心遣いありがとうございました。投稿は控えますが、この素晴らしいブログは時々拝見したいと思っております。
投稿: sitaru | 2021年6月12日 (土) 15時24分
sitaru様
投稿をお控えになる必要はございません。内容にふさわしい場所にご投稿くださればいいだけの話です。
コメントはいつも興味深く拝見しています。
今回は皆様のご意見もあって、勝手ながら2つのコメントを交流掲示板に移しましたが、ご了解ください。
(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2021年6月12日 (土) 17時32分
二十年近く前のことですが、京都大学の学生の人から琵琶湖を竹馬で1週間で1周したと聞きました。京都大学の学生寮では毎年バカなことをやる企画があり、それを提案したら、誰も実行をする人がいなかったのでやむなく自分で1周したそうです。大変で、その後しばらく足が動かなかったと言っていました。その時は気がつかなかったのですが、琵琶湖周航の歌は京都大学の学生の作の歌なので、寮生たちはこの歌に親しんでいて、その人はこの歌を思いながら1周したのだなあと今になって理解できました。
投稿: kazu | 2021年6月22日 (火) 12時40分
よく愛唱していますが、2番の「赤い椿の森蔭にはかない恋に泣くとかや」は「赤い椿の森蔭ではかない恋に泣くとかや」の方が歌いやすいのになあといつも思います。場所を表す助詞は確かに「に」の場合もありますが通常は「で」の方が自然だし、そのあとに続く「はかない恋に」の「に」と韻がかぶるのも、、。でも、恐らく作詞家の小口氏には、小生の浅慮を超えるもっと深い思慮があったのでしょうね。
投稿: 黒部太陽 | 2023年2月 2日 (木) 12時52分
今年の年賀状に金沢大学の教授として居着いたゼミの同窓が、戦前軍都、戦後学都、今や食都と書いてきました。知人の亡父が四高出のこともあり時々金沢を訪れます。旧校舎の資料館で昭和16年のボート部琵琶湖遭難の様子を見ました。最近TVでフォレスタが「琵琶湖哀歌」を歌っていたそうですが、二木先生の蛇足にしれとこ旅情とともに琵琶湖周航の歌が加藤登紀子さんの「日本哀歌集」に収められていることを知りました。解説のように「知られざる抒情歌」ということには異存はありませんが、「哀歌」はピンときません。しれとこ旅情は別れの歌として披露されたので哀歌と言えなくもありませんが、満州出身の加藤さんが満州里小唄や討匪行、北帰行を哀歌とするのとはやや違うかと感じました。ひょっとしてですが、琵琶湖哀歌のイメージがあったのかとも思います。なにしろ東海林太郎さんの歌ですから。海津大崎の桜に連れて行き、車で琵琶湖一周をしてあげた知人も少し混同していたようです。誤嚥性肺炎の予防のためカラオケ一番を買って喉を鍛えようとし、周航の歌だけ今日は高得点だったのでいい気持ちで二木先生のうた物語を開き詳細な解説に納得しながら思ったことです。
投稿: しょうちゃん | 2023年2月 2日 (木) 20時00分
「小口太郎は、明治30年(1897)8月30日、信州諏訪湖西岸の湊村(現岡谷市湊)で生まれ、旧制諏訪中学(現諏訪清陵高校)に入学しました」との二木先生のコメントに接しました。私の田舎の村も同名の湊です。佐賀県東松浦郡湊村、玄界灘に面した苗字が百に余る数をもつ、戸数数百戸の地区です。信州人になって久しい今、諏訪湖の南岸に、湖岸に迫る急斜面にへばりつくかに点在する湊村(現岡谷市湊)を通るたびにこの歌を口にします。琵琶湖は思い出多い地です。竹生島から大津に向かう客船の売店で淡水産の一粒の真珠を買いました。学友への土産のつもりでした。彼女はこれで指輪を作りたいといいました。が、私の口から彼女の耳へには何の言葉も届けられませんでした。もう、六十有余年も過去のこと。その学友もすでに故人となってしまいました。
投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2023年2月 3日 (金) 13時11分
琵琶湖周航の歌を聞くといつも主人と行った奧琵琶湖のマキノを思い出します。カタカナの町「マキノ」高島市の北端に位置する湖水の綺麗な処。マキノビーチ湖岸景観は抜群です。駅から約2.4キロ約500本のメタセコイヤの並木道の美しい景観は人々を魅了します。主人の浮気で悲しかった頃、精神が病んでいましたがこの場所に来て癒されました。忘れる事が出来ません。あの頃の事が智恵子抄の歌と共に思い出されます。竹生島の秘話伝説も有ります。太古のメタセコイヤ大好きでお買い物に行く途中に山の麓に数十メートルの二本のメタセコイヤが有りますが少しだけ低いのがママよと言いながらいつも四季折々に見ています。
投稿: 細川 和代 | 2023年3月19日 (日) 14時27分
学生時代に琵琶湖ではありませんが某所でボートに乗っていたことがあります。初級生で動作の安定しているナックルフォアというボートでした。レース(レガッタ)の主流はシェルエイトでしたが、艇庫には旧制高校時代の漕艇部が使っていたボートもおいてありました。海軍の漕艇訓練に使われるカッターボートのような武骨な船でした。
来る日も来る日も合宿で、おかげで「飯炊き」が上手になりました。琵琶湖の北端にある余呉湖というのんびりとした湖を訪れたことも思い出のひとつです。
ブログのハーモニカ演奏の伴奏に使わせていただきました。ありがとうございました。
投稿: ゆるりと | 2023年4月12日 (水) 06時23分
昭和29年麻布中学の修学旅行で相模湖の旅覧船が沈没して乗っていた中学生22名が湖底に沈んだまま帰らぬ人となった詩吟の【相模湖の恨み】とこの悲話がよく似ていますね。
優秀な若い学生の御魂にどうか安らかにと合掌致します。
投稿: 細川 和代 | 2023年5月25日 (木) 05時00分
細川さま 「この秘話」というのは「琵琶湖哀歌」のことではないでしょうか。私の2月のコメントをお読み頂ければ幸いです。間違っていたらすみません。それからマキノのメタセコイヤ並木はNHKドラマ「グレースの履歴」で女主人公が赤いホンダのエスハチを駆る舞台として毎回エンディングで映し出されていました。
投稿: しょうちゃん | 2023年5月25日 (木) 09時27分
「この秘話」というのは「琵琶湖哀歌」のことではないでしょうか。:そうですね。私の2月のコメントをお読み頂ければ幸いです。:拝見致しました。マキノのメタセコイヤ並木はNHKドラマ「グレースの履歴」で女主人公が赤いホンダのエスハチを駆る舞台として毎回エンディングで映し出されていました。:有難うございます美しいメタセコイヤが見れました。
因みに竹生島の宝厳寺のご住職の語りが有ります。必見です。
投稿: 細川 和代 | 2023年5月25日 (木) 10時08分