死んだ女の子
(C) Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:ナーズム・ヒクメット、作曲:木下航二
日本語詞:飯塚 広
1 とびらをたたくのはあたし 2 十年前の夏の朝 3 あたしの髪に火がついて (間奏) 4 あたしは何にもいらないの 5 とびらをたたくのはあたし KIZ ÇOCUĞU(原詩:ヒクメット) 1. Kapıları çalan benim 2. Hiroşima'da öleli 3. Saçlarım tutuştu önce, 4. Benim sizden kendim için 5. Çalıyorum kapınızı, |
《蛇足》 昭和32年(1957)に発表され、原水禁運動の集会や歌声喫茶で盛んに歌われました。
作曲者の木下航二は、当時、都立日比谷高校の社会科教師で、『原爆を許すまじ』の作曲者。原詩はトルコの社会派詩人ナーズム・ヒクメットの『KIZ ÇOCUĞU(クズ・チョジューウ)』(小さな娘)。
ヒクメット(写真)は、オスマントルコ時代の1902年、帝国西端の都市サロニカ(現ギリシア領テッサロニキ)で、帝国高官の家に生まれました。11歳ごろから詩を書き始めたといいます。
第一次大戦が始まると、トルコ中興の祖といわれるムスタファ・ケマル・パシャ(のちのケマル・アタチュルク)が指導する祖国解放闘争に参加。その後、ロシア革命後のソ連に渡り、詩人マヤコフスキーの影響を強く受けて、力強い自由律詩を書き始めました。
1924年、新生トルコ共和国に帰国し、執筆活動を中心とした社会改革運動を展開しましたが、その社会主義的傾向が新生トルコ政府の忌避するところとなり、何度も投獄されました。獄中生活は通算17年に及びましたが、その志操は毫も揺らぎませんでした。
1950年、トルコ政府は国際世論に妥協して、彼を釈放しましたが、その後も執拗に弾圧を続けました。自由な言論を封じられたヒクメットは、翌1951年、トルコを密かに脱出して、ソ連に亡命しました。トルコ政府は、ただちに彼の国籍を剥奪しました。
ヒクメットはモスクワで、詩、エッセイ、小説、戯曲、映画、シナリオ、バレエ台本などを精力的に執筆するかたわら、反戦・平和を求める国際連帯運動の先頭に立って戦い続けました。
1963年6月、亡命先のモスクワで、ヒクメットは、故国に残してきた妻子を思いつつ客死しました。享年61歳。
1991年、ヒクメットの業績を記念するため、トルコの文化人や芸術家たちが中心となって、「ナーズム・ヒクメット文化芸術財団」が設立されました。
トルコ政府は、2000年7月にモスクワで行われたヒクメットの墓前祭に文化省次官を参列させるなど、その復権を図っていますが、勘ぐれば、EU加盟のための1つのポーズにすぎないかもしれません。
ヒクメットはこの詩のほか、第五福竜丸事件の漁師を悼んだ『日本の漁夫』や『雲が人間を殺さないように』という原水爆への抗議を歌った詩をいくつか作っています。
彼の詩は、日本だけでなく世界中で、メッセージソングとしてのフォークや、プロテストソングとしてのロックに作曲され、多くの人に歌われています。
さて、私は、この歌を覚えた当初から、最後の「署名をしてください」に違和感を感じてきました。
1番から4番までは、原爆で燃え尽きたいたいけな女の子だったのが、5番に来ると、突然反核運動家に変身します。1番から4番までは「詩」なのに、5番は反核運動のプロパガンダになっています。詩としての整合性が崩れている、という思いがぬぐえませんでした。
ところが、takano shizuyoという方が送ってくださった原詩の逐語訳を読んでから、少し考えが変わりました。
「署名をしてください」は、署名活動に応じて名前を書いてほしいという限定的かつ散文的な意味ではなく、核廃絶の誓いをそれぞれの胸に刻み、その実現のためにできることをしてください、という象徴的な表現であろうと思うようになったのです。
原詩には「おばさん、おじさん」という呼びかけがありますが、このわずかな差で印象がずいぶん違ってきます。
ただ、アルファベットのような1バイト系の文字(半角文字)のフレーズを、漢字・かなのような2バイト系の文字(全角文字)に直すと、どうしても省略せざるをえない部分が多くなってしまいます。そういうことを考えると、飯塚広の日本語詞は、相当よく練られた訳詞だといってよいでしょう。
逐語訳は、次のとおりです。
1. 扉をたたくのは私です 扉を一軒一軒
みなさんの眼に私は見えません 死んだ者は眼に見えません2. 広島で亡くなり10年ほどになります 私は7歳だった女の子です
死んだ子供たちは 成長しません3. まず私の髪に火がつき 私の眼は燃えて焼かれてダメになりました
ひと握りの灰になってしまい 私の灰は空中へ舞い上げられました4. 私がみなさんから自分のために 欲しいものは何もありません
お菓子さえ食べられません 紙みたいに燃えた子どもは5. みなさんの扉を私はたたいています おばさん おじさん 署名をしてください
子どもたちを殺させないように お菓子も食べられるようにしてください
(二木紘三)
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コメント
二木紘三 様
私はカナダに永く住んで居ます。昭和11年生まれで終戦は満州で受け
ました。カナダに移民して早くも30年過ぎてしまいました。
人生も終期に入り、生き続けた意義が何だったか判らなく成りました。
そんな時昔、耳にした音楽を聴き心の安らぎを得ます。
二木紘三様有難う御座います。貴殿のホームページに入り
わびしいカナダの生活に暖かさを得ています。
Yoshi $ Emiko
投稿: Yoshi | 2007年11月14日 (水) 15時53分
後にも先にも「歌声喫茶」に行ったのは昭和32~33年頃に一度だけ。大きな隣町の小さな喫茶店でした。
ロシア民謡は歌いましたが、この「死んだ女の子」はどうだったでしょう。
私はこの歌を知りませんでした。覚えましょう。
「紙切れのように燃えた子」、このような言葉はもう使わないで済むよう願わずにはいられません。
たった一度の体験が50年を経て「MIDI歌声喫茶」につながり、毎日豊かな気持ちにさせていただいてます。
投稿: 高木ひろ子 | 2008年7月25日 (金) 22時33分
以前『ホロン革命』で有名な思想家、A・ケストラー(故人)が、「ヒロシマ以降人類は有史以来初めて、種全体の滅亡ということを真剣に考えざるを得なくなった」と述べておりました。ヒロシマの深刻な惨状は、国内のみならず世界中の心ある知性の良心を激しく衝き動かしたのでしょう。
そして我が国からみれば遠い国に思われる、トルコの詩人によるこの詩。ヒロシマで被爆して亡くなられた10数万人の想いを、この「死んだ女の子」がすべて代弁しているかのようです。
なお付記させていただければ。第二次世界大戦における、我が国の軍人・民間人含めた死亡者数300万人。世界全体の同じ内容の死亡者数6000万人。(以上の数字はすべて推定です)
終戦記念日に
投稿: 大場光太郎 | 2008年8月15日 (金) 08時32分
こんにちは。
小さいときに、唄っていた歌。
40年以上も経って、近頃口ずさむようになりました。
でも、歌詞がでてこない。。
インターネットで、質問をしたら、
親切な方が、このページを探してくれました。
そう、この唄です。
まだ、ほんの4-5歳だったと思いますが、
一人で唄って、泣いてたのを覚えています。
でも、誰が私に教えてくれたのでしょうか・・。
父だったのか、姉だったのか、もう覚えていません。
いい歌・・というのはごへいがありますが、
魂をゆさぶる唄だと思います。
なにかの機会に、あらたな想いで
唄わせていただきたいと思いました。
投稿: 菅野マホ | 2010年6月 1日 (火) 22時50分
わたしは、昭和30年代の前半に、仙台で学生時代を過ごしました。その頃、地方都市の仙台にも歌声喫茶が盛んで、何度か覗いたことはあるのですが、場の雰囲気に馴染めず、早々に退散した思い出があります。したがって、この歌は知りません。歌声喫茶の常連になっていたら、あるいはこの歌にも触れていたのかも知れませんが。
この歌の歌詞は、一読『千の風になって』と相通じるところがありますが、『千の風‥‥』よりも詠われている対象が具体的で、それだけにより反戦、反原爆へのメッセージソングになり得たのだろうと思います。
トルコのヒクメットという詩人は、この歌の想をどこで得たんでしょうか。広島原爆で死んだ6歳の少女のイメージは、きっとかれの可愛がっていた娘から得たものに違いない、とわたしは勝手に想像しています。
こころに残る反戦、反原爆の歌はかなり知っていたつもりですが、わたしの知らない、素晴らしい歌がまだまだあるのですね。アップしていただきありがとうございました。
投稿: ひろし | 2010年6月 4日 (金) 14時24分
どこでだったか憶えていないのですが、多分12,3歳の私はこの詩を読み、歌も聞き、それ以来深く心に刻み込まれています。ナジム(ナーズム?)ヒクメットの名前も憶えています。詩もメロディも子供心に直かに訴えるものがあったのでしょう。
投稿: Bianca | 2010年6月 4日 (金) 20時58分
はじめまして・・・
この夏公開される『キャタピラー』のテーマソングとしては坂本龍一と元ちとせのコラボ・バージョンが使われるようですね。
http://www.youtube.com/watch?v=EmsRNQ57f1M
私が良く覚えていたのは、ピート・シーガーのバージョンでしたが。
http://www.youtube.com/watch?v=ac0CDpU44fA
http://www.youtube.com/watch?v=6vZ0KgLifjI&feature=related
投稿: natunohi69 | 2010年7月 3日 (土) 04時05分
元の歌うバージョンは、ロシア文学者の中本信幸・神奈川大名誉教授が訳したもののようです。
http://kashinavi.com/song_view.html?16443
飯塚訳とは大幅に違っていますね。
投稿: AS | 2010年8月 6日 (金) 12時21分
此の歌を聞きましたのは、2010年の広島の日です。
全くの偶然にしては些か出来過ぎの感がありますが、此のブログを開いたのは、二木先生の『うた物語』の中に【ああ・広島の鐘が鳴る】が収録されていないかと探して居る最中のことです。 聞いた途端に声を上げて泣きました。
如何に原爆が無辜の人人にさえも容赦の無いものであったのか。 実は私も此の歌は知らなかったことでした。 僅か10歳の子供までを死に陥れた原爆こそは、一切の議論も必要は有りません。 即刻に全地球上から追放しようではありませんか。 皆様のご健勝を祈りつつ
投稿: 渡邉秋夫 | 2010年8月 6日 (金) 19時57分
昭和32年に当時は米国に占領されていた沖縄について、文化祭で調査報告した折に歌詞のみに接しました。「原爆を許すまじ」が歌自体としてはポピュラーでした。木下先生とは2度お会いした記憶がありますが、「幸せは僕らの願い」しか認識していませんでした。朝日新聞の紹介記事を読んで、元ちとせさんの歌をNHKテレビ番組で聞きました。この物語に到達できて感激です。
投稿: 吉田 和孝 | 2010年8月25日 (水) 10時50分
みなさまの感動、伝わってきました。
何度聞いても、悲しくて泣けてきます。
ギターで唄えればと思うのですが、
どなたか(簡単な)コード、教えて頂けないでしょうか?
投稿: 菅野マホ | 2010年12月23日 (木) 15時17分
「目と手が焼けて」とググってここに到達いた
しました。この歌は数十年前に中学の授業で
教えられました。中二の時です。教科書には
もちろん載ってませんでした。音楽教師がガリ
版で作ったプリント教材です。
中二病全開だったその当時は「戦争の歌?
署名ってなに?」程度の認識でしたが、最近
思い出しまして、その音楽教師のバックボーン
を同級生(親がその中学の同僚教師)に聞いて
みたところ、「バリバリの共産党」とのことで
した。納得しました。個人的には好きな先生
でしたがね。
まあ思うとこがあって刷り込みしようとした
のかもしれませんが、中学生(しかも公立)に
やっていいことではないと今は考えています。
学校活動外やるべきでしょう。どう考えても
政治的プロパガンダですから。
投稿: 通りすがり | 2012年2月23日 (木) 21時21分
二木先生、酒に酔った上での、投稿者「通りすがり」への反論をお許しください。以下小生の考えの表明開始:「”通りすがり”様、あなたのコメントからは誠実な教員に対する冷笑しか感じられない。このサイトで慰めを得る自分としては、異様な程の場違いと感じてならない。冷酷無慈悲に虐殺された人間を悼むに、思想信条の違いが何の意味をもつのか、君は多分知っているのだろうから、言葉を尽くして教えて欲しい。君のような人格の持ち主には、このサイトを通り過ぎていって欲しい。いや、僕の方が立ち去ろう。広島、長崎、東京大空襲はレイシズムの必然の結果なのだ。そしてレイシズムの出発は感傷に耽る弱い人間への冷笑と侮蔑に起こる。僕は日本国家のある監視機関に奉職していた。忸怩たる経歴だ。この組織の人間の特徴は、君のような冷笑主義だ。今でもそれが起こる。クラコフ駅で片腕の少女の物乞いを見たとき、市電のジプシー少年のアコーデオン演奏を見たときだ。僕はその背後の組織を知るがゆえに、施しをしない。しかし家に戻って泣いてしまう。神に赦しを乞う。アウシュヴィッツの保管室に無造作に詰め込まれた、繕いのある肌着を思い出し、ある特定の種族に生まれたゆえに、少しだけ裕福なゆえに―裕福といっても下着を繕わねばならぬほどの豊かさ―苦しみを長引かされる死を強制された幼い子供の死を悲しむ。生まれ故郷のO先生は立派だった。バリバリのマルキストだった。現ホルムスクの旧制中学卒の代用教員だったが、君のような人間の親に忌避されたのだろう、ある日辞職した。僕は身を立てんと願いソ連で学んだ人間だ。マルキストである。今崩壊しつつある福島を見つめ、あの敬愛する先生の正しい生き方を思い起こし、感傷的人間として人生を終わりたいと願う。」以上イサコフスキーの意見表明終わり。(二木先生、素晴しいサイトでした。しかし事情があり、PCを使うこともできなくなり、これでお別れしたく存じます。)
投稿: イサコフスキー | 2012年2月25日 (土) 07時15分
イサコフスキーさん、レスどうもです。
とりあえずここだけ。
>誠実な教員に対する冷笑しか感じられない。
あとは、お酒を召しているせいだとは思い
ますが、感情のほとばしり、それ以外は正直
何を書いてるのかよくわからないです。
で、とあることがあって誠実とはとても
思えなくなっちゃったわけでして。だから
過去形の「個人的には好きな先生でしたがね」
としたわけです。
というのは卒業後しばらくして見ちゃった
んですね。業者とおぼしきペコペコした人に
バーで接待されているところを。近い場所に
いたのでそこそこ話は聞こえてくるわけです。
すごく横柄でとてもイヤなヤツでした。
当時は客商売をしていましたので我が身に
置き換えてゲンナリしました。
授業では教科書に載っていない五つの赤い
風船やその他いろいろの「清らかな歌」を
楽しく教えてくれたあの先生が・・・・いい
先生だと思ってたのにガッカリでした。
投稿: 通りすがり | 2012年2月25日 (土) 16時10分
昨日の選挙のあと何となく「死んだ女の子」でググってここに来ました。
以前元ちとせのCDを買った時の、ボーナストラックで出会って以来のお気に入りの曲です。
違う訳もあるんですね。知りませんでした。
しちめんどくさい理屈はいらないでしょう。
「小さな子どもが戦争で焼かれることがないように、飴が食べられるように」
一人の人間として、目の前に小さな子どもがいれば大概の人はそう思うのでは無いでしょうか?
子どもが焼かれるシーンより、お菓子を食べてニコニコしてる子どもを見る方が、少なくとも僕は楽しいです。
去年生まれた娘が、元気に遊んでいる姿を見ながらこの曲を聴くと何故か涙が出てきます。
投稿: うご〜 | 2012年12月17日 (月) 19時32分
アブドゥッラー・オジャランはPKK(党+労働+クルディスタン)を創立したリーダーです。蛇足を読み、ヒクメット復活と関係あることを知りました。トルコ共和国のEU加盟へのジェスチャーはオジャランの死刑から終身刑への減刑を結果しています。[トルコ涙ぐましいアプローチにも拘らずEU加盟は当分実現しないでしょう]
原爆許すまじも、この歌も馴染がありません。ヒクメットが広島を詠んだのはふたつぎさん蛇足の経歴紹介からも、露西亜革命後の彼の滞在などで納得いたします。しかし、、、例えば1960年代の露西亜内部の矛盾やコミンテルン露西亜の狡猾外交を思うと、彼自身も単なる共産プロパガンダ素材だった一面があります。
話が飛びますが、イサコフスキさんがクラコフで物乞い少女背後の組織を見られた頃でしょう、同じクラコフから来た研修生の吐き気をもよおすような対露感情を聞きました。ヤルゼルスキー将軍がロシア意向を実施していましたね。ポーランド語を我が村で良く耳にします。意味はチンプンカンプン。感じでポーランド語と分るだけです。露西亜に嫌悪感を持つポーランド人、ロシアで学び祖国でキャリアーを作ったポーランド人。乖離が激しいですね。
通りすがりさんの共産主義に燃える日共組若い先生像…。イサコフスキ―さんと逆に、氏の`冷笑`が私にジンときます。私の小3から大学まで、亡父はほぼ同じような共産主義者に憎しみを覚えていたようです。その先生はいたけない小学生5-6年生達に測り知れない影響を与えたのです。弟私の理解を超えていましたが、父と兄の抗争間に入る母の悲しみを感じることができました。我が家族にとって真っ黒な時代が長く続きました。
広島の大量殺戮の死も、先日ニュータウンでの自動拳銃による児童の死も、私には等価の悲しみ。原爆もテロも、大小関わりなく等しく避けなければならない。左様な文脈で、「死んだ女の子」のような詩を私は好まない。歌うのも遠慮したい。もし、抒情歌へアップグレードされるようなことがあればメロディーの美しさに触れることが出来るかも知れません。
すばらしい本サイト主催者とどこかでリンクされているかもしれないイサコフスキ―さんのご健勝をお祈りします。クラコフ広場の石畳を思い出しつつ。
投稿: TangoMinato | 2012年12月18日 (火) 09時08分
コメントを拝見すると、自分の思想やイデオロギーと相入れないから、それと関係する人の作った歌も嫌いだという、主義主張をお持ちの方がおいでですが、やや狭量に過ぎるように思います。もっと素直に、その歌の歌詞やメロディに接して、それについての想いをコメントされることをお勧めします。
ここにアクセスされたファンのなかには、戦争必要悪という持論をお持ちの方もおいででしょう。その方々への要望ですが、ご自分の可愛い、いたいけな娘さんが、その戦争で亡くなった場合を想像していただけませんか?さらには、出来れば敵兵のなかにも、何の罪もないこどもの親がいることを。
寄って立つイデオロギーや思想は、もちろん大切です。しかし、それと同等に、否それ以上にヒューマニズムは大切です。ヒューマニズムとは、「人間らしいこころ」です。
この歌詞が、たとえ、ある思想やある組織のプロパガンダであるとしても、わたしは同じ人間として、“冷笑”して通り過ぎることは出来ません。
投稿: ひろし | 2012年12月18日 (火) 15時28分
人にとって大好きな歌と言うのはきっと、惚れ惚れする言葉が並び、その言葉を乗せて流れる美しい曲が心に響き、何処か良き過去体験と通じ、今の感情にしっとり呼応する、そのような歌であり得るでしょう。
人にとって好きでない歌と言うのは恐らく、奇妙な語彙が並び、その語彙がなぜか角々しく綺麗な調べにぶつかるように思われ、過去の心傷を思い出させ、今の気持ちにしっくりしない、そのような歌なのかもしれませんね。
イデオロギー/戦争必要悪/ヒューマニズム…これら語彙及び内容に私は立ち入っておらず、また常套的に使うこともまずありません。私はストレートな無頼漢に過ぎず、敬称「様」使いも似合わず使いません。粗相ならば、眼を瞑ってお見逃しくださるように…。
万人にとって、好きな歌もそうでない歌もある。我が存在の原風景に重なる歌をお持ちの方もいる…。その同じ歌を聴かず素っ飛ばす方、あるいは何らかの理由で評価されない場合も起こるでしょう。どなたにも自由で開かれた個々の``歌の風景``が在って良い。それを時間軸できってみると「歌は世につれ世は歌につれ…」と言う普遍に至るのではないでしょうか。
気にも留めず、すっかり忘れた昔の唱歌/歌謡曲を、ふたつぎさんの演奏で再発見された皆さんのコメントを拝見します。そうした稔り果実を私もいただき、こんな喜びはありません。それはここで舌鼓(したつづみ)出来る醍醐味の一つと思います。 同時に知らなかった歌が今後もその人にとってそのまま埋もれる場合も多いのでは。あるいは人の記憶に拒否されるリリックやメロディーが在り得る。それらを健やかに善良に一括りにされるのもそれぞれの生き様と個人観によると存じます。
達者なMP3演奏を楽しまれるお仲間衆が個々のソング・ランドスケイプを描き得ること。自分流筆使いで、先生の手添えを受けず、伸び伸びと。`蛇足`ながら、それが主催者の人なりと並ぶ本サイトの深い魅力になっています。
【P.S.「いい歌・・というのはごへいがありますが、魂をゆさぶる唄だと思います」(菅野マホさん)。繰り返し、聞いてみました。(私に)難しいメロディーですね】
投稿: TangoMinato | 2012年12月20日 (木) 07時11分
この「うた物語」の魅力は、二木様の素晴らしい演奏を聴きながら、歌の世界に身をゆだねることと、皆様からお寄せいただいたコメントに共感したり、慰められたり、励まされたりすることだと、わたしは思っています。また、コメントから、その歌についての新しい知識や見方を教えられることも多く、それも楽しみの一つです。
ところが、コメントの中には、一読、言語明瞭意味不明、二読して文章の脈絡不明、三読しても理解不能、という文章に時折出会います。これは、わたしの粗雑な頭脳のせいもあると思いますが、投稿される方が、ついこの際とばかり、思いのたけを一挙に吐き出そうとされるから、のような気がします。折角たくさんのファンに読んでいただくわけですから、薀蓄を傾けられるのもいいですが、冷静に、独りよがりにならず、出来るだけ易しい言葉や表現でお願いしたいものです。かく言うわたしも、折々コメントさせていただいていますので、自戒を込めてのお願いです。
この歌についても、何人もの方々がコメントを寄せられています。歌にはTangoMinato様の仰る通り、「自由で開かれた個々の“歌の風景”が在って良い」わけですから、人それぞれ感じ方や見方が違って当然です。しかし、「自由」でない、色メガネで見た場合は、どうなるでしょうか。菅野マホ様は4、5歳でこの歌を覚えられたと、コメントにありましたが、別の方は「難しいメロディー」とお感じになっています。その差は何なんでしょうか。
投稿: ひろし | 2012年12月21日 (金) 13時58分
18日>…自分の思想やイデオロギーと相入れないから…
ここで私の「思想とイデオロギー」を大上段から決めていただきましたね。後段で「ヒューマニズム」を突然お出しになった印象をうけました。でも、流れから伺うと``この思想とイデオロギーの持ち主ならばヒューマニズムを持たないだろう``となり、合点が参ります。
21日>…素晴らしい演奏を聴きながら…それも 楽しみの一つです。
ほぼ同趣旨を私も述べましたので共感申し上げます。これに続き「意味不明/脈絡不明/薀蓄を傾けられ…」と言うお叱り。従主題と言うのでしょうか、前出「思想イデオロギー」と関りなく、これも突然な感じをうけます。しかし私事作文を読んでくれる知人たち半分も同意見ですから、これについて謝意を申し述べるよりほかありません。
>…自由でない、色メガネで見た場合は、どうなるでしょうか
もし、ヒューマニズムに欠けるこんな「思想とイデオロギー」の持ち主ならば、桶屋が儲かる式に、その人は「色メガネ」を掛けていると言う理屈にも達するでしょう。仰るようにわたし自身は色眼鏡をしいて掛ける場合があります。ひろしさんは夏の眼を射るような日差しにサングラスを着用されませんか。
>…「難しいメロディー」とお感じになっています。その差は何なんでしょうか。
``私に難しいですね``を深読みしていただき恐縮。メロディーを覚え口ずさむのは並外れて難しいと言う個人的事情で、他意はないのです。一般的に敷衍して、歌を享受する`易しい難しい`の差が人々の間にあると考えていらっしゃるなら、具体例をあげ教示いただければ幸と存じます。
ひろしさんはご自分の正義と人間性、即ち「思想」に確固たる信念をお持ちなんですね。それゆえしばしば至らぬ若輩たちを導こうと自然になられるんでしょうか。
現象を素直に観ようと思いつつ、どう解釈するか? 私は何時も考え迷います。私の思想(=イデオロギーと思っていますが)は何処にあるや? それは彼方に続くでこぼこで長い道。
なんだか行司役の二木さんにご迷惑をおかけするような気がします。削除される手間をお掛けします。お許しください。今日は週末金曜日、クリスマス休暇入り。アドヴェント行事でクリスチャンの方々は蝋燭のともしびを増やされる。イサコフスキ―さんも奥さまと共にきっとなさっている。月並みながら、ジングルベルの軽快なメロディーが聞こえてくる…。ふたつぎさん、ひろしさん、諸先輩皆さん、どうぞ気忙しくも心高ぶる師走をお過ごしくださいますように。
投稿: TangoMinato | 2012年12月22日 (土) 03時00分
TangoMinato 様
今回のあなた様のコメント(12月22日付け)は名指しこそありませんが、中身はわたし宛のご意見だと判断し、わたしもあなた様宛に申し上げます。
あなた様は今、外国にお住まいでしたね。遠方から、このサイトを楽しんでおいでの様子ご同慶の至りです。わたしも、このサイトの愛好者です。そこで、同好の士として、もっとこのサイトを楽しめる方法を二つご伝授いたします。
一つは、予断をもって聴かないということです。色メガネをかけていては、歌は楽しめません。この歌の場合は、罪のない、可愛い、まだ6歳の女の子が原爆で死んだ、という事実をイメージすれば足ります。さらに、あなた様のお孫さんやご近所の娘さんを思い出せば、イメージはどんどん膨らみます。そうすれば、歌の世界も広がるじゃありませんか。色メガネで見れば、死んだ女の子は、ただ醜く写るだけです。
二つ目は、あなた様も、皆様から寄せられるコメントを楽しまれているようですが、であればこそ、コメントは出来るだけ易しく、自分のことばで語られた方がいいと思います。あなた様は外国に住まわれ、見聞も広く、それだけに知識も豊富で、かつ深いことも承知していますが、わたしのようなオツムが弱く、かつ不勉強の者もいますので、よろしくご配慮ください。
わたしは意図しているわけではありませんが、あるいはあなた様がお嫌いな、上から目線での私見になったかもしれません。失礼をお詫びして、ご受容いただければ幸甚に存じます。
二木様、ファンの皆様
勝手なことをくだくだ申し上げ、折角楽しみに、ここにアクセスされた方々には、ご不快な念を与えてしまったことを深くお詫び申し上げます。以後慎みますので、何卒ご海容のほどお願い申し上げます。
投稿: ひろし | 2012年12月22日 (土) 13時10分
知らなかったですね、このページは。おっちょこちょいの私は、知っていたら、コメント応酬の最中、おそらく一言、二言意見表明したでしょうね。
この歌の感想ですが、「署名して下さい」が歌詞の〆(しめ)とは・・安っぽいプロパガンダです。
訳詞者のセンスを問いたくなります。プロパガンダとは深く静かに行うものです。
この歌ははじめて知りました。感動はとくになしです。こどもをダシにして平和を訴えているようで、いやな感じ。運動体指導者の不勉強、時代錯誤を感じます。
コメントのやり取りは、面白いですね。削除しなかった二木先生、立派です。傍観している人の多さも気になりますが・・。
投稿: 音乃(おとの) | 2013年10月31日 (木) 23時30分
「歌声喫茶」今は、どうなってるのでしょう? 入り口で、学生証の提示を求められたような記憶が。。。18歳未満入店不可だったのでしょうか? 昭和40年代前半。。。大阪の梅田だったような。。
投稿: taka-shiz | 2014年9月 4日 (木) 10時11分
人それぞれ人生経験を重ねますと思想の予断を持たずに反戦歌を鑑賞することは難しいのだろうと思います。だけど私は多くの反戦歌に優しくて美しい旋律と詩を感じます。だからこそ受け入れられ多くのヒット曲も生まれているのではないかと思います。「原爆を許すまじ」の曲も素晴らしい曲であると思いますし感動します。しかしこの曲「死んだ女の子」は初めて聴くものですがそのタイトルを含め好きになれません。なんて陰鬱で不気味でおどろおどろしい曲なのでしょう。YOUTUBEの動画でも視聴しましたが、女祈祷師が髪を振り乱して呪いを投げかけているような印象を受けました。
投稿: yoko | 2014年9月 5日 (金) 09時23分
Yedi yaşında bir kızım,
kızım は「私の娘」
私の娘は、7才になってるけど、
büyümez ölü çocuklar.
死んだ「子供達」(複数形)は 成長しない。
それで、
「あたしはヒロシマで死んだ
そのまま六つの女の子
いつまでたっても六つなの」日本語詞:飯塚 広
と 訳されたのでしょうか?
Yedi yaşında bir kızım,
原詩の「7才の」娘が、何故「六つの」女の子と
訳されてるのか 不思議でしたが、私の娘は成長し
7才になってるけど、10年前、広島で亡くなった子供達は 7才にはなれない。いわば 6才のまま。。。
と、私の想像ですが、
bir kızım が、「私の」と特定されたヒクメットさんの娘さんではなく 「一般的な愛情ををこめた呼びかけ」としての、「娘よ」なら 話は別ですが、、、
やはり、作者は「7才」と年齢を特定しておられるので、作者の娘さんと 広島の「女の子」KIZ ÇOCUĞU を対比させ トルコ人が、片想い的に愛して下さっている日本、そこでの悲劇に 思いを寄せて下さったのではないかという気がします。
投稿: taka-shiz | 2014年9月 5日 (金) 14時49分
taka-shiz様、梅田の「歌声喫茶」には私も三度くらい行ったことがあります。昭和45年頃だったと思います。学生証を提示したかどうかは覚えていませんが、客はぎっしり、50人以上はいたのではないかと思います。連休の中日でしたか、「岡山から来ました」、「愛媛から来ました」と言って前に出て歌っていた方も数人いました。学校を卒業し生まれ故郷に帰ったものの「歌声喫茶」中毒にかかって、懐かしくて、歌いたくて梅田にまい戻ってきた方々のようでした。皆の拍手喝さいを受けていました。当時私は小学生の塾の先生のアルバイトをしていました。生徒は12~3人だったでしょうか。「昨日、歌声喫茶に行ってきたよ」と言ったら子供たちは突然「ウァー!」と歓声をあげ、目を輝かせました。「ねぇ、先生、何歌ったの?歌って歌って!」と催促攻めにあいました。やはり子供たちも勉強より歌の方が好きなんですね。
投稿: yoko | 2014年9月 5日 (金) 14時52分
昨夜ラジオで、元ちとせさんの歌う「死んだ女の子」を聞いて驚きました。
50年以上も前に友人に教えてもらった歌とは全くの別物だったのでした。
オドロオドロしい、歌い方にしばし呆然。
軽やかな、明るいメロディーの中から浮かび上がる悲しみが、詩の声高で無く、しかし平和に対する渇仰をひしひしと訴えかけるイメージだったので、
聞くうちにこういう表現もあるのかと、心を宥めましたが。
昔は、終戦記念日前後には、「ああ許すまじ原爆を」が連日ラジオから流れて、戦争忌避の意識が刷り込まれていったと思います。
有った事を無かった事に出来るはずは無いのに。
このサイトにたどり着いて様々な思いをめぐらせております。
ありがとうございました。
投稿: 野歩本 | 2015年9月 2日 (水) 12時24分
私は、この歌を青年歌集に載っていた楽譜からしか知らず、実際に歌っているのを聞いたことがありませんが、この歌詞に深く心を打たれたことを覚えています。広島に原爆が落とされたあの時、石段に座っていた女の子が、一瞬にして蒸発し、石段にその影だけが残っていた、という話を、それが事実なのか、原爆伝説なのか定かではありませんが、そんなことがあったということを聞き知っていたからです。それを遠いトルコの詩人が歌ってくれたことがうれしかったのです。二度と原爆の犠牲者が出ないように署名してください、という言葉に「政治的プロパガンダ」の匂いをかぎ取る感覚が私には理解できません。これは政治以前の人間としての生命の叫びだと私は思っています。
投稿: solong | 2015年9月 2日 (水) 21時31分
私は昭和32年生まれです。両親が歌が好きで、LPも
よく聴いていたような気がします。
子どものときに聞いたこの歌、本当に印象的でずっと
忘れずにいました。でも、ユーチューブに出ているのが
まるで別の歌なので、おかしいと思って探してこちらに
たどり着きました。
原爆、戦争の恐ろしさを知るには、十分な歌詞です。
いまだに、覚えているのですから。
同じころの、ダークダックスのアンジェりータも、
心に残っています。
二度と戦争を起こしてはいけませんよね。
東京大空襲を経験した母も亡くなり、戦争の話を
ほとんどしてくれなかった父も亡くなり、戦後生まれの
夫も病気で亡くなり、一人ぼっちになってしまいました。
きっとこの歌は、私が亡くなるまで覚えていると思います。
投稿: 黒二毛 | 2016年3月 3日 (木) 18時09分
「ローレライ」の曲をクリックしてしたら次が「死んだ女の子」でした。解説を読みました。この歌の陰にそんな事実があったとは驚きでした。いつも先生の「蛇足」を拝読させていただくと、こんな事柄があったんだと、改めて曲を聞き直しています。
「死んだ女の子」の歌は娘に教えてもらうまで全く知りませんでした。小学生だった娘が学校から帰ってきてすぐに「お母さん、髪の毛に火がついて目と手が焼けた歌知ってる?」と訊いてきました。「え?そんな歌があるの?」「本当だよ」という娘になんて応えたらよいのかわかりませんでした。ただただ惨さだけが残りました。あとからその歌は原爆で死んだ女の子の歌だと知りました。あまりにもストレート過ぎて胸がざわつきました。
息子が生まれ、授乳しているとき無心に乳を飲んでいる息子の顔を眺めていたら、ふっと与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を思い出しました。「・・・親は刃(やいば)をにぎらせて、人を殺せとをしへしや、人を殺して死ねよとて、二十四までそだてしや」
ちっちゃな手を添えて乳を飲んでいるこの子にどんな理由があろうとも、絶対に殺すこと殺されるがあってはならないと強く思ったことが思い出されます。
投稿: konoha | 2017年2月13日 (月) 17時49分
連日の猛暑、朝からクーラーオン。
何と何と、洗脳されていた十代後半には思いいれが強く手帳に書き留めていたこの歌。いつの間にか この歌の存在も忘れていました。昭和30年代中頃、今にして思えば日教組のメンバーたちが大きな旗を持って学区を行進。原爆許すまじを歌いながら。この暑さで答辞の光景が甦りました。なぜか児童生徒の私たちも沿道に並ばされました。
この歌に寄せるコメントを興味深く読ませていただきました。ひろし様、tangominato様の応酬?
音乃様(現越村南様)ならではの見解。
それにつけても、最近ひろし様のお声が聴けないのは寂しい限りです。
konoha様
私は娘2人で男児はいないが、孫は男児2人。
初孫誕生の時に「この子を戦場に送る時代だけは来ないでほしい」と切に願ったものです。今でも思いは同じです。
投稿: りんご | 2018年7月23日 (月) 09時46分
あこがれ 様は、広島のF高校の先輩です。
但し、私は九州・小倉の生れ育ちで、広島には高校の2、3年の2年間しか住んでいませんが。同級生には、被爆2世が多いです。
私は今、茨城県で定年有機農業を営んでいます。福島の原発事故を経て、自分の出自を思い返しています。広島市の次の原爆投下目標は、(旧)小倉市でした。亡父は、小倉の陸軍造兵廠に勤めていたそうです。私は敗戦2年後の生れですから、落ちていれば、生まれ得なかった人間です。
小倉の造兵廠では、「風船爆弾」を作っていたそうです。今住んでいる所の北、北茨城市から米本土へ向けて偏西風に載せて、1万発以上を飛ばしていたそうです。米国が第2目標にしたのもむべ成るかな。これ以上の放射能被曝者を増やしたくはありません。
投稿: 竹永尚義 | 2018年7月23日 (月) 15時46分
福島被災地の人間です。かつて大学時代は仙台でした。化学の教師になってから、いつも初めての授業では「死んだ女の子」を板書して下手な歌を歌いました。歌声喫茶の延長でした。化学を学ぶ前に、化学以前の大切なことを悲しいメロディで感傷的に伝えたかったと思います。
東日本震災3.11の時は退職していましたが、原発事故で、今も生まれ故郷は帰還困難区域です。昨年詩集『望郷の祈り』を出版しましたが、反戦歌を歌う青春時代の感傷は甘かったと、故郷喪失の過酷な現実を前に残りの人生を数える歳になりました。
本日、お風呂に浸かっていて気付くと「死んだ女の子」を歌っていました。子守歌に口ずさんでいた遠い日の歌が、庭仕事で疲れた心身から切ないほどに、細いしわがれ声で流れ出していました。
8年経ても、3.11が年毎に近づくのを感じます。除染不可能な阿武隈山系を眺めて生きるのはしんどい歳になりましたけど、相馬の女は強いと言い聞かせて、倒れるまで書き続けて行きたいと思います。原発は、絶対に再稼働してはなりませぬ。
投稿: 和子 | 2019年5月11日 (土) 01時19分
こんな素晴らしい歌、
どうしてじ歌い継がれないのでしょうか?
不思議でなりません。
投稿: 一石凜 | 2019年8月 8日 (木) 12時12分
今年はナーズム・ヒクメットさんの生誕120年にあたりります。世界各地で記念するイベントが開催され、日本でも9月16日に名古屋で「ナーズム・オラトリオ」が開催され2000名を超える聴衆が参加したそうです(「赤旗日刊紙2022年10月12日」)。「死んだ女の子」は今から50年以上前の、私の高校時代に知りました。それから50年以上たちましたが、核兵器廃絶の願いは達成されずその危険性はむしろ強まっているようです。
投稿: ターちゃん | 2022年12月16日 (金) 16時30分