イムジン河
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:朴世永、作曲:高宗漢、日本語詞:松山 猛
唄:ザ・フォーク・クルセダーズ
1 イムジン河水清く とうとうと流る 2 北の大地から 南の空へ (間奏) 3 イムジン河空遠く 虹よかかっておくれ |
《蛇足》 昭和43年(1968)、レコードの発売直前に突然発売が中止されたという伝説のフォークソング。その間の事情を日本語詞を書いた松山猛は、次のように語っています(『少年Mのイムジン河』木楽舎―など)。
松山が中学生だったころ、京都では日本人の中学生たちと朝鮮中級学校の生徒たちは、校外で出会うたび、ケンカを繰り返していました。
そうした不毛の争いを情けなく思っていた松山は、サッカーの対抗試合で理解を深め合おうと、銀閣寺の近くにあった朝鮮中級学校に試合の申し込みに行きました。
相手側の生徒と話し合いをしているとき、美しい女声コーラスが聞こえてきました。曲名を訊くと、『イムジン河』という北朝鮮の歌だとのこと。これが松山にとって『イムジン河』との最初の出会いでした。
そのころ、中学のブラスバンド部でトランペットを吹いていた松山は、思い切り音が出せる九条大橋で練習していました。そこで知り合ったのが、やはりサキソフォンの練習に来ていた朝鮮中学のM君。
彼と仲よくなった松山は、『イムジン河』を教えてほしいと頼みました。数日後、M君は、譜面と朝鮮語の歌詞、1番の日本語訳をメモしてきてくれました。それには、朝日語小辞典も添えてあったとのことです。
しかし、このときは、きれいな歌を覚えたというだけで終わりました。
やがて松山は成長し、京都の広告代理店でグラフィックデザイナーとして働き始めました。さまざまな文化運動に接するするなかで、彼は、学生フォークグループ、ザ・フォーク・クルセダーズのメンバー、加藤和彦、北山修などと親しくなりました。
昭和42年(1967)、デビュー曲『帰って来たヨッパライ』で一世を風靡していたザ・フォーク・クルセダーズは、第2弾を模索していました。
そこで、松山は中学時代の思い出の曲『イムジン河』を提案したのです。メンバーはその曲が大いに気に入り、加藤和彦が編曲して詩情豊かなフォークソングに仕上げました。
試しに深夜放送で何度か流したところ、聴取者の反応が非常によかったので、契約していた東芝音工(現在の東芝EMI)から発売されることになりました。
昭和43年(1968)2月、シングル盤13万枚のプレスが済み、いざ発売というときになって、東芝音工は突然、メンバーに発売中止を通告してきました。
「政治的配慮から発売自粛となったので、我慢してくれ」という以外に、メンバーには何の説明もなかったといいます。
同時に、放送局の自主規制により、ラジオ・テレビでも流されなくなりました。
あとになって次第にわかってきたことですが、その曲の発売を聞いた朝鮮総連の関係者から強い抗議があったといいます。抗議のポイントは、作詞・作曲者名の表示がない、訳詞が原詩に忠実ではない、の2点。
関係者はだれも曲の由来を知らず、朝鮮民謡だと思っていたので、作詞・作曲者名を表示しませんでした。しかし、実は作詞には朴世永(パク・セヨン)、作曲には高宗漢(コ・ジョンハン)というれっきとした作者がいたのです。
朴世永は北朝鮮の国歌に当たる『愛国歌』を書いた高名な詩人であり、高宗漢も有名な作曲家でした。
北朝鮮側は、発表するなら、朝鮮民主主義人民共和国の誰々が作った歌と、はっきり表記すること、原詩に忠実な訳詞にすることを要求してきました。
第2点については、突っぱねることも可能でした。原詩に忠実な訳詞でなければならないとすると、日本語で歌われている外国曲の大半は歌えないことになってしまうからです。
しかし、第1点の処理は困難でした。朝鮮総連の姿勢は、今からは考えられないほど強硬でしたが、朝鮮民主主義人民共和国とレコードに表記するのははばかられました。
その理由は、日本は北朝鮮とは国交がなく、国家としても認知していないということのほかに、親会社の東芝の意向があったからと言われます。
これはあくまでも噂ですが、当時、東芝は韓国に進出し、経済的関係を深めていました。当時の韓国は、日本に北朝鮮の歌が広まることを快く思わず、まして朝鮮民主主義人民共和国という国名が表記されることは受け入れられませんでした。
そこで、韓国大使館が東芝を通じて子会社の東芝音工に圧力をかけた、というのです。
ともかく、どう処置してもトラブルを防げそうになかったので、東芝音工は、ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーと制作関係者に因果を含めて発売中止にしました。今は昔の物語です。
現在はもちろん、放送で流すのに何の支障もなくなっています。ちなみに、2001年のNHK紅白歌合戦では、キム・ヨンジャが歌いました。
イムジン河は漢字で書くと「臨津江」で、北朝鮮の読み方ではリムジンガンとなります。北朝鮮の北緯39.2度付近を水源とし、北緯38度線を越えて韓国に入り、河口付近で漢江(ハンガン)と合流して黄海に注ぎます(写真)。
ハングル版を挙げておきましょう。私は最初これが原詞だと思っていましたが、これは松山猛の日本語詞をハングルに訳したものだそうです。原詞は下記コメント欄のkamiさんのコメントをご覧ください。
임진강
1 임진강 맑은 물은 도도히 흐르고
물새들 자유롭게 무리지어 넘나드네
내 조국 남쪽 땅 추억은 머나먼데
임진강 맑은 물은 도도히 흐르네2 북쪽의 대지에서 남쪽의 하늘로
나라다니눈 새들이여 자유의 사자여
누가 조국을 둘로 나누었느뇨
누가 조국을 나누어 버렸느뇨3 임진강 맑은 물은 흘러흘러 내리고
물새들은 자유로이 넘나들며 날건만
내 고향 남쪽 땅 가고파도 못가니
임진강 흐름아 원한 싣고 흐르냐
平成25年(2013)3月、学生時代の友人からこの歌のエスペラント訳があると教えられました(下記)。訳者は大学のエスペラント研究会で私より1学年上だった山崎功さん。
脚韻を意識したみごとな訳詞で、松山猛の日本語詞より原詞に近い内容になっています。
山崎さんは温厚・誠実という言葉がぴったりの人でしたが、残念ながら50代で亡くなってしまいました。
学生時代に私は堀辰雄の短編を3つエスペラントに訳して200部ばかり冊子を作り、配布したことがあります。実はエスペランティストたちに売りつけたのですが(^_^;)。
最初、私は自分の英文タイプライターで打つつもりでしたが、そのタイプライターにはエスペラント独特の字上符付きの文字がありませんでした。
すると、山崎さんは日本エスペラント学会(現在は協会)にあったエスペラント字母のあるタイプライターで打ってやるといってくれました。山崎さんは非常に速くタッチタイピングができたので、私はその言葉に甘えてしまいました。打ち終わるまで数日かかりましたが、無償でした。山崎さんはそういう人でした。
学生時代の山崎さんについては、もう一つ思い出すことがあります。彼とある女性とのエピソードですが、そのことは私しか知らないはずです。今、山崎さんのエスペラント詞を打ちながら、『されどわれらが日々―』(柴田翔の芥川賞受賞作)の思いを新たにしています。
1. Limuzingan, puras la river',
Malrapida kaj kvieta flu'.
Birdoj jen transiras en liber',
Kaj kun ĝojo flugas en la blu'.
Al la suda mia naskiĝlok'
Kial ne reveni povas mi?
Limuzingan, nia ho patrin'
Nun respondu al mi tion ĉi.
2. Ho, malgajaj birdoj de l' river'
Kantas triste ĉe la suda bord'.
Sur dezerta kampo en mizer'
Vante blovas vento de la sort'.
Floras bele ĉie en la nord,
Sonas dolĉe kanto de l' patruj'.
Limuzingan, nia ho patrin',
Ĝin transkantu al l' amikoj tuj.
(二木紘三)
コメント
「MIDI歌声喫茶」を、いつ頃かお気に入りに入れさせていただいて、利用させて頂いていました、ありがとうございます。
今日、こちらのブログ案内に遅まきながら気付きまして(^^ゞ
つい、前へ前と繰ってゆくうちに、この曲に・・・
先日、映画「パッチギ」により、中川五郎等の懐かしい本を取り出して、私もブログアップしたので、
ぜひ拙ブログもお読み頂きたいと欲が出て、コメントさせていただきました。
下記、7月9日の日記です。
http://plaza.rakuten.co.jp/mamanlr/diary/200607090000/
「MIDI歌声喫茶」のみならず、こちらにも、これからは寄せていただきます。どうぞよろしくお願いします。
投稿: maman.m | 2006年8月12日 (土) 21時36分
イムジン川を知っていました。高校3年だったか。うちはタバコ屋だったので、店番をしながらポータブルラジオで聞いていました。確かに ラジオて゛流れていたのです。覚えているのだから。だから発売中止を聞いて唖然としました。当時の雰囲気は騒然とした社会であり、とげとげしさがあったと思う。そんな中でイムジン川は 二つの国の悲劇を思い起こす貴重な歌でした。ベトナムでも朝鮮半島でも。長い間手に入れることができなかったが、最近CDを手に入れられたのです。
投稿: ドクトルマンホー | 2007年6月11日 (月) 20時01分
19才の時このレコ-ドを探して方々のレコ-ド屋を歩き回りました。直前に販売中止になっていたとはその頃は知らなかったのでした。後年韓国・朝鮮の方たちと知合うようになって。。。蛇足に書かれているような朝鮮中学M君のような細やかで優しい人達に囲まれて仕事をしていた事もありました。
近くて遠い国。。。。。韓国・朝鮮の幸せを今も願っています。
投稿: sunday | 2008年5月 3日 (土) 07時34分
Vancouverに滞在中です。
当地のTV(PBS=KCTS9)で連日、豪華歌手の音楽番組が放映され、滔滔と歌っているのを聴くにつけ歌詞だけでもわかればと貴HPを訪れています。Jun5-2008
投稿: masa | 2008年6月 6日 (金) 00時41分
昭和43年の4月、博多の海岸の砂の上に五線譜を書いた22才のかれはギターをつまびき、歌ってくれました。あれから40年、会ったことがありませんが、「イムジン河」を聞くたびに、思い出します。
投稿: Bianca | 2008年7月15日 (火) 19時23分
歌が大好きなので、このようなブログを発見すると、とても嬉しいです♪
さて、気になる点があって、コメントさせて頂きます。
<蛇足>の途中に、「実は作詞には朴世永(パク・セヨン)、・・・・というれっきとした作者がいたのです」と紹介されていますが、文末に「原詞を挙げておきましょう」としたものは、朴世永(パク・セヨン)さんの作詞ではありません。原詩として二木紘三さんが表記されたものは、松山さんが書いた日本語歌詞を訳した韓国語(朝鮮語)歌詞です。
以下参考まで。
作詞:박세영/パク・セヨン(朴世泳)
1.림진강 맑은 물은 흘러흘러 내리고
물새들 자유로이 넘나들며 날건만
내고향 남쪽땅 가고파도 못가니
림진강 흐름아 원한싣고 흐르냐
2.강건너 갈밭에선 갈새만 슬피울고
메마른 들판에선 풀뿌리를 캐건만
협동벌 이삭마다 물결우에 춤추니
림진강 흐름을 가르지를 못하리라
翻訳(歌詞ではありません):Paul Kim
1.リムジン江の清き水はとうとうと流れる
水鳥自由に行ったり来たり飛んでいるけれど
我が祖国南の地行きたくても行けない
リムジン江の流れよ恨みを乗せて流れるのか
2.河越えて葦の茂みでは鳥たちが悲しく鳴き
乾いた野原では草の根を掘るけど
共同農場の稲、波の上で踊るよ
リムジン江の流れを遮ることは出来ない
投稿: kami | 2008年9月16日 (火) 15時47分
そうですか。ハングルが読めないので、訳詞とは気がつきませんでした。大変参考になりました。ありがとうございました。(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2008年9月17日 (水) 00時33分
美しくも悲しい曲ですね。朝鮮半島の南北分断の悲劇を思い起こします。それはともかく、メロディーも歌詞も情感あふれるもので胸に迫ってきます。
映画『パッチギ!』ではこの曲が全編に流れ、主人公の松山君(塩谷瞬)が在日コリアンの少女(沢尻エリカ)と一緒に演奏するところが印象的でした。
政治的な話には触れませんが、朝鮮民族がこのような美しい曲を生み出したことに感動します。また機会があったら、ぜひ『パッチギ!』を見たいと思っています。
投稿: 矢嶋武弘 | 2009年1月10日 (土) 19時24分
今日9月7日「北朝鮮のダム放水で臨津江が増水し、韓国人6名が死亡・不明」とのニュースが流されました。
島国日本では想像しがたいことが大陸の国々ではあり得ることなのですね。
二木さんの「蛇足」の経緯のように、発売禁止になった「イムジン河」を聴きながら、メロデーを逆にして作曲したザ・フォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」を口ずさんでいます。
投稿: かんこどり | 2009年9月 7日 (月) 18時50分
20代の前半大ヒットした歌です。思えば私たち「団塊の世代」(こう一くくりに呼ばれるのは抵抗がありますが)は、10代後半からフォークソングブームのただ中にありました。そのため私たちの世代はまた「フォーク世代」と呼ばれることもあります。当時のフォークソングを今たまたま耳にしたりすると、『うわー。カンベンして ! 』と耳を塞ぎたくなる歌もあります。その歌によって、未熟さゆえの恥の記憶がどっとばかりに甦ってくるからです。
その点この『イムジン河』は違います。そういう変な思い出を連れてはきません。やはり凡百のフォークソングを越えた「何か」が、この歌にはあるからなのかもしれません。といってもさして難しくもなく、割と歌いやすい部類の歌でした。そこで当時の私は、フォークギター片手に「イムジンガン水清く…♪」と下手くそな弾き語りをしていました。
北と南と。この歌が歌われたあの頃から、状況は好転したのだろうか?好転したようでもありそうでないようでもあり…。当時はあまり深く考えずに弾いたり歌ったりしていましたが、今は多少複雑な気持ちで聴いております。
投稿: Lemuria | 2009年9月 8日 (火) 20時10分
加藤和彦さんの訃報を聞き、いたたまれない気持ちです。いわれているように自殺であったとしたら尚更です。
「音楽でやることがなくなった」としても、何か別の道を歩むことを考えられなかったのだろうか。肩肘張らずにひっそりと暮らす人生なんて、彼には考えられなかったのでしょうが、同い年だけにもっともっと生きてほしかったです。ご冥福をお祈りします。
投稿: さすらい爺 | 2009年10月17日 (土) 23時54分
加藤和彦さん監修の「青春のうた」(隔週刊)を定期購読しています。100号まで発行される予定ですが、先日、97号が届いたばかりでした。本当に寂しいですね。ご冥福をお祈りいたします。
投稿: 本田雅生 | 2009年10月18日 (日) 13時18分
こんにちは♪
二木様のこの『うた物語』をいつも楽しませて頂き、
また音楽活動の参考にさせて頂いています。
お蔭様でとても豊かな日常です。
心から感謝申し上げます。
「イムジン河」・・・主義主張はともかくも、穏やかな
気持にさせてくれる美しい曲ですね。
編曲は加藤和彦さんだったんですね。
今朝のTVで病床にあるはしだのりひこさんの「30年、
40年振りに電話をくれて、人を慰めておきながら自分は
命を絶つなんて納得できない・・・」と仰っていた言葉
が印象的でした。
加藤和彦さん、お別れのご挨拶をしたかったのですね・・。
多くの方々の青春に素晴らしい音楽を添えてくださり、夢
や生きる勇気を与えた方だと思います。
本当に良いお仕事をなさいました。
私の気持ちは上のさすらい爺様と同感です。
ご冥福、こころからお祈りいたします。
投稿: やまゆり | 2009年10月19日 (月) 11時28分
こんばんわ。
昨日、このCDを手に入れました。何度も聴きました。ほんとうにいい歌ですね。
東西ドイツ、南北ベトナムが統一されたのに、南北朝鮮が統一されないのは、残念ですね。もう、米ソの対立は解消されたのに!
キムジョンイルがいる間は、ダメなんでしょうね。今の北朝鮮は、日本の戦時中と同じですから!!!
投稿: こうちゃん | 2009年12月 6日 (日) 20時29分
たぶんフォーククルセダーズの「イムジン川」が発売中止になったのと同じ頃なのですが、北朝鮮の国名及び作詞・作曲者を明記の上発売されたレコードがあり、それを覚えていました。
私が覚えているイムジン川と一般に知られてるイムジン川は全然違うな、と思ったものでした。
投稿: ひよっこ | 2010年7月17日 (土) 22時19分
歌詞を捜して入って来ました. 一触即発の状況でいつか映画で見た歌がとても聞きたくて尋ねて来るようになりました. 日本のベビーブーム世代の中にも韓国を友好的に思って, 心配してくれる方々がいてありがとうございます. 韓国も, 北朝鮮も, 日本も皆よくできたらと思います.
投稿: Shin | 2010年12月20日 (月) 17時58分
この歌のエスペラント訳が追加され、うれしいかぎりです。作詞をした山崎功さんとは、おたがいに結婚式の披露宴の司会をした間柄で、長らく同じグループ「ロンド.メランコリア」「二土会]の仲間でした。54歳の若さで亡くなられ、死後に彼のための追悼文集を発行しましたが、この歌の作詞のことは知らず、今日は、天国の彼に追加報告をした気分です。実に、彼は多才な方でした。二木さん、本当にありがとう。
投稿: 沖田和海 | 2013年4月24日 (水) 08時00分
韓国でも歌われていて一番は上と同じなのですが
二番が「共同農場」なんか出てこないで
ムジゲ(虹)が出てきます。
韓国で歌われている2番の歌詞とおよその意味を書いておきます。
これも佐貫駅北口の居酒屋でカラオケをやってます。
임진강 하늘 높이
무지개 서는 날
옛 친구 들판에서
내 이름 부를 때
내 마음 고향 모습
추억 속에 사라져도
림진강 흐름을
가르지는 못하리라
イムジン河空高く
虹がかかる日
古い友人が野原で
私の名を呼ぶとき
私の心のふるさとの姿が
追憶のなかに消えても
イムジン河の流れを
分けることはできないだろう
投稿: 江戸 | 2018年8月13日 (月) 23時52分
1960年代にはボブ・ディランやジョーン・バエズなどの反戦歌が盛んに歌われていた記憶があります。「イムジン河」いいですね。難しい政治問題などに関係なくこの曲を聴いていると、歌詞が胸に迫ってきます。
『蛇足』にある解説がそのまま先日NHKBS3<アナザーストーリーズ「時代に翻弄された歌・イムジン河」>で放映されました。朝鮮総連の当時の担当者と松山猛氏がリモートで会話されていました。この番組をご覧になった方もいられると思いますが、お二人とも涙ぐんで当時のお話をされていました。また、当時北朝鮮に拉致されていた蓮池薫氏がこの歌を聴いた時、何か起きるのではと思ったそうです。
ご覧なっていない方がおられるようでしたら、9/17(木)午前8時、BS3で再放送があります。とても印象に残った番組でしたので、ご案内しております。
投稿: konoha | 2020年9月10日 (木) 16時21分
「イムジン河」実は2001年の紅白でのキム・ヨンジャの熱唱を聴くまでは、私はこの唄の存在を知りませんでした!
また、数年前にこのページを開き『蛇足』を読んだ時に、この唄が出来た様々な経緯や、発売中止になった事情、またそれぞれの方たちのこの唄への深い思い入れなどを知りました。
1・・・我が祖国南の地 想いははるか・・・
2・・・誰が祖国を二つに分けてしまったの・・・
3・・・ふるさとをいつまでも忘れはしない・・・
朝鮮戦争から長年を経た今、私が率直に思ってしまうのは、同じ言葉をしゃべる国民同士が南と北とで別れて良いはずなどけしてあってはならない!確かに難問だらけの現状ですが、いつの日にか・・・そんな思いに強く駆られます。
昨日YouTubeにアップされていたアナザーストーリー・選・「時代に翻弄された歌」を私も視聴しました。
それを観ている最中、私はふとある日の幼い日の嫌な悲しい光景を想い出してしまいました。それは私が小学校に上がる前ごろでしたが、近所に何件か在日朝鮮の方たちの家があり、そこの子供に朝鮮人・朝鮮人・と小石を投げながらふざけていじめる数人の中学生がいて、その子供が泣き声をあげている時、朝鮮人を馬鹿にするな!と泣き叫びながら中学生追い散らす一人お婆さんがいました。あれから60年以上が過ぎた今でも実際に目にしたその時の光景が私の脳裏からは離れません。
今思えば、確かに当時の日本人には在日朝鮮の方たちに対する差別があったことは否めない気がします。
2000年に開催されたシドニーオリンピックでは南北統一の国旗を掲げ選手団が入場する場面を私も直に観ていました。しかしそんなこともつかの間で、それ以降の韓国と北朝鮮の悲しい現状には只々残念の思いです。
昨日視聴した「時代に翻弄された歌」はどの場面も私には感動の連続でした。またある意味で歌手生命をかけてこの曲を歌い継ごうとしたキムヨンジャの強い思いは、まさに「一念岩をも通す」の諺を思わせます。
番組の最期の場面で、中学生のころにこの曲と出逢い、そしてこの曲に愛情の丈を込めてこられた松山猛氏に対して、リモートでのリ・チョリュウ氏からの予期せぬ労いの言葉に思わず感極まっておられた松山猛氏のその姿を拝見しながら、発売中止というもやもやした長年の松山猛氏の我慢の日々が、ほんの少しでも報われたなら幸いだと私は思うものがありました。
「イムジン河」それぞれの人たちの祖国を思う強い心が残した唄と云ってもけして過言ではないこのメロディが、今の私にはより心地よく聴こえるようになりました。
投稿: 芳勝 | 2020年9月12日 (土) 15時55分
先日トルコで大地震が有りましたマグニチュード7.8世界最大多くの方が犠牲となりました。ご冥福をお祈り申し上げます。阪神淡路大震災を豊中で経験しました。ゴーと言う音を聞きお弁当作りの最中ストーブも着いたまま。子供たちをベッドから起こす間もなく、主人の寝ている布団にテレビがタンスが落ち、キッチンと言わず散乱したもので足場もなく心臓のドキドキが暫く止まりませんでした。息子が神戸大学で代替バス西神周り4時間かけて数日間登校。亡くなった女子の友人代表で弔辞。次男の宝塚の担任の先生も悲しい別れでした。今後も東南海トラフいつ起きるか知れません。人は自然の災害にはなすすべも有りません.ただただ平和を祈るばかりです。イムジン川大好きな曲で歌ったりキーボードで弾いたりします。
投稿: 細川 和代 | 2023年2月16日 (木) 18時27分
今76歳ですから、この歌ははっきり覚えていますし、フォーク・クルセダーズ版を自分でも弾き語りで歌ったことはあります。哀調のあるいい曲だと思います。当時レコード会社が発売を自粛した時のことも鮮明に覚えています。
しかし、今更遅まきながらここにコメントしようと思った理由は、この歌の真意を好意的に解釈しようという論調が世間にあふれている点に強い疑問を抱くからです。
私は当時からこの曲の歌詞に違和感を覚えていました。この歌を朝鮮戦争が北朝鮮の韓国攻撃(いわゆる「南進」)によって起きたことと重ね合わせてしか受け取れなかったからです。南北離散家族の問題はもちろんありますが、そういう一般的な人道上の問題、望郷の思いとは全く別に、南北統一の政治的意図を哀調を込めた歌として南にも流布させようとしたことは、当時在日朝鮮総連が、作詞作曲者が北朝鮮人であり、北の歌謡曲であることを明示させようとしたことからも推測できます。実際、この作曲者は愛国歌の作曲家として北朝鮮では知られた人のようです。
一言で言えば、この歌は武力による南北朝鮮統一の意図を、望郷の念というオブラートにくるんだプロパガンダの歌だということです。カバー版が何人もの在日朝鮮人によって歌われていることも傍証です。
改めてこのことをコメントしたのは、私の購読している産経新聞にこの一ヶ月ほど(本日で終了しましたが)、北山修氏のロング・インタビューが載っていて、当然この歌への詳しい言及がありましたが、北山氏もインタビューアーも、ソフトな「南進」プロパガンダだという発想は欠片もないような応答でした。私たちはついこの前まで、韓国の左派政権が行っていた露骨な親北政策、韓国にとっては売国的な政権を見たばかりです。ネットでこの歌の背景についてどのように言われているか調べてみましたが、詰まるところ、発売自粛程度のことしか触れられていません。
おそらく、こうした意見は暗黙の了解によって封止され、広まることはないでしょう。もしここに相応しくないと判断されるなら削除してくださってもかまいません。
投稿: akira | 2023年10月31日 (火) 10時17分
(文中敬称略)
「イムジン河」、私はちょうど30年前に初めて旅客機(ANA名古屋小牧→福岡便、当時は中部国際空港セントレアは開港前だった)に搭乗した際、機内放送の5代目春風亭柳昇(秋本安雄、1920~2003)の新作落語「カラオケ病院」で聴いた思い出があります。
離陸前から初搭乗の不安がありましたが(中華航空機による名古屋小牧空港の大惨事から5ヶ月しか経っていなかった)、柳昇の面白すぎる落語にそんな不安も吹き飛んだ記憶があります。
「イムジン河」の替え歌はその落語にも織り込まれており、水虫の患者が
♪タムチンキを水虫に チョチョンとつける
患部に沁みて あ~ええ気持ち♪
我が患部足の裏 堪らん痒さ
タムチンキを水虫に チョチョンとつける♪
(うろ覚えなので適当に書いてすみません)
と歌う箇所には人目もはばからず大爆笑してしまいました。
また、「イムジン河」には「祖国分断」を嘆く歌詞がありますが、柳昇自身は6代目三遊亭圓生(山崎松尾、1900~1979)による落語協会分裂騒動で落語協会に残ったがゆえ圓生に破門された弟子の加藤利男(三遊亭さん生→川柳川柳、1931~2021)と長坂静樹(三遊亭好生→春風亭一柳、1935~1981)を受け入れたというエピソードがあり、柳昇にも「イムジン河」を江戸落語を司る組織の度重なる分裂(のちに、7代目立川談志(松岡克由、1936~2011)一門も落語協会を脱退し立川流を旗揚げ)と重ねたところがあったのかもしれません。
奇しくも川柳の本名の姓がフォークルのメンバーの加藤和彦(1947~2009)と同姓であり、さらに一柳は和彦と同じく自ら命を断ってしまった(ついでに言えば柳昇の本名と同姓の元日本テレビプロデューサーの秋元近史(1932~1982)と同じ死因である)というのも偶然とはいえ何だか因縁めいてる気がします…。
蛇足ながら、明石家さんま(杉本高文、1955~)司会で20年以上続いた「さんまのからくりTV(→SUPERからくりTV)」(1992~2014、TBS・CBCテレビ・毎日放送系)の1コーナー「からくりみんなのかえうた」(コーナー司会はTBSの人気アナウンサー・安住紳一郎(1973~))は、番組企画者の杉本(さんま)の師匠である2代目笑福亭松之助(明石徳三、1925~2019)が柳昇と親交があったからできた企画なんだろうな、と推測しますが…。
投稿: Black Swan | 2024年4月17日 (水) 19時41分
悲しくて悲しくての楽譜を逆に作ったか、もしくはイムジン川が元なのか知りませんがあれから30年忘れません。あの前日に鳴尾浜の近くの市民会館で成人式の晴れやかな着物姿の人達を見たのは。本当に悲惨な出来事でした。大阪で知った惨事何時迄も悲しみは消えません。青木の二分された埠頭いつも田舎に帰省する時に見ていた光景とは思えませんでした。多くの犠牲者にお祈りを捧げます。もう二度と繰り返さないで下さい。
投稿: kazuyo | 2025年1月17日 (金) 11時36分