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2007年3月 1日 (木)

青葉城恋唄

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:星間船一、作曲・唄:さとう宗幸

1 広瀬川流れる岸辺
  想い出は帰らず
  早瀬躍る光に
  揺れていた君の瞳
  季節(とき)はめぐり また夏が来て
  あの日とおなじ流れの岸
  瀬音ゆかしき杜(もり)の都
  あの人はもういない

2 七夕の飾りは揺れて
  想い出は帰らず
  夜空輝く星に
  願いをこめた君の囁き
  季節はめぐり また夏が来て
  あの日とおなじ七夕祭り
  葉ずれさやけき杜の都
  あの人はもういない

3 青葉通り薫る葉緑
  想い出は帰らず
  樹かげこぼれる灯(ともしび)
  濡れていた君の頬
  季節はめぐり また夏が来て
  あの日とおなじ通りの角
  吹く風やさしき杜の都
  あの人はもういない

  季節はめぐり また夏が来て
  あの日と同じ流れの岸
  瀬音ゆかしき杜の都
  あの人はもういない

《蛇足》 昭和53年(1978)リリース。仙台を中心に活躍していたシンガー・ソングライターのさとう宗幸は、この1曲によって全国区になりました。

 広瀬川、杜の都、青葉通りを自分の思い出の場所に変えて歌うと、一段と思いが深くなります。

 ちなみに、長野県の松本でアドレッセンス前期の大部分を過ごした私は、広瀬川を女鳥羽川(めとばがわ)、杜の都を山の都、青葉通りを縄手(なわて)通りと置き換えて心の中で歌いながら、いろいろなことを思い出しています。
 女鳥羽川に架かる千歳橋(せんさいはし)のたもとですれ違ったとき、膝だけ軽く曲げて会釈し、過ぎていったピアノ少女のことなど……。

 縄手通り沿いの女鳥羽川は、広瀬川と比べると川幅も狭く、昭和30年代にはどぶ川同然でしたが、最近は、人びとの努力でずいぶんきれいになりました。もっとも、当時も、市街地の上流のほうは清流でした。

(二木紘三)

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コメント

今日は 最近ご無沙汰をしている間にHPがあかなくなり、Googleで見つけてさっそく青葉城恋歌を聞きながらメールを打っております。私は1944年生まれで戦争を知らない世代です。離乳食は、いものつるであったと母から聞いております。砂糖るいがなくサッカリン世代意外に歯が30本健在、栄養失調で悪いことばかりかと思えばよいこともあるようです。最近少しご無沙汰でしたが、またとんがり帽子の時計台など4歳ぐらいのときラジオから流れる曲をその時住んでいた家とともに懐かしく思いだされます。歌、音楽というものを、通して忘れかけていた思い出その時代にもどれる事、ほんとうに有難いことと思っております。どうぞご健康に気をつけられてお続け下さいますようお祈りし、お願いいたします。

投稿: 新宮 紀子 | 2007年9月23日 (日) 13時17分

学生時代を仙台の街で過ごした者にとって、この歌は絶対忘れることのできないものです。カラオケのレパートリーには当然リストアップし、私のハンドルネームもここに由来しています。

最近では昨年3月に、恩師の最終講義(定年退官に伴う行事)に出席するために仙台に行き、久しぶりに研究室の同窓の方々と旧交を温めてきました。その後、同じ研究室の友人と頻繁にE-mailで連絡を取り合うようになりましたが、仙台に実家があるこの友人から気になる話を聞きました。
というのも、この歌にもうたわれている青葉通りのけやき並木が地下鉄
東西線建設のために伐られてしまうとのこと。
町の発展も大切ですが、無くしてはいけないものもあるはず…。

投稿: あおば | 2007年9月30日 (日) 23時36分

二木さんの演奏も素晴らしいのですが、この曲はまことに抒情性豊かなメロディーと歌詞ですね。
以前、仕事などの関係でずいぶん仙台に行きましたが、実に落ち着いた雰囲気の街で「杜の都」の名にふさわしい所だと思いました。
この唄は初恋の人を偲んで歌っているのでしょうか。久方ぶりに故郷に戻ると、七夕の飾りや街並みは昔と変わらないのに、ただあの人だけが「杜の都」にもういないといった感じです。
その街の風景も、地下鉄の工事で変わっていくのでしょうか。季節(とき)の流れにものみな姿を変えても、この『青葉城恋唄』の歌は変わらずに、とこしえに続いていくのでしょう。

投稿: 矢嶋武弘 | 2008年6月10日 (火) 14時01分

大学1年のときに「ABCヤングリクエスト」というラジオの深夜放送で聞きました。心が洗われるような想いがしました。今の学生さんはラジオなどは聴かないでしょうね。深夜に同世代の人間が同じ番組を聴きながら勉強したり、本を読んだり、詞を書いたり。。。というのはなかなか良いものでしたが、もう時代錯誤かもしれないですね。

投稿: 本田雅生 | 2009年7月 6日 (月) 22時10分

いつだったか、テレビのトーク番組で、さとう宗幸氏がこの歌のエピソードを次のように話されていました。
当時、氏は仙台のラジオ番組「FMリクエストアワー」を担当しており、その中でリスナーから歌詞を募集、さとう氏が曲を付けるという公募企画をしていたそうです。そこに送られて来たのが、この歌。星間さんというアマチュアの作詞家からのもので、ひと目見て気に入ったそうです。その時の気持ちを同氏は「詞の内容はモチロンのこと、完成度がとても高く、直すところは殆ど無かった」と語っていました。
処が、2箇所だけ星間氏の了解を得て、直させて貰った語句があったそうです。一つは「瀬音ゆかしき“杜”の都」の箇所と、もう一つ「“季節”はめぐり・・」の箇所。原詩では「“緑”の都」、「“時”はめぐり」となっていたのだそうです。緑を杜に変えたのはさとう氏自身の提案だそうですが、後者は阿久悠氏の助言に基づくもので、阿久氏が言われるには「時は一旦、過ぎてしまえば、もう元に戻ることはない。従って、“時”はめぐりと言うのは論理的におかしくはないか。これは“季節(とき)はめぐり”にした方がイイ」と。
阿久氏は当時のさとう氏から見て雲の上の人。その人から直接、助言を得て、宗幸氏は大変、感激したそうです。そこで同氏は星間氏に了解を求め、“とき”と言う言葉に“時”を当てず、“季節”を当てたと言います。更に氏は「このことが、その年の“日本作詞大賞”に繋がったように思う。もしも“時”と言う字を当てていたら、ウルサ型の審査員からクレームが出て、大賞に選ばれなかった可能性もある」と話していました。
尚、その際、小差で次点となったのは、このアドバイスをして呉れた阿久氏の歌だったそうです。その年の“日本作詞大賞”は当初から、阿久氏との一騎打ちと見られていたそうで、その結果が出る前に、この“敵に塩”の助言を得て、さとう氏は阿久氏の度量の大きさを感じたそうです。「自分としては、その年の作詞大賞はピンクレディーの大ヒット曲を作詞した阿久氏が当然、選ばれるものと思っていました」と話されていました。ご存じのことかもしれませんが。

投稿: 美樹 薫 | 2009年10月27日 (火) 21時30分

初めて訪問させていただきました。すずらんの歌から青葉城恋歌に飛びまして、さとう宗幸のこの歌が大好きで、音楽に合わせて歌ってしまいました。
歌は心のふるさとです。リンクしたブログの皆さんにもバックミュージックに合わせて、いろいろ歌っていただきたいです。これからも覗かせて頂きますね!どうぞ宜しくお願い致しますm(__)m

投稿: 摂チャン | 2010年5月 7日 (金) 10時02分

孫の入学祝いのため、4月3日埼玉にでかけました。発つとき電話で、埼玉は桜が満開だと娘が言うので、10日には仙台の桜も咲くだろうと素人判断で宿を予約しました。
桜こそ咲いていませんでしたが、仙台は美しく風情のあるいい街でした。“るーぷる仙台”という観光客相手の乗り合いバスがありました。仙台駅を基点に13の観光スポットを70分で一巡します。15分刻みで発着し、600円の切符を買えば乗り降り自由、乗り合いだから立つ覚悟なら満員通過はまずありません。途中、何度も広瀬川を渡ったり、並んだりでした。広瀬川は蛇行しているのでした。
あおばさん、がご心配していた青葉通りのケヤキ並木は健在のようでしたが今から伐採が始まるのでしょうか。

投稿: 周坊 | 2010年5月 7日 (金) 11時53分

この歌、仙台の大学を出た当社の若い社員のカラオケ十八番で、当方も「季節(とき)はめぐり また夏が来て・・・あのひとはもういない」という抒情的な歌詞とその美しいメロディーが好きになりましたが、仙台には全く土地勘がなく、青葉通りも杜の都も広瀬川も実感が皆無でした。
その後、娘が仙台の大学に入り、ときどき様子を見に仙台を訪れるようになり、この地方都市に、東京では味わえない安らぎと詩情豊かな「杜の都」を実感し、この歌がますます好きになった次第です。

投稿: 愛園 蕃 | 2010年5月15日 (土) 07時54分

息子が赴任しているときに2度訪れました。観光客として中心部のほんの一画をなぞっただけですが、何となく心安らぐ街というのが仙台の印象です。杜の都とはよくいったものですね。東京には住みたいとは決して思わなかったですが、仙台なら一度は住んでみてもと思わせる街です。
このたびの大震災に遭われた皆様には、まだこの唄を口ずさむ心境にはなれないかもしれませんが、大きな声で歌える日がきっとやってきます。阪神・淡路大震災の経験からすれば、こんなときだからこそ音楽の力が必要だと思います。皆様の一日も早い復旧と復興を心から願っています。

投稿: さすらい爺 | 2011年3月25日 (金) 23時29分

しんみり何度となく聞き直しながら、歌詞を口ずさみ、若い頃仕事の都合で年に数度となく通った仙台を今は懐かしく思い出されております。
夜中の3時です。いい曲と演奏ですね。
リタアして五年経ちますが訪れようと思えば約3時間の距離なので行けない距離ではないが今更ながら時折しみじみと想い出しては、ひとしお感慨深げに浸っております。当時知り会えた様々な方々はどうしておられるか、仙台の街並みと風情ある様に、心にいろいろ込み上げてくるものがあります。
大震災のその後の情報もテレビでの内容しか知らず、今後のますますの復興と隆盛をただ願うのみであります。

投稿: tsuzuki | 2012年8月18日 (土) 03時09分

この歌を聞くとどうしても伊達政宗が出て来てしまいます。
遺訓の一つ
「一、 気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。」仰る通りですが守れたためしがありません。
「 将軍の前での脇差帯刀を許されていたが、側近が酔って居眠りする政宗の刀を調べると、中身は木刀であったという。」戦さと平和を体験している。
「家光が鷹狩に没頭し、下宿(外泊)を頻繁に行うのに困った幕閣が政宗に説得を頼んだ時のこと、政宗が「下宿はお止め下さい。私も家康公の御首を何度か狙ったことがございます」と家光を説得、以後下宿を行わなくなったという。」これが長老。
                               ( 歴女に憧れる老人)

投稿: 海道 | 2012年9月 8日 (土) 06時57分

今夜(2012年12月27日午後7時から)のテレビ放送(名曲ベストヒット1960年代&70年代)に、さとう宗幸さんご本人が出演されて、現在のさとう宗幸さんの「青葉城恋唄」を偶然に聴くことができました。1978年リリースから数えて34年経過したにもかかわらず、時を超えて新鮮な気持ちを呼び起こしてくれる素晴らしい歌だと思います。
広瀬川の水面のような白いきらめきと時の流れを感じさせる、落ち着いた中にも気持ちのこもった、実に感情豊かな歌いぶりで、聞き入ってしまいました。豊かな白髪が印象的なさとうさんはこの詩の誕生のいきさつについて、この欄で2009年10月に美樹 薫さんが投稿された内容と同じ、「完成度が高く、すばらしい詩でした」と簡単に触れられていました。時間の関係でしょうか、語句を数か所変更に至った詳しいいきさつ(作詞家阿久 悠氏のアドバイスなど)までは触れられませんでしたので、美樹 薫さんの投稿を思い出し、名詩・名曲誕生のいきさつをあらためて確認させていただきました。ありがとうございました。

投稿: 國近 進 | 2012年12月27日 (木) 23時48分

2003年から楽しく聴いております。
累計3000万回突破しました
おめでとうございます。

投稿: 藤岡 大蔵 | 2014年2月14日 (金) 11時56分

昭和53年三十代の頃、ポン友と久し振りに飲むため仙台の一番丁界隈をブラついていた時、居酒屋の開店まで時間があったので、時間つぶしに何となく地元デパート(藤崎)の屋上に行ったところ、無名?のフォーク歌手がギター片手に自作の歌を屋上に居た10人くらいの買物客に披露していた。それがさとう宗幸の青葉城恋歌だった。聞いた瞬間にいい歌だなと思った。

投稿: 焼酎百代 | 2014年7月15日 (火) 18時19分

この曲がつけっぱなしのラジオから流れてきたとき、思わず夕飯の支度の料理の手が止まってしまい、胸が高なり動悸さえおぼえて、大げさにいえば『会えないはずの人に、突然会ってしまった!」そんな感じでした。
その後「あの曲は何だった?」との自問自答からはじまり、頭から抜けないメロデイが脳を占領してしい・・・・
しょっちゅう出合う友達に、胸の内を空けると『今日、うちに来て』とのこと。
彼女は私を超えてしまい、数日前にカセットに入れていて、何度でも聞けるように台所に設置して、あの曲を聴きながら、料理していました。
なぜあの曲は、懐かしいような、切ない想いと、ホッとする温かさを感じさせてくれるのでしょう。
ずっと後に広告関係の長男が仕事で、さとうさんにお会いすることになり、私の思いを話しますと、さとうさんは色紙一杯に『あの詩』を味わい深く描いて下さいました。
今も私の寝室の壁に、大好きだった『越路吹雪』の色紙と並んで私を、見下ろしています。
この二枚の色紙は、変色から守るためにそっとラップでくるんであります。
夜休む前は、無意識に左手でなでてから、ベッドに入ります。良い曲を残して下さった「さとうさん」話される声も素敵です。人柄が伝わってくるようですね。
息子から聞く「さとうさん」は、やはり私の想像する通りの方だったようです。

投稿: 伊藤 光子 | 2015年2月27日 (金) 03時12分

‘アドレッセンス‘語彙を見てニッコリ! この仮名言葉がキラッと光る蛇足が楽しいです。14-25才期間ならば、個人的懐かしい旋律は全てアドレッセンスに属し…、そして先ごろ話題になったBoyhoodを連想します。2002-2013年、6才からカレッジ進学まで12年間を、年ごと二週間撮影による‘少年期‘話。おおむねの構想と、スタッフ実際の成長/加齢とのインテグレーションと言う感じのUS‘映画的‘日常を描く作品。

ボーイ/ガールフードはアドレッセンスに言い替えられる…。もしも昭和53年に、四行基調のこの歌詞を聞いていれば、既に過ぎ去った我がアドレッセンスが懐かしく思い出されたことでしょう。35年余たち初視聴。詩と旋律、互いに溶け合い、上手ですね。いつかまた、正宗の城下町を訪れたくなります。

投稿: minatoya | 2015年2月27日 (金) 23時21分

大好きな歌です。
13年前、当地と新庄市が「全国都市緑化祭」の会場になりました。我が家最寄りの最上川ふるさと総合公園が会場となり、佐藤宗幸さんの「夕暮れコンサート」が開催されました。川風に乗ってオニヤンマが悠然と飛び交う会場に佐藤宗幸さんの爽やかな歌声が流れ至福の思いに浸りました。未だ50代った私も古希目前となりました。杜の都の若者の恋ではないが「あの人はもういない」が胸に迫ります。同じくの彼の歌で「昔聞いたシャンソン」は青葉城恋歌以上に好きな歌です。今は亡き酒田出身の岸洋子さんのコンサートで知りました。りんご30代のときです。
(彼女の死は日本シャンソン界に大きな喪失感をもたらしました。)

投稿: りんご | 2015年2月28日 (土) 19時25分

旅行好きな私でしたが、なぜか東北地方は関西からは当時は時間的に不便な地方でした。旅行会社の海外担当で海外経験が多かった次男が、『足が丈夫な間に、日本中行けるところは行ったほうが良い』「車いすになっても、外国にはいけるから』と、口癖のように言っていました。
そうこうしてる間に、あのような悲惨な地震と福島原発の事故とが重なり、阪神大地震を経験しました身の私には、被災者の心の傷が、より深く理解できました。
ついにいつか行こうと思っていた『仙台』には行けなくなってしまいました。仙台にこだわってページを次から次へと開いているうちに、地震前と地震後の写真が・・・・・。同じ場所から撮った写真ですが、あまりの変わりように、言葉が見当たりません。
神戸の町の地震被害は「人の作ったものが壊れてしまった」という感じですが、仙台の被害は『今まで守ってきた自然が壊された』と言うように少し被害の状況が、違って見えます。
あの写真の多くを心に刻んでおくために、デスクトップに残し時々開いて見ながら、一日も早くあの当時の風景が戻ってくることを祈りながら、ついに見られなかったあの光景を想像して、時を過ごしています。

投稿: mitsuko | 2015年3月 1日 (日) 16時07分

1958年ごろ過ごした仙台は今と比較できないほど貧しかった。仙台駅は粗末で冬には駅前にはリンゴなどので店が並んでいた。市電が主な交通手段でした。(もっとも新宿西口には靴磨きがずらっと並び大阪駅前には、てっちりの屋台が林立していたから、空襲を受けた都会は大同小異だったのでしょう)しかし仙台の街には大きな書店が、たくさんあった。思い出すだけでも丸善、高山書店、養賢堂、アイエなどなど、大阪より多かった。二十数年後に訪れたらそのほとんどがブティクなどに姿を変えていた。

投稿: 昭和老人 | 2015年5月 7日 (木) 23時56分

“札仙広福”は広域中心都市の略称ですが、仙台は札幌、広島、福岡に比べ人口は少なく市街地規模も小さい都市です。
空襲で“仙台砂漠”と言われた市街地の粗末な仙台駅は新幹線開業前に現在の駅舎に建て替えられたが、竣工から40年経って地震被害もあり老朽化が目立つこの頃です。変わらないのは、『青葉城恋歌』に出てくる広瀬川と、青葉通りの名称の元になった青葉山だけです。

投稿: 焼酎百代 | 2015年5月 8日 (金) 15時38分

 この感覚は一体なんだろう・・・青葉城恋唄を聴くと、どうしてこんなに切なくなるのだろうか・・・

 他の曲の切なさとは全くちがったものを覚えます。さとう宗幸氏の穏やかで豊かな柔らかい声でこの歌を聴いていると、胸がかきむしられる程に切なくなります。 べつに恋した人を失ったわけでもなく、仙台の持つ遠い記憶の中に住んだこともないのに、(旅行はしましたけれど)どうしてなのか分かりません。

 「季節(とき)はめぐり また夏が来て
  あの日とおなじ流れの岸
  瀬音ゆかしき杜(もり)の都」
 なぜか脳裏にうかぶ煌めきながら滔々と流れてゆく川。

 さとう宗幸氏の声質が青葉城恋唄のメロディとの相乗作用で、より一層「f/1のゆらぎ」を醸し出しているのかしらと思ったりしますが、何か別のものを感じます。なぜだか自分の内なるたった一つの遺伝子に直かに呼びかけてくるような、やりきれない寄る辺のない切なさを覚えます。(笑)

 そしてこの気持ちが落ち着くと、数回リピートして聴いています。本当にいい曲ですねえ、作詞もいいし大好きです。とおーいむかし、夫と2人でゆかたを着て、夕暮れ時をそぞろ歩いた頃を懐かしく思い出されます。(川べりではありません)

投稿: konoha | 2017年7月17日 (月) 07時33分

konoha様
konoha様のお気持ち少しわかるような気がします。多分それはまだ恋への憧れの時代、夢が新緑の木の葉の様に美しくそよいでいたころに戻られるのではないでしょうか。優しくそよいでいる薄緑の木の葉、憧れの少年、黙って歩くだけで涙があふれてくるようです。
私は、『森の小径』を聴くとそんな気分になります。いつも黙って見つめていてくれた、美しい少年が近所にいました。視線を外さないでじっと見つめられると恥ずかしくて下を向いてしまいました。山茶花や雪柳の白い花を見ると気持ちが少女に帰ります。一度彼とお話をしてみたいと思う時がありますが、夢は夢でいたほうが良いのかもしれませんね。すがすがしい夢の時代でした。

投稿: ハコベの花 | 2017年7月17日 (月) 16時02分

いつ聞いても懐かしく切なく甘やかな思いに誘われます。
2015年の拙コメント、我ながら支離滅裂で
恥じ入ります。大好きな曲と持ち上げて
「彼の歌で この歌より  更に好きな歌がある。
それは  「昔聞いたシャンソン」
我が県出身の岸洋子さんのコンサートで知りました。
若くして亡くなられた岸洋子さんは日本シャンソン界の損失であった」
何ともお粗末なコメントに穴があったら入りたい思いです。その穴埋めに  手直しして ~めぐりくる青葉城恋歌の季節~と題して 河北新報の
ティルーム ( ~朝日の~ひと時的な欄)に投稿掲載されました。
konoha様 ハコベの花様の筆力には遠く及ばないが
お2人に共感のりんごです。

さとう宗幸さんのお母さまは  音楽教師で
夕べには家族で童謡などを歌う家庭であったそうです。
彼は私の周辺ではお目にかかれない品のある ソフトな紳士でした。

投稿: りんご | 2017年7月17日 (月) 16時28分

 ハコベの花さま
 「夢が新緑の木の葉の様に美しくそよいでいたころに戻られるのではないでしょうか」
「言い得て妙」と誠にそう思いました。人生を振り返ってみて「愛しい時代」だったのですね。ありがとうございました。

 りんごさま
 共感してくださいましてありがとうございます。殿方にはこの乙女の気持ち解るでしょうか。

投稿: konoha | 2017年7月17日 (月) 18時00分

 7/17 18時の私のコメントの中で「愛しい時代」と書きましたが、時代そのものが所有する時間の長さではなく、「ひと時」を意味する「いとおしい季節(とき)」のほうが心情に「そぐう」気がします。(あえて「そぐう」の言葉をつかいました。)青葉城恋唄を聴きながら、そう思いました。

投稿: konoha | 2017年7月18日 (火) 18時55分

想い出は帰らず
 季節(とき)はめぐり また夏が来て
 あの人はもういない

この句が三度も繰り返されるのですから悲しくなります。

私は18のとき予備校生として一年間、京都の賀茂川に近いお宅に下宿させていただきました。懇意にしていただいたおじさんもおばさんもおばあさんもすでにお亡くなりになりました。京都に行きたい行きたいといつも思いながら悲しみもつのります。

夏が来て思い出すのは賀茂川の岸辺です。若いたくさんの男女のカップルが等間隔で岸辺を占めていました。私は羨ましく眺めているだけでしたが・・・。もう50年も昔のことですが今でもそうなのでしょうか。

それから祇園祭の夜、私はばか騒ぎで時間をつぶすのはもったいないから下宿で勉強でもしていようと思っていたのですが・・・。誰からか、「浴衣を着てウチワをもっている可愛い女の子がいっぱいいるから見に行け、見るだけでいい、絶対見てこい!」とそそのかされ、出かけることにしました。

それからそれからまた夏がきて、先日街を歩いていて浴衣姿の女性二人を見かけました。私の足は止まりました。いいですねェ、日本女性の浴衣姿。うつくしいなぁ。髪は後ろで結われていて私の目は彼女らのうなじと襟足に向かいました。美しかったですね、色っぽかったですね、ㇵィ。もちろん彼女らに近づいてはいませんよ、離れて見させてていただいただけです。紳士ですから。

投稿: yoko | 2017年7月18日 (火) 23時03分

yoko様コメント「いいですねェ、日本女性の浴衣姿・・・私の目は彼女らのうなじと襟足に向かいました。美しかったですね、色っぽかったですね」・・・まったく同感です(その場に居たわけでないですが)。今日ビ流行?の秘書を足蹴にして傷害を負わせ雲隠れ中の猛女などを除けば、「青葉城恋歌」など本サイトに投稿する諸嬢も含めて日本女性は心身ともに美しいです。
病院通いの他は外出する気力もなく手酌でアルコール漬け(女房は呆れ返っています)の年寄りにとっても、TVニュースやバラエティ番組などに出てくる浴衣姿の女性は目の保養になります(映像でなくyoko様のように間近で見たいものです)。

投稿: 焼酎百代 | 2017年7月19日 (水) 09時06分

少女の夢で思い出したことがあります。友人のお母さんが50歳ぐらいの時、毎朝きちんと化粧をして道路を掃除しているのを不思議に思い訳を聞いてみると、とてもきれいな男子高校生が通るので、その子に挨拶するのが楽しみで掃除をしながら待っていたのだそうです。見合い結婚で恋をしなかったお母さんの初恋だったのでしょうね。とてもきれいで上品なお母さんでした。毎朝胸がときめいて幸せだったでしょうね。何歳になっても初恋はできるのです。このお母さんは100歳近くまで生きて居られました。恋は長生きの元かも知れません。

投稿: ハコベの花 | 2017年7月19日 (水) 21時29分

6年前の夏のことです。私は家の用で田舎へ帰っていました。ある小さな無人駅で列車を待っていた時のことです。遠隔操作のスピーカーより、”次の列車は50分遅れます”、とのアナウンスがありました。日中は2~3時間に一本の列車間隔ですので、待つしかすべはありません。

ホームの待合室には私の他は女性一人のみでした。女性らしさをアピールされることもない粗野な装いで頭にはスカーフを被られ、大きなカバンを持っていらっしゃいました。私は地元のおばさんかな、これからお仕事かな、などと思い、窮屈だとご迷惑かと思い、小さな待合室を出てホームをブラブラして時間をつぶしました。

列車の到着間近になって待合室に戻りました。彼女に「ずいぶん待ちましたねぇ~」と声をかけました。その時、スカーフの中の彼女のお顔を拝見して驚きました。素顔の美しい娘さんでした。

到着した列車は2両編成のディーゼル車で乗客はいませんでした。私と彼女はガラガラの車内でしたので向かい合って話せる席を占めました。彼女は京都にある大学の2回生で、山陰を一人旅しているとのことでした。

「私も一年間、京都に住んでいたことありますよ」と言いかけて止めました。そうではなくて車窓に流れる故郷の山河について思いつくことを彼女に話しました。しかし私の心は別にさまよっていました。心は京都の賀茂川のほとりを思い浮かべていました。恋人たちの岸辺の語らいを思い浮かべていました。その昔、賀茂川の恋人たちを羨みながら僕も大学に受かれば恋人もできるかもしれない、と妄想していたのすが・・・。決してそんなことはありませんでした。それから40数年も過ぎて今、妙齢の美しい娘さんが僕の目の前で微笑んでいらっしゃる。不思議だなぁ、と思っていました。彼女の浴衣姿もきっと美しいだろうなぁ、と思っていました。

あっという間に目的地の駅に着き私は下車しました。彼女の道中の無事を祈って手を振り見送りました。彼女の次の滞在は石見銀山だとのことでした。

この出来事は夏が来るたびに思い出すのですが、最近ふと、これって”ローマの休日”と同じじゃないか、と思えるのです。場面設定、偶然の出会い、オードリヘプバーン、とも比べてそん色ありません。もちろん彼女がオードリヘプバーンです。お忍び旅行中のお嬢様です。

ただ、やはり、ここに品格の劣る男を登場させるのは許されないでしょうね?

投稿: yoko | 2017年8月11日 (金) 16時21分

「青葉城恋歌」は抒情性ある名曲ですが、yoko様の抒情性・詩情性あふれるコメントにはいつも感心しています。yoko様のような体験は無いですが、病院通いの帰りに立ち寄る地元スーパーの30代パート主婦に軽口たたく(こういう綺麗な女性を間近で見れるのは目の保養になるっスねー)のが関の山です。
さとう宗幸は地元TV(司会)でたまに仙台弁など使っていますが、もともと岐阜県出身のため本来の仙台弁ではなく(Wikipediaから抜粋)、ビートたけしや松本人志がお笑いの才能を高く評価しているサンドウィッチマンはあまり仙台弁はしゃべらないようです(伊達みきおは伊達62万石の分家末裔で世が世であれば若殿様!)。
(参考)仙台弁「おだづな!」(意味:調子こくな)、「ごしゃっぱら焼げる」(意味:腹が立つ)

投稿: 焼酎百代 | 2017年8月11日 (金) 18時51分

yokoさま・焼酎百代さま いつもコメント楽しく拝読いたしております。ありがとうございます。
「青葉城恋歌」確かに心に染み入る名曲とは思いますが、私にとっては。どうしても昭和初期・中期の懐メロに心が傾いてしまっています。正直言って、心苦しいですがフオーク系は、ちょっと言って苦手です。申し訳ありません。・・・古い人間でしょうか?
今後ともお付き合いのほどよろしくお願いします。

投稿: 一章 | 2017年8月11日 (金) 20時30分

 yokoさま
 いつも情景の浮かぶ文章を楽しく拝読させていただいています。ありがとうございます。読みながらyokoさまは「掌編集」を書かれてはどうかしらと思っています。もしかしたら既に書かれていらっしゃるかも知れませんね。そのくらい読み応えがあります。もし書かれていないのでしたら、ぜひ挑戦なさってみては如何でしょうか。例えば題名は「僕の徒然草」、ファンが一人ここにいます。

投稿: konoha | 2017年8月12日 (土) 08時54分

一章様の言われる事よくわかります。私も音楽には全くの無知で、耳障りの良い歌が好きというだけで聴いています。昔の歌は歌詞の日本語が分かりやすくて、きれいなものが多いですね。それに日本語に合ったメロディがついています。最近の歌はいらない言葉がぐちゃぐちゃついていてやたら長いです。整理整頓ができていなくて面倒です。フォークソングが出てきたとき、歌もおしまいと思ったものです。でもたまに「おや」と思う良い歌がありますね。この歌も歌詞が良いですね。青春を振り返るにふさわしい歌の様に思われます。きれいな声で歌ってほしい歌です。日本語をしっかり勉強してから歌詞を作って欲しいと願っています。心に優しく響く美しい歌を私も待っています。

投稿: ハコベの花 | 2017年8月12日 (土) 14時39分

ハコベの花さま
当北部九州では連日、35・36度の猛暑ですが、そちらの地方では如何でしょうか。
日頃から、ハコベの花さまのコメントを心待ちに楽しく拝読いたしております。ありがとうございます。
この度は,私のつたないコメントの心の内をご代弁いただき、恐縮とともにありがたく思っております。ありがとうございました。
ハコベの花さまが、おっしゃるとおり、歌詞自体が心に沁みる美しさ・抒情性とともに、曲の旋律の柔らかさ・何か心に迫るものが私どもの心を揺るがすものではないでしょうか。
今後とも、このサイトに集う仲間の皆さんとともに、「心のオアシス」としてお付き合いできればと思っております。
ありがとうございました。


投稿: 一章 | 2017年8月12日 (土) 20時52分

読んで楽しかった、とコメントをいただけて嬉しいです。しかし嬉しさ半分、安堵半分です。といいますのはいつもこんな内容でいいのかな、顰蹙を買わないかな、と不安で悩んで読み直したり、書き直したりしています。結局いつも見切り発車で、エイヤ!と中途半端に送信ボタンを押してしまっているからです。

私もうた物語コメントのフアンです。毎日パソコンに向かって新しいコメントがないかな、と確認しています。今後ともよろしくお願いいたします。

konohaさま

お勧めのお言葉ありがとうございます。国語嫌いの私にはもったいないです。

掌編集についてですが、素晴らしいメロディ、歌詞、二木先生の名演奏に乗っかった上でのコメントです。コメントだけを切り取ると、気の抜けたサイダー」(コーラ?)で、ホームレスになってしまいます。

コメントは個々の曲とのつながりがありさえすれば良いと思います。コメントが作成者ベースで一覧できたりしますと過去の行状が晒されてしまうようで怖いです。

また、私は私事に近いことを多く書いていますので、集めると素性が知られやすくなることも心配です。

コメント内で参照する人物は時間も経過し、特定できないように配慮していますがそれでも、「この方ひょっとして〇〇さん?」ともなりかねません。場合によってはご本人にご迷惑がかかるかもしれません。したがって私のコメントはうた物語のコメント内に閉じておきたいです。

ともあれ国語嫌いの私にkonohaさまのお勧め、光栄です、ありがとうございます。

投稿: yoko | 2017年8月13日 (日) 20時08分

 yokoさま
 余計なことを申し上げてしまいました。そうですね、yokoさまがおっしゃる通り、この「うた物語」の曲とともに思い出を語ることが出来る楽しさ、また自分の人生の一齣に思いを馳せることが出来るさらなる楽しさなのですね。分かりました。でもこれからもyokoさまの「うた物語」に寄せる掌編の一編を楽しみにお待ちしています。

投稿: konoha | 2017年8月13日 (日) 22時27分

 イントロのメロディからうれしくなります。前回のコメント以来、毎日どこかの時間に「青葉城恋歌」をリピートとして聴いています。間をおくと寄る辺のない切なさに襲われますので、しばらくは、切なさから離れて曲に浸っています。

 テンポが早からず遅からずで、自然と気持ちが揺らいでいく、とても心地よいリズムなので、バックミュージックに最高です。いいですねえ〜 気持ちが広々として豊かになってきます。天候不順も、蒸し暑さも吹っ飛んでしまいます。

 「青葉城恋歌」の二木演奏にしばらく嵌まっています。名演奏心地良いですね。ありがとうございます。

投稿: konoha | 2017年8月22日 (火) 15時38分

konoha様 何年か前、堀辰雄の『菜穂子』の文庫本を手に取った時、表紙のカバーの絵が素晴らしかったので買いました。緑の葉の茂った木の下のベンチに美しい若い女性が腰かけて本を広げている絵でした。絵の中の女性のように美しい自分ではありませんが、自分がその女性になったような気がしたのです。その年ごろに戻ったような気がしたのです。人生で一番楽しかった時、夢や希望があふれていて、未来は輝いて見えていました。konohaさんはこの歌でその時代に戻られるのではないでしょうか。青春時代の楽しかったこと、今思えば天国のような気がします。束縛がなく自由な感覚、良い時代でした。ひと時でもその時代に戻ることが出来たらそんな幸せな事はありません。時々戻って若返りましょうね。二木様が弾かれる音色の美しさを楽しみながら…その時着ていたお気に入りの服も頭の中で着てみましょう。

投稿: ハコベの花 | 2017年8月23日 (水) 22時32分

 ハコベの花さま本当にそうですね。今になって思うことはハコベの花さまが書かれたように「束縛がなく、自由な感覚」を謳歌していたのですね。長い人生の中で、そのような季節(とき)はわずかな間だったのですね。

 そうです。気持ちは乙女です。「昔は乙女、今は太め」というフレーズのCMがありました。(私のお気に入りのフレーズです。) 「昔は心身とも乙女、今は気持ちだけは夢見る乙女」

 はい、お気に入りのワンピースがありました。それを着ると男の子たちが「おー」と言って振り向いてくれました。そのモスグリーンのワンピースを着て、広々として豊かな「束縛がなく、自由な感覚」になりましょう。背筋が伸びます。

 また、2015.2.27伊藤光子さまのコメントに「胸が高鳴り動悸さえおぼえて、大げさにいえば『会えないはずの人に突然会ってしまった』そんな感じでした。」も憶測ながら同じような感覚だったかも知れませんね。(違っていたらごめんなさい。)

投稿: konoha | 2017年8月24日 (木) 09時18分

「久方の天津みそらに照る月の失せなむ日こそ我が恋やまめ」万葉集12巻、3004
こんな歌を番号だけ書いて彼に手紙を送っていたことがありました。自分のためにだけにこの世が存在していると思えるような日々でした。一瞬の間に通り過ぎてしまいました。女の幸せは結婚だと思われていた時代でした。振り返れば苦労の連続がまっていました。輝いていたのはたったの4,5年だったような気がします。3度の食事を考えなくてもいい時代、男性にはわからないでしょうね。艶やかな肌、56センチのウエスト、もう帰ることはありません。それでも夢を見られるだけでも幸せです。思い出がある幸せを感謝しましょう。

投稿: ハコベの花 | 2017年8月24日 (木) 16時17分

投稿者の皆さん、とても博識で、いつもこのサイトのお世話になってます。小生は「歌声サロン」という集いを運営していますが、来月、この「青葉城恋唄」を歌うに当たり、「早瀬躍る光に」の「早瀬」は、じつは川底を泳ぐ「ハヤセボウズハゼ」の略称だというお話をしたいと思い、WEBで確認をしてるのですが見つからず、どこで何から学んだのか?自信を無くしかけています(笑)ご存知の方、お教え下さい。「早瀬」が単に流れの早い瀬だとしたら、水面に「君の瞳」は映りませんものねえ。

投稿: 清水閑人 | 2019年3月25日 (月) 09時11分

水面に「君の瞳」が映っていたのではなく、早瀬、すなわち水の速い流れが彼女の瞳に反映して、瞳が揺れているように見えた、ということではないでしょうか。

投稿: ビンボー暇なし | 2019年3月27日 (水) 05時51分

ありがとうございました。なるほど・・・瞳に早瀬の光が映っていたんですね。ナットク!
でも早瀬はハヤセボウズハゼのこと、という記憶はどこから?そんな名前は知らなかったから勝手に思い込むはずはないです(笑)来月、皆で歌いますが、会場でも尋ねてみます。

投稿: 清水閑人 | 2019年3月27日 (水) 09時21分

14年ぶりに再度 投稿します。
未明にテレビを見ていたら、仙台の広瀬川では、サケの遡上が最近とみに少なくなっていると伝えていました。“広瀬川”と聞いて、私は久しぶりに『青葉城恋唄』を思い出しました。
何度も聴きましたが、何度 聴いても素晴らしい唄です。失恋、悲恋もこんなに美しいとは・・・ ラストの「あの人は もういない」が特に美しいのでは・・・
ところで、サケの遡上が見られないのは海水温の影響だといわれますが、「サケは もういない」とならないよう祈るばかりです。

投稿: 矢嶋武弘 | 2022年1月25日 (火) 13時38分

矢嶋 武弘 様

  本当にそう思います。「サケはもういない」哀しすぎま
すわね。 三回ほど行った広瀬川 けしてサケの戻らない川にはしたくありません。
青葉城恋歌に惹かれて訪れた私ですが、何時までも詩に歌われた様な岸辺で有って欲しい物です。

投稿: かずえ | 2022年1月31日 (月) 13時20分

「青葉城恋唄」さとう宗幸が歌ったこの唄は、東北最大の都市・仙台のイメージアップをもたらし、またこの唄により「杜の都・仙台」と云う、素敵な街のイメージを全国に知らしめ、そして、定着させたような、私はそんな気がしています!

ある日、街のレコード屋さんから流れてきた、さとう宗幸のこの唄を初めて聴いた時、私はその透きとおるような彼の歌声に思わず吸い込まれていくような、そんな心地よさを感じたことを憶えています。
昔の事ですが、私は16歳から19歳まで、勤労学生として、愛知県・岩倉市にある会社の独身寮に住んでいましたが、当時、お隣の一宮市で毎年盛大に開催された、市の恒例行事の七夕祭りには、寮の仲間と一緒に必ず行っていました。
それから数年後、24歳になって結婚したばかりの私でしたが、昭和53年にヒットしたこの唄により、日本最大と云われる仙台市の七夕祭りを、妻と一緒に一度は必ず見てみたいという思いを抱いていたことがありましたが、諸事情があり45年が経った今でもその思いは果たせぬままで、私はそのことを今も少々残念に思っています。

私は大好きなこの唄のページへくる度に、皆様から寄せられた興味深いコメントを読み返しています。
先の2009年10月27日ご投稿・美樹薫さまのコメントにも記されてるように、
私も昔読んだ某コラムにより、この唄の歌詞は「”緑”の都」を「”杜”の都」へそして「”時”はめぐり」を「季節(とき)はめぐり」へ、と阿久悠のアドバイスにより変更されていることを知った時、私はその事実に心底納得したことを憶えています。
長年大好きなこの唄を聴いてきた私が今改めて思うのは、作詞家・阿久悠のこの鋭い助言こそが、この唄がただの流行歌ではなく、今もなおこんなにも親しまれ、そして歌い継がれていくような、言わば名曲になった、その大きな要因ではなかろうか、私には今でもそう思えてきます。

「青葉城恋唄」ここで、緩やかで心地よいこのメロディを聴いていると、仙台の七夕祭りにはいつの日にか必ず訪れてみたい、そんな思いが私の胸の中には自ずと高まってきます。


投稿: 芳勝 | 2023年5月27日 (土) 14時52分

仙台には、仕事の支店があり、縁戚もあるので現役時代によく行きました。
広瀬川も青葉城も訪れました。杜の都(わたしは北の都)という響きもとても懐かしいものを感じさせます。
ブログ・ハーモニカ演奏の伴奏に使わせていただきました。ありがとうございました。

投稿: ゆるりと | 2023年10月 4日 (水) 11時16分

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