上海帰りのリル
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:東条寿三郎、作曲:渡久地政信、唄:津村 謙<
1 船を見つめていた 2 黒いドレスを見た 3 海を渡ってきた |
《蛇足》 昭和26年(1951)リリース。
渡久地政信(とくち・まさのぶ)が歌手から作曲家に転じて放った第1作で、大ヒットとなりました。歌った津村謙は、一躍大スターとなり、「ビロードの声」と讃えられました。
日本の敗戦とともに、大陸や南方各地に散っていた多数の日本人たちが引き揚げてきました。その混乱のなかで、さまざまな生き別れや死に別れがありました。
この歌は、そんな社会情勢を背景として作られたものです。
歌の大ヒットを受けて、翌年、新東宝・総芸プロが同名のタイトルで映画化しました。島耕二監督で、出演は水島道太郎、森繁久弥、香川京子、浜田百合子など。
歌と同じく、敗戦前後の上海と横浜を舞台とした、かなりできのよい悲恋映画です。DVD化されているので、現在でも見ることができます。
戦前の上海には、英米日などの共同租界とフランス租界があり、多くの外国人が住んでいました。租界は、中国の弱体化につけ込んで、帝国主義列強が強制的に借り上げた治外法権の租借地です。
四馬路は、蘇州河の南側にあった歓楽街で、現在は福州路と呼ばれています。ディック・ミネが歌った『夜霧のブルース』にも出てきます。
蘇州河の北側には、虹口(ホンキュ)という街があり、そのあたり一帯に日本人が多く住んでいました。虹口と四馬路は、ガーデンブリッジ(中国名は外白渡橋)でつながっていました。
上海リルという名前は、室戸台風が襲来した昭和9年(1934)に公開されたワーナー映画『フットライト・パレード』の主題歌『上海リル』から採られたようです。
『上海リル』はH・ウォーレン作曲・服部龍太郎訳詞で、昭和9年(1934)に唄川幸子が歌い、その後ディック・ミネら多くの歌手の競作となりました。
(二木紘三)
コメント
15歳上の姉が歌っていたのを子供ながらに
聞き覚えました、引き上げ船のイメージが
湧いてきます
投稿: グ・グロリア | 2008年4月27日 (日) 20時35分
今から6年前に友人からこの映画のビデオ(DVDではなく)を借りて観たことがあります。森繁久弥が若くて、水島道太郎も香川京子も適役でした。「地獄の顔」に似たストーリーでした(水島はまたも撃たれて死んでしまいます)。津村謙が横浜のキャバレーで「上海帰りのリル」を唄うシーンが印象的でした。
「上海リル」もデイック・ミネ盤とワーナー映画盤を、新宿百人町の「むかしの唄の店」で唄うことができます。物憂い感じで唄うとピッタリです。
投稿: 所沢のマドロス | 2008年4月28日 (月) 16時27分
こんばんは
〔上海帰りのリル〕本当に懐かしい曲です!
子供の頃よくラジオで聞いていました。津村謙という歌手の名は忘れてもあのビロードの声は忘れていませんでした。
月日が経ち、今から25年ほど前に美術研究所に通っていましたが、絵画の先生のお一人が〔上海帰りのリル〕がお得意で、飲み会ではこの歌が持ち歌でした。その後数年して残念ながら先生はお亡くなりになりました。
投稿: おキヨ | 2008年6月29日 (日) 23時14分
この曲と似た時代(多分昭和25年)、渡辺はま子の桑港のチャイナタウンという曲がありました。今も大好きな曲です。
軽快で明るく、大変流行したものですが、リストにないのが残念です。入れていただけませんか?
お願いします。
投稿: やまちゃん | 2009年8月17日 (月) 08時07分
上海から帰ってきたところです。津村謙のショウが松山のタイガー劇場であり、ミーハー気味の母に連れられて見にゆきました。彼の絶唱は小学校3,4年生だった私にも圧倒的でした。今も心にしっかりと焼き付けられています。昭和27,8年のことだと記憶しています。彼のように高音部が綺麗に響く歌手を知りません。ほんとうに惚れ惚れしましたね。
スマロのことは気にかかっていましたが、今回も近くを歩きながら確かめずに帰ってしまいました。次はかならず。
投稿: 松山ケンジ | 2012年3月26日 (月) 23時19分
>四馬路は、・・・ディック・ミネが歌った『夜霧のブルース』にも出てきます。
その2番の歌詞、
「可愛いあの娘が 夜霧の中へ
投げた涙の リラの花
何も言わぬが 笑って見せる
ああこれが男と 言うものさ」
と、この歌の2番
「夢の四馬路(スマロ)の霧降る中で
なにもいわずに別れたひとみ」
が、ピッタリつながって聞こえるのは、
作詞者が意識して書いたのでしょうね。
投稿: 正解入道 | 2015年8月19日 (水) 10時22分
ディサービスセンターで友人がボランティアで歌を唄っているというので見学に一緒に行きましたら、せっかく来たんだからお前も歌えと言われ「上海帰りのリル」を歌いました。後で介護士の方から懐かしい歌を唄ってくれてありがとうとお礼を言われ、眠っていたお年寄りが目を覚まして嬉しそうでしたと言ってくれました。
投稿: 中野吉隆 | 2017年2月18日 (土) 21時43分
私はフットライト・パレードを米国のTVで見ました。「上海帰りのリル」の元歌だなと気が付きました。youtubeに出ていましたよ。https://www.youtube.com/watch?v=9YXSO94aDnw
投稿: 関 淑子 | 2017年12月15日 (金) 20時15分
関 淑子さま
早速ユ―チューブで見てみました。ほんとですね。1933年のアメリカのミュージカルで「Shanghai Lil 1933 1 」というタイトルでした。渡久地正信氏作曲の「上海帰りのリル」は、1951年リリースですから、歌詞のストーリーも曲もほとんどそのまま頂いた感じですね。でも、それをアレンジし膨らませて哀愁のある、そしてエキゾチックな歌謡曲にしたのは成功しましたね。
投稿: 吟二 | 2017年12月15日 (金) 21時59分
「上海帰りのリル」独特の、ある意味新鮮さを感じさせる詩もそうですが、私は何と云っても渡久地政信のこのメロディが好きで、今でも時々この唄を口ずさむことがあります!
この唄がリリースされたのは私が生まれる三年前ですが、『~リル リル どこにいるのかリル~』私は幼い頃から特に上記のこのサビのフレーズを、繰り返し口ずさんだり口笛を吹いたりしていたことを憶えています。
「・・この詩をもらった渡久地は、津村の「ビロードの声」を生かそうと、20日も曲想を練って書き上げたそうです。」(昭和の流行歌・保田武宏氏解説)
また私がプライベートで長年可愛がっていただいてきた、現在92歳になられるお知り合いの方がおられますが、4年ほど前に私達有志が数人で集まり、近場の料亭でその方の米寿のお祝いをしました。その方はその席で十八番でもあるこの唄をしかもアカペラで歌われましたが、その歌声は年齢を微塵も感じさせない迫力ある声量でそれは見事な歌いっぷりでした。
そしてその宴席で私が驚いたのは、その方は十代のころに特攻隊に志願したことがあると仰り、少年兵の凛々しい姿で撮影したというセピア色の写真を、こっそり懐から出して私に見せてくださいました。コロナ禍でもあり、ここ二年ほどご無沙汰してますが、今はその方のご健在をただ祈るばかりです。
『蛇足』に記された、>「日本の敗戦とともに、大陸や南方各地に散っていた多数の日本人たちが引き揚げてきました。その混乱のなかで、さまざまな生き別れや死に別れありました。この歌は、そんな社会情勢を背景として作られたものです。」
「上海帰りのリル」私がこれまでこの唄に感じてきたのは、戦前(上海の街で出逢った女性リルとの恋唄)それがこの唄に関する漠然とした私の認識でした。しかし『蛇足』での上記の解説を読んだことで、それまで私が知らなかった当時の時代背景などを多少でも理解できたことで、今ではこの唄が私にはより味深い唄になっています。
投稿: 芳勝 | 2021年7月11日 (日) 16時33分
夢の四馬路(スマロ)の霧降る中で
なにもいわずに別れたひとみ
と口ずさむ度に頭をよぎるのは、同じ頃にみた映画「カサブランカ」。戦時下のパリで、イルザのイングリッド・バーグマンに何も云わずに置き去りにされたリックのハンフリー・ボガートの姿です。リルと違ってイルザとリックは再会しますけれど。
投稿: dorule | 2021年7月13日 (火) 10時27分
芳勝様、コメントを読ませていただき、終戦後、中国大連から小学1年生の時両親、弟達3人の6名で大連港から長崎針尾港に引き揚げてきた当時の、幼少ながら敗戦までの楽しく華々しかった大連での生活等々、又末の弟が生後6ケ月での引き上げ、母の産後の体調、引き上げ後父の実家(大分)で暮らした2年間、平成14年末の弟の死、後の母、父の死等々の諸々が一気にくっきりと思いだされ、皆様のコメントを全て読ませていただき、なんだか急に涙が滂沱と流れ出して止まらずの自分を、今不思議に感じてます。
二木様、長年の間、拝読拝聴させていただいてます。初めてのコメントです。渾身のページ真に有難うございます。子供のころから長年歌の言葉も意味も解らずのまま口ずさんできた数々の歌がくっきりと鮮明に甦ってきたこと幾度か。感謝以外にありません。
投稿: 嘉江 | 2021年7月19日 (月) 09時27分