もずが枯木で(その1)
(C) Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:サトウハチロー、作曲:徳富 繁
1 もずが枯木で 鳴いている 2 みんな去年と 同じだよ 3 兄さは満州へ 行っただよ |
《蛇足》 昭和の歌で、制作と流布の経緯がこれほど謎に満ちた作品はあまり見当たりません。
まず、サトウハチローの詩について。
この曲について最初の「蛇足」を書いたのは平成12年(2000)後半ですが、そのころは、資料が乏しく、ネット上には次のような情報しかありませんでした(「蛇足」末尾の「2007年3月5日」は、それまでのホームページからブログに記事を移した日付です)。
「大日本雄弁会講談社(講談社の前身)発行の『少年倶楽部』に掲載された。この詩を読んで感動した茨城県の小学校教師・徳富繁が曲をつけたものの、茨城県内でしか知られず、戦後に反戦歌として歌われるようになった」
私は、この詩に1つの疑問を抱きました。
この詩をテクストとして読む、すなわち筆者の意図や作成時の事情といったものを排除して、字句の意味することだけを取り出してみると、伝わってくるのは、反戦と言うほど強くはありませんが、非戦または厭戦のメッセージです。
1番と2番では、兄のいなくなった寂しさが語られ、3番では、さらにはっきりと満州での軍務の厳しさが表現されています。
疑問というのは、戦前の軍国主義の時代に、このような非戦的な詩が、なぜチェックを受けずに発表できたのか、ということです。
日本は、昭和6年(1931)の柳条湖事件を口実に満州事変を起こし、昭和7年(1932)には満州国建国を宣言、昭和8年(1933)には国際連盟を脱退するなど、国際的孤立を急速に深めました。
さらに、昭和12年(1937)には、盧溝橋事件をきっかけとして本格的に対中戦争に突入しました。
このファシズムの時代、社会主義思想はもちろん、自由主義的な言説も厳しく統制されました。戦争遂行が国策だったので、反戦思想だけでなく、非戦・厭戦的な内容もチェックされたはずです。
私は、この詩が発表できたのは、それが戦後に歌われたものと大幅に違っていたからかもしれない、と想像しました。そこで、原詩を調べてみようと思い立ちました。
知り合いの編集者に頼んで講談社の資料センターにもぐり込み、昭和初年から同20年まで全号調べましたが、『もずが枯木で』あるいはその基になった詩は、どの号にも載っていませんでした。
あきらめきれずに、「サトウハチロー記念館」(岩手県北上市)に問い合わせてみました。すると、同記念館の佐藤四郎館長(ハチローご子息)から、『もずが枯木で』の原題は『百舌よ泣くな』で、昭和10年10月10日に講談社から発行された『僕等の詩集』に掲載されたものというご教示とともに、原詩のコピーをいただきました。
『僕等の詩集』の存在を知っていれば、昭和10年以前の『少年倶楽部』だけ調べればよかったわけで、ずいぶん無駄なことをしたものです。
平成27年(2015)発行の長田暁二著『戦争が遺した歌』(講談社)には、「『百舌よ泣くな』は「満州事変が起こっていたころ『少年倶楽部』に書いた作品」との返答をサトウハチローから得た、とありますが、これは明らかにサトウハチローの記憶違いです。
『僕等の詩集』に収録した作品の大部分が『少年倶楽部』に掲載されたものだったので、『百舌よ泣くな』もその1つだったと思い込んだのでしょう。この詩集のために書き下ろしたものか、別の雑誌に掲載されたものだったと思われます。
『僕等の詩集』収録の『百舌よ泣くな』は下記で、下線部分は、戦後に歌われていた歌詞との相違点です。
百舌よ泣くな
百舌が枯木に 泣いてゐる
おいらはわらを たたいてるわたひき車は おばアさん
こっとん水車も 廻ってるみんな去年と 同じだよ
けれども足り無え ものがある兄(あん)さの薪割る 音が無え
バッサリ薪割る 音が無え兄さは満洲へ 行っただよ
鉄砲が涙に 光っただ百舌よ寒くも 泣くで無え
兄さはもっと 寒いだぞ
『僕等の詩集』でこの詩は、『兄さん』『凧凧(たこたこ)あがれ』の2つとともに「やさしい兄さん」という括りでまとめられています。『兄さん』は看病してくれた兄への感謝、『凧凧あがれ』は工場で働く兄への尊敬をテーマとした詩で、2つとも、子どもにもわかりやすい日常生活が謳われています。
ところが、『百舌よ泣くな』はがらりとトーンが変わり、戦争の影が色濃く出てきます。
いうまでもないことですが、この詩で使われている「寒い」は気象学的な寒いでなく、それも含めて、軍務の辛さや戦闘の過酷さを象徴した言葉です。
実際には、軍務の厳しさや上級兵からのいじめ、帰郷心などから、就寝後に声を押し殺して泣いた兵隊、とくに新兵が少なくなかったといいます。
そのことは、兵営の消灯ラッパの旋律を、「シンペイサンハ カワイソダネ マタネテナクノカナ」という歌詞に置き換えて密かに歌われていたことにも表れています。
しかし、表向きは、兵役は天皇の赤子(せきし)として喜んで果たすべき義務なのに、それを涙をながすほど辛い、苦しいと感じるのは非国民だ、とされていました。
そうした時代に、サトウハチローはどういう気持でこういう詩を書いたのか、またそれがなぜ検閲を通過できたのかという疑問は、依然として解けません。
サトウハチローが反戦主義者でなかったことは、戦時中、戦争協力的な児童詩をいくつも書いていることからもわかります。もっとも、文章や詩で戦争に協力したのは、彼にかぎったことではなく、多くの文学者や詩人が戦争を賛美し、その遂行に協力しています。
サトウハチローがこの詩を書いたのは、おそらく、出征した兄の身を思う弟の気持ちを素朴に表現したつもりが、結果として非戦・厭戦のメッセージとして表れてしまっただけのことでしょう。あるいは、ひょっとして、胸に秘めていた戦争への疑問が意図せずに出てしまったのかもしれません。
戦前の検閲は非常に厳しく、6年後に対米欧戦争が始まってからは、単に内容が軟弱だとか、悲しみや別れを扱っているというだけで、出版・上演が禁止されたほどです。
しかし、昭和10年以前は、検閲官にもよるでしょうが、多少は融通がきいたのかもしれません。とくに「兄を思う」というくくりの中に入っていることから、『百舌よ泣くな』は通常の兄弟愛の詩だと判断された可能性もあります。
「サトウハチローが戦争に批判的な詩を書くはずがない」「検閲を通っている」という2つの視点から、この詩には非戦・厭戦の意図はなかったとするさまざまな解釈や想像がなされています。
しかし、「鉄砲が涙に光っただ」というフレーズがあるかぎり、非戦・厭戦のイメージは変わらず、サトウハチローがこの詩を書いた意図、検閲を通った理由は、謎として残ります。
次の問題点に移る前に、言葉の説明をしておきましょう。
1番の「藁(わら)をたたく」は木槌(きづち)で稲藁を叩いて柔らかくする作業です。この作業をしておかないと、稲藁で縄がなえません。「縄をなう」は、藁をより合わせて一本にする作業です。
昭和30年代初めごろまで、どの農家でも、翌年の農作業に使う縄やムシロ・俵・カマスなどを作っておくことは、冬の間の重要な仕事でした。
1番の綿ひき車は、一般的には綿繰り車といいます。綿繰り車は、摘んできた実綿(みわた)から種子を取り除く装置です。
(その2へ続く)
コメント
モズが群青の空を背景に啼いています。柿の赤、ミカンの黄色、盗まれる事もなくたわわに生っています。六十数年前誰がこの平和を想像できたでしょうか。
この歌を聴くと寒さと餓えで凍えながら戦死した多くの兵隊さんを思わずにはいられません。時々、息子に「戦地の兵隊さんを思いなさい」と言ってしまう事があります。子供のころ食べ物の我侭を言うと親によく言われた言葉です。
3番の歌詞は最初のハチローさんが作ったままが良いですね。「百舌よ寒くも 泣くで無え 兄さはもっと 寒いだぞ」弟の愛情がこもっているように思えます。そういえば50年近く前、ハチローさんから『木曜手帳』の会員になりませんかと葉書がきました。サトウハチローと書いてあったのでびっくりしました。葉書は無くしてしまいました。残念です。
投稿: ハコベの花 | 2009年11月 2日 (月) 23時01分
こんにちは。はじめて書かせていただきます。
うた物語、とてもよくのぞいています♡♡♡
二木先生の情報収集力のすごさには、感嘆!いたします! これからもどんどん曲をふやしていただけますよう、どうぞ、お願いいたします♡♡♡♡♡♡♡♡♡
さて、このもずの歌ですが、最後が違うだけで印象がずい分違うように、私は感じました。今知られている方は、百舌に寒い事を嘆かせ、自分も辛さに耐えている、兄さんはもっと辛い、と状況に否定的ですが、元の歌詞では、百舌に泣くなといい、この状況にしっかり耐えろと、檄を飛ばしているように思われます。
この違い、けっこう大きいかも..と思い書いてみました。私は小学校の頃からよく歌っていた、今の歌詞のほうが好きです。
投稿: アケママ | 2010年10月21日 (木) 17時00分
ときどき楽しませていただいています。がこれへの二木さんのコメントには違和感を覚えます。一口で言って、二木さん(くらいの方で)も戦後東京裁判プロパガンダに染まっているとしか思えません。昭和10年の頃は日本は中産階級もある程度育ち、戦後刷り込まれた”暗黒の戦前”などではなく、ずっとおおらかでした。当時はやった歌、・ダイナ、・二人は若い、・東京ラプソディー、・緑の地平線(満州を歌ったもの)、などの明るさから想像できるはずなのですが、なぜ日本人は、祖父達の行為を否定して、”いい子”(反戦・平和愛好家)&被害者ぶるのでしょうか。百舌が枯れ木で・・の解釈にも戦後強まる一方のこの強迫観念から解き放たれたらいかがでしょう。
投稿: ボーボウ | 2011年10月23日 (日) 10時20分
百舌がまた啼く季節になりました。久しぶりにこの歌を開いてみて、アケママさんの「百舌に檄を飛ばしている」にちょっと私は違う解釈をしています。お兄さんの置かれている満州の寒さを思い、その寒さを強調するために、この1節が書かれたものと思います。
ボーボウ様
言論が統制される怖さを今貴方たちも他国をみて感じられませんか。兵隊になって、出兵された祖父さんたちにどんな気持ちだったかお聞きになるとよいのではないでしょうか。まだ戦争を体験された方が沢山いらっしゃいます。事実を知る事が一番大事な事です。貴方の想像を絶するお話が聞けると思います。
投稿: ハコベの花 | 2011年10月23日 (日) 12時40分
ボーボウ様
ひと言だけ。人は自分の目や耳に入らないこと、あるいは知らされないようにされていることは、存在しないかのように感じるものです。(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2011年10月23日 (日) 17時20分
はじめまして。
昨年他界した亡父がよく歌っていたこの歌の歌詞を探しており、こちらへたどり着きました。3番まであり、またその内容を知ることができて、たいへん感動しております。ありがとうございます。
父は昭和14年に茨城県阿見村の旧海軍航空学校区にて生まれ、その後は横須賀へ移動になりましたが、軍人の祖父を思ってきっと祖母が歌っていたのだろうと思うと、感無量でございます。
貴重なこの歌を、私も大切に子どもたちに歌いついでいきたいと思いました。重ねて御礼申し上げます。ありがとうございました。
投稿: Tezuka, R | 2012年2月11日 (土) 17時04分
百舌よ泣くなを始めて知りました。調べも題名も初めて聞き知る歌が殆どの歌音痴ですから当然。それでも瞼がかすむような思いに駆られる時があります。ふたつぎさんの演奏と蛇足に舌鼓を打ちつつ馳走をいただいています。
日華事変の頃の歌なんですね。ハチロウは薪割り兄をつれてった戦はごめんだよ、と言っているように聞こえます。時の極東情勢から軍事大国・日本が採らざるを得ない悪魔の仕掛けだったようにも思えます。でも情報統制・大本営発表方式の行く末は歴史の示す通りです。
ダマスカスでアサド支持の人々のデモ風景に、小学生たちが露/支那への感謝字幕を振っています。安保理のアサド退陣提案を拒否権つかいで露支が屑籠にすてたからです。無垢な子供たちと普通市民たちの表情から、反政府デモ住区への砲撃やその日常的大量殺害について知らないのでは…。普段のラジオTVは治安国家の常道・政権側のニュースだけですからね。
弾圧を知り政権を支える人々が常ならば、弾圧を知らず、そんなことはありえないと政権を支持する人々がいるのも常の世です。日々の幸せに忙しい善良市民たちと貧しさから這い上がるために他国に無関心である人々が2012年の露西亜と支那の大多数をしめる。こうした情報統制政権の性根はチンピラやくざ風な言いがかりばかり…、ロシア民謡の平和な心に返ってほしい。
未知のメロディーとかつての心休まる抒情/叙景と、初めて知る人生体験の数々を、この歌物語が伝え教えてくれます。マイナスあれどもSNMの大いなるプラスの賜物。加速度的に増える露支やアラブのiPhone使いの人々とその勇気がきっと世界を明るくする。そしてハチロウの詠った時代にTube/Twitterが存在した別空間の歩みを想像してみるのです。
投稿: TangoMinato | 2012年2月13日 (月) 09時55分
時々認知症の高齢者の方々と昔の歌:戦前、戦後の歌などをアカペラでしています。それぞれの人が記憶にあるメロデーに合わせて歌っているのですが、「モズが枯れ木で」は歌ったことが無く歌集で初めて見て検索してみました。
なんとなく感情を揺さぶるものがあったからです。
戦地で兵士のみならず民衆も、満州の荒野、シベリヤの凍土を彷徨い、夢を賭けた半島から大陸への進軍は逆転して大陸から半島への飢えや病魔に命を落とし雪降る中を素足で行進するような逃避行のドラマを思い起こさせる。
戦争は想像を絶する世界があるが歌はそこを垣間見るボタンにすぎないかもしれないがこの歌に共鳴したのは戦後歌われた「麦踏ながら」です。
この歌を歌うと胸が詰まる思いで歌が続かない、それは子や父や兄弟や母を思う心が日常の生活の中で切なく待ちわびるような情景であるからでしょうか。戦後の歌であまり表に出ない歌ですが、その背景も解釈もわからずにいます。この歌についても何か教えていただければと思います。
投稿: 野の花 | 2015年9月29日 (火) 18時30分
「綿ひき車」について
1.私は「ワタビキグルマ」と歌っていました。「ワタビキ」と思っていたのは、そういう姓の知人がいたからでしょう。
2.蛇足で「一般的には綿繰り車といいいます」と読んで、ほほう、そうなのか、と勉強しました。綿繰り車で扱うのは実綿ですが、私は養蚕農家で育ちましたから、綿とは繭から作る真綿のことと思って疑わず、祖母が裏口で、鍋で屑繭を煮て、ささらのようなもので糸目をさぐって引き出し、手回し車にかけていた原始的な装置を思い浮かべていました。車と言っても丸くはなく、四角な木枠でした。それを家ではなんと名付けていたか、特に呼んだ記憶がありませんが、一般的には糸引き車という範疇に入るのかもしれません。
投稿: dorule | 2016年7月26日 (火) 12時51分
こんにちは。
「もずが枯れ木で」はなんとなく気になっていた歌でした。戦時中に元の歌詞で発表されていたとは知りませんでした。
これは、私の考えですが、当時の検閲を通過できたわけは
百舌よ寒くも 泣くで無え
兄さはもっと 寒いだぞ のくだりを検閲当局側が
戦地に行った兵隊さんたちのことを思えば
銃後の生活を苦しいなどと泣いてはならない
と解釈したからではないでしょうか。
(サトウハチローさんの想いはともかくとしても)
もう少しいえば、本当はサトウハチローさんには
厭戦感情があったけれど、検閲を潜り抜けるために
知恵を絞った結果が戦中ヴァージョンで
戦後は、それが必要なくなったので、厭戦感情をはっきり出した歌詞にした、、ということではないかと。
投稿: 真田紗奈 | 2017年9月28日 (木) 13時29分
愛国主義詩人(とされている)サトウハチローが厭戦的とも反戦的とも取れる「百舌よ泣くな」を書いていたことは少しも不思議ではありませんね。戦前までの日本人に共通するセンチメントと言えばいいでしょうか。「戦友」(ここはお国を何百里 離れて遠き満洲の 赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下)は、明治大正昭和を通じて最も愛唱された軍歌の一つですが、そこには戦意昂揚を煽る詩句はありません。倒れた友の思い出とさらにはご両親への思いやりを綴るだけのヒューマニスティックな歌です。
軍歌と言えば、やはり私の少年時代には誰でも知っていた「雪の進軍」は、後の一等軍楽長永井建子が日清戦争従軍の経験から作ったものですが、「馬は倒れる捨ててもおけず……、焼かぬ干物に半煮え飯になまじ命のあるそのうちは 堪えきれない寒さの焚き火……、結びかねたる露営の夢を 月は冷たく顔覗き込む」と続き、4番に至っては、なんと「……義理に絡めた恤兵真綿 そろりそろりと首しめかかる どうせ生かしちゃ還さぬつもり」と終わっています!!!
私は別の投稿に書いたように、吉田隆子作曲の「君死にたまふことなかれ」を戦後に聴いて、与謝野晶子の詩が日露戦争中に発表されたことを知り、衝撃を受けたものでした。「戦友」も「雪の進軍」も、わたし(たち)は戦争中にも歌っていましたが、戦後の研究によると、戦争末期には「戦友」は軍隊内部では禁止令が出るし、「雪の進軍」の最終行は「どうせ生かしちゃ還さぬつもり→どうせ生きては帰らぬつもり」と勇ましく改竄されたそうです。なるほど日本が狂い切ったその頃になれば、検閲を待つまでもなく、サトウ・ハチローは「百舌よ泣くな」を書かなかったでしょう。
投稿: dorule | 2017年10月 1日 (日) 18時58分
現在は、戦時中はとても厳しい検閲があったように言われていますが、実際は昭和16年の日米戦争が始まるころまでは、そんなに厳しいものではなかったです。日中戦争時代までは、案外に言論も歌も自由主義的なところが残っていました。
現実に私も昭和18年ごろまでは、資本論やマルクス主義の古本を買って読んでいたくらいですから。
サトーハチローの歌詞も、特別、反戦・厭戦という感じはしませんでした。
94歳・紫蘭
投稿: 紫蘭 | 2018年11月 5日 (月) 22時54分
紫蘭 様
2016・10・30 に、「惜別のうた(その3)」にコメントを寄せられた 和紙屋紫蘭様(当時:92才)だと拝察いたしますが、惜別のうた のコメントを拝見した時も、失礼ですが一般的に考えて とても92才の方だとは思えない確かな記憶力と文才に驚いた覚えがありますが、今回この「もずが枯れ木で」で
94才にして、なお矍鑠とされているお姿が目に浮かぶようで、ご同慶の至りと存じます。
私も、二木先生の解説を拝見するまで、この曲がそれほどまでに強い反戦・厭戦意識をもったものだとは、意識もせずに気軽に歌っておりましたが、自分が体験したことや見たことがないことでも、もっとその背景を知ることが大切だと勉強させられました。
紫蘭様のような、経験豊富な大先輩の体験談は、一言一言に重みがあり身に沁みます。
これからも、お元気でお過ごしされますようにお祈り致します。
投稿: あこがれ | 2018年11月 6日 (火) 16時58分
日清・日露戦後に建てられた村の出征兵の鎮魂石碑をよく見るが、この詩に昔の日本を感じる。
毎年繰り返される、村の家の営み。
家で一番の働き手の長男が、兵隊にとられて居なくなった。
「寒けりゃ鳴いていい、もっと鳴け」ではなく、原詩は「そんな事くらいで泣くやつがあるか」の感覚。
素朴な、昔のムラ社会。潜在的に根底に流れる厭戦の意識。
投稿: にゃーご | 2024年1月29日 (月) 16時19分