忘れな草をあなたに
(C) Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:木下龍太郎、作曲:江口浩司、唄:ヴォーチェ・アンジェリカ
1 別れても別れても 心の奥に 2 いつの世もいつの世も 別れる人と 3 喜びの喜びの 涙にくれて |
《蛇足》 昭和37年(1962)、ヴォーチェ・アンジェリカの唄でキングレコードより発売。その後、菅原洋一、倍賞千恵子、梓みちよなどがカバーしましたが、いちばん売れたのは菅原洋一版でした。
『さくら貝の歌』などと並ぶ抒情歌の不朽の名作といってよいでしょう。歌詞・メロディとも流麗で、今なお愛唱する人が数多くいます。
忘れな草は、初夏に紺碧色の花を咲かせるムラサキ科の一・二年草で、川辺や湿地でよく見られます(右の写真)。英語ではforget‐me‐not、ドイツ語ではVergissmeinnichtといいますが、いずれも「私を忘れないで」という意味です。
この由来を説明する伝説がいくつもありますが、有名なのは次の伝説です。
ある若者が、ドナウの川辺で恋人のために珍しい青い花を摘み取ろうとしますが、崖から身を乗り出したとたん、足をすべらせて川に落ちてしまいました。最期の瞬間に、彼は少女に向かって、「僕のことを忘れないで」と叫び、急流に飲み込まれました。
残された少女は、若者の墓にその花を植え、彼の最期のことばを花の名にしたといいます。
下の短歌は、私の母の遺作の1つです。
コンクリートのしろき川辺に降る雨よ
勿忘草を探してをらむ
(二木紘三)
コメント
37年生まれの者です。
最近の曲は早過ぎて歌いにくい曲が多く有ります。
嫌いではないのですが聞き役にまわってます。
なつかしの曲は、歌いやすく
そして優しいメロディーが多く、
二木さんのサイトは私のお気に入りです。
長く海外にいるので、なつかしの曲は
私に、日本の情景を見せてくれます
ありがとうございます。
蛇足の方が好きだったりもしますが・・(^-^)
投稿: ゆみ | 2006年9月10日 (日) 23時14分
ありがとう。
長い海外生活で日本の歌が大変恋しくなっている時にサイトで見つけました。
もうほとんど毎日のように唱ってみています。
最近は時間も出来たので私の住んでいる市の運営する歌のレッスンにも参加するようになりました。12月22日は発表会で私は「里の秋」と「囚人の歌」を唱うことにしました。
年が年なので発声がちょっと乱雑ですが気持ちを込めて唱おうと思っています。
ありがとう。
投稿: 川端喜美子 | 2007年12月18日 (火) 09時08分
二木様のうた物語、いつも懐かしく拝聴しております。中でもこの歌は特別な想い出のある歌です。
私がこの歌を初めて聴いたのは1969年に高校の修学旅行で九州へ行ったときでした。4日間付き合ってくださったバスガイドさんは歌が苦手とか言ってあまり歌われなかったのですが、我々がバスを降りる小倉港に着く直前に最後の想い出になるようにと「忘れな草をあなたに」を歌ってくださいました。初めて聴く、短調のとてもよい歌でその後しばらく頭を離れませんでした。後にこの歌が1965年の日活映画「悲しき別れの歌」のテーマ曲であったことを知りました。「忘れな草をあなたに」はバスガイドさんの想い出とともに自分の青春の一頁に残る名曲になりました。
この時以来、江口浩司さんの曲が好きになり、三橋美智也さんの「石狩川悲歌」や芹洋子さんの「椎の木日記」が愛聴曲になりました。後者の歌はあまり知られていないかも知れませんが、江口浩司さんの曲の中では大好きな曲の一つです。
投稿: JUN | 2008年9月 7日 (日) 22時41分
昭和39年高校の修学旅行で関東へ行きました。愛媛の最南端の町から東京までどんな交通手段で行ったのか全く思い出せませんが、この時代に飛行機を使うことはなかったし・・・船は時間がかかりすぎますから、汽車で行ったのでしょう。日光東照宮や華厳の滝を見て水道橋の宿舎までの道中、バスガイドさんが、「今、こんな歌が流行しているのですよ」と言って、「忘れな草をあなたに」を歌ってくれました。
この歌を聴いてクラス全員が虜になり、ガイドさんに是非教えてほしいとせがみ、結局宿に帰り着くまでの二時間以上を、全員でこの歌だけを繰り返し歌いました。宿舎に着き、バスを降りる我々に頭を下げながら泣いているガイドさんに気付きました。
若いガイドさんで、年齢は聞きませんでしたが、多分我々より一つか二つ上だったでしょう。バスまるごと一つになった、この修学旅行で唯一忘れられないひと時でした。帰校して、ガイドさんに手紙を書こうという話になり、先生にお願いして宛先を調べてもらったように思いますが、果たして出したかどうかは残念ながら記憶にないのです。
今年定年で教職を退きました。何回も小・中学生を修学旅行に引率しましたが、あのバスの雰囲気を二度と味わうことはありませんでした。
あのガイドさんは今でもご健在でしょうか。多くの高校生にこの歌を歌って聞かせたのでしょうか。リリースされたばかりの歌だったのですね。
投稿: 吉田 晃 | 2008年9月19日 (金) 16時54分
メロディを聴きながら「蛇足」を読むのが楽しみです。
今日は、お母様の佳い短歌も鑑賞させていただきました。
昔よく見かけた忘れな草がひょっとして咲いてはいないかしらと、暖かい春雨に誘われるように川辺まで来てみたけどコンクリートで固められた川岸にその姿を見つけることはかなわぬ夢だった。
春雨よ、おまえもきっとあの忘れな草を懐かしんで降っているのでしょうね。
投稿: 周坊 | 2008年9月20日 (土) 15時59分
先頃、作詞家の木下龍太郎先生の訃報を聞き、とても残念でなりません。わたしが、「忘れな草をあなたに」を、最初に聴いたのは、まだ、歌声喫茶が華やかりし頃、昭和40年だったでしょうか。九州からでてきて、まだ2年目位だったと思います。休みの日に、同じ田舎から出てきていた友達とふたり、大阪の梅田をぶらぶらしていて、みかけた歌声喫茶「田園」でのことでした。若い人でぎっしり埋まったホールで、小さな歌詞集を見ながら、リーダーの声に合わせて、唄いました。コーヒーが100円ほどだったと思います。
翌年の正月、帰省したときに、市内のデパートの一室で、一回目の同窓会が行われたその席上で、この歌を歌いました。
いつまでも忘れない思い出です。プロの歌手の皆さんの歌が広まったのはその後からだったでしょう。
作詞の木下龍太郎さんを知ったのは、ずっと後になってからでした。50を過ぎてから始めた作詞で、ある雑誌に投稿して、最優秀賞をいただいたときの、審査の先生が木下龍太郎先生でした。人生で、めぐりあった歌で、心に一番残る歌です。改めて、木下龍太郎先生のご冥福をお祈り致します。
こちらのサイトを知ったのは、つい最近、詞つながりで知った作曲をされる女性を通してですが、こんな素晴らしいホームページがあったのかと、この出会いに、感謝しております。時々に歌を口ずさみつつ、日常生活をがんばろうと思いますので、よろしくお願いします。
投稿: 茨一径 | 2008年10月 8日 (水) 16時01分
ある夏の終わり頃、病気の妻が大きな鉢にスミレや菊、わすれな草などを寄せ植えにしました。その時、この歌を小さな声で唄っていました。
それから3ヶ月ぐらいして妻は星になりました。
私は今でもこの歌は涙で歌えません。いつも聞くだけにしてます。本当に良い歌だと思います。
鉢のわすれな草は今年も咲きました。
皆さん、暗い話でごめんなさい。
投稿: 連太郎 | 2008年12月 7日 (日) 00時49分
二木先生の母堂は詩人だったんですね。だからご子息も血を受け継いでいらっしゃるのだなと思いました。
JUNさんのコメントに青春の多感な頃を思い出しました。吉田晃さんのコメントに涙がこぼれました。ともにバスガイド冥利に尽きるでしょうね。
バスの思い出としては私もあります。以前フランス・ドイツなどに観光旅行に行ったとき、フランス人の粋な運転手さんの明るさと誠実な人柄に、別れの日、この旅で仲良くなった客一同で、前日相談して買っておいたプレゼントを上げて感謝の意を表しました。運転手さんはびっくりしていましたが、運転手冥利に尽きた事でしょう。あとで女性のバスガイドさんがポツリと「私、日本の方を見直しました…」と洩らした言葉が印象的でした。
近年「添えぬ恋、宿、別れ」など、不倫モノのド演歌作詞家という印象が私には強かった大ヒット作詞家の木下龍太郎さんが、この曲を作詞されていたのだとは知りませんでした。きれいで清澄な詞ですね。埼玉県の「いきがい大学」校歌になっている「四季の歌」が、神野美加のご主人である荒木とよひさ氏の作詞だと知ったときと同様に驚いています。
投稿: 吟二 | 2008年12月 7日 (日) 10時32分
御ブログに画像入りはめずらしいですね。西洋人の目の色にありそうな、この青い色にはウットリします。
投稿: Bianca | 2008年12月 9日 (火) 16時33分
<12月7日投稿の連太郎様へ>
この曲を聴きながら、連太郎さんの文章を読んで
涙が止まりませんでした。いつの日か歌えるように
なればよいですね。
「時があなたの悲しみを癒し、亡き奥様とのたくさんの美しい思い出があなたを慰めてくれますように」
投稿: 荻原 敏章 | 2009年1月 3日 (土) 17時28分
荻原 敏幸様
優しいお言葉をいただきありがとうございます。
荻原様のおっしゃるとおり、時が癒してくれるようですね。
最近、その意味がやっと分かる時が来たようです。
また、多くの方々からの励ましと、このサイトも大きな支えです。感謝。
投稿: 連太郎 | 2009年1月22日 (木) 02時02分
二木様のサイト、時々楽しませていただいております。
この歌の歌詞が一箇所違っておりますのでコメントさせていただきました。
一番の「幸せ祈る言葉にそえて」とありますが、正しくは「言葉にかえて」です。小生はこの歌の歌詞がとても好きなので、気がつきました。
投稿: Utsuki | 2009年2月10日 (火) 00時49分
Utsuki 様
私も「かえて」と覚えていたのですが、midi(その後mp3)を作る際に見た全音の歌集には「そえて」とあったので、それに従いました。歌集のなかには「そえて」としているものもいくつかありますが、倍賞千恵子が「かえて」と歌っているのに敬意を表して、それに変えました。
「……言葉にそえて」だと、「どうぞお幸せに」といった言葉とともに忘れな草を渡す、というイメージになりますが、「……言葉にかえて」だと、何も言わずに万感の思いを込めて忘れな草を渡す、といった感じになります。日本人の心情には、こちらのほうがよりアピールしますね、確かに。
(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2009年2月10日 (火) 18時06分
二木先生のお母様はもしかしたら、若いころ心に秘めた方がいらっしゃったのかもしれない、などと想像しながら楽しんでいます。
投稿: たか子 | 2009年9月27日 (日) 17時00分
二木先生のこのサイトにはよく訪れて、懐かしい曲を聴かせていただいております。「忘れな草をあなたに」は私の好きな曲のひとつです。
人事異動や退職などで職場を去るときには、いつも「忘れな草」の画像をメールに添付して職場の皆さんに送ってきました。お別れのメッセージを贈るのよりも、「忘れな草」を贈る方が何となくすがすがしい気持ちがするからです。
投稿: cosmosfish | 2009年12月 5日 (土) 22時23分
歌と踊りが好きで、時々口ずさんでいます。「わすれな草」は私たちの小さな踊りの会の名前にもなっています。
皆さんのコメントを見ながら聞いています。
有難うございました。
投稿: 瑛之祐 | 2010年1月14日 (木) 12時39分
昭和39年頃、蒲田にあった通信機の会社にいたころ職場の仲間と、川崎駅前にあった歌声喫茶『エルサルバドル』によく行った。会社の昼休みは喫茶で覚えたての歌を芝生に寝っ転がり、男女含めいつも十人位でガヤガヤやってました。その頃この『忘れ・・・』毎日ように歌ってました。私も古希を迎えましたが、この歌を聴くと東北から来てた18前後の女の子たち、今幸せかなーと思い出します。若い寮生でしたから楽しい職場にと、皆を連れて毎月の様に海山と出かけてました。その時いつも携行するのは歌声喫茶のミニ歌集でした。今でもその頃の悪童?連中とは文通してますが、その子達とは・・
今では皆の健康と多幸を祈るばかりです。
投稿: 郷野保房 | 2010年3月23日 (火) 09時36分
倍賞千恵子の「忘れな草をあなたに」が私の今の気持ちです………深く愛しあった初恋の彼女とふとしたきっかけで連絡が取れました Mailをやり取りする中での言葉です すっかり忘れていた歌詞を見ながら曲を聞いています ○十年前にタイムスリップして感激 歌は妙を得て心を代弁してくれますね 彼女が以前にも増して好きになりました
投稿: くろかつ | 2010年4月 7日 (水) 07時47分
いい歌ですね・・・私にもほろ苦い想い出の歌です
詳しくは書きたくありません・胸にしまっておきます
いつもしんみり唄っています
投稿: 田中喬ニ | 2011年4月 7日 (木) 12時22分
昨日、ご近所の三崎千恵子さんの葬儀に出席、一昨日の通夜には山田洋次監督がご挨拶されたそうですが、昨日の葬儀では倍賞千恵子さんが送別の辞を述べられたことは報道された通りです。倍賞さんの惜別の辞は、おばちゃんへの想いが込められ、私も深い感動を覚えましたが、そのなかで、「忘れな草をあなたに」をアカペラで、涙を堪えながら歌われたのでした。最後の「あなたに」を「おばちゃんに」に代えて歌われていたようでした。この歌、昭和三十年代後半の雰囲気を象徴する叙情性溢れる歌詞で、八十歳近い馬齢を重ねた我が身も、まさに身につまされる想いで、聞き入った次第です。倍賞さん、ありがとうございました。
投稿: 紀の国 縞次郎 | 2012年2月21日 (火) 00時19分
今我が家の庭に、青い可憐な忘れな草の花が咲いています。春の空よりもきりっとした青い色です。50数年前、始めて憧れの彼が我が家の玄関に立ったのはこんな春の日でした。青みがかった美しい目をした19歳の彼、16歳の私は彼を見た瞬間固まってしまいました。幼すぎて見つめるだけの数年でしたが、今、会いたいのは彼ではなくあの時の自分ではないかと気がつきました。美しい物にひたすら憧れていた10代の自分に会ってみたいと思います。忘れな草の様な青い心になれるかも。
投稿: ハコベの花 | 2012年4月13日 (金) 00時20分
ある投稿者の指摘を受けた後、管理人氏は、一番の歌詞中、「そえて」を「かえて」に改められた、とのこと。
表現の分かり易さ、語感、更に歌い易さなどから、「かえて」が主流のようですが、わたしは、「そえて」の方が好きです。
「あなたが幸せでありますように。でも、私のことも忘れないでくださいね」。その、でも以下は、言葉にしないで、そっと、「忘れな草」を手渡す、そこに、日本人的なゆかしさを覚えるからです。
「幸せ祈る言葉にかえて」では、「幸せ祈る」が浮いてしまいます。何も言わずに渡す、となると、「私のことを忘れないで」という思いだけが強くアピールされる形になる気がします。「相手の幸せは祈らんのかい」と突っ込みを入れたくなります。
これは、どちらが正しいかの詮索ではなく、個人的な感想に過ぎません。管理人氏の判断にいちゃもん付ける
気は毛頭ありません。(倍賞千恵子が「そえて」と歌ってる映像もありました)
*忘れな草の花言葉にもしも「相手の幸せを祈る」という意味も含まれているとすれば、わたしのコメントは的外れになりますので、その場合は削除お願いします。
長くなって、すみません。
投稿: MAEDA | 2013年1月23日 (水) 06時15分
私がこの歌に投稿したのは3年前でした。美しい青年に恋をした話でした。ずっと心の片隅に彼は青年のまま棲んでいました。会えなくなってから55年が経ちました。それが1週間前パソコンの中に彼がいたのです。多分79歳になっていると思います。きりっとした美しい目がとても優しくなっています。すらりとした姿勢はそのままでした。昔は彼に会うと固まってしまってロクに話も出来なかったので、しみじみと昔話が出来たら本当に嬉しいのにと思います。住所も電話番号もわかってしまったのですが、気持ちに負担が掛かることはやめて置いたほうが無難ですね。
3番の歌詞のようにはいきません。来年の春には勿忘草を咲かせたいと思います。
投稿: ハコベの花 | 2015年9月 2日 (水) 22時30分
木下龍太郎氏は多くのご当地ソングも作詞されているようですね。弦哲也曲で川野夏美が歌う「室戸岬」を聞くと、3番までのフルバージョンの2番目には見慣れた夫婦岩が歌われています。聴きやすい歌で、若い日の失恋の思い出がよみがえります。辛い恋の舞台になるのは北の岬だけではありません!? 遥かなり 室戸の海よ 今日は凪いでか(愚作)
投稿: 樹美 | 2015年9月 3日 (木) 17時05分
ハコベの花さま、
連絡を取ってお会いになってみたらいかがですか、なんてお勧めします。きっと楽しい思い出話ができるでしょうね。お相手の方も喜ばれることでしょう。私は昔住んでいたことのある街が懐かしくなって訪ねてみることがあります。目指す建物は無くなっていて寂しく感じたりもするのですが、それでも通りをぶらぶらと歩きながら若かりし自分がまだ自分の中にいることに気付いて嬉しくなります。
投稿: yoko | 2015年9月 4日 (金) 19時54分
yokoさま 有難うございます。それが出来ればどんなに幸せな事かと思います。彼に出会った時は、彼が防衛大学に入学する前でした。防大にはいったのを知った時、私は愕然としました。あまりのショックに高校3年の時、『徽章』(鳩と桜)という題で小説を書きました。安保反対運動が起こり始めていた時です。高校の文芸誌に発表したものを彼に読ませてしまいました。彼は不愉快だったと思います。大学の休暇には我が家に遊びにはきましたが、私と個人的には話をしませんでした。いつも、じっと見つめるだけでした。他に私を愛してくれた人も出来、そのままの別れとなってしまいました。あと何年の命かと考えた時、彼に会っておきたいと思ったのです。こちらの一方的な思いですから彼にとっては迷惑かも知れません。現在の彼がまだ美しいのが分かっただけでも嬉しい事でした。私は軍隊の行進が大嫌いですから上手くいく訳はないのです。私も汚いお婆さんにならないように頑張って生きたいと思います。
投稿: ハコベの花 | 2015年9月 4日 (金) 22時43分
この歌は多くの歌手に歌われているが
晩年の菅原洋一さんを超える人はいないでしょう。
ユーチューブで彼の歌を聴きながら泣けて泣けて
仕舞には号泣してしまいました。
歌い手の人生と重なって静かに深く胸に染みてくるものです。菅原洋一さんのたった一人のお孫さんは
(18才?だったと記憶)病魔に侵されて若くして旅立たれました。スポーツマンであった由。
その後の 菅原さんの歌に哀切極まりない情感がこもり
一編の小説を読む思いがしたものです。
また、昨今はイケメン偏重の世相ながら菅原洋一さんは
ダンディという言葉の似あう人です。
(確かに私も 福山やデイーン藤岡にときめかないと言えば嘘になります)
彼らに負けない 否 彼ら以上に菅原洋一さんはダンディです。ダンディなおお爺ちゃんを悲しませたお孫さんの無念も偲ばれます。
投稿: りんご | 2017年7月 6日 (木) 13時50分
この歌を聴いていたら高校1年の時に読んだ『アルト ハイデルベルグ』をもう一度読んでみたくなりました。ドイツに行きたかった私には王子とケティがネッカー川でボートに乗ったシーンは夢のような話でした。ただ、私の兄が就職のための身上書の、愛読書が『アルト ハイデルベルグ』と書いてあったのをみて、大学生の愛読書がこの本か情けないと兄を軽蔑しました。生意気盛りでこの兄とは毎日喧嘩をしていました。この兄の友人に恋をしたなんて口が裂けても言えませんでした。けれども町内のお祭りの日に沢山の友人の中から彼だけを招待してくれました。恥ずかしくて彼のコップにビールが上手く注げませんでした。そんな私を彼は優しい目でじっと見つめてくれていました。彼は私には王子さまでした。『アルト ハイデルベルグ』を読んで昔の純情な私に会ってみようと思います。
投稿: ハコベの花 | 2017年7月 6日 (木) 17時05分
いいですねえ・・・。思い出しました、私も高校の校庭でフォークダンスの時、回り回って先輩と手を組んだ時のことを。音楽も聞こえず、空気も止まり、時も止まり世界のなかに二人だけ。あたたかさと静寂だけがありました。
投稿: konoha | 2017年7月 6日 (木) 18時22分
りんごさま
余計なお世話で恐縮ですが「晩年」は主にお亡くなりになった方に用いるのではないでしょうか。辞書にもよりますが。
投稿: hurry | 2017年7月 8日 (土) 00時12分
菅原さんのリサイタルに行ったのはいつだったかな?と思ったりしましたが、そんなことはどうでもいいんです。確かその時にご自分の年齢を言われたので、思わず自分の年齢との差を暗がりで指を折って、見たりしたこと思い出しました。私は40年生まれで、あの方は33年でした。確か現在は83歳か84歳ですが、お元気らしいですね。あのリサイタルの時は、おぐしに白いものがほんの少し目立ったような気も・・・・・リサイタルも最高潮に達したころ、舞台から客席に降りられて、通路際の女性の手をとられたとき、タイミング良く「奥様お手をどうぞ」の演奏が・・・・・狭い場所なのに女性を上手にリードされたこと、忘れられません。
笑顔を絶やさず、優しい口調で話されて楽しいリサイタルでした。当分の間は深夜にyoutubeでひとり楽しむことになりそうです。
投稿: mitsuko | 2017年7月 8日 (土) 02時05分
hurry様
大変勉強になりました。
以下の辞書を参考にすると一般には年老いた人と解釈できるが、基本的には 死亡した人に対しての言葉であって生きている人には 「近年の」「後期の」を使うのが礼儀らしいですね。
一生の終わりの頃の時期。――【三省堂『大辞林』】
一生のおわりの時期。死に近い時期。年老いたとき。――【岩波書店『広辞苑』】
浅学非才の身なればあまり深く考えずに常用してまいりました。
「鳥肌が立つ」なども誤用はなはだしき風潮に我慢ならず
現役の国立大教授と 往復書簡を交わし 敬意を表されたのもつかの間 行き過ぎて 疎遠となった経緯があります。同様に 「刺さる言葉」なども我慢ならないが
過ちを繰り返さないために 見て見ぬふりを決めている昨今です。 又か何誤用がみつかったらご指摘下さい。
mitsuko様
いいお話ですね。
共感のさざ波が胸に満ちて会場に居るような思いになれます。近年の~後期のに関わらず 菅原洋一さんには滲み出る人間としての品格があります。ダンディとは彼のような方をこそいうのですね。私も ユーチューブで夜ごとに聴いております。「奥様お手をどうぞ」を夢みるりんごより
投稿: りんご | 2017年7月 8日 (土) 14時25分
皆様とは 全くことなるところから
火がついてしまいました
ニュースで 内閣改造で 甘利明氏を要職に ---などと漏れ聞こえてきて
何と云う 馬鹿な 内閣
国民を舐めるのも ほどほどにしろ と怒っています 国税庁長官に あの似非官僚をすえたりーーー
では なぜ この曲なのでしょうね
忘れな草をあなたに
よく歌いました 昔は
新地で歌いはじめました まだ ピアノをひいてくれて歌わせてくれる時代でした やまな バロン ピアジェ なつかしい名前です 南にいくと シャノアール
もう ない名前もあるのでしょうか
三宮は 一番記憶にのこっているのは 生田神社西門向いのビル地下一階のお店 宝塚歌劇のギター奏者が バイトできてくれる店 楽譜のないときは 次の機会に きっちり楽譜をそろえて ひいてくれる ここでは 天国に結ぶ恋 ほぼ毎回歌いましたね プロのギター演奏で歌える至福の時間でした
まだそれほど 飲酒運転をうるさく云われないころでした でも 風船をふかされて 葺合警察署まで つれていかれたこともあります
幸運なことに へべれけのトラックの運転手が すぐつれてこられ 彼は白線をまっすぐ歩けず そちらに注意が向き 僕は 警告のみで解放されたこともあります
苦い思い出ですが なつかいしものです
三宮から 歩いて帰ってきた豪傑もいました それも裸足で
歌い始めたころは この曲はほとんど毎回歌っていました 菅原洋一さんの 一番のヒット曲でしょうか
昭和 50年 51年 ごろからでしたか お店にカラオケーー 最初はそうは呼ばなかったのかな??
調べずに書いているから 少々の間違いはあるかもしれません もちろん DVDなどの映像はなし カセットで曲がながれ 歌詞集をめくって歌う
なつかしいですね どこから歌い出せばよいのか 難しいことでした 一曲100円 から始まったのかな??
高い高い やめ!! なんて考える日もありましたね
ほんと その時代によく歌い 心なごんだいい曲でした
そのころは 政治などは 高尚な 素晴しい方々がやるものと思っていましたが そのころも 今も同じなのか
政治を志す人が これほど愚劣とは --
また 最後はここにもどってしまいました
投稿: 能勢の赤ひげ | 2017年7月 8日 (土) 22時38分
今日はじめて皆様の投稿文を読ませてもらいました
私は昭和25年生まれですが、とくに印象的だったのが2008年 吉田さまの修学旅行での思い出話でした。
それは昭和39年、九州でのこと。この「忘れな草をあなたに」をバスガイドさんが高校生の皆さんに歌ってくれ、新しい歌だからと教えてくれたんですね。それで皆で一緒に2時間も歌っていたとか。
今の時代から考えて、素晴らしいと思いますよ。状況はわかります。昔の日本はそうだったんですよね、なにしろ昭和30年代、あの頃のことですから。そしてバスを降りていく高校生の皆さん方に一人一人お辞儀しながら、なんだか泣いていたようだと。 あとで、その年若いガイドさんに皆で手紙を書こう、という話になったんですね。
私より10歳も年長の御方のコメントに、私とて色んな思いが重なり、とても感動的でした。 有難うございました。
投稿: 福田 健治 | 2018年2月13日 (火) 00時27分
暖かくなったら今年も忘れな草が咲いてくれるだろうかと思いながらこの歌を聴いてみました。彼を意識した日から62年が経っています。
うららかな春の日でした。その前から何回も我が家に遊びに来て会っていたのに、その日からなぜか全く違う感情が私の胸に広がったのです。あの日から私の気持ちはそのまま今も私の胸の中にあります。出会えてよかったと思います。戦争が無くてもっと良かったと思っています。勿忘草が咲いてくれたら小さな花瓶に挿してあの日の貴方を懐かしむ日にします。
投稿: ハコベの花 | 2018年2月13日 (火) 23時43分
管理人様
先生の御母上の歌一首掲げられましたが、コンクリートとの対比がいいと思いました。なかなか短歌をつくるのも難しいのだと思いますが、かねてから創作されているのですね。脱帽です。
投稿: 今でも青春 | 2018年4月 5日 (木) 09時14分
思い出の花「忘れな草」というイメージがあります。今日カミサンの実家に行って帰りにわすれな草をもらってきました。今食卓のコップに挿してあります。この名前のいきさつを知っているのは私だけかと思いましたら、カミさんも知っていました。有名な話なのですね。
投稿: 今でも青春 | 2018年4月10日 (火) 18時12分
今、我が家の玄関先に忘すれな草の花が咲いています。優しく可憐に春を告げているように見えます。
この歌を最初に聴いてからもう50年が経ちました。夫に絶望して心がどん底に落ちていた時です。「会いたい」と思う人の事がふっと頭に浮かびました。「そうだ生きていれば逢える日がきっとくるに違いない、いつの日かあの瞳に見つめられる日がくるだろう。それまで生きて居なくては」そう思いながらなんとか夫と折り合いを付けながら生きてきました。青い小さな花が自分を律する心の花になっています。可憐に美しくは無理ですが、絶望を感じさせない様にきちんと生きていようと思います。忘れな草のように春の空より青く美しく!!思いは無限です。
投稿: ハコベの花 | 2019年2月18日 (月) 11時04分
数日前、植木鉢の中に小さな青い勿忘草の花を見つけました。毎年、忘れないで咲いてくれるお蔭で恋心が消えないでいてくれます。小さな青い焔の様な恋心、ただ単純に好きだった人、大学が休暇に入ると汽車を降りたその足で真っすぐ我が家に来てくれた人。見つめるだけで幸せだったあの頃の幸せを、勿忘草が思い出させてくれるのです。今、たった2輪の花に気持ちは16歳になっています。空の青さに負けない様に青く美しく咲いている勿忘草は私の永遠の恋の色です。
投稿: ハコベの花 | 2020年3月 7日 (土) 10時35分
私が20代のころに買った14曲を収録した倍賞千恵子のLPレコードのタイトルは、「ロマンアルバム・忘れな草をあなたに」でした!
そのレコードのA面一曲目に収録されていた「忘れな草をあなたに」倍賞千恵子当時30才の歌声を初めて聴いた時の感激は今でも憶えています。
菅原洋一・鮫島有美子・森昌子・など、これまで数多くの歌手が歌うこの曲を私は何度も聴いてきましたが、やはりこの唄はある意味で歌唱力が絶対不可欠です。
そして、このページで初めて知った『蛇足』に見る有名伝説
>・・・最期の瞬間に、彼は少女に向かって「僕のことを忘れないで」と叫び、急流に飲み込まれました。残された少女は、若者の墓にその花を植え、彼の最期のことばを花の名にしたそうです。
今まで自分が知らなかった上記の一つの伝説を知り得たことで、この歌詞の情景がより鮮明になり、この唄はより私の胸打つものとなっています。
ここで静かに目を閉じて、二木先生が奏でるメロディをじっと聴いていると、純粋無垢で心優しく美しい、そんな少女の愛おしい面影が私のまぶたに浮かんできます。
倍賞千恵子のアルバムには「忘れな草をあなたに」「あざみの歌」「さくら貝の歌」も収録されていますが、その歌唱力は実に素晴らしく、この三曲はまさに抒情歌の中の最高傑作ではないかと私は思っています。
投稿: 芳勝 | 2020年3月 9日 (月) 23時02分
テレビの昭和の歌を紹介する番組で、菅原洋一さんの「忘れな草をあなたに」を聞いていたら、つまらないことに気が付きました。
2番の歌詞「‥ただ泣きぬれて浜辺に摘んだ・・」です。
忘れな草は乾燥や暑さを嫌い浜辺には咲きません。おかしいなと思って居たら、このブログで二木先生の御母堂の短歌を見て膝をうちました。この詞の情景は浜辺ではなく川の岸辺なのです。作詞家にケチをつけるわけではないが、このロマンを秘めた舞台は海浜ではなく山に抱かれた清流のほとりではなかったのかと、思いをはせて歌っています。
投稿: 伊勢の茜雲 | 2021年8月21日 (土) 20時34分
管理人様のお母様が歌われた勿忘草は
きつとキュウリグサと思われます。
興味のある方は掲示板にどうぞ
投稿: りんご | 2021年8月22日 (日) 16時15分
この歌は私の大学時代に発表され、卒業して初めて社会に出た頃もまだ大変良く歌われていました。
就職して、間もなく職場の仲間と一緒に、竹芝桟橋から東海汽船に乗って大島へ行きました。旅の間中、だれかがこの歌を歌っていました。
ブログ・ハーモニカ演奏の伴奏に使わせていただきました。ありがとうございました。
投稿: ゆるりと | 2021年10月 7日 (木) 05時24分
『荒城の月』に関して、
コメント停止の原因をつくり、申し訳ありません。
それぞれが、客観的根拠に基いて意見を出し合えば、
建設的議論となり、この件に関心をお持ちの皆さん
にも、有益な判断材料を提供できるのではないかと
思ったのですが、簡潔に論を まとめることが
出来ませんでした。
解除されたら再挑戦するとして、今回は、
『忘れな草をあなたに』の一番の歌詞、
(ひと頃、話題になった)
「かえて」か「そえて」かについて、
全体の意味から考えて、
「『そえて』でなければならない」説を
述べようと思います。
長くなりましたので次回に。
投稿: 遅れてきた論客 | 2021年11月 4日 (木) 00時06分
急に思い立って「遍路」行ってきました。
情報は一切 遮断して、
「般若心経」のみを唱えて二か月半、
帰ってきたら、
「『そえて』でなければならない」説
を述べる意欲がなくなっていました。
浮世の感覚がもどってきたら、ということに。
投稿: 遅れてきた論客 | 2022年1月18日 (火) 23時43分
ゆるりと様
貴方様と私は同じ時期 忘れな草をあなたに に慣れ親しみ過ごしたのでしょう。私は高校生でした、去って往く人に
この歌詞を色紙に認めて、差し上げたそんな純粋な日々でした。何時か逢える日が来ればその方の前でこの歌を謡いたいと思いながら駆け抜けた高校時代でした。
余り関係ない事ですが竹芝桟橋で育ち今の夫になる人と桟橋を歩き心の中で忘れな草をあなたに、、あなたに、、、と呟き乍ら嫁いで行ったのもこの桟橋近くの家からでした。
忘れな草をあなたには一生 forget-me-not です。
投稿: かずえ | 2022年1月26日 (水) 13時20分
「かえて」か「そえて」か?
一時、ちょっと話題になったこともありましたが、
今では、口の端にのぼることも、ほとんどなくなりました。
いまさら俎上にあげるのも野暮な気もしますが、
両者は一字違うだけで、表現される女性像が
大きく異なります。それで その違いを考えてみようと思うのです。
「かえて」の場合、
何かをすることを止めて、自分の思いを花に託す。
心にもないことは口にしないで、自分の意思、思いだけを行為に移す、
したがって、どちらかといえば、
しっかり自己主張できる、
現代的女性と言えるでしょう。
一方「添えて」は
あくまで自分の意思や思いは、脇役にして、
添えもののように、遠慮がちに、そっと渡す、
ごく目立たない意思表示ですから、
こちらは、自己主張の苦手な、ちょっと古いタイプ
の女性だろうと思います。
ことほどさように、
一字違いで大きく異なる女性像が浮かび上がってきます。
この歌にふさわしいのは
「かえて女性」か「添えて女性」か?
わたしは、「添えて女性」だと思っています。
理由は、はっきりしているので、
またコメントできれば、と思います。
投稿: 論客改メ | 2022年8月21日 (日) 22時55分
50歳前後だったかしら丸亀の土器川の中頃に白樺林の様な林の下に一面に忘れな草が自生群生していました。可愛らしい水色の5弁の花びらの中に黄色の花芯が印象的でした。ドイツの悲話に騎士ドルフが恋人ベルタの為にドナウ河畔に咲く花を摘もうとしたときに足を滑らせて水中に消え命を落とした。その時にドルフが言った「私を忘れないで」と言う言葉をべルタは一生忘れず、この花を髪に飾り続けと言う伝説から来ている。Wevよりこの花を見る度に思います何となく寂しげな花のイメージが伝わってきます。私は忘れな草が大好きです。
投稿: 細川 和代 | 2023年4月 4日 (火) 07時23分
卒業式前の、二人・・・
テーブルには、最後の食事が並べられ・・
四年間の時間を取り戻すかのように、沈黙だけが流れる・・
肩に手を置くと、彼女が、歌いだしのガ、この曲、「忘れな草をあなたに」・・・
それまでに、心に留まるほどでは、なかったのですが、感涙しながら聞いたのを思い出します。
やがて、二人は。北と南に分かれ、再び式当時に目を合わせても、「抱きあう日」とは、なりませんでした(笑)
六畳一間の下宿から見た、東京の茜色の空と、学生生活の懐古が、生んだ、「別れる人と会う人の"さだめ"」だったのでしょう。
歌はいつまでも、語り継がれ、人の心の奥に生きてるんですね。
先生の解説や皆さんの思いの籠ったコメントを、体験と重ねて拝読させて頂きました。ありがとうございました。
投稿: 築地武士 | 2024年10月 4日 (金) 17時41分