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2007年3月 1日 (木)

人の気も知らないで

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:Maurice Aubret、作曲:Guy Zoka
唄:Damia、日本語詞:奥山靉

夜ごと夜ごとに 肌ふれ合って
二人で口づけした
あれは夢だったのか…

人の気も知らないで 涙も見せず
笑って別れられる 心の人だった
涙枯れてもだえる この苦しい片想い
人の気も知らないで つれないあの人

人の気も知らないで 燃えた恋よ
せつなく消してゆくの 私の恋心
胸に残るまなざし あの優しい微笑み
人の気も知らないで 去りゆくあの人

涙枯れてもだえる この苦しい片想い
人の気も知らないで つれないあの人

 Tu Ne Sais Pas Aimer

Ton corps, un soir, s'est donné,
Oui mais ton cœur, tu l'as gardé,       
C'est pourquoi, malgré tous tes sourires,
Mon regret ne cesse de te dire:

Tu ne sais pas aimer, tu ne sais pas,
En vain je tends les bras…
Je cherche une âme au fond de tes grands yeux,
Une âme… et ne vois rien qu'un peu de bleu.
Ta jeunesse ardente,
Qui se moque et chante,
Ne veut retenir que le plaisir!
Tu ne sais pas aimer, tu ne sais pas,
Jamais, jamais tu ne sauras!

Bientôt finit le printemps.
Avec lui, va-t'en donc, va-t'en!
Et qu'un jour, enfin, vois-tu, j'oublie.
Ce rêve n'était qu'une folie…

Tu ne sais pas aimer, tu ne sais pas,
En vain je tends les bras…
En vain j'appelle et voudrais te bercer,
Tu ne songes qu'à de nouveaux baisers.
Ta jeunesse ardente,
Qui se moque et chante,
Ne veut retenir que le plaisir!
Tu ne sais pas aimer, d'ailleurs c'est mieux,
Cela fait trop souffrir… Adieu!

《蛇足》 1931年公開のフランス映画『ソーラ』(日本未公開)の挿入歌

 日本では、昭和13年(1938)に小林千代子と淡谷のり子が歌い、両方ともヒットしました。戦前、日本人に最も愛されたシャンソンです。

 この年、日本は中国大陸で先の見えないまま戦線を拡大しており、国家総動員法が公布され、軍部の横暴が甚だしくなり、日用品不足が深刻化して代用品を使うのが当たり前になり、女優・岡田嘉子と演出家・杉本良吉が樺太国境を越えてソ連に亡命した年でした。
 そんな社会情勢のなかで、不安を抱きながら生きている人びとの心に、この歌のやるせないメロディが静かに染み入ったのでしょう。

 ダミア(Damia)は本名マリー・ルイーズ・ダミアン(Marie-Louise Damien)。シャンソンの歴史に燦然と輝く巨星です。多くのシャンソニエール(女性シャンソン歌手)のなかでも3本の指に入ることを否定する人はいないでしょう。
 しかし栄光は後年のことで、その青春は苦難に満ちていました。

 ダミアは1889年、パリの下町で生まれましたが、一家はまもなく郊外の小さな町リュイユに移ります。父親はこの町の巡査部長をしていましたが、大家族のため家計は苦しく、彼女は小さいときから裁縫店や印刷工場などに奉公に出されました。
 十代の彼女には放浪癖があり、たびたび家出をしたと、ものの本には書かれています。しかし、それは彼女の性格というより、貧しさからくる家庭内の問題に起因していたことは想像に難くありません。

 ロマン・ローランが『ジャン・クリストフ』を発表した1904年、15歳のとき、ダミアは最終的に家を出て、一人暮らしを始めます。
 シャトレ座で端役をもらいますが、すぐに解雇され、日々の食事にも困るようになりました。十代後半の数年間は、盛り場で生きる娼婦たちを見ながら、最底辺の生活を送ったようです。

 18歳のとき、シンガー・ソングライターのロベール・オラール(Robert Hollard)と知り合い、歌を教えられます。そのころ、ロベールはある女性歌手と結婚しましたが、妻のアル中のため、すぐに離婚、ダミアと組んでショウビジネスを始めます。
 ダミアの歌手としてのデビューは1910年ごろで、場所はミュージックホール「ペルピニエール」だったと伝えられていますが、はっきりしません。

 まもなく彼女は、当時のスター歌手、フェリックス・マイヨール(Felix Mayol)に見いだされ、そのコンサートに前座として立つようになります。しかし、収入は細く、歌手としての評価もなかなか上がりません。

 それが変わり始めたのは、アメリカ人の舞踊家ロイ・フラー(Loie Fuller)と知り合ってから。彼の指導で、Vネックの黒ビロードのドレスで歌う独特のスタイルを身につけます。
 やがて、モンパルナスやモンマルトルのミュージックホールで、哀愁に満ちたバラードを泣くがごとく訴えるがごとく歌う彼女は、「歌う悲劇女優」と呼ばれるようになります。

 1927年には、映画女優としてデビュー。アベル・ガンス(Abel Gance)監督の『ナポレオン』で、アントニン・アルトー(Antonin Artaud)、アナベラ(Annabella)といった無声映画時代の大スターたちと共演し、演技力でも注目されました。その後も、何本かの映画に出ます。

 1949年には、プレイエル音楽堂におけるデビュー30周年記念リサイタルで大成功を収め、歌手としての偉大さを多くの人びとの胸に刻みつけました。
 1953年(昭和28年)春には来日して、多くのフランス文化ファン、シャンソンファンに感動を与えました。
 1956年、パリ・オランピア劇場を超満員にして引退公演を行い、40数年に及ぶ歌手生活にピリオドを打ちました。
 1978年、パリ西郊のラ・セルサンクルーで没。享年89歳。パンタン墓地で眠っています。

 代表作は『人の気も知らないで』のほか、『暗い日曜日』『雨』『かもめ』『十字架』など。

 作家岡本かの子は、昭和4年(1929)から3年間、夫岡本一平、息子太郎とともにパリに滞在、その間何度かダミアの歌を聴きに行きました。その際の印象を記した『巴里の唄うたい』のなかの一文は、彼女について書かれたさまざまな文章のなかでも、その歌唱の特質を最も的確に表現したものといってよいでしょう。
 そこで
、その一部を現代かな遣いに変換して紹介します。太字は、原文では傍点付きとなっている部分です。

 うめき出す、というのがダミアの唄い方の本当の感じであろう。そして彼女はうめくべく唄の一句毎の前には必らず鼻と咽喉の間へ「フン」といった自嘲風な力声を突上げる。
「フン」「セ・モン・ジゴロ……」である。
  (中略)
 彼女が唄うところのものはジゴロ、マクロの小意気さである。私窩子(じごく)のやるせない憂さ晴しである。あざれた恋の火傷の痕(あと)である。死と戯れの凄惨である。暗い場末の横町がそこに哀しくなすり出される。燐花のように無気味な青い瓦斯(がす)の洩れ灯が投げられる。凍る深夜の白い息吐(とい)きが――そしてたちまちはげしい自棄の嘆きが荒く飛んで聴衆はほとんど腸を露出するまでに彼女の唄の句切りに切りさいなまれると、其処(そこ)に抉出(けっしゅつ)される人々の心のうづきはうら寂びた巴里の裏街の割栗石(わりぐりいし)の上へ引き廻され、恥かしめられ、おもちゃにされる。だが「幸福」だといって朱い唇でヒステリカルに笑いもする。そして最後はあまくしなやかに唄い和めてくれるのだ。ダミアの唄は嬲(なぶり)殺しと按撫(あんぶ)とを一つにしたようなものなのだ。
 彼女はもちろん巴里の芸人の大立物だ。しかし彼女の芸質がルンペン性を通じて人間を把握しているものだけに彼女の顧客の範囲は割合に狭い。狭いが深い。
 ミスタンゲットを取り去ってもミスタンゲットの顧客は他に慰む手段もあろう。ダミアを取り去るときダミアの顧客に慰む術は無い。同じ意味からいって彼女の芸は巴里の哀れさ寂しさをしみじみ秘めた小さいもろけた小屋ほど適する。ルウロップ館ではまだ晴やかで広すぎる。矢張りモンパルナス裏のしょんぼりした寄席のボビノで聞くべきであろう。これを誤算したフランスの一映画会社が彼女をスターにして大仕掛けのフィルム一巻をこしらえた。しかしダミアはどうにも栄(は)えなかった。

(二木紘三)

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コメント

岡本かの子の文章 お教え頂き有難うございます ダミア本当にすばらしいです 大好きです 日本の金子由香利の再会も 素敵だと思います

投稿: まだ夢見る男 | 2007年3月 4日 (日) 08時05分

こんばんは。ダミアを聴き嬉しくなって又お邪魔してしまいました。あの投げやりな唄い方のなかに、とても可愛い女を感じてしびれました。シャンソンの中でも特に心惹かれ秋になると毎日聴いているほどです。コメントの素晴らしさにまた感じ入りました。
二木さまのブログに刺激され、念願のブログを開くことが出来ましたました。ありがとうございました。

投稿: 出口 洋子 | 2007年3月 4日 (日) 20時31分

この曲は戦時中に覚えて演芸会などで歌ったものでした。何処で覚えたのか解りませんが、他に「奥様お手をどうぞ」(今回は掲載されていません)などを覚えておりますがこれら懐かしく今聞かせていただいております。
また先のブログには有りましたが今回はなくなっている「洒落男」など残念です。
これらの曲を聴いていると心が和みます。

投稿: 小森 義晴 | 2007年8月15日 (水) 15時55分

ダミアについての記事、大変参考になりました!
ちなみにいまダミアについて調べているのですが参考文献がとても少なく、苦労しています。二木さんはどのような資料で調べられたのか、よろしかったら教えていただけないでしょうか?よろしくお願いいたします。

投稿: ぐり | 2008年8月10日 (日) 16時39分

うーん、いいですねえ。
片想いこそ恋の究極の姿だと思います。片思いを歌った歌は多いけど、当時のモダンな感じの残る曲ですが、とても心に響きます。淡谷のり子の歌を聴いていて昭和の歌謡曲だと思っていました。ダミアの歌だったのですね。
さっそく持ち歌にしよう。

投稿: kieros2005 | 2009年3月14日 (土) 12時14分

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