有楽町で逢いましょう
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
1 あなたを待てば雨が降る 2 心に沁みる雨の唄 3 悲しい宵は悲しいよに |
《蛇足》 吉田正には、作詞の佐伯孝夫と組んだ作品が非常に多く、とりわけ昭和30年代前半には、このコンビで、独特の都会的ムードをもったヒット曲を連発しました。
『東京の人 』(昭和31年)、『哀愁の街に霧が降る』(同)、『有楽町で逢いましょう』(昭和32年)、『東京午前三時』(同)、『西銀座駅前』(昭和33年)、『東京ナイトクラブ』(昭和34年)などがその例です。
田舎に住む多くの青少年が、これらの歌によって、大都会・東京への憧れを高めました。
『有楽町で逢いましょう』がリリースされたとき、私は長野の田舎で、ニキビ盛りの中学3年生でした。ラジオから流れてくるフランク永井のささやくような低音を聴きながら、「都会的とはこういうことか」と感動したものです。
都会の若い男たちはみな、ビルのほとりのティールームで、甘いブルースのような雨音を聞きながら、女性と待ち合わせて、デパートに行ったり、シネマを見たりするような生活を送っているのだ、と勝手なイメージをふくらませていました。
喫茶店に行ったことがなかったので、ティールームがどういう場所かよくわからなかったし、東京の雨は、きっと、田舎の雨とは全然違う音がするんだ、とも思っていました。
何年か経って、東京で生活するようになると、そこで暮らす人々の生活が、けっして一様ではないことがわかってきました。
『アンナ・カレーニナ』の冒頭の一文を下手にもじると、「田舎の生活は皆同じように似ているが、都会の生活は、人や家庭により、そのありようを異にしているものだ」ということがわかってきたわけです。
フランク永井(本名:永井清人)は宮城県出身。歌手を目指して上京、トラック運転手などをしながら、進駐軍のクラブでジャズを歌っているうちに、作曲家・吉田正の目にとまり、歌謡曲に転向。この歌を与えられたおかげで、一躍スターダムにのし上がりました。
この歌は、実は老舗デパート「そごう」の集客キャンペーンから生まれたものです。
大阪に本社を置いていた「そごう」が東京に進出するに当たって目をつけたのが有楽町でした。しかし、当時の有楽町は、ここ彼処に焼け跡闇市の名残があり、デパートが目指す高級感とはかけ離れた状態でした。
そこで、同社の宣伝部を率いていた豊原英典が企画したのが、「有楽町高級化キャンペーン」です。彼は、アメリカ映画『ラスヴェガスで逢いましょう』にヒントを得て、「有楽町で逢いましょう」というキャッチフレーズを思いつきました。
さっそく彼は、開局後4年目を迎えたばかりの日本テレビに働きかけて、同社提供による歌謡番組『有楽町で逢いましょう』をスタートさせました。
ねらいはズバリ当たり、「有楽町で逢いましょう」は、たちまち流行語となりました。おかげで、同デパート開店の昭和32年5月25日には、雨にもかかわらず、約30万人が押しかけるという騒動になりました。
上の写真は開店前日の5月24日、朝日新聞夕刊に載った広告です。
この大成功を、マスコミが見逃すはずはありません。
まず平凡出版が芸能誌『平凡』に小説『有楽町で逢いましょう』(宮崎博史作)を連載、それを大映が京マチ子・菅原謙二・川口浩・野添ひとみのオールスター・キャストで映画化を企画、その主題歌としてビクターが佐伯孝夫・吉田正に依頼して『有楽町で逢いましょう』と『夢見る乙女』を制作、そのすべてがヒットしました。
1企業のキャンペーンとしては、商業宣伝史上まれに見る大成功だったといってよいでしょう。
しかし、栄枯盛衰は世の習い、東京都庁の西新宿移転や、経営トップの企業私物化などにより「そごう」は倒産、平成12年(2000)9月24日、フランク永井の『有楽町で逢いましょう』の流れるなか、閉店セールが行われ、東京店44年の歴史に幕を下ろしました。現在は大型電器店になっています。
(二木紘三)
コメント
昭和33年の1月、高校1年だった私は、体育の先生につれられて生まれて初めてのスキーに行きました。兵庫県の神鍋山スキー場でした。民宿での夜、このスキー教室に参加した女の子たちがきれいな声で「有楽町で逢いましょう」を合唱しているのを聴き、胸がときめいたのを覚えています。まるで夢の世界のような感じの歌でした。
中学の時から好きだったあの女の子は来ていませんでしたが。自分の片思いの恋心がなつかしく思い出されます。
投稿: F.S. | 2006年8月14日 (月) 22時28分
幼い頃よりアリサのように 慕ってた節子さんに やっとの思いでデートを お願いし 歌のシチエーションそっくりの
雨の日 そごうでお茶して 帝劇で風の盆恋歌を 生まれて初めて肩を並べて観ました もう一度又逢いたい
投稿: まだ夢見る男 | 2007年3月16日 (金) 23時22分
「あなたを待てば雨が降る」吉田正先生がこの一行をみて
どうしたらこうゆう発想ができるのか?と生前語っておられ
ました。
投稿: M.U | 2008年5月23日 (金) 20時12分
この歌が流行ったころ、長崎市で下宿生活をしていました。
銭湯に、川口浩と野添ひとみが喫茶店でお茶を飲んでいる場面の映画ポスターが貼ってあったのを記憶しています。やっぱり、東京にあこがれました。もはや戦後ではない、と言われはじめたのもこの頃ではないでしょうか。
投稿: 周坊 | 2008年5月24日 (土) 09時51分
フランク永井は唄った歌の8割くらいがヒットしたと思うのですが、低音でただ歌うのでは無く曲に合わせて若干歌い方
を変えておりますね。
投稿: M.U | 2008年9月 1日 (月) 09時25分
M.U.さん、おはようございます。
30日夜の「思い出のメロディー」をご覧になりましたか?
Jeroという黒人の青年が、この曲を歌っていました。先日、美空ひばりの「越後獅子」を歌うのを聴いたときにも感じたのですが、日本語の発音がとてもきれいなのです。サザン以来、変な発音で日本語の歌謡曲が歌われるので、歌詞を聞き取れなくなり、字幕無しには「歌謡曲」も楽しめなくなっておりました。久しぶりに、美しい日本語の歌を聞かせてもらった140分でした。
また、神楽坂うき子が「芸者ワルツ」を歌う姿を見て、50年前は「もっときれいなお姐さん」だったと、ちょっとがっかりしました。
投稿: 巴茶寮 | 2008年9月 1日 (月) 10時24分
〔有楽町で・・・〕が流行ったころ私は18歳でした。フランク・永井の甘い歌声は東北の片田舎の隅々まで占領したことを覚えています。当時は曲も歌詞も歌手もすべて素晴らしかったと最近しみじみ思います。二木先生のサイトでは歌詞の素晴らしさを再認識させられます。
投稿: おキヨ | 2008年9月 1日 (月) 13時37分
巴茶寮様
最近の若い歌手はわざと変な発音でうたう。同感です。テレサ、キム・ヨンジャ日本語が綺麗でした。(です。)ジェロ
には人間の心を捉える何かが欲しい。海雪も売れるでしょう。
投稿: M.U | 2008年9月 1日 (月) 18時05分
吉田正先生は私が勤めた会社が経営している今風で言う高等学校を出ておられます。
投稿: M.U | 2008年9月 5日 (金) 20時55分
巴茶寮様
ジェロにつき日本語が綺麗でしたねと言うメールに的外れ
な事を言ってしまいました。どうしても年代的にフランク・永井の歌声と比較してしまうのです。
投稿: M.U | 2008年9月14日 (日) 14時53分
尾道市公会堂に「フランク永井ショー」が来て、兄夫婦に連れて行ったもらったのは、中学生の頃でした。もちろん初めての歌謡ショーで、ラジオしか知らない田舎少年にとって、それはそれは目を見張るものでした。月日は流れ還暦を迎えた今、八ヶ崎老人クラブでこの曲を演奏することになりました。ピッタリの曲だと思います。
投稿: 裏町ギター | 2008年12月20日 (土) 21時05分
映画「有楽町で逢いましょう」の主題歌には藤本二三代が歌った「夢見る乙女」と言うのもありましたね。
その歌もいい歌でした。
投稿: y.y | 2009年6月15日 (月) 15時12分
藤本二三代の甘い声は今でも耳に焼き付いています。
あれだけの歌が唄えたのに、いつしか芸能界から消えて
しまいましたね。
投稿: 海道 | 2009年6月16日 (火) 07時10分
昭和33年3月13日は、某大学文学部の入試の日でした。試験問題を見て、自分はいったい何を勉強してきたのかと思い知らされました。もうすっかりあきらめて、夕方、友人と有楽町へ遊びにいきました。どこへ行っても「有楽町であいましょう」の歌が聴こえていました。試験はダメでしたが、溢れるような希望に胸が踊っていました。その時出会った人が私の「永遠の人」になろうとは思ってもいませんでした。それから4年間の遠距離恋愛は夢だったように思います。私の都合で別れましたが、合言葉は「有楽町で会いましょう」でした。青春は夢だったように思います。夢の中の彼は永遠に別れた時の22歳のままで生き続けています。有楽町もすっかりかわってしまいました。
投稿: ハコベの花 | 2011年3月 7日 (月) 22時47分
私も現在、管理人様と同様に長野で高校生としての生活を送りつつ、この曲を聞きながら東京への思いを馳せております((
やはり長野には東京のお古の電車やバスがいるものの、東京のような場所があまりないので多少はイメージし辛いのですが、私の中の勝手なイメージで楽しんでおります。
また東京で霧のような雨が降る時に行った際は、都会の雨はこんなにも気持ちがいいものだなぁ…と、思いました。
投稿: 貴ちゃん | 2013年2月14日 (木) 22時03分
あなたを待てば雨が降る
濡れて来ぬかと気にかかる
ああ ビルのほとりのティー・ルーム
「フランク 永井、低音の魅力」と 牧伸二さんが、ウクレレ漫談。ティールームも、喫茶店も まだ何の関わりも無い、ゴジラが ゴッズィラなどと呼ばれてない頃、小学生でした。今夜は、喫茶店を振り返っているうちに 随分、若返りました。勝手なモノローグ、お許しください。
久々に楽しい夜になりました。
有難うございました。。

「喫茶店」の出てくる歌、他にも??
投稿: taka-shiz | 2014年9月 4日 (木) 00時22分
大人の世界、甘い恋のときめきを醸すこの歌は幼心にも
胸に沁みました。当時小学5年生、浪花節や演歌に馴染んだ耳にはとても新鮮でした。東京しかも銀座という遠い世界。都会への憧れの始めが「有楽町で逢いましょう♪」でした。昭和40年代でさえ田舎の老人(私の親の世代)は(関東一円に静岡を加えて)東京と称して憚らない風潮。「俺の娘も東京さいるんだ。東京の神奈川というどごだ」「俺の親戚は東京の静岡ど言う所だ」等々。
長ずるに従ってこの歌の情景が思い浮かび、年の離れた姉の青春を不憫に思うようになりました。同じ姉妹ながら母親似の私とは似ても似つかぬ父親似の美貌に恵まれた13歳上の姉。貧農の長女の故に中学校も1年までと聞いて
いる(教育制度の過渡期であった)。田舎の青年団活動が精々の青春で農家に嫁ぎ、姑にいびられ、81才の今もリアルに語るのには閉口。この姉にも銀座で待ち合わせの青春があったならと「有楽町で逢いましょ」を聴くたびに涙の溢れるりんごなのです。
投稿: りんご | 2015年2月22日 (日) 19時30分
今から約40年前、私は学校を卒業して一年後、やっと浅草の漢方薬会社に入社出来ました。八王子から約2時間かけて通勤しました。その店の・・・チャンを好きになり、田舎者の憧れであった有楽町でデートしました。でも、これが
一期一会のデートになってしまいました。今思うと、これが所詮我が定めだったんだと素直に思います。その後、懐かしい思い出を、たまにカラオケで唄っています。
・・・チャン今もご家族元気かな。
投稿: シゲチャン | 2015年7月29日 (水) 20時52分
自論を書きます。
濡れて来ぬかと は 小糠雨との掛け言葉。気にかかる は木に掛かる(並木に)。
合言葉 は愛言葉でもあり、会い言葉でもある。
あなた はYOU 私 は I
あなたと私の 合言葉 = YOU楽町でIましょう
ほとり もメロディにのるとほっとりと聞こえて、ホットティー と掛けているかもしれません。
投稿: 西 画八 | 2017年7月16日 (日) 21時25分
「有楽町で逢いましょう」は佐伯𠮷田コンビに宮城県大崎市出身フランク永井ときては、定番の組合せでした。なお本曲は「本来三浦洸一の吹き込み予定作だったが𠮷田正の強い希望で永井に回った」(Wikipedia抜粋)そうで、空前のヒットをつかんだフランク永井は強運でした(晩年は気の毒だったですが)。
(参考)日本通運が作業人員7500名・車両延べ2000台を動員した有楽町・毎日新聞東京本社(そごうキャンペーンソング「有楽町で逢いましょう」の本家本元・百貨店「そごう」と道路を挟んで真向い)の引っ越し風景(有楽町から竹橋に社屋移転)。
http://www.youtube.com/watch?v=XAVcm819bko
投稿: 焼酎 | 2018年8月28日 (火) 22時08分
最近知ったのですが、編曲は佐野鋤(さの たすく、1908年(明治41年)12月9日-1996年(平成8年)9月20日)さんだそうです。印象的なイントロも。
投稿: hurry | 2018年8月28日 (火) 22時38分
今日、YouTubeに1958年の大映映画『有楽町で逢いましょう』がupされていたのを見つけましたので、観ました。
タイトルやキャストのクレジットよりも先に、フランク・永井が唄っている映像で始まるという、なかなかしゃれた編集でした。
映画のほうでも『そごう』が製作協力していたようで、心斎橋本店や有楽町店の店内がふんだんに登場します。 川口浩が野添ひとみティールームで待つシーンでは、2番の歌詞に合わせて映像造りをしたりして、結構面白かったですね。
大阪南の場面では、レストランかクラブでしょうか、着物姿の藤本二三代が『夢みる乙女』を唄います。 ストーリーも思ったより良く出来ていて、楽しめました。 京マチ子・34歳、菅原謙二・32歳、二人の台詞廻しがとても面白いです。
ラストで、『有楽町で逢いましょう』の番外歌詞での歌が流れます。
二人の想い ひとすじに
溶けて花咲く 恋ごころ
ああ 呼んでいるいるあの町で
唄いましょうよ しあわせを
胸もときめく
あなたとわたしの合言葉
「有楽町で逢いましょう」
投稿: かせい | 2018年10月29日 (月) 22時38分
1958年(昭和33年)といえば、私が高校を卒業した年です。この映画を観た記憶はありませんが、いきなりノン・クレジットでタキシード姿のフランク・永井が、例の甘くささやくような歌声で ♪♪あなたを待てば 雨が降る~♪♪ と聞かせてから、東京の町並みや雑踏が映し出され、トヨペットクラウンが走り、まさに昭和30年代の懐かしい映像に思わず頬が緩みましたし、画面の中の方々は、みんな若くて生き生きとしてて、思わず自分も青春時代にタイムスリップしたような感じになりました。
「夢見る乙女」 も久しぶりに聞きましたが、よかったです。
3~4ヶ月前だったと思いますが、菅原謙二さんの妹さんが東京でダンス教室をされており、結構たくさんの生徒さんにレッスンされている姿をTVで見ましたが、スタイル抜群、柔軟性抜群、とても80才過ぎとは思えないような美しい方でした。
私も、頑張ろう!
かせい様 懐かしい映画のご紹介 有難うございました。
投稿: あこがれ | 2018年10月30日 (火) 14時44分
'17,7,16投稿の西 画八さまの「掛け言葉」ではないかという指摘、'18,10,29のかせい様の番外歌詞の記述、また、かせい様と'18,10,30のあこがれ様が書かれた藤本二三代の「夢見る乙女」の記述は、私の心に「あぁほんとだ、へ―そういう歌があったのか、おっ懐かしいなあ」という気持ちにさせました。「有楽町で会いましょう」は、あの頃ほんとに都会のしゃれた雰囲気とあこがれを我々に感じさせてくれたと思います。フランク永井のささやく様な甘い低音が一層有楽町でデートするカップルを増やしたと思います。
話は変わりますが二木先生、私も藤本二三代の汚れない歌声が大好きです。「夢みる乙女」でも「好きな人」でも「花の大理石(マーブル)通り」でも良いですが、何か一つ彼女の歌をアップしてもらえないでしょうか。カラオケ3社(DAM,JOY,UGA)のいずれにも彼女の歌はないのです。
投稿: 吟二 | 2018年10月30日 (火) 22時00分
「有楽町で逢いましょう」昭和32年にヒットしたこの曲のタイトルが、当時の大手百貨店『そごう』の宣伝キャンペーンにおけるキャッチフレーズだった事を、私が知ったのは1993年に購入したCDアルバム『精選盤・昭和の流行歌』の別冊解説本でした!
まさにフランク永井の代表曲と云えるこの曲は、ギターの音色が奏でるそのイントロメロディが流れはじめるだけで、私はいつもその魅力に吸い込まれます。そんな作曲家𠮷田正の秀逸のメロディは語るまでもありませんが、それにも増して私が今しみじみ思うのは、神武景気・岩戸景気といわれて戦後復興の活気に溢れていた当時、シネマ・ロードショウ・デパート・ティールーム・など、当時としては時代の最先端を行くような単語を、そして何といっても「有楽町で逢いましょう」という、誰もが思わず囁きたくなってしまうような、この合言葉を取り入れた、作詞家佐伯孝夫の抜群のセンスあるこの唄の詩に、私は著しく光るものを改めて感じます。
「有楽町で逢いましょう」「夜霧に消えたチャコ」「初恋の詩」「霧子のタンゴ」「加茂川ブルース」「おまえに」など、フランク永井の好きな曲を並べたら切がありません。
昭和時代の高度成長期において、低音の魅力で一世を風靡したフランク永井は、私の最も好きな歌手でした。
投稿: 芳勝 | 2022年2月20日 (日) 14時40分