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2007年3月14日 (水)

さくら貝の歌

(C) Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:土屋花情、作曲:八洲秀章

1 美わしきさくら貝ひとつ
  去りゆけるきみに捧げん
  この貝は去年(こぞ)の浜辺に
  われひとりひろいし貝よ

2 ほのぼのとうす紅染むるは
  わが燃ゆるさみし血潮よ
  はろばろと通う香りは
  きみ恋うる胸のさざなみ

  ああ なれど わが思いははかなく
  うつし世の渚に果てぬ

《蛇足》 この歌が作られたのは、昭和14年(1939)秋のことです。

 鎌倉・由比ヶ浜の近くに住む鈴木義光(北海道虻田郡真狩村出身)という青年が、胸を病んで18歳で亡くなった恋人・横山八重子を偲んで、

わが恋のごとく悲しやさくら貝
  片ひらのみのさみしくありて

 という短歌を作りました。
 この歌をモチーフにして、彼の友人で、当時逗子町役場の職員だった土屋花情が作ったのが上の歌詞です。作曲家を目指していた鈴木がこれにメロディーをつけ、名曲『さくら貝の歌』ができあがりました。

 この歌は、その後ほとんど知られませんでしたが、山田耕筰が気に入って、自ら編曲して、昭和24年にNHK「ラジオ歌謡」として放送したところ、問い合わせや楽譜がほしいという要望で電話が鳴りっ放しになったそうです。
 創唱した小川静江は、2010年現在90歳で、元気に歌を歌っているとのことです。

 鈴木はその後、八洲秀章(やしま・ひであき)という筆名で、『山のけむり』『あざみの歌』『チャペルの鐘』『毬藻の歌』など、端正な抒情歌を数多く作りました。
 八洲秀章という名前は、八重子の八とその戒名「誓願院釈秀満大姉」の秀を採ってつけたものだそうです。人名としてはそれほど珍しいものではありませんが、私は、この名前を目にしただけで、リリカルな感情がこみ上げてきます。

(二木紘三)

(2017年2月にmp3を全面的に作り直しました)。

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コメント

二木様  
 初めて書かせていただきます。この歌が、八洲秀章と名乗る前の作品とは知りませんでした。「作曲家を目指していた」時に、既に、大作曲家としての資質を証明していたことになりましょう。
 山国育ちのため、さくら貝の実像を知らずに、賠償千恵子のLPを聞きながら、イメージを膨らましておりました。数十年たった今も、そのイメージは褪せることなく胸に浮かびます。
 小生、歌は不得意なのですが、草笛でこの曲を演奏しております。草笛に言葉はありませんが、演奏のときは、心で言葉を表します。聞くかたは、歌詞を思い浮かべながらお聞きになられるのだと思います。心の波長が共鳴して、「さくら貝」の世界にひたることができます。大好きな歌なのです。    草笛配達人・菅間忠男

投稿: Leafman | 2006年9月13日 (水) 17時39分

初めて参加します。歌声喫茶からお邪魔しました。私は子供の頃からの懐メロファンで、今では老人施設でお年寄りに懐メロをお聞かせしています。カラオケも少なくなり、あってもメロディが入っていないことも多い中、歌声喫茶ではメロディを追える事もあり、大変参考になります。

ところで、こちらの桜貝の歌ですが、私が子供の頃の40年代でしょうか、
「桜貝は海を見てたよ」と言う歌があったように記憶しているのですが、その後全く聞く機会に恵まれません。桜貝と言えば、こちらの歌の方がご本家のようですね。ですが、中々難しいです。
これからも内容の充実を楽しみにしています。
ごきげんよう。

投稿: 33/48 | 2006年9月19日 (火) 17時45分

始めまして、こんばんは~っ♪
此方の懐かしい「歌声喫茶」時代の曲を聴かせて戴いて一人「心豊な時間」を楽しんでいます。
逃れられない青春の思い出、こう云う曲が何時でも聴けるって本当に有り難いです。
宜しくお願いします。
ブログHN=「貝ちゃん」です、本名からの「貝」・・ですがやはり「さくら貝」は素敵ですね。

投稿: 貝ちゃん | 2006年9月28日 (木) 22時31分

笛爺と申します。私は、オリジナルの指笛からヒントを得て、口笛と皆さんに言われる、笛を作りました。この笛を見る人は、大体の人がそれなに?の質問されますその度に此れ、笛なんですよと答えていましたが、今は笛ナンデスで通しています。施設等にボランテアで歌を一緒に歌ってもらっていますが。このサイトのお陰で、歌集の中の曲がわからないときは此処に来て探しては、覚えてのボランテアです。本当に有難うございます。皆さん心待ちにしている懐かしい、歌の数々大変助かっております。

投稿: 笛爺 | 2006年11月15日 (水) 22時22分

「シクラメンのかほり」と並んで歌詞も曲も日本で最も美しい曲だと思います。このような美しい曲はこれから作られることがないのでしょうか。作曲の才能のある人に是非このような美しい曲を作って頂きたいと思っています。

投稿: 山下仁平 | 2007年9月28日 (金) 00時14分

八洲秀章の名曲ですね。何度聞いても名曲です。
聞き終えて、微かに潮騒の音が懐かしく残ります。
二木紘三先生有難う御座いました。

投稿: 波路 | 2007年10月31日 (水) 21時12分

はじめまして 障害者手帳を手にして1年になる 視覚障害者です。
この曲は、私が高校生頃だと思います。透き通った素敵な声の曲を
耳にしたのが最初でした。大好きでした。
修学旅行の時友と桜貝を探しました。ありました。白地に一部分薄紅色の ウスーイ きゃしゃな貝です。家に帰ってから小箱に今で言うカット綿をしき その上にそっと並べ大切にしていました。
懐かしくそのころが 走馬燈のように曲とともに流れました。

投稿: 板倉 | 2007年10月31日 (水) 21時21分

題名からして綺麗です。蛇足などではなく名解説です。これが信州人気質なのでしょう。さくら貝ひとつとは片ひらの貝だと思って歌っていきたい。

投稿: M.U | 2008年5月24日 (土) 16時17分

さくら貝は、アサリやハマグリのように、これがそうだと示されるものがあるのでしょうか。砂浜を歩くときによく片ひらのピンクのそれらしい貝殻を見かけますが、二枚そろったものを見つけたことはありません。
唱歌、抒情歌と歌曲がどう異なるのか詳しくは知りませんが、予断と偏見で言わせてもらうならば、この歌を含め「荒城の月」「初恋」「ふるさとの」「浜辺の歌」「からたちの花」「この道」「城ヶ島の雨」「椰子の実」「夏は来ぬ」「平城山」「砂山(山田耕筰)」「夏の思い出」「雪の降る街を」「長崎の鐘」は歌曲だと思いますがいかがでしょうか。

投稿: 周坊 | 2008年9月 5日 (金) 15時38分

「津軽海峡・冬景色」が教科書に載ったとか載らないとか。
歌曲と歌謡曲の区別が解らなくなっています。大学の声学科で学んだ人達が歌うのが歌曲と思いたいが、あの藤山一郎
も歌謡曲を歌った。

投稿: M.U | 2008年9月16日 (火) 12時02分

二木様の解説に、不覚にも涙しました。
五十数年前 高校時代友人との受験勉強の一息・語らいに、愛唱歌はとの問いかけに「さくら貝の歌」 ホ〜。
軟弱だな〜 と密かに思っていました。
数年前 70才を前にして、彼は自らの命を絶ちました。
そろそろ子育ても終わったし、一緒に気ままな旅をしようと、語らった間もなくのこと。
20年数前に妻を失い、二人の子の成長を見守り、遂に生きる目標を見失ったのでしょうか。
この夏、長野の山 独り歩きで過ごしました。
永らえている自らを還りみて、今更ながら。この歌に不覚を取っています。

投稿: SanPhil | 2008年9月22日 (月) 02時01分

八州秀章先生は八重子嬢に先立たれ、その後も彼女を
想いつずけて生きられたのでしょうか?教えて下さい。

投稿: 海道 | 2009年1月22日 (木) 19時25分

二木紘三様、何時も美しい曲や書き加えられた蛇足を読ませていただき楽しんでいます。ありがとうございます。
最後のコメントの海道さんの質問に関わります。実は私が大学に奉職して間もない頃に、クラスに鈴木君という学生がいて、彼の父親は八洲秀章と彼から聞きました。私も八洲秀章は「さくら貝の歌」等美しいメロデイーの歌を作った作曲家であり、その後の鈴木君の消息も気になっていました。インターネットで八島秀章を辿って行って、劇団四季の俳優沢木順さんが八洲秀章さんのお子さんであることを知り、HPの管理者に問い合わせて鈴木君の消息を知りました。彼は母校(東京の国立大)の教授に就任していました。ご姉妹には、声学を専攻しておられる方(女性)がおられるようです。直接の回答にはなりませんが、参考のために記します。

投稿: 大槻 文夫 | 2009年1月29日 (木) 19時28分

このサイトの素晴らしい所は直ぐ答えを返して戴ける事です。八重子さんは永遠に心の恋人だったと思います。
リリカルな感情ザッツライト。

投稿: 海道 | 2009年1月30日 (金) 08時11分

八洲秀章さんの八重子さんへの淡い思いは、生涯消えることはなかったと思います。
「山のけむり」、「あざみの歌」どのメロデイーにもその淡く切ない想いが込められています。

投稿: 大槻 文夫 | 2009年1月30日 (金) 08時27分

私は「毬藻の歌」が大好きです。他人の妻になると解っていた女性二人を連れ北海道旅行に行った時、阿寒湖
の遊覧船の中で聞いたこの歌が、何時までも頭から離れませんでした。引退して通った温泉施設のカラオケにありました。大会でもこの歌を唄いましたが、女性の歌を
男性が唄っても駄目だと、その道のプロに教えられました。

投稿: 海道 | 2009年1月30日 (金) 09時37分

この歌が作られたのが昭和14年だということに特に打たれます。日本が戦争の真っ只中にあって、兵隊になれない男性は屑のように見なされていたころ、不治の病といわれた胸を病んだ作者はどのような思いで生きていたか・・・同じ病の若い女性を慕い、その人を亡くした時の孤独と絶望・・・それは平時では想像もつかない深さではなかったかと。

投稿: Bianca | 2009年1月30日 (金) 20時43分

久々に好きな曲を楽しみました。まず、「さくら貝の歌」を楽しみましたが、“蛇足”で、作曲者のプロフィールを見て、大好きな「山のけむり」「あざみの歌」と同一の方と知りました。一途な思いが故のその悲しみに心がジーンとすると同時に、歌いながら八洲先生の思いを僅かながらも共有出来たように思いました。

投稿: ゆうさん | 2009年2月13日 (金) 21時02分

このサイトは仕事のじゃまです。
曲を聴き始め、蛇足を読み始めると、やめられなくなり、あっという間に2,3時間経ってしまいます。なんとかしてくれーッ。

投稿: Drunkard | 2009年2月21日 (土) 01時45分

「仕事のじゃま」では無く「仕事がじゃま」なのでは。
先生の解説、皆様のコメント素晴らしいですね。「くちなしの花」の盛り上がりも先生の解説文あっての事だと思います。

投稿: 海道 | 2009年4月 3日 (金) 15時12分

BYWAY後志2008.12号
道の駅販売 定価1050円
八洲秀章「さくら貝の歌」の続編を書いています。
是非、読んでください。下山

投稿: 下山 光雄 | 2009年4月 4日 (土) 10時22分

作曲者八洲秀章さんについて最近知りましたが、名曲の数々を聴くと古い思い出が懐かしくよみがえります。
最近分かりましたが、私が小学生の時に八洲さん主演の教育映画「ドレミハ先生」を観ていました。
その中で歌われた曲のメロディは、今でも忘れません
「忘れやしない忘れるものか、春の初めの城で・・・」や、
「どじょうがもぐってかえるがピョン、なまずがぶくぶか泡ふいて・・・」
が懐かしく、詳しく知りたいと思いインターネットで調べました。作詞者サトウハチローさん、作曲者古関裕而さんとわかりました。
脚本は残っているようですが、まだ、正確な歌詞、曲名、フィルムや楽譜の存在については分かりません。
このまま、失われるようですと、日本の損失と思っております。

投稿: 鈴木昌国 | 2009年6月 4日 (木) 21時03分

鈴木さん、
こんなサイトがありましたよ。
「希望舞台のHPへようこそ」(http://www.kibou-butai.com/
のうち1番下「出会い」という記事。
この記事では「ドレミファ先生」となっていますが、曲名は「ドレミハ先生」が正しいようです。
古関裕而記念館(http://www.kosekiyuji-kinenkan.jp/
には、
「ドレミファ先生」演奏者・歌手 川田孝子、土屋忠一
とありました

投稿: なち | 2009年6月 4日 (木) 21時04分

新潟の鄙びた漁村に、複式3学級の小さな小学校がありました。昭和24年春、その学校に若い男女の先生が赴任して来ました。両先生は登校時も下校時も、ほぼ毎日一緒でした。日ならずして口さがない悪童連中は、「あの先生たちは結婚するんだ」と噂をし合いました。秋風が冷たさを増して来た頃、男の先生は放課後、オルガンで、ある曲を好んで弾くようになりました。わたしが初めて聴く曲でしたが、子ども心に綺麗な、でも悲しい曲だなと思いました。その曲が「さくら貝の歌」だと知ったのは、もっと後のことです。女の先生はわずか1年でお辞めになりました。お二人の間に何があったのかは分かりません。悪童連中は、男の先生が「失恋したんだ」と言うことでは衆議一決しました。この歌を聴くと、寂しげにオルガンを弾いていた男の先生をいつも思い出します。

投稿: ひろし | 2009年6月 4日 (木) 22時23分

なちさんドレミハ先生につき教えて頂きありがとうございます。
さくら貝の歌は学生寮で友人から教わり、毬藻の歌は高校の修学旅行のバス中で歌われ、あざみの歌は好きな友人が多く、思い出の曲です。
八州さん主演の教育映画、「ドレミハ先生」は、戦後間もないころ、文化的に恵まれなかった子どものために作られたそうです。子供たちに音楽を熱心に教えた先生が去った後で、子ども達が城跡に集まって先生を懐かしがって歌うシーンがありました。この先生役に八州さんがぴったりと、脚本・監督の佃血秋さんが喜び、桜の咲く小諸で撮影を進めたそうです。映画は日本各地で上映されたようですが、映画の完成直前に佃さんは病で急逝されたのが惜しまれます。今は、フィルムの所在が不明なのは残念です。現代の子ども達が見ても、新しい感動があると思います。発見されて再上演されることを願っています。

投稿: 鈴木昌国 | 2009年6月 5日 (金) 12時33分

先日、「ドレミハ先生」のフィルムが一部欠落していますが、福岡市で見つかり今月上映会が行われるとの事です。
福岡市立図書館が主催だったと思いますが・・・

投稿: 若狭 | 2010年3月 4日 (木) 11時53分

今から半世紀以上も前、私が高校生の時、天橋立へ旅をした人から桜貝が3個送られてきました。普通の封書だったので2個は割れてしまっていました。薄紅色の可憐な貝でしたが、長い年月の間に失くしてしまいました。会った事はない人でしたが、新聞社の地方の通信員をしている人で、覚えているのは桜貝とダイナマイト自殺者の取材でこれほどひどい現場は無かったと書いてあった事です。海岸へ行くと桜貝を探してみますが、波荒い遠州灘には貝殻さえめったに見る事はありません。ダイナマイトと桜貝、取り合わせは妙ですが、忘れられない思い出です。

投稿: ハコベの花 | 2010年3月19日 (金) 23時59分

いまの若い人たちが、この先、高齢の域に達したとき、八洲秀章氏の世界に共感・共鳴をおぼえることがあるのだろうかと勝手に危惧しています。平均寿命に限りなく迫りつつある林間期の私にとっては無性に「山のけむり」「あざみの歌」「さくら貝の歌」が脳裏を去来します。こんにちは・・・〔ハコベの花〕さん。天橋立のさくら貝は、今となっては心残りですね。立場は違いますが、同じ年頃、琵琶湖を一人船旅したとき、琵琶湖淡水産の真珠一粒を、旅の土産にと、とある人に手渡したことがあります。何日か経ったころ、指輪に仕立てたいといっていたようです。確たる返事もしないまま今に至ってしまいました。このメロディを聴くと自らだけの世界にひたることができます。

投稿: 山口 功 | 2010年3月21日 (日) 11時43分

八州秀章さん主演の映画「ドレミハ先生」を福岡中央図書館で3/6に観てきました。八洲さんの次男でミュージカル俳優、沢木順さんと脚本と監督を担当した佃血秋さんのお嬢さんのトークもありました。エキスストらの子役で出演した方、他にも昔、映画を観た人も来場していました。心温まる映画で、今の子どもたちに見せたいと思いました。11月には鎌倉芸術館でも上演される予定のようです。
私は10歳頃に見たので、筋はほとんど覚えていませんでしたが、2つの主題歌がなつかしかったです。

投稿: 鈴木昌国 | 2010年3月22日 (月) 21時21分

昨日、肝心なことを書き漏らしました
1.鎌倉芸術館で、11月に行われるのは、八州秀章さんの没後25周年を記念した音楽会だそうです。その中で、「ドレミハ先生」も上演されそうとのことです。(若い八洲さんの他、川田孝子なども出演)
2.福岡中央図書館で上映の際、ご子息の沢木さんが歌唱指導をしながら、「さくら貝の歌」、「あざみの歌」他を歌ってくれました。(鎌倉でもまた聴けることを期待)

投稿: 鈴木昌国 | 2010年3月23日 (火) 10時55分

若き八州秀章さん主演映画「ドレミハ先生」上映の情報がありました。

京国立近代美術館 フィルムセンター
開館40周年記念① 発掘された映画たち2010
以下によりますと、

http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2010-5/nittei.html

5/15(土) 1:00pm *トーク・イベントあり
5/25(火) 7:00pm

福岡市総合図書館発掘日本映画(計89分)

義民 富田才治(15分)
ドレミハ先生(43分)
海に生きる人々(31分)

中に載っておりました。

なお、11月5日、鎌倉芸術館の「八洲秀章没後25周年」の行事ではでは映画上映はないようで、別途、鎌倉文学館での上映になるらしいです。

投稿: 鈴木昌国 | 2010年5月11日 (火) 11時35分

「さくら貝の歌コンサート」が「没後25年 八洲秀章を偲ぶ会」の名の下で行われます。
八洲さん主演の映画を子供の時に観た縁で、以下を教えてもらいました。

 9月23日(木)14:00 開演
 けやきホール(古賀政男音楽博物館:全席自由)
 料金3,000円

 出演 沢木 順(八洲さんの息子さん)
「さくら貝の歌」「高原の旅愁」「あざみ歌」「山のけむり」「チャペルの鐘」「マリモの歌」・・・その他

 ゲストが語るエピソード
安藤まり子 歌唱「マリモの歌」
小川静江 初吹き込み「さくら貝の歌」
伊藤美苗 主演映画「ドレミハ先生」(監督の娘さん)
加藤美知子 童謡「一茶と子供」(加藤省吾さんの娘さん)

お問合せ・お申込み
    オフィス・サワキ 0467-44-4401(Tel&Fax)
    松村美和子 042-493-4042(Tel&Fax)


   

投稿: 鈴木昌国 | 2010年8月12日 (木) 20時17分

初めて投稿させていただきます。「八州秀章」で検索していてここに至りました。これほど沢山の曲をご用意下さっていることに深く敬意を表します。メロディだけなので、自分の心のイメージで口ずさむことができます。
実は、このメロディを口ずさみながら、戦後直後に結核で17歳で亡くなった長姉のことを思い出していました。医師から、自宅でゆっくりさせてあげなさい、と勧められて帰って来ました。息を引き取る直前まで意識が鮮明であったと、今は亡き母に聞かされたことを覚えています。
それから、もうひとつ。私は現在は60歳の後半ですが、およそ60年間、ふっと、心に流れてくるメロディがありました。歌詞は正確には覚えていなかったのですが、何かの折りに口ずさんでいるのです。その曲が先日ラジオの深夜放送で流れて来たのには飛び上がるほど驚きました。そのとき、作曲:八州秀章。歌:川田孝子・伊藤久男。曲:一茶と子供 ということを知ったのでした。八州秀章氏の暖かい心がメロディーとなって幼かった私の心に染み込んでいたのですね。 本当に素晴らしいサイトをご提供下さってありがとうございました。

投稿: A.O | 2011年1月21日 (金) 16時02分

一昨27日、徳富蘆花が「自然と人生」「不如帰」などを発表した時に住んでいた住居跡近くの逗子市蘆花記念公園内にある「逗子市郷土資料館」を訪ねしました。
そのとき、館員の方から「さくら貝の歌」の作詞者がNHKとの対談準備資料としてまとめられた手記みたいな資料を、是非見て欲しいといわれ、拝見しました。
その結果、作詞時に逗子の職員であった土屋花情氏が家庭事情での悲恋の辛い思いを「さくら貝の歌」の歌詞にのせたことを初めて知りました。
土屋花情の手書資料の表紙と最初のページには次のように書かれています。

【表紙】
 昭和57年9月26日NHK第一ラジオ放送(am10~11)
 「老後をたのしく」にて、前川アナと対談のための資料
 さくら貝の歌 土屋花情
【第1ページ】
 あらすじ(さくら貝の歌の思い出)
 風光明媚、白砂青松の地、鎌倉、逗子、葉山を背景に、逗子町の一公
 務員と、葉山御用邸を中心とする三浦半島一帯を東洋一の模範健康地
 区設立に意欲を燃やす神奈川県と提携して、その目的達成に邁進する
 東京聖路加病院より派遣され、伝染病の予防や保健衛生の指導に貢献
 された若く美しい公衆衛生看護婦との悲恋を、心血をそそいで、逗子
 海岸で綴ったのが此の「さくら貝の歌」の歌詞であります。
  
郷土資料館を辞してから、逗子海岸の渚橋から浪子不動に向かいました。浪子不動の下の公園には「さくら貝の歌」の歌碑が作詞者・土屋花情として設けられています。
砂浜を歩きながら、「さくら貝」を2つほど拾いました。
「さくら貝の歌」は、NHKラジオ歌謡を通じて覚えた好きな歌でしたが、恥ずかしながら、「さくら貝」を初めて手にしました。

投稿: 中村喜一 | 2011年1月30日 (日) 12時01分

ある教授のブログより
二日前、水曜日のCommunication特講Ⅲという翻訳の授業で、約50名の受講生に、この歌を知っているかと尋ねてみたところ、知っていると答えた学生は1名もいなかった(社会人入学をして来た60歳の女性1名、30代の女性1名も含まれる)。こんなに美しい歌なのに、と思うのはメランコリー人間の証拠であろう。 
 いずれにせよ、今の若い人にはこの種の文語調はきわめて分かりにくいようである。ある人などは、インターネット上で、この歌を振られた男の歌と思い、1番の歌詞を「去年、海で拾ったさくら貝を1つ、ボクの元から去って行った君に捧げる」という意味に解釈した上、「去年拾ったものを今年プレゼントしようと思うのでは振られるのは当たり前だ」というようなコメントまでつけていた。さもありなんと思う。実際にはそうではなく、「去年、この浜辺で拾った美しいさくら貝を、私を残して去って逝った(=死んで行った)君に捧げます」という意味のはずである。学校でもっと文語を勉強しておけばよかったと私なども今になって思う。

投稿: 海道 | 2012年6月21日 (木) 14時56分

 「さくら貝の歌」は歌の由来を知っているかどうかで、味わいが変わってくる歌ですね。亡くなった若き日の恋人の戒名をペンネームに取り入れているとは,八洲秀章さん、あなたはなんという純粋な、そして禁欲的な人なんでしょうね。私はこのサイトを見る今日の今日まで、「さくら貝の歌」が恋人との悲しい「永別」を歌っているとは知らず、単なる「失恋」と思っていました。去年別れた人に、今さくら貝を贈るーー1年間思い続ける、それはちょっと未練がましいんじゃないですか、まあしかしそれだけ純情ということかな、くらいに考えていました。しかし<蛇足>という名の名解説により、この歌の命が新たによみがえったような気がします。もうひとつの「愛と死をみつめて」を発見しました。
 私自身の思い出ですが、高校生の頃、林間学校が行われたのは神戸の摩耶山(まやさん)天井寺(てんじょうじ)です。その山頂で午後のレクレーションの時、この歌を歌いました。山のてっぺんで「さくら貝の歌」も少し変な感じですかね。でも私は、今ベトナムの内陸部に住んでこの歌を聞いてます。歌とはイメージ、ですからどこで聞こうが、歌おうが問題なしですね。二木さんの記事を読んだ今、さくら貝を拾う海のイメージは由比ガ浜になりました、行ったことないですけど、これもイメージでいいでしょう。
最後になりましたが、私も妻を病気で亡くしたので、八洲さんの気持ちの幾分かはわかります。時間とともに傷は癒える、悲しみは薄れるとかいいますが、それはそうじゃない、ウソだと思います。

投稿: 久保 稔 | 2012年8月21日 (火) 15時19分

今年12月由比ガ浜に
「さくら貝の歌」の歌碑が建設されます。

先日行われた、
さくら貝の歌・歌碑建設支援コンサート
八洲秀章「さくら貝の歌」抒情歌を歌う会
で、12月16日が除幕式だと発表されていました。

さくら貝のジュータンと言われるほど、由比ガ浜の海岸には打ち上げられていたそうです。

沢木さんのコンサートでは必ず解説付きで歌われます。

投稿: どんぐり | 2012年10月 2日 (火) 19時54分

 私は『さくら貝の歌・八洲秀章(やしまひであき)の生涯』(北海道真狩村発行)の著者です。執筆中、多くの人を取材しました。印象に残ったのがやはり横山八重子さん関連です。
 歌のモデルになった初恋の人、八重子さんの弟さんが当時札幌に住まわれていて、大切に保管されていた本人の写真や多くの表彰状を見せていただいた。小樽の看護婦時代(小樽市立病院?)のは、もう、結核の病気になっていたらしく、痩せてわずかに死相も感じ、美しい顔立ちはそのままでしたが、長くは生きられないと思っていたのか、脅えたようで、私は八重子さんが不憫になって、それでこの写真は本には使っていません。
 八重子さんは勤勉でとても優秀な看護婦だった。病気は患者さんから感染したのではと聞きました。小樽では、お姉さんの家に下宿していたそうです。
 真狩村の両親のところに帰るのは死が間近になっからで、八重子さんは「死にたくない、死にたくない」と病床で声を押し殺すように泣いていた・・・。もう、関係者はすべて亡くなっていて、これ以上の事はわかりません。

投稿: 下山光雄 | 2014年11月29日 (土) 14時23分

「桜貝のうた」をカバーした曲を、昭和40年代中頃の子供向けのドラマ(ケンちゃんシリーズの類い)で聞いて、凄く印象に残っているのですが、どなたかその番組名を教えて頂けますか?宜しくお願い致します。

投稿: 通天角刈り | 2016年6月18日 (土) 06時48分

この歌の歌碑は神奈川県の逗子市、浪子不動前と鎌倉市、由比ヶ浜海岸の2箇所にあります。どっちが本家かなぁと思っていましたが、二木さんの解説でよく分かりました。鎌倉の歌碑は3年か4年前ですから比較的、新しいです。

投稿: ヤマちゃん | 2016年9月 8日 (木) 15時38分

’14年放映の中井貴一、小泉今日子の「続最後から2番目の恋」(フジ)の再放送を見ました。劇中中井が亡妻が毎朝浜でやっていたさくら貝拾いを訳もわからず続けていましたが、弟が自宅でやっているカフェのメニューの飾りにと思っていたことが判明するくだりがありました。舞台は鎌倉・由比ガ浜です。勿論片貝で色も大きさも様々、家族総出で選別するシーンもありました。脚本家はこの曲にまつわる話を承知していたのでしょうね。

投稿: しょうちゃん | 2016年9月 8日 (木) 20時00分

 出会ったのは、彼女が18歳、私が21歳のときでした。彼女は村役場の電話交換手、私は郵便局の電話交換手をしておりました。
電話の応対や言葉遣いを教えているうちに仲良くなりました。
1年ちょっと経った頃、私が転勤になりなりました。100kmも離れてみると、思いはつのるばかりでした。
当時、電話は官公庁や商店にしかない時代で、通信手段は手紙だけだったので、手紙を書き「さくら貝」や小さな貝殻を同封しました。それから文通がはじまりました。
父は目が見えず、小さいころから貧乏して育った私と、村会議員の父を持ち、みんなに可愛がられて育った彼女とは釣り合わないなぁ・・・と、結婚を言い出せない私。
そのころ、浜辺に行っては「さくらがいの唄」歌ったものでした。新しくなったこの歌を聞くと、当時のことが思い出されて涙ぐむ私です。

投稿: 太田勝朗 | 2017年2月19日 (日) 16時53分

この曲を聴くとき、淋しさがひたひたと胸に打ち寄せます。
実らない恋ほど美しいものはありません。
ましてや初恋ならいわんやをや。
太田様のコメント哀切ですね。
でもその哀切さが胸の中で美しさに変化して晩年の慰めに
心の財産にもなっているのではと、忖度しております。

八洲秀章の悲しくも清潔な調べは心の安定をもたらします。なにか邪な思いが込み上げた時に聴いては心洗われる思いが致します。晩学のピアノ、山のけむり~あざみの歌をマスターして次は「さくら貝の歌」に入ります。歌詞も抒情歌の極致と思っています。

又この場をお借りして
ハコベの花様へ
素敵な思い出ですね。
縁あって昨秋、朝来の雲海の城、竹田城跡に立ちました。山深い静かなところでした。あの地から当時、東京へ大学受験とは。さぞかし名門のお坊ちゃまで、容姿も敦盛の系譜に繋がる公達系と想像いたします。

投稿: りんご | 2017年2月19日 (日) 17時29分

「さくら貝の歌」アレンジを変えたんですね。
前のも悪くはなかったけれども、このニューアレンジはとても素晴らしい。
青春時代の実らなかった恋を思いながらこの曲を聴くと、胸がきゅーんと痛くなります。

投稿: 釣り人コマツ | 2017年2月19日 (日) 17時51分

この 真に鬱々とした世情から逃れたく 珠玉の抒情歌
 さくら貝の歌 を聞き 皆様のコメントを読ませていただいております  

 越村 南さま 書いておられたのですね

 摩耶山のヒュッテのこともーーー

 JRCの合宿 指導者講習会 クラスで利用することもできましたね ーー 卒業してからも JRC関係かな 参加したこともあります
 なつかしいですね  もう 取り壊されて?? なくなっているのですね
 セピア色の写真 山のロザリア KIさん 心が疼いてきます  思い出となって 時間は過ぎていきます
 そのときには なんとなく過ぎ去っていったことが 
  どれほど 大切なものだったのか 

 置き忘れてしまった 宝物  できるなら もう一度
 その瞬間 その瞬間にもどり 考えうる善しと思うすべてのことをやってみたいですね  取り返しのできないこと 多すぎます  

 泣きながら 摩耶山 江井 など 思い出しております

 どれかの曲に こんな日本から逃げ出したいと書きましたが  越村さまは ベトナム在住   この日本の 異常な 偏向報道  異常な政府 政治屋の動きと 日々直面しなくてすむ あなたさまを 強く 羨ましく思っている  今日 このごろです

 りんごさまの アラートに対する 無力感 よーく理解しているつもりです

投稿: 能勢の赤ひげ | 2017年9月 8日 (金) 21時09分

2~3日前、半世紀近くも続いているサークルの仲間の息子さんから 素晴らしい短歌が送られてきました。

風もなく、静かに寄せては返す波 穏やかな春の波打ち際に、可憐なさくら貝が まるで花びらのように散っている、といった情景を見事に、三十一文字の中に歌った叙情溢れる歌で、まるで八洲ワールドそのものでした。

彼は今、38才、かなり重度のアスペルガー症候群。
いつ頃からの発症かも知りませんが、毎日ベッドに寝たきりの生活の中で、すでに300~400首の作品を詠んでいるそうです。

彼の人生の中に、この「さくら貝の歌」を想わせるような過去があったのかもしれない・・・と、切なくなるような気持ちで聞いています。

投稿: あこがれ | 2018年2月 9日 (金) 16時32分


この 清らかな さくら貝の歌 に書かせていただいて

 もう 一年余り -- 早いものです

 世の中が落ち着き 皆で助け合える社会のくることを
 望み 期待していましたが

 全く逆の方向に進んでいます

 取り返しのできないような 法律ばかり拙速につくられ
 移民法 水の民営化 漁業への大手の参入 など
  またまた A の周りにだけ利権 金 をまわし
 どんどん 格差をひろげていく方向に向かっているのです
 五年 十年後には どうなるのでしょうか
 今日のNEWSでもつたえていましたが
  アメリカから巨額の戦闘機を多数買うとのことーー
     何がしたいのか??

 今 フランスでおこっている 反グローバル
  反新自由主義の エネルギーの爆発は 反格差 反移民
  の要素も含みながら 必然の行動と理解しています

 我々 日本人も 遠いEUでのこと と認識するのではなく
 今の 間違った道に向かう 虚偽 虚偽 隠蔽 の政府を 
   どうすれば 国民主権の国にもどせるのか

   冷静に 考えてみたいものです

  そのためには さくら貝の歌 最高のBGMです

投稿: 能勢の赤ひげ | 2018年12月13日 (木) 21時11分

さすがに名曲、コメントもそれなりに多いですね。日本人の心をゆさぶるようなメロディーですよね。

昨日久しぶりにちょっと長いドライブをしていて、その間ずっと倍賞千恵子の C D を聴いておりました。 美しい歌声が続くなか、やはり最も素晴らしいのはこの「さくら貝の歌」だと思います。倍賞千恵子の澄みきった美しい声が、この歌の中で冴えに冴えわたっています。 彼女の歌の巧さは、歌詞にこもる情念をたくみに表現しているところだと思います。この歌でも、さくら貝にこめられた女の情念を高らかにというか、思いっきり歌い上げているように感じられます。
「ああなれど わが思いははかなく 現世の渚に果てぬ」のところの歌唱のすばらしさ、目さえうるんできます。 
彼女はほかの歌でも、春には春の楽しさが、秋には秋の静けさが感じられるように歌われます。 まことに見事な名歌手だと思います。
(ずぶの素人が、プロの名人に対して、歌がお上手ですねというのも、大変に失礼ではありますが)

以前何かの雑誌でしたか、キングレコードの方が、自社の専属にしようと、まだ新人の頃の倍賞千恵子の後を追及していたような話を読んだ記憶があります。 栴檀は二葉より芳し、ということでしょうか。 人の才能を見極めよく生かして世に問う、プロデュース側にも敬意を感じます。

それからもう一つ、倍賞千恵子の日本語の発音のきれいなこと、これも彼女の歌手としての、俳優としての成功を裏付けているように思われます。

「さくら貝の歌」へのコメントのつもりが、歌手への賛辞に変わってしまいました。すみません。

投稿: 田主丸 | 2019年3月14日 (木) 10時30分

 田主丸さんのコメントを拝見して、ああ私と変わらぬお気持ちの人がいたのかと、感動しました。
 私が倍賞千恵子さんのことは「寅さん」の妹役としか思っていなかったころ、たまたまユーチューブで倍賞さんの「さくら貝のうた」を聞いてその歌声にゾクゾクとして体中震えが来たようでした。
 なんてきれいな声だろう、聞き手の心に突き刺さる歌だろうと思ったものです。以来倍賞さんの歌をかたっぱしから鑑賞しました。
 中でも、「惜別の歌」の「あざみの歌」にははまってしまいました。
 

投稿: 伊勢の茜雲 | 2019年7月21日 (日) 11時29分

懐かしい「さくら貝の歌」を聴かせていただいて、この歌が大好きだった亡き母のことを、また思い出してしまいました。
我が母校の校歌の作曲者が八洲秀章だったことぐらいしか知らなかった私でしたが、皆様のコメントを拝読し、今更ながら偉大な音楽家だったことを感じた次第です。

下山光雄様
今初めて下山光雄様の2014年のコメントを読ませていただきました。
そして今年の三月発行の地域タウン誌「BYWAY後志」に、倶知安町ご出身の中野隆司様と下山様監修の「キャッチボールに始まった作曲家との交流」という特集が載り、八洲秀章の戦後間もなくの様子を拝読したばかりでした。

北海道真狩村、羊蹄山ふもとの畑の隅に、八洲秀章の石碑がひっそりとありました。 (交流掲示板)

投稿: すもも | 2019年7月23日 (火) 21時31分

すもも様
この欄に投稿も3度目。「さくら貝の歌」の作曲家、八洲(やしま)秀章は私の母校である真狩小学校の先輩です。曲中の主人公、横山八重子さんも同じです。お二人の同世代の方たちは全て亡くなりました。八洲の自宅も八重子さんの市街地にあった自宅も、とうの昔に取り壊されてます。八重子さんの小学校卒業写真も持ってますが、着物姿、少し大柄でとても美しい顔立ちです。同級生によると、勉強もできて、頑張り屋さんで、卒業後、裁縫教室にも通い、看護婦になってすぐ結核に感染し、18歳で早世するまでの儚い哀しい命でした。

投稿: 下山光雄 | 2020年2月18日 (火) 11時22分

「さくら貝の歌」についての、田主丸様のコメント(’19-3-14)、伊勢の茜雲様のコメント(’19-7-23)を興味深く拝読しました。

私も、最近、倍賞千恵子さんの歌声にはまっておりまして、中でも、「さくら貝の歌」はすばらしく、彼女の優しく美しい歌声は、しっとりと心に響きます。

彼女が歌う歌謡曲では、他にも、戦前の「涙の渡り鳥」(S7)、戦時中の「お使いは自転車に乗って」(S18)、戦後の「星の流れに」(S22)、「別れの磯千鳥」(S27)、「惜別の歌」(S36)、「白いブランコ」(S44)などを、好んで聴いております。

投稿: yasushi | 2020年9月29日 (火) 15時59分

私が初めて購入したLPレコードは倍賞千恵子の「日本の歌」でした。
その冒頭の歌が、この「さくら貝の歌」でした。

当時、東北の田舎の町から京都の大学に進学した私は、帰省のたびに仙台や盛岡に住む友人の下宿やアパートに居候しながら、のんびりと京都に帰ったものです。たまたま、仙台の予備校に通っていた友人のアパートで昼食を食べていた時、NHKの昼の音楽とかいう番組で、倍賞千恵子特集が組まれ、彼女の歌声が流れたのです。その伸びやかで美しい歌声にすっかり魅了された私は、京都へ帰ると、彼女の歌声を何とか、もう一度聴きたいと思い、貧しい財布の中味を何とか工面して安いステレオプレーヤーを購入し、倍賞千恵子のLPを買い求めたのです。心はずむ思いで再生した彼女の歌声にすっかり魅了されたのはもちろんです。

その記念すべき私の第1号のLPアルバムには、「さくら貝の歌」の他に、「忘れな草をあなたに」、「あざみの歌」、「夏の思い出」など、数々の名曲が収められていました。その後、彼女は毎年のように「日本の歌シリーズ」を出していくのですが、それをレコード店で探すのが私のひそかな楽しみでした。

倍賞千恵子と言うと、女優(山田洋次監督の「家族」などの主演女優としての活躍、さらには「男はつらいよ」シリーズの妹さくら役のイメージが強く、歌手としての評価はそれほど高くないようですが、私は彼女を歌手として、また日本の叙情歌の歌い手として高く評価します。特に「さくら貝の歌」は抜群です。

寅さんシリーズの何回目か(多分、十朱幸代がマドンナ役の回)に、歌声の会に参加して歌好きの青年達と一緒に、「私も一緒に歌ってみようかしら」と言いながら、ややオズオズと歌う場面がありましたが、私はこの場面を笑いをこらえながら観ていたものです。

これまで「さくら貝の歌」が作詞作曲された背景など何も知らずに、ただ、いい曲だなと思っていたのですが、今回、この「うた物語」の解説を拝読し、改めて理解を深めることができました。心から感謝申し上げます。

なお、掲示板にでも投稿したほうがいいのかなと思ったのですが、この場を借りて、ついでに付け加えておきます。

「うた物語」ブログのサイト名が duarbo となっていることに今日たまたま気がつきました。推測するに、これは世界共通語と言われているエスペラントから来ているのですね。ちょっと謎解きをすると、

 du=二(数字の2)、arbo=木

 すなわち

 duarbo=二木

と言うことで、管理人の二木さんは 元?エスペランティストだったようですね。

実は私も一時、エスペラントの人類主義精神(ホマラニスモ)に憧れて、熱心に勉強したことがあるのですが(一応、二級認定まで進みましたが……)、そこから先が中々困難で、結局、途中挫折しました。

こんな事は愛読者の方には、今さらながらのことかもしれませんが、何分このサイトの初心者ですので、よく調べもせずに勝手なことを妄想しております。間違っていたら、どうぞお許し下さい。


投稿: 遊心 | 2021年1月 7日 (木) 12時00分

八洲秀章さんの曲は、どれも詩情にあふれていて素敵ですね!
若い頃から、私はどの曲も全部大好きでした。そして今も。
その中でも、「毬藻」とこの「さくら貝」は格別ですね!
八洲さんのメロディーって、人生が持っている本来的な悲しさ・寂しさをも味わい慈しむように歌い上げていて、それが私には堪りませんね!
皆様のコメントは、とても勉強になります。
色々の事をここで知りました。

投稿: 白鳥 絵梨香 | 2021年1月20日 (水) 12時54分

「さくら貝の歌」ここで二木先生のアレンジ力を巧みに駆使した名演奏、その重厚で哀切極まるこのイントロメロディを聴いた瞬間、私はこの曲の世界へと吸い込まれていきます!

2014年11月29日に投稿されておられる
下山光雄氏著書「さくら貝の歌・八洲秀章の生涯」の記事

「・・初恋の人、横山八重子も、同じ結核で、重態との知らせが届く、八洲はいてもたってもいられなくなり、彼女への愛の告白と病気の心配する手紙を送る。しかし、その手紙が着く数時間前に『彼女は八洲の気持ちを知らず』18歳のはかない生涯を終える。・・」

胸を病んで18歳で亡くなった恋人・横山八重子を偲んで、八洲秀章(鈴木義光)が書いた

わが恋のごとく 悲しさやさくら貝

  片ひらのみの さみしくありて・・

八洲秀章・『蛇足』に記された、>わたしはこの名前を目にしただけで、リリカルな感情がこみ上げてきます。

「さくら貝の歌」「毬藻の唄」「あざみの歌」など、八洲秀章の究極とも云えるそんな秀逸のメロディを聴く度に、二木先生の上記お言葉のようなそんな感情が、恐れながら私にも芽生えてきます。

投稿: 芳勝 | 2021年1月22日 (金) 22時03分

時々寂しくなると、この歌を聴いては昔のことを思い出さし、一人涙を流している哀れな老人です。今から六十年以上も前、中学二年生だった私にも人並みに初恋の機会があり、一緒に高校生活が送れるものとワクワクしておりました。しかし、当方は母子家庭、中学を出ると思いとは裏腹に、関東一円をさ迷い続けていました。かたや、彼女は地方の高校から立教大学へ進学したと風の噂。まさに雲上人。毎日の生活に追われる身、とても夢を叶える様な環境ではなく泣く泣く身を引きました。今でも名前だけは忘れる事が出ません。

投稿: 赤城 太郎 | 2021年10月30日 (土) 16時35分

なんと詩情豊かな歌なんでしょう。今の歌詞には、見ることのない、日本語、古語の素晴らしさ・・・読み通すだけで、体験と重ねて、涙が出ます。

"旅たち"の前の足腰丈夫?なうちに、「あした浜辺をさまよ」い、さくら貝を手にし、「昔の人ぞしの]んで参りました。
「風の音よ雲の様よ、寄する波よ 返す波」は変わらねど、いまでも、「「きみ恋うる胸のさざなみ」は、「ああ なれど わが思いははかなく うつし世の渚にはてぬ」でした。

私には、「浜辺の歌」を重ねると、なお心情が増します。

投稿: 築地武士 | 2024年10月13日 (日) 16時38分

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