荒城の月
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:土井晩翠、作曲:瀧廉太郎
1 春高楼の花の宴 2 秋陣営の霜の色 3 いま荒城の夜半の月 4 天上影はかわらねど |
《蛇足》 日本を代表する曲の1つ、というか、日本的な心情・イメージを的確に表現した歌の1つといってよいでしょう。
日本人が外国で生演奏つきのバーなどに入ると、日本の曲を演奏してくれることがあります。そういった場合の定番は、かつては『荒城の月』か『さくらさくら』でした。
坂本九の『スキヤキ(上を向いて歩こう)』が世界的にヒットしてからは、それが演奏されるほうが多くなりましたが、『荒城の月』が演奏されることも、まだよくあるようです。
私の友人がメキシコに行った折、路上楽団の演奏を聞いていたら、日本人と見て『荒城の月』を演奏してくれたそうです。マリアッチ風のやたら陽気でハイテンポな『荒城の月』でしたが、なんとなく嬉しかったと彼は言っていました。
日本の歌のなかでも、これほど強い生命力をもった作品は、そう多くはありません。
『荒城の月』が発表されたのは明治34年(1901)で、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)が同年に発行した音楽教科書『中学唱歌』に掲載されました。
当時、小中学生用の唱歌といえば、外国曲に日本語の詩をつけたものが主流でした。東京音楽学校では、この風潮に一石を投じて日本独特の唱歌を作ろうと企画し、いくつかの詩を提示して、それに合う曲を求めました。
同校に在学中だった瀧廉太郎は、土井晩翠の『荒城の月』『箱根八里』『豊太閤』の3つに曲をつけて応募したところ、3曲とも入選となりました。その英才振りがうかがい知れるエピソードです。
土井晩翠は自分の故郷・仙台の青葉城や、旧制二高時代に訪れた会津若松の鶴ヶ城から詩のイメージを得、滝廉太郎は自分の出身地・大分県竹田の岡城から曲を着想したことはよく知られています。
ところで、今日歌われているメロディは、瀧廉太郎の原曲とは若干違っています。原曲は1聯が8小節で、かなり早いテンポで歌うようになっていました。
それを今日私たちが歌っているヴァージョンに変えたのは、山田耕筰です。彼は、大正7年(1918)に歌曲集を編むに当たって、原曲の音価を倍にし、16小節でゆったり歌うように編曲しました。
また、原曲では「はるこうろうのはなのえん」の「え」の部分に♯がついていますが、現在のメロディではそれが落ちて、半音低く歌われています。
いつ、だれが♯を取ったのかは不明です。前記・山田耕筰の初版本ではまだついていますが、大正13年(1924)発行の楽譜ではなくなっています。
♯なしのほうが日本人のメロディ感覚になじむために、自然にそう歌われるようになっていたのを追認したのではないでしょうか。
土井晩翠は英文学者ですが、漢文学の深い素養に基づいて、男性的で力強い詩を数多く書きました。この詩でも、いくつかむずかしい言葉が使われています。
高楼は高い建物という意味で、天守閣や櫓(やぐら)を示しています。
一番と四番の影は光という意味。月影・星影の影と同じですね。
千代は千年、または長い年月という意味。したがって、千代の松が枝は老松の枝ということになります。
次に、「植うる剣」ですが、私はこれを、気勢を上げるためか勝ちどきを上げるために、白刃を突き上げているさま、あるいは落城した城のあちこちに刀が地面に突き刺さっているさま、と考えていました。
しかし、国語学者・高島俊男さんが『週刊文春』に連載していたエッセイ「お言葉ですが……」を読んで、そう簡単な問題ではないことを悟りました。
「お言葉ですが……」を連載中に、読者から「植うる剣』について質問された彼は、「敵の攻囲のなかで城兵たちの白刃が月光にきらめくさま」といった趣旨の説明をしました。
すると、いやそれは違うとか、こういう説があるといった手紙が続々と寄せられ、それによって彼は「植うる剣」の解釈に実に多くの説があることを知ったと語っています。
そのなかには、珍説奇説のたぐいもあり、しかも、変わった説を主張する人ほど、自説に拘泥し、他の解釈を許容しない度合いが高いようです。
たとえば、前述のエッセイ掲載後、「高島俊男さんの……でたらめな説明にはほとほとあきれました」とか、「……常識が常識でなくなったのを、ただ嘆くのみ」といったふうに、高島説を非難攻撃する手紙がいくつもあったそうです。
碩学高島俊男でさえ罵られるのですから、私のごとき者が何か言うと、バリザンボウの嵐に見舞われかねません。そういったお便りをちょうだいしても、いちいちお答えできませんので、あらかじめ下記にまとめてお返事しておきます。
「おっしゃるとおりでしょう。ご卓説、感服いたしました。勉強になりました」
それはさておき、前記の連載エッセイをまとめた『お言葉ですが…⑥』(文芸春秋社刊)のなかで紹介された諸説のうち、おもなものを挙げてみましょう。
(1)東北地方の城で、城兵が集合して白刃を天に向かって突き上げる早朝行事があった、とものの本にある。
(2)昔の戦いで刀を地面に立てて祈る必勝祈願の儀式があったと聞く。
(3)戦いで刀が刃こぼれした際、すぐに取り替えられるように、あらかじめ抜き身を地面にさしておいた。
(4)落城した城内のここかしこに、主なき剣がに突き刺さっている。
(5)戦死した侍の土まんじゅうに墓標代わりに刀が突き立てられている。
(6)「飢うる剣」の誤記では?
(7)城主から与えられた剣という意味で晩翠が「得うる剣」と書いたのを、出版者が「植うる剣」と誤記したのではないか。
(8)守備のために城壁や陣の周囲に逆さまに植えてある剣。
(9)日本陸軍の歩兵部隊が野営の際などに行った「叉銃」と同じように、抜き身を三角錐状に組み合わせたさま。
(10)一片の雲もない、澄み切った大空の表現。
(11)晩秋の陣営に対峙して切り立った連峰が眼前にある。夜更けていよいよ輝きを増す月は、稜線の近くにあって、冴え冴えとした光を放っている。
(12)天空に突き刺さっている剣のような三日月の比喩表現。
これらの各説を見てみると、まず問題外なのは(6)(7)(9)でしょう。
有名な詩や文章には、ときおり「他者/後人による誤記」説が登場しますが、それが可能性をもつのは、著者の元原稿が存在するか、著者自身または事情をよく知る者が誤記について述べている記録が必要です。そうした証拠がないかぎり、誤記説は単なる想像にすぎません。
「得うる」にいたっては、文語文法上あり得ない表現で、晩翠がそんな表現をするわけがありません。
叉銃説は、着剣した銃を叉銃した光景からの連想でしょう。
叉銃は、行軍途中の休憩や野営時に、銃を3本ずつ三角錐状に組み合わせて立てておくことで、日本陸軍だけでなく、各国の歩兵部隊で行われていました。
その目的は、第一に銃口に土くれやゴミが入るのを防ぐこと、第二に銃剣によるけがを避けることでした。日本陸軍の場合は、さらに天皇陛下からの預かり物をうっかり足蹴にしないようにという目的が加わりました。
武士の刀には、そのようにしなければならない理由がなにもありません。戦闘がないときには、さやに収めておけばすむことです。だいいち、叉銃用の出っ張りがある小銃と違って、つるつる滑る白刃を組み合わせることは非常に困難です。
(8)はかなり支持者が多い説のようです。剣を逆さまに植える防御法をとった事例はあったかもしれませんが、きわめて例外的なケースでしょう。
数百本から数千本の刀を逆茂木代わりに使うほど戦費に余裕があった武将がそうあったとは思えません。本身を使うのがコスト的に合わないから、逆茂木という防御法が考え出されたはずです。
だいいち、抜き身は、数日も経てばさびが出てきて、月光を映し出さなくなります。
(10)と(11)は、いずれもれっきとした国文学者の説なので、批判するのは少々気が引けますが、納得できないので書いておきます。
(10)は磨き上げられた刀身から、昼間の晴天を連想した説。一片の雲もない空だとしても、光る刀身から黒い夜空は連想できません。
そこで、第2聯が昼の光景か夜を描いたものかが問題になりますが、「昔の光」は、他の聯との整合性からいって、当然月の光でしょう。正確にいうと、「昔の武士たちの姿を照らしていたであろう月の光」という意味です。昼の光景では「荒城の月」というタイトルにもそぐいません。
仮に昼の空だとすると、「植うる剣に照りそいし昔の光」は「空を映し出している、あるいは空に反映している昔の光」ということになり、昔の光が何なのかわからなくなります。
(11)は、第2聯が夜の光景であることを前提にして、「植うる剣」は屹立する山の比喩表現であるとする説です。前説より矛盾はありませんが、雲ひとつなく晴れていても、夜の山は黒々と見えるのが普通で、研ぎ澄まされた刀身のように月光を反射するとイメージするのは困難です。雪でも積もっていれば別ですが。
(12)説のように「植うる剣」が三日月の比喩表現だとすると、「植うる剣に照りそいし昔の光」は、「三日月に反映している月の光」ということになり、意味をなしません。
『荒城の月』は、特定の史実・史話に基づいたものではなく、ごく一般的に武家の栄枯盛衰とそれに伴う無常感を描いた詩です。それならば、「植うる剣」も、そのまま素直に「武士たちが振りかざす白刃、あるいは地面に突き刺さった白刃」と考えればよいのではないでしょうか。
わざわざ深読みしてややこしくする理由がわかりません。
上の写真は瀧廉太郎が『荒城の月』の曲想を練ったと伝えられる大分県竹田市(たけたし)の岡城址。
(二木紘三)
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コメント
● 歌詞「はなの《え》ん」の《♯》について
二木先生の《蛇足》では「1924年発行の楽譜ではなくなっています」とのことですが、小生の長崎県厳原町立厳原中学校(1957~60年)では《♯》付きで教わりました。今でも無意識に半音上がってハモります。音楽の長嶋先生が古い楽譜に忠実に教えたのかもしれません。
● 「植うる剣」について
♪ 秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて
♪ 植うる剣に照りそいし 昔の光いまいずこ
小生が瞼を閉じれば下記の情景が脳裏に浮かびます。
凍れる月影夜空に冴えて
白き河原に薄(すすき)が靡(なび)く
鳴きゆく雁の五羽六羽
武士の屍(しかばね)そこかしこ
傍(かたえ)に立ちたる一刃哀(あわ)れ
投稿: ganjii | 2007年4月11日 (水) 02時23分
ひょんなことから「荒城の月」植うる剣に
出会いました また72年目の
初めてのメールです
「植うる剣」ですが 霜柱 のことです
一尺ほどにも成長した霜柱は見事です
写真送りたいのですけど送れないのが残念です
失礼しました ひろし
投稿: 松尾寛 | 2007年4月12日 (木) 08時00分
「花の宴」のエは原譜では♯が付いていたようですね。しかし現在歌われているように、無いほうが自然でしょうか。
「植うる剣」ですが、諸説があることは知りませんでした。実際に地中に刺したのか、あるいは中空に翳したのかわかりませんね。「照りそいし」の「そいし」の意味がまたわかりません^^。白刃が月光に輝いたのか?ですね。
まあ二木さんのおっしゃるように、武家の栄枯盛衰と無情感をイメージして歌えばよろしいかも・・・。
投稿: 三瓶 | 2007年7月20日 (金) 19時29分
>秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて
>植うる剣に照りそいし 昔の光いまいずこ
簡単に問題外とされてしまいましたが
私は「飢うる剣」と思います。
陣営というからには明日出陣かも知れません。
手柄を求めて血に飢えた剣という意味にとっています。
もっとも文法的に「飢える剣」が正しいとは思いますが。
文法的にというと
「雁の数見せて」より「雁の数見えて」のほうが沢山見えるという意味になると思います。
投稿: 辻音楽師 | 2008年1月24日 (木) 12時45分
それからもう一つ
>巡る盃影さして
宴会で回し飲みというのは今風過ぎますから
賞づる(愛ずる)盃では・・・、
ちょっと無理がありますかね。
投稿: 辻音楽師 | 2008年1月24日 (木) 13時31分
辻音楽師 様
(1)「植うる剣」は「飢うる剣」だとのお説ですが、土井晩翠が「植うる」とはっきり漢字で書いていますので(晩翠自筆の歌碑)、あまり根拠のないご主張では……。「ううる」とひらがなで書いてあれば、「血に飢えた剣」ととれなくもありませんが。
(2)「文法的には飢える剣が正しい」とのお考えですが、「飢える」は現代語で、古文では「飢うる」が正しい表記です。
投稿: 管理人 | 2008年1月24日 (木) 18時23分
早速のご返信有難うございました。
実はこの説は高校生の時に読んだ副教科書のようなものに書かれていてずっと気に懸けていたものです。
当然歌詞も歌碑の写真も存じておりました。
それでもなお、歌詞に疑問を感じておりました。
まあ、その疑問を誰かに聞いてもらえただけで嬉しいです。
この件はもう私の中で封印します。
投稿: 辻音楽師 | 2008年1月24日 (木) 23時30分
またも2聯の歌詞の話題で恐縮ですが。
この「秋陣営の霜の色 鳴き行く雁の数見せて」というフレーズは、
かつて上杉謙信が、能登の七尾城を攻め落としたときに作った(とされる)、次の七言絶句の詩を下敷きにしたのではないか、という説があります。
「九月十三夜陣中作」
霜は軍営に満ちて、秋気清し 数行の過雁、月三更
越山併せ得たり、能州の景 さもあらばあれ、家郷遠征を憶ふ
両者を較べてみると、確かによく似ています。そこでこの説を採るとして
「植うる剣に照りそひし むかしの光いまいづこ」というフレーズから、
私が脳裏に浮かべるのは、戦いのあとの祝宴の情景です。なにしろ、上杉謙信という人は大酒呑みだったそうですから。
旧暦の九月十三夜ともなれば、宴も深更におよべば、七尾のこの山城の周囲は霜に覆われます。陣営のそこかしこに煌々と灯された篝火が、美酒に酔う兵士達の顔を照らし出します。そして、傍らの地面に突き刺された刀すなわち植うる剣には、キラリと月が光を照らし添えています。そんな往時の活気にみちた光よ、今はいずこに・・・という解釈は・・・
やはり牽強付会、無理がありますか(笑)。
わざわざ深読みして話をややこしくする必要はない、とのお気持ちもわかりますが、私はこうも考えます。
日本人の「荒城の月」に寄せる想いというのは、あたかも私達が恋人に寄せる気持ちに似たものがある、と。愛すれば愛するほど、ますますその人のことを知りたくなり、理解したくなりませんか。
「植うる剣」や「照りそいし」にこれほどまでに拘泥するのも、ある意味では、いかに私達のこの曲に対する思い入れが深いか、という証しかもしれませんね。
駄弁をお許し下さい。
投稿: くまさん | 2008年1月28日 (月) 13時43分
大分県竹田市在住の観光協会の者です。
岡城にも荒城の月の歌碑があります。
観光客の方に時々『植うる剣の』の意味を聞かれることがありますが、(4)の落城した場内の主なき剣の説を個人的には支持していましたが、諸説あるのだと説明させていただくことにします。勉強になりました。
投稿: | 2008年4月12日 (土) 09時20分
今から30年位前に黛敏郎さん司会の日曜日の番組で、原曲の荒城の月の楽譜を舞台において、実際にどこが違うか説明しながらの歌を聞いたことが、あります。若々しい元気な曲だと思いました。
投稿: 昔の少女 | 2008年5月26日 (月) 21時17分
FM放送がまだ珍しかった昭和42年5月頃、火曜日夜九時からレスピーギ『ローマの松』をオープニングにして、村田武雄氏解説の『トスカニーニ・アワー』というのがありました。その週のゲストに招かれた藤原義江氏の回顧談の一節。・・・戦前、大西洋航路の船内サロンで音楽会があり、何か一曲を求められた藤原氏は荒城の月を歌ったところ、たまたま乗り合わせていたトスカニーニがじっと聞いており、歌い終わった藤原氏につかつかと歩み寄ってきて、『君、その楽譜をくれないか?』と。二部持ち合わせがなかったので、ピアニストに写譜してもらって渡した・・・そんな内容でした。
投稿: 乙女座男 | 2008年5月27日 (火) 23時31分
乙女座男 様
ご紹介のあった「トスカニーニ・アワー」でのこのエピソードは、40年経った今なお、私もハッキリ憶えています!たしか、この「荒城の月」にまつわる話のほか、誰が一番先にトスカニーニのお嬢さんの気を引くことができるか賭けをした、というような話もあったように記憶しています。この放送を聴いたのは私が大学2年のときでしたが、当時はよく友人仲間とトスカニーニ、ワルター、フルトヴェングラーの聴き比べをしたり、ファシズムに対する三人三様の身の処し方について、夜を徹して議論を戦わせたりしたことを懐かしく思い出しています。はからずも今回お文を拝読して、うたた懐旧の思いにたえません。ありがとうございました。
投稿: くまさん | 2008年8月 8日 (金) 22時57分
くまさん様 このところ出張など多忙でご投稿を見るのが遅くなりました。あの番組を、そのシーンを覚えていて下さる方がおられたとは思いませんでした。感激です!トスカニーニのお嬢さんは写真で見る限りでもすばらしい美人ですが、その番組のとき藤原義江氏が続けて『そのお嬢さんだけどね、何と!ピアニストのホロウッツがね、さっさと自分の妻にしてしまってね。みんな地団駄踏んで悔しがったけど後の祭りだよ・・・』と。トスカニーニとムッソリーニの対立が先鋭化したころ、演奏を終えたトスカニーニが楽屋から帰ろうとしたところを暴漢に殴打され、藤原氏はじめ心配した支持者たちが周囲を取り巻く騒然とした雰囲気になったと。戦前、日本で憲兵が幅を利かせていたころ、あれとおなじことでしたよと。トスカニーニはね、この殴打事件の後、あの男の政権が続く限り、自分はイタリアでは演奏しないと宣言して、事実その通りになったよとも。
投稿: 乙女座男 | 2008年9月 1日 (月) 00時17分
お二人のやりとりを拝見しますと、お二人ともほんとに音楽が好きでかつ詳しいのに感心してしまいます。
クラシックには疎い私でも、トスカニーニが世界的に有名な指揮者であることぐらいは知っています。
そのトスカニーニが一度聴いただけで楽譜を欲しがるほどの「荒城の月」を、日本ではどうして教科書から除いてしまうのでしょうか。「上を向いて歩こう」や「昴」も名曲ですが日本人でなくても作れる曲のような気がします。「荒城の月」は、日本人でないと作れない曲だと思います。
投稿: 周坊 | 2008年9月 1日 (月) 21時07分
歌詞が現代っ子には難解すぎるとして、日本の音楽教科書から追放されようとしている一方で、ヨーロッパの一部のカトリック教会ではでは、20年ほど前からこの曲が正式に賛美歌として採用されているそうです。「荒城の月」の旋律を典礼の聖歌に採用したのは、ベルギーにあるシュヴトーニュ修道院のジムネ師という方で、その理由をこう語っています。
「・・・ある作品の美的判断を行うにあたって、その普遍的・宗教的特性を見極めるには、心からの感性に従うだけで充分なときがある。「荒城の月」の音楽的本質を吟味してみると、あたかも偉大な画家のスケッチのように純粋で直截な筆致をたどるようだ。なにより、魂の深い動きと調和している。日本の精神的な繊細さをあらわす優雅な郷愁、あらゆるものを愛で包み込む謙虚さと慎み、それを言葉を用いずとも物語っている。」(以上、大塚野百合著「賛美歌・唱歌とゴスペル」創元社 を参考にさせていただきました)
教育というものは、まず「文化の継承」から出発すべきではないでしょうか。それぞれの国民が大切に守り育んできた固有の素晴らしい文化を、しっかりと受け継ぎ理解して、また次の世代に伝えてゆく。the Tale of Genji同様、「荒城の月」は大切な日本遺産だと思います。
投稿: くまさん | 2008年9月 2日 (火) 16時03分
こんにちは。
私は、この詩は「一般的に武家の栄枯盛衰とそれに伴う無常感を描いた詩」だけとは思いません。
無常の中の常なるものを描いた詩で、「荒城」よりもむしろ晩翠としては最終的には「月」に力点をおいているると思います。
「植うる」の解釈については、「敵の攻囲のなかで城兵たちの白刃が月光にきらめくさま」だけではないのではないかと思いつつ、天と地の間の「剣」の位置づけがいまひとつ私にはわかっていないので、私はいまは保留しています。
投稿: kemukemu | 2008年12月 2日 (火) 21時29分
はじめまして。
最近知ったのですが、中国でも「荒城之月」として知られていて、大体どこのカラオケ屋へ行ってもあるそうです。ということで、中国人の友人に翻訳を訊いて見たのですが、何種類かあるようで、俺が知っているのはこれだよと教えてくれました。
春日高楼明月夜,盛宴在華堂。
杯踪人影相交錯,美酒泛流光。
千年蒼松葉繁茂,弦歌声悠楊。
往昔繁華今安在,故人知何方?
秋日戦場寒霜布,衰草映斜陽。
雁叫声声長空過,暮正雲蒼黄。
雁影剣光相交映,離別断人腸。
良辰美景今何在,回首心悲愴!
やはり中国語ですと一語一音節ですからだいぶ色々と補って訳してありますね。話題になっている「植うる」は訳してありません。やはり意味が分からなかったのかな。
もう一つ、かなり以前のテレビ番組でやっていたのですが、アメリカの某ロックバンドがコンサートの最後に必ずこの曲を演奏するのだそうです。実際にその様子も放映されました。アカペラ(というのかな、楽器の演奏はなし、手拍子だけ)で歌っていまして、ちょっと驚いたのは聴衆も一緒になって haru koh roh no って歌っているのですね。まぁそのバンドのファンに人たちにはもうおなじみなのかも知れません。
投稿: boriron | 2009年3月13日 (金) 21時47分
最近、埼玉県のあちこちの公民館で、60歳以上の人たちによる「童謡・唱歌を歌う会」が作られたり、企画されたりしています。私も、そのひとつに参加していますが、「荒城の月」になると皆さんとても気が入って、上手に聞こえます。特に男性が朗々と楽しそうに歌っていまが、みんなこの歌が好きなんだな、と思います。
昔、われわれ日本人の団体が欧州を旅したとき、バスで移動中に運転手さんが気を利かせて日本の歌を流してくれました。バスの中はいっせいに静かになりました。やはり、心を打ち、望郷の念を感じたのは日本楽器(琴、尺八など)が使われた「荒城の月」や「花」などでした。教科書で後世に伝えたいですね。
投稿: 吟二 | 2009年3月13日 (金) 22時46分
管理人様のメモに陽気なメキシコ男性が歌い出した日本の曲が『荒城の月』だったとか・・・。数年前、私が乗車した東南アジアM国の中央駅からのタクシー運転手(70歳に近い)が、走り出してすぐ私のために歌ってくれたのは『真白き富士の気高さを、こころの強きかてとして・・・』で始まりました。『さくら』か『荒城の月』あたりを予想していた私は、あまりの意外の選曲!に後部座席でひっくり返りました。
投稿: 乙女座男 | 2009年5月18日 (月) 23時43分
素晴らしいうたです。日本語といえば、日常会話よりも荒城の月のような日本語の方が美しくて素晴らしいと思います。ああ、昔の光、今いづこ?
投稿: 時代に後れた者 | 2009年12月 9日 (水) 22時04分
先日、わが国の声楽界の巨匠・中山悌一先生がお亡くなりになりました。声楽を勉強する者にとっては、同先生は神様のような存在です。先月末、弟から同先生の吹き込まれた「荒城の月」が送られてきました。ときどき聴いていますが、素晴らしい曲と声です。
投稿: 三瓶 | 2009年12月11日 (金) 19時51分
こんど田舎の高校のクラス会で卒業45周年の記念に校歌を歌ってCDを作ろうという事になりました。校歌の他に唱歌や童謡、そしてこの歌もぜひ入れたいと計画しています。
「植うる剣」は「立てかけてある槍」の事ではないかと勝手に想像しています。「植うる槍」では字足らずになりますから、あえて「つるぎ」としたのではないでしょうか。古代「つるぎ」は「直剣」でしたから、まあ許されるかな?と思います。
投稿: 木鈴 | 2009年12月12日 (土) 17時10分
いまさらですが、もっと早くに気が付いていればと思います。長文となりますがお許しください。
『植うるつるぎ』の解釈は、2番の歌詞を落城前とするか落城後とするかで大別できると思います。二木氏、くまさん(氏)は文面から明らかに落城前(以下、前派とする)ですし、ganjii 氏は落城後(以下、後派)です。同じものを見て全く逆に感じる論理構成は、ご本人に聞くのが一番確実なのですが、推察してみます。
この歌詞が起承転結の四構成であることには誰も反対しないと思います。
そうしたとき、春の情景で起、秋の情景で承、現実に戻って転、思いの結、と感じる人が前派になります。前派の人は城はまだ落ちていないと考えているわけですから、「白刃が月光にきらめくさま」とか「白刃を天に向かって突き上げているさま」と思うのは当然です。
一方、後派は、栄えの起、滅びの承、何故と考える転、答えを出す結、と感じるのです。つまり、栄えて滅ぶを一連の流れと捉えるので、本人は、起承に不自然さを感じないのです。
かく言う私は ganjii 氏とは少し違うのですが、後派です。どこが違うかと言うと、2番の歌詞の中で明確な時間経過を感じる点です。枕草子では、霜は朝、雁は夕暮です。この違いを時間経過で説明するからです。つまり、2番の始まったときは前派で、終わるときは後派ということです。1番の歌詞では同じ位置にある『めぐる盃』が時間経過を表すと考えています。その点を踏まえ後派の考え方の一例として全編訳してみました。
1番。春、天守閣の完成を祝い、盛大な宴が城内で催されている。やがて月が昇り、老松の枝が月光を部分部分で遮って、まるで木漏れ日のカーテンの様になってきた。あのにぎやかさや幻想的な光景はどこへ行ったのだろう。
2番。秋、戦の緊張が走る朝。しかして、雁がねぐらへ戻る夕暮れには大勢が決する。討ち死にした武士たちの傍には地面に突き刺さった刀。死者を弔うかの様に優しく添い照らす月光。嗚呼かつては栄華を極めた陣営よ。
3番。今はどうかと我に返ってみる。石垣には蔦が生い茂り、松が風に揺さぶられているだけ。月光よ、その変わらない光は誰の為なのだ。
4番。天上を飾る星座や月の輝きは昔と少しも変わらない。しかし、人の世は栄枯盛衰を繰り返してばかりだ。その儚さを見守り続けるとでも言うのか。今、荒れ果てたこの城に、月の光は煌々と降りそそぐ。
私は他の人の考えを否定するつもりはありません。この歌は皆が大切に思っていて、それぞれの思いはその人の物なのだと自覚しているからです。
ただ、前派の人に聞いてみたいのは、もし作者が前派の解釈を持っていたら『かざす剣』とするのではないかと思うのです。その点はどう解釈するのだろうかと言うことです。
繰り返しますが、私は他の人の考えを否定するつもりは全くありません。
それは、否定するのではなく、そんな解釈の仕方もあるのかと、知ることに喜びを見いだす方が、人生はもっと楽しい。そう考えているからです。
その意味でも、ここは楽しい場所です。 感謝 m(__)m
投稿: 浜井 | 2010年3月 5日 (金) 13時38分
浜井様
かざした剣が植わっている(生えている)ように見える、ということです。詩は修辞を使う表現の最たるものですから、動作を直截に表す「かざす」ではなく、「植うる」という修辞表現を使ったのでしょう。
ところで、2番を落城のあと(敗残の戦場)と見る解釈は、秋という季節のイメージにも照応して、まったく無理なく成立すると思います。『お言葉ですが……』で紹介されている(4)と同じ解釈ですね。
「蛇足」では触れていませんが、私はこの解釈に反対しているわけではありません。(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2010年3月 5日 (金) 19時54分
「荒城の月」に寄せられているコメントの多さに驚いています。また、「二木紘三のうた物語」へのアクセスが年間を通して平均で7~8秒に一件であることにも驚嘆しています。歌は、個々人の心の中で想い思いに息づいていて、生きる糧となっていると思っています。ちなみに、荒城の月の一番は信州・松本城の月見櫓、三番は小諸懐古園の馬場の石垣を眼を閉じたわたしの網膜に映し出してくれます。二番がもたらす幻影は、現実には見たこともない古戦場でしょうか。黒澤明監督「七人の侍」のラストシーンの風に吹きさらされた土饅頭に突き刺した刀(墓標)が印象に残っていて、「ううるつるぎにてりそいし、むかしのひかりいまいずこ」に合致します。
投稿: 山口 功 | 2010年3月 6日 (土) 12時14分
管理人様、早速の御返事ありがとうございます。
自説で恐縮ですが、例えば、
『春高楼の花の宴』は、「春に高楼で花見の宴が催された」と訳すことが一般的です。しかし、『高楼で』とすると、後に続く松の幻想的な光景を上からは見るのが難しく、松と同じ高さでないと具合が悪い。そうすると色々考え合わせて
春⇒まず、高楼の⇒天守閣の(完成を祝う)、花の⇒盛大な、宴
とすれば、どこにも矛盾は生じない。(他の人がどう感じるかは別として)
このような直接的な置き換えなら割りと得意です(だからこそ『かざす』とかの言葉が出るのですが)。つまり、
植うる⇒植える⇒地面から生えてる≒地面に刺さっている
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ の発想はできるのですが
かざしている様子⇒地面から育っている⇒植える⇒植うる
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と言った、見立てると言うことが苦手、と言うより出来ないことが未熟なのだと、つくづく思います。
ご教授有難うございました。
投稿: 浜井 | 2010年3月 6日 (土) 20時22分
別の件ですが、連投すみません。
若松城にある土井晩翠自筆の「荒城の月」の句碑を見てみました。
読めない文字がたくさんありましたが、最近『変体仮名』の存在を知ったので、歌詞と比べながら、それに合うように読んでみました。
すると、土井晩翠が一文字一文字に細心の注意を払っていることが分かりました。
それは、韻を踏む部分では同じ文字を使わないように工夫していると言うことです。
1番 むかしの光今いづこ
2番 昔のひかりいま何処
の様に、漢字の部分と平仮名の部分を完全に逆転させているだけではなく、(ネット上では表現できないので)『変体仮名の字母』などで表記しますが
垣尓残る波たヾかづら
松に歌ふは唯あらし
『尓(に)』と『に』、『波(は)』と『は』、『たヾ』と『唯』です。
今なら『高楼の花の宴』となるのを『高楼乃花能宴』とも表記しています。
どれだけ注意深く書いたか計り知れません。
恐らく、昔の人には遊び心にも見えただろうこの句碑も、解説してくれる人がいなくなるとどんどん廃れていってしまうのではないかと心配です。
さて、本題ですが、4番『夜半の月』の『夜』の部分も3番では別の漢字を使用しています。
木偏に免の旁だと思うのですが正確には判読できません。誰か書に詳しい方に教えていただきたいのです。なお、句碑のアドレスは下記です。宜しくお願い致します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Poetic_tablet_of_Moonlit_castle_ruins.jpg
投稿: 浜井 | 2010年3月 6日 (土) 21時30分
40年ほど前の京大の国文の試験に、荒城の月の「冬」を作詞しなさい、と言うような問題が出て、学生たちを慌てさせた・・・と弟が申しておりました。
そのときは、いかにも学問の府「京大」だと感心したことを覚えております。
投稿: コーデリア | 2010年4月22日 (木) 22時31分
今日(4月24日)の10時30分からのNHK教育テレビで放映された音楽の学校(バッハ編3)を初めて見ました。
G線上のアリアを練習していましたが、通奏低音をベースに、他のパートの奏者が即興(自作)で演奏させられていました。解説ではバッハの曲はジャズの雰囲気?とも関係があるとのことでした。コーデリアさんの書き込みによると、40年前の京大の国文の試験で、荒城の月の「冬景色」を作詩せよとの出題だったとか。作詩、作曲の能力を試されたという点では同じでした^^。
投稿: 三瓶 | 2010年4月24日 (土) 11時58分
結局、戦争の唄なんですね
投稿: kochia | 2010年4月26日 (月) 02時09分
浜井 様
書体に詳しいわけでもありませんし、書道にも精通しているわけではありませんが、3、4番の「夜」はいずれも草書体のように思われます。とくに、浜井様ご指摘の3番の「夜」は変体仮名のようにも見えますが、「半」が草書体ですから、「夜」もやはり草書体と見るのが妥当だと思います。草書体は書く人によってかなり字体に特徴が出ますが、同一人が書いてもこれだけの違いが出るのですね。草書体と変体仮名は字体が非常に似通っているところがあり、判読が難しいですね。間違っていましたら、お許しください。
投稿: ひろし | 2010年4月29日 (木) 17時08分
浜井様 ひろし様
3番の「夜」は、草書あるいは行書の1つの書き方で、最初の4画を左に寄せています。書体字典をみると王羲之、空海などもよく似た書を残していますが、第一画は右から左へ筆が入っているのが多いようです。晩翠の書は一画目と二画目が離れているためか、木偏と紛らわしくなっているのではと思います。
なお、「垣に残るは」と「天上影は」の「は」は、「盤」をくずした変体仮名に見えます。
浜井様引用の歌碑は仙台青葉城のものと思います。会津鶴ヶ城、豊後岡城の歌碑も晩翠直筆ですが、表現は少しづつ異なっています。依頼されたときの気分に応じて書かれたのかも知れません。
書には素人ゆえ、的外れならご容赦願います。
投稿: 中井 修 | 2010年5月 1日 (土) 16時54分
ひろし様
連休前に慌しくしていたため返事が遅れ申し訳ありません。
また、貴重なお教えありがとうございます。
私は、木へんの漢字だと思い込んでいたためにそちらの方ばかり調べていて全く分かりませんでした。ひろし様の指摘に改めて図書館で「古文書大字叢」と言う厚さ10cmほどもある辞典を見てみたところなんと、ご指摘の通り、土井晩翠自筆の夜と全く同じ夜のくずし字が2種類ともありました。
中井 修 様
最初、「えっ、そんなはずは・・・。」
確認しました。思い込みによる私の間違いでした。 ご指摘、ありがとうございます。
『歌ふは』の『は』が通常の平仮名だったため、つい、「波」の払いと思い込み正確な確認を怠りました。一度思い込むとなかなか気づかないものです。全く恥かしい限りです。
ここの住人の方々は管理人様をはじめ、謙遜されてはいても、その慧眼には恐縮するばかりです。
本当にありがとうございました。感謝 m(__)m
--------------------
間違いを記述してしまい申し訳ありません。正しくは
垣尓残る盤たヾかづら
『盤』と『は』です。
投稿: 浜井 | 2010年5月 2日 (日) 09時18分
はじめまして。空気を読まずにごめんなさい。
私は
1「春高楼の花の宴~」春には城で観桜の宴を催していたのに
2「秋陣営の霜の色~」秋には戦が始まり日暮れ夜更けての陣営
「植うるつるぎ」のくだりでは黒澤明監督の「七人の侍」で
島田勘兵衛らが張る村の陣営に、抜き身のつるぎが無造作に
幾本(幾振り?)も地面に突き刺してあったのを思い出します。
野武士が襲来するや否やそれを抜き取って戦っていました。
その突き刺したつるぎに月や篝火のひかりが映っている様を想像していました。
戦の折には普通にああいった備えもしていて、それのことだろうと思っておりました。
3、4 戦に敗れ、城は荒れ果て、変わらぬは月の光ばかり
こんな解釈をしておりました。
それにしても、当然のことながら全く経験の無い、身に覚えの無い話なのに
聴く度に、まるで自分がその場その場に佇んで見ていたかのような
錯覚を覚えそうになります。
「うた」のちからに改めて感動しております。いきなり失礼いたしました。
投稿: よう | 2010年6月 1日 (火) 13時11分
先週の大河ドラマ「坂の上の雲」でロシアの女性アリアズナが恋する広瀬中佐との別れに「荒城の月」をピアノで演奏し、彼の恋敵であったボリスが和解した彼のためにバイオリンで合奏しました。その時も「花の宴」の部分ではミに♯がついた原曲で弾いていました。
日本でも♯を取った歌い方が主流ですが、亡くなった立川澄人だけは♯をつけて歌っていました。
作曲者のためにも原曲でMIDIを作っていただきたかった。それは作曲した滝廉太郎のためかとも思います。
私が中学時代はミに♯がついたのが主流だったと思っています。
投稿: 小田継雄 | 2010年12月12日 (日) 12時33分
小田様
「花の宴」の「え」の部分の♯が取られて歌われてい
るというお話。
管理人さんもおっしゃっていますが、私もこの件に
ついては以前より聞いてはいたのですが、深く気に留
めてはいませんでした。
今回小田様のご指摘により、今一度You Tubeで聴
き直しました。
立川澄人(登)さんとそれと「錦織 健」さんの
♯つきを聴くことができました。そう思って聴くせい
かこのほうがとっても深みのある曲に思え思わず「お
気に入りへ」
投稿: fumippe | 2010年12月12日 (日) 14時00分
「花の宴」の#の件ですが、原作に忠実な歌い手は少数派で、半音下がりが多数派です。昨年無くなった故中山悌一先生も多数派でした。故中山先生の現役時代の「冬の旅」と演奏会形式の「カrメン」を拝聴しました。
日本人の歌手では神様のような存在でした。
投稿: 三瓶 | 2010年12月13日 (月) 20時08分
私達は家内の兄弟会でもう10年近くなりますが長距離ドライブで運転を交代しながら行きました。でもしっかりと雨の中、今でも見上げた石垣など瞼に残っております。いつか晴れた時にまた竹田城に行ってみたいと思います
投稿: トクラテス | 2011年3月27日 (日) 14時36分
2010年4月22日投稿のコーデリアさん。「法曹」という雑誌5月号に、40数年前ある大学の入学試験の国語の問題に「荒城の夏又は冬の情景を題材として同じ形式、同じ心情の詩を作りなさい」という問題が出題されて戦意を喪失したという思い出が載ってます。大学は京都、落ちたのは私です。弟さんの話す試験は国文の大学生を対象にしたものではなく受験問題でした。43年後晩翠の故郷仙台でこの詩と再会し、毎朝の目覚まし代わりに流していました。
投稿: ティアラ | 2011年5月12日 (木) 23時31分
二木さまのご解説と皆様のご投稿をいつも感動しながら拝読いたしております。「植うる剣」のことでありますが、2007年に松尾寛様が「霜柱のことだ」と優れた考えを述べられました。それに補足をさせていただきます。この歌は一番が「春高楼の花の宴」で始まって、昔の花の宴を月が照らした様子を歌い、二番が「秋陣営の霜の色」で始まって、昔の陣営の霜を月が照らした様子を歌い、三番四番は、変わる世と変わらぬ月の対比を歌い、起承転結の構成美があります。一番は月と花の話、二番は月と霜の話、という平行性、対称性の構成美があります。ですので、「植うる剣」は、構成美の点から、霜柱ということになると思います。
投稿: 加藤 | 2013年3月30日 (土) 15時25分
「植うる剣」、いろいろなご意見があります。すべて整理して、さあどう考えるかとなれば、尻込みしますが、ごく単純に、わたしは、先の加藤さんの霜柱説のご意見に賛成です。
理由は、この歌は、過去の栄光を失った城のありさまを、今の景色に即して、静かに偲んだものだと思うからです。
松の枝、石垣のかずら、雁、月の光、そして霜柱の叙景です。
「植うる剣」をかつての武士たちの白刃としてしまうと、その2番だけが、映画のシーンのように突出して浮かんできてしっくりこないのです。(武士の声の、ワーワーという空耳までいくとちょと喜劇ですが)。作者はもっと静かな達観した気持ちで、荒れた城を眺めているのではないでしょうか。ゆえに霜柱です。
投稿: 屋形船 | 2013年3月30日 (土) 19時54分
2番第3行の『植うるつるぎ….』に関してですが、1番第3行は『千代の松ヶ枝わけいでし』、3番第3行は『垣に残るは唯かづら』といずれも植物を謳っており、『植うる』ですので私は植物を謳っていると勝手に思っていました。ただ『つるぎ』という植物はありません。蔓木という苗字は存在しますので、蔓の木という意味でしょうか?しかし蔓性植物は木というよりは、蔓草という表現があるように草という方が一般的です。いずれにしても解釈は土井晩翠自身に聞かなければわかりませんね。つまりもう不可能ということになるでしょう。因みに土井晩翠は一般に(どいばんすい)と読まれますが、本人がラジオの番組で自身の詩を朗読した際に(つちいばんすい)と読み、(どいばんすい先生)と紹介したアナウンサーを慌てさせたことがあるそうです。その辺の経緯は長くなりますので、次の機会に譲ります。
投稿: Yoshi | 2013年3月31日 (日) 17時00分
「霜柱」のことで、屋形船さまが私の足りなかったお話をお書きくださりありがとうございました。補足を書かせていただきます。
1番と2番は美しく対応を保って進んで行きます。春と秋(時)、高楼と陣営(所)、花の宴と霜の色(主題)、「影さして」「分けいでし」と「数みせて」「照りそいし」(月の様子)。土井晩翠は詩の形の美しさを大切にして、高い格調、深い味わいを生んだ詩人だと思います。「植うる剣」が霜柱の形容でなかったら、2番の主題である霜が語られなくなり、晩翠が大切にした詩の形の美しさがくずれてしまいます。
もちろん霜柱が剣にたとえられたのは、陣営の霜だからです。1947年に土井晩翠自身が滝廉太郎45年祭で語ったように、戊辰戦争で落城した鶴ヶ城への思いがあったとのことですから、「植うる剣に照りそいし」の「そいし」には、はかなく散る若者の命に月も心を寄せた、という気持ちが込められているかもしれないと思います。
投稿: 加藤 | 2013年4月10日 (水) 01時21分
二木先生
いつも楽しませてもらっています。本当にありがとうございます。管理人様宛てのポストに投函して送信しようとしましたが、何度試みてもうまくいかないので、こちらを利用して、お伝えしようと思いました。
私は今、大分県の別府に住んでおります。毎朝7時には、町のスピーカーから「荒城の月」が流れています。つい口ずさんでしまいます。ところで、
ときどき阿蘇に用があっての帰り道、竹田を車で通りますが、竹田の道路のある区間を通ると、道路に何か仕掛けがしてあって、メロディが流れてくるのです。それは、「花」春のうららの隅田川~です。瀧廉太郎の曲です。竹田のこの道路を通るたびに、メロディに合わせて歌います。先日、このサイトで歌おうとしましたら、見つかりませんでした。どうしたのだろう、何かこの曲を載せられない訳でもあるのかしら、と思い、このメールを送る次第です。何か訳があれば、そのままでかまいませんが、単なる見落としか何かであれば、是非、多くの方々のこの歌にまつわるエピソードなど聞きたいものです。よろしくお願いいたします。
投稿: 上原 | 2014年2月28日 (金) 22時10分
加藤様へ
1年近く経ってからの感想ですが、霜柱説興味深く読ませていただきました。私は「槍ぶすま/剣の林」という句がどこかで読んだらしく頭にあり、陣営の武士達が出陣に振りかざした刀の列の形容と思っておりました。ほかの皆様の諸説、いずれも一理ありそうですが、自分には、今でも最初のイメージが気に入っています。それは、この第2節がくまさん様の引用された上杉謙信 「九月十三夜陣中作」を晩翠が踏まえていることは明かと思われ、勇壮な光景を喚起するからです。
そういう次第で、初めは霜柱説を、それはないだろう、と思ったのでしたが、最近は、これもあるなあ、と感じていました。それは加藤様も注目される「照りそいし」でした。これは、仮にいたわりの気持ちまでは読み取らないとしても、「きらめく」などの表すダイナミックな様子ではなくて、静かな光、おだやかな輝きを思わせる言葉です。そういう意味で、刀よりも霜柱がふさわしいかもしれません。さらに、はかなく消えた若武者の命に寄せる月の心をそこに見る感受性に脱帽します。
投稿: dorule | 2014年3月 5日 (水) 10時26分
すみません。まちがいの訂正です。大分県の別府市の南地区の町のスピーカーから流れる曲は、朝の7時には「さくら、さくら」の歌です。「荒城の月」が流れるのは、夜の9時です。私の思い違いでした。そして、隣の町の日出(ひじ)では、お昼に「花」春のうららの曲が流れるそうです。
他の町々でも、それぞれの曲が流れているのでしょうね。
投稿: 上原 | 2014年3月11日 (火) 12時38分
久しぶりに投稿いたします。
大分県の日出(ひじ)町のお話が出ていましたので一言。
滝廉太郎が少年時代を竹田市で過ごしたということで「荒城の月」は竹田城をイメージして作曲されたというのが定説のようです。ところが日出町ではわが町にある日出城も廉太郎の曲想の一端を占めていたのではないかとPRに力を入れているようです。
日出城は別名暘谷城(ようこくじょう)と云ってなかなか趣のあるお城のようです。
日出藩と廉太郎の関係などは日出町のホームページで詳しくみることができます。
投稿: 周坊 | 2014年8月10日 (日) 16時54分
「花の宴」の「え」の部分の#が話題になっていましたが、ふと思いついて YouTube で探してみたら、アメリカのロックバンド(以前の私のコメントを参照してください)は#をつけて歌っています。ジャズピアニストのセロニアス・モンクは#なしで演奏していますね。
で、もう一つ気が付いたのはロックバンドの方は「わけいでし」のところをレミファファミではなくレミファレミと歌っていました。あきらかに間違いなんですが、これはこれで、なんとなくいいような気がしてしまって、、、
投稿: boriron | 2014年11月14日 (金) 00時47分
いつも楽しく読ませて頂いてます。ピアノ科出の知人からコーラスで荒城の月を歌うにつき楽譜を見たところ歌詞で2つ疑問があると聞いてきました。1つは「ううるつるぎ」の意味でこの欄での管理人さん初め諸兄のご説を伝えました。もう1つは「かわらぬ」で楽譜には「替」の字だと言います。「変」「代」「替」でそれぞれ微妙に歌詞の意味が違うように思い、いろいろ調べて見ましたが、ネットで探した歌碑の写真では大体「変」か平仮名でこの欄記載のとおりでした。ところが「池田小百合・なっとく童謡唱歌」の中に明治34年初出の本のコピーが掲載されており、3・4番とも「替」が使われています。楽譜のコピーもあり信頼できそうなのですが歌詞が変化して伝わることもあるのでしょうか。なお、岩波文庫日本唱歌集(2001年)も「替」を使っているようです。
投稿: しょうちゃん | 2016年7月13日 (水) 07時15分
カミさんの行っているコーラスでこの歌を練習したと聞いていたので、その話はなかったか聞きました。
「ううる剣」は私が負け戦で武士が突き刺した剣と言ったらそんなはずはないと意見が分かれました。異見の多い箇所のようです。管理者の方の意見に添いたいと思います。
「かわる」は「替わる」の方が3,4番とも歌詞に載っていました。元版はどこか聞いていません。
投稿: 今でも青春 | 2016年7月13日 (水) 17時52分
土井晩翠の姓が「どい」でなく正式な読み方「つちい」は、地元仙台では知られた話です。三橋美智也『古城』と同様、人それぞれに「荒城」あり「古城」ありです。昭和30年代、地元デパート(丸光)ではオルゴール音楽『荒城の月』を屋上から毎日朝昼夕と流してました。仙台市民の時報代わりでした。
なお、全くの蛇足ながら、土井(つちい)とともに若生(わこう)は仙台近辺に多い苗字で、プロ野球選手が多数出ています(元大毎の若生智男、元西鉄の若生忠男、元大洋の若生照元、元中日の若生和也、ダルビッシュを育成した元東北高監督の若生正廣は若生智男の実弟)。
投稿: 焼酎百代 | 2017年2月25日 (土) 19時28分
「植うる剣」の解釈ですが、荒城の月の最後の4番に「栄枯」とあります。栄枯盛衰を謡ったものとここで訴えています。従って、1番は築城や勝利の栄えを、2番は「秋」「霜」「鳴く」の語にあるように枯れを詩っています。つまり敗戦、あるいは勝利しても多数の犠牲は不可避。その剣は地面に突き立てたり折れたり、そこに差す月光を想像すれば、喜びと悲哀に充ちた会津若松城の歌が名曲と相まって深みを増します。
投稿: aruma | 2020年1月27日 (月) 20時48分
『雨月物語』に
「杖を植む」の一文を発見。 とどむ。のふりがな あり。
滞在する の意味らしい。
辞書を繙くと「植」に、とどめる の読みはありませんが、
木を植えるようにまっすぐ立てる。
まっすぐたてておく。
などの意味があります。
したがって、滞在することを 「杖」を使って表すなら、
「留む」より「植む」の字を当てたほうが、当時としては、
分かりやすかったのかもしれません。
翻って、「植うる剣」を考える場合、上記の意味を当てはめて そのまま単純に 理解しても良いように思います。
場面は城中 月の夜 植うる剣
それだけで、歴史小説ファンなら その場の情景を
ありありと思い浮かべることができるでしょう。
投稿: 遅れてきた論客 | 2020年4月11日 (土) 20時21分
日本人なら 最も多く聞くメロディかもしれない
最近は わびさびすさび さん作成の
倍賞千恵子さん歌唱 荒城の月
にはまっている
音もよく 絵もいい
満月に照らし出される 城郭 (天守閣だろう)
日本人には すっと 心に落ちる
しかし 仙台城 岡城 は??? である
仙台には 天守は造られず
岡城の 天守は火災で焼失
折角の作品 城の名を つけなければーー
と 残念でならない
最後に 九戸城址にかかる 月
これは 複合写真であっても素晴らしい
などと 余計なことを考えつつ
二木先生の 荒城の月 にたどり着いた
引導は また倍賞千恵子さんである
優しい きれいな声
この方の 自然流な生き方 素晴らしい
見習いたいものだ
ジーンさまが あざみの歌 で語られた倍賞さんの
シーンは 残念ながら 知らない
出くわせていたら 同じような感動を得られただろう
この 先生の 荒城の月 には
数多の方の投稿がみられる
どの城が モデルか
植うる剣 論争
興味深い コメントが続いている
遅れてきた論客 さまも 素晴らしい
名前からしても 言い得て妙である
座布団 5枚 と 馬顔の前 円楽師匠が 云われそうなーー
感傷的な 日々 美術 音楽 に支えられ
乗り切りたいものだ
僕の頭にある 月 と 城 は
山中鹿之助が
願わくば 我に七難八苦を与えたまえ と三日月に祈った逸話 と
鹿之助の最後に守った城 上月城
を合わせて 月 と 城 である
尼子復興に立ち上がり 獅子奮迅の活躍をした 鹿之助
僕の心の英雄である
一度 上月城から 三日月を眺めてみたかったが
これも 夢となってしまった かな
投稿: 能勢の赤ひげ | 2020年6月 2日 (火) 21時24分
「荒城の月」に寄せられているコメントの多さ(53件)と{植うる剣}への関心の高さ{15件}に驚いています。ちなみに、荒城の月への初投稿から10年の歳月がたちました。荒城の月の一番は信州・松本城の月見櫓、三番は小諸懐古園の馬場の石垣を眼を閉じたわたしの網膜にいまも映し出してくれます。二番の{植うる剣}、黒澤明監督だったらなんとおっしゃるでしょうか?「七人の侍」のラストシーンの風に吹きさらされた土饅頭に突き刺した刀(墓標)が印象的です。遠く離れた戦場で命を落とした多くの雑兵たちの亡き骸は家族のもとに帰ることもなく陣営の土となった・・・「ううるつるぎにてりそいし、むかしのひかりいまいずこ」に符合してやみません。
投稿: 亜浪沙(山口功) | 2020年6月 5日 (金) 12時54分
荒城の月の「植うるつるぎ」に関して、何人かのコメントを読ませていただきつい引き込まれてしまいました。
私も私見を述べさせていただきます。
1番の松、3番の桂からみて、「つるぎ」は植物であるべきです。決して「剣」などの物騒なものではないと思います。「つるぎ」は「蔓木」で大木に絡んだ植物と思います。この方が静寂なムードにピッタリではないでしょうか。いろいろなご意見を聞かせてください。
投稿: 伊勢の茜雲 | 2020年6月 5日 (金) 16時37分
伊勢の茜雲様の説には目からウロコです。3番のかづらはつたの一種ですね。子供のころ母と祖母が畑にかづらが侵食して悩まされていたことが思い出されます。
2番の”ううるつるぎ”をグーグルで検索してみました。
「ううるつるぎとは何か」という質問に対して、「植うるつるぎ」と書くようです、との解答でした。つるぎ(つる木)とはかづらのことではないでしょうか?
そこで「植うるつる木」を「生うるかづら」と考えてみたらいかがでしょうか?古城の石垣あるいは松の古木に巻き付いたかづらに霜が降り、鳴きゆく雁が薄っすらと照らされている情景が浮かびます。
投稿: yoko | 2020年6月 6日 (土) 00時16分
「荒城の月」どこかに厳かさと格調の高さを感じさせるこの曲から私が想像する荒城は、あの戊申戦争で落城した会津若松の鶴ヶ城の姿です!
改めてこのページに皆さまから寄せられたコメントを拝読しましたが、そんな中に2007年4月12日に松尾寛様の簡素なコメントに目が留まりました。
>「植うるつるぎ」ですが霜柱のことです。一尺ほどにも成長した霜柱は見事です。とありましたが、実は私もそのように思っている一人です。
季節・夜・月・そして「植うるつるぎに照りそいし」この歌詞から、何の根拠もありませんがただ単純に私にはそのように感じられます。
この唄で想い出すのは、小学6年生の時の学芸会で、新任の音楽担当だったM先生のご推薦で「荒城の月」この唄を私は独唱することになりました。学級委員のTさんが指揮台に立ちYさんのピアノに合わせて私は歌いました。クラス仲間たちはコーラスをしてくれました。会場の講堂には約600人の生徒たちがいたので、私は極度に緊張しました。
学芸会の日が迫ると、放課後の音楽室で何度も何度もM先生に私たちは指導して頂いたことを憶えています。
そして、ミミラシドシラ ファファミレミ・・・このフレーズだけは何年たっても忘れられません。
投稿: 芳勝 | 2020年6月 6日 (土) 15時46分
芳勝様が言及しておられる 2007 年の松尾様の「霜柱」説に私も感銘を受け、2013 年に加藤の名で投稿いたしました。同じようなことを二度書くのは恐縮ですが、一番が「春高楼の花の宴」で始まって花の宴を照らす月の話になり、二番が「秋陣営の霜の色」で始まって霜を照らす月の話になる、二番では月は、天では雁を照らして雁の数を見せ、地では霜柱を照らして(陣営ですから)つるぎのように光らせる。と見るのが、対照美、様式美にかなうと思いますし、また、「植うるつるぎ」がそこで突然登場したと見るよりは、その前の霜を受けていると見る方が、詩の緊密性が増すと思います。
投稿: kazu | 2020年6月 6日 (土) 23時01分
皆様のご意見を拝読して理解も少し深まったと感じています。ありがとうございます。
1番は春高楼で始まり、2番は霜の色とありますので、後の栄枯盛衰に繋がりますね。そこで2番は落城の様子を思い描いていると思えます。
2番の”鳴きゆく雁の数見せて”は、たくさんの敗れた兵が去ってゆく様子を描いているのではないかと感じました。
”植うる剣”とは”敗走した兵が残した剣”、”倒れた兵とともに残されている剣”でよいのではないかと感じました。
1番の主たる幻影は春高楼ではなく花の宴。2番の主たる幻影は霜の色ではなく落城した陣営と思えますので、残されたたくさんの剣を月の光が照らしているという情景が思い浮かびます。
投稿: yoko | 2020年6月 7日 (日) 11時20分
前に、シニア・コーラスで、「荒城の月」を男声4部コーラスで練習してしました。そのときは、歌詞の中身に深入りすることなく、そのまま、素直に歌っていました。
ここのところの、各位からの、”植うるつるぎ”の解釈についてのコメントを拝読するにつけ、知的好奇心をくすぐられ、私ならどう捉えるだろうかと、浅学非才ながらも、思い巡らせてみました。
まず、時間軸で見ますと、歌詞1、2番は過去、歌詞3番は現在(♪いま荒城の夜半の月…♪とありますので)、そして、歌詞4番は今後と、読めると思います。
順序が飛びますが、歌詞4番では、『栄枯盛衰、人の世は無常。だけれど、月の光はいつの世も変わらない』と、総括的表現になっていると理解します。
そして、歌詞1番。♪春高楼の花の宴 めぐる盃影さして…♪から、『春、お城で、桜花のもとで酒宴が開かれている』情景で、まさに、”栄”、”盛”の世界。”春”は、勢いや発展を示唆しているのでしょう。
歌詞2番の季節は秋。♪秋陣営の霜の色…植うるつるぎに照りそいし♪から、”栄”、”盛”の世界は終わりをつげ、『合戦の末、落城の憂き目に。そして、戦って倒れた敵・味方の武士の刀が、あこちに地面に突き立てられて、月の光に冷たく光っていて』、まさに、”枯”、”衰”の世界。”秋は、斜陽、凋落を示唆しているのでしょう。
つまり、”植うるつるぎ”については、二木先生が《蛇足》で述べておられる、”次に、「植うる剣」ですが、私はこれを、気勢を上げるためか勝ちどきを上げるために、白刃を突き上げているさま、あるいは落城した城のあちこちに刀が地面に突き刺さっているさま、と考えていました。”の後ろ半分と、ほぼ同じ捉え方です。
付け加えますと、”(秋)陣営”と”(植うる)つるぎ”=刀は、戦い、武士に係る言葉として、関連性があると言えましょう。
歌詞3番では、『今、月の照る荒城に立っている。栄枯盛衰を経て、当時を偲ぶ面影として、目に入るのは石垣を這うかづらだけ、耳に聞こえるのは松風の音ばかり。』
ついでながら、”植うるつるぎ”の”つるぎ”=”蔓(つる)木”とする見方もあるようですが、歌詞3番に”かづら”(つる性植物の総称)と、相通じる言葉が登場しておりますので、重複的表現を避けるという観点から、如何なものでしょう。
また、”植うるつるぎ”=霜柱とする見方もあるようですが、同じ歌詞2番のなかに、既に”霜の色”が登場しておりますので、やはり、重複的表現を避けるという観点から、如何なものでしょう。
当たっていませんでしたら、ご容赦のほどを。
投稿: yasushi | 2020年6月 7日 (日) 13時32分
鹿児島県の志布志高校に奉職していたころに、竹田高校を学校訪問させてもらいました。そのとき、岡城址と滝廉太郎生家を訪れました。筑紫哲也さんが、廉太郎との縁者と知り、驚きました、
なお、「植うる剣」は刃こぼれしたら、替えの刀として地面に植えたものだと、ある人から教えられたことがあります。
小学生のころから大好きな歌です。
投稿: 江尻 陽一 | 2020年6月 7日 (日) 19時01分
度々の投稿、大変恐縮です。この歌の二番は、この歌が作られた当時人々に親しまれていたであろう上杉謙信の漢詩を入れていると思います。(2008 年にくまさんが指摘しておられます。)「秋陣営の霜の色」はその漢詩の第一行「霜満軍営秋気清」を写しとっています。その漢詩の2行目「数行過雁月三更」も取り入れています。それは盗作ということではなく上杉謙信の有名な漢詩へのオマージュであり、日本語の詩がやっと産声をあげた時代ですから、読む人は元の漢詩も知っていて写し取った美しい日本語を喜んだと思います。土井晩翠さんは上杉謙信の漢詩に敬意を持っていたと思います。上杉謙信の詩は敗戦の詩ではなく勝利を喜んでいます。それを敗戦にしたら名将上杉謙信に失礼です。なので、敗戦後の悲しみとか、あるいは植うるつるぎは弔いの土まんじゅうに刀が刺してあるものとかではないだろうと思います。またこの漢詩には植物はでてきません。元の漢詩を我流には変更しなかったと思います。この二番で漢詩を変更したのは、この歌が「荒城の月」なので月を主役にしたことと思います。
投稿: kazu | 2020年6月 7日 (日) 21時01分
「植うるつるぎ」考ー2
≪蛇足≫に諸説紹介され、当欄にも、ノーマルな意見から
珍説、奇説にいたるまで、数多く寄せられ、さながら深読み
合戦の様相を呈しています。
その大きな理由の一つは、「植」の理解にあるようです。
現在 私たちは、「植」をほとんど一つの意味でしか
使いません。したがって、「植うるつるぎ」を解釈するのは
難しく、何かの示唆か象徴かと様々に思いを巡らせること
になるのでしょう。
しかし前回述べたように、「植える」には、突き立てる
という意味があります。刀を 突きたてること を
刀を「植える」と言います。
つまり「植うるつるぎ」は 突き立てられている、あるいは 突き刺さっている剣 であって、それ以外ではありません。
その前提で、前後の詩文を勘案して、自分なりの情景を
イメージする、 それは自由です。いろんな解釈があっていい、とは そういうこと。
、全く違う言葉を持ってきて、こういう意味だ、と断定するのは、解釈ではなく 創作です。
私は、arumaさんはじめ、いくつかの、ノーマルな意見を支持します。なお、Kazu さんが 謙信の漢詩に触れられていますね。
私は 詩吟をやるので、この漢詩をよく承知していますが
晩翠は、この詩を 内容、背景含めて 移し替えたわけではありません。
詩人の感性によって、『荒城の月』に取り入れられたものです。前後の文、一番との対比、全体の流れをみれば、明らかでしょう。
勝ち戦ととるか、負け戦ととるかは、受け方次第と思います。
長くなりました。
もう少し論じて、「少し先行く論客」に変身したいところですが、ぼろ が出て、折角いただいた、座布団を 取り上げられるのは いやなので、先走るのは止めときます。
赤ひげ先生が言及してくださったおかげで、また、コメントできました。
投稿: 遅れてきた論客 | 2020年6月10日 (水) 04時49分
再度「植うるつるぎ」について
先日、「荒城の月」の2番「植うるつるぎ」は剣ではなく植物ではないかとの見解を出したところ、あくまで白刃の事であろうとの議論に火をつけたようです。
この件について私が疑問に思っていることが2,3あります。
その一つはなぜ「つるぎ」がかな表記なのかということです。各地に設置された歌碑を調べてみると、会津若松城、仙台青葉城、二戸市福岡城、長野行人橋の歌碑はひらかな表記で、竹田市の岡城のみ「剱」でした。
歌碑設置者はなにを元に作成したのか。
出版物では、東京音楽学校の「中学唱歌」(明治34年)、「日本獨唱曲集」(昭和4年)、「近代詩鑑賞辞典」(昭和53年東京出版)、「日本文芸鑑賞事典」(昭和62年ぎょうせい)、「日本唱歌集」(平成3年岩波文庫)等に掲載されているものは全てかな書きです。
作者の意図は何だったのか。
次に2つ目は「つるぎ」が「剱」とした場合も疑問が生じます。「剱」は本来両刃の剣でありました。しかし時代が下るとともに、刀剣と同じ意味に使われるようになったことは否めません。しかし、「剱」と表記されたものは、宝物級、あるいはかなり上物であったようです。
そんな「剣」が地面に突き刺されるでしょうか。
3つ目は3番の「ただかつら」です。会津城と青葉城の歌碑は「かづら」で行人橋は「かつら」です。他の歌碑には3番が見つかりません。
文献では上記「中学唱歌」「日本獨唱曲集」には「かつら」、「岩波文庫」には「かづら」と表記されています。かつらなら「桂」かづらなら「葛又は蔓」の漢字となります。ここも作者の意図は不明です。
土井晩翠先生も罪作りですね。
投稿: 伊勢の茜雲 | 2020年6月10日 (水) 14時46分
「荒城の月」は言葉が難しくて意味が分からないまま歌っていましたが、小学生のころから一か所だけは解釈していると思い込んでいました。それは「千代の松枝わけいでし」の部分です。わたしはそれを「春お城の宴会に老若男女が繰り出して松の枝の下を潜り抜けて行き来している情景と理解していました。桜の花の下での楽しさや喜びのざわめきの中で・・・」
以来50年間、そのように思い込んでいましたがその正しき意味、”分け入っているのは人間ではなく月の光だ”と聞いて少々落胆もし、がっかりしてもいます。確かに、分け入っているのは月の光であるとするのが詩の構成上も様式美の観点からも正しいのだとは思いますが不満が残ります。
1番と2番は人の世の栄枯盛衰とはかなさを対比して表そうとしているものと理解します。しかしその一番で松枝を分け入るのが月の光であるとすると、これはすべての年月で普遍的なものであり栄枯の対比になりません。100年前の月光も100年後の月光も同様に松枝を分け入ります。
「植える」には棒状のものを土に差し込むだけでなく、種子や苗を地中に埋める意味もあるようです。
「植るる」をWebを調べてみたのですが分かりませんでした。しかし次の西行の俳句が見つかりました。
「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」
この例からの類推ですが「植るる剣」とは、
主なく打ち捨てられた剣が半分土に埋もれており、さらに徐々に埋もれつつある状況を表しているのではないでしょうか?その剣の上にも薄っすらと霜が降りている。早晩この剣は人知れず土中に消えてしまうことになるのでしょう。
1番、2番では”昔の光”が繰り返されており、3番4番では”夜半の月”と特定され繰り返されています。夜半とは真夜中の0時あたりだそうです。これが春高楼の花の宴が催される時刻だとは思えません。したがって、1,2番の光とは作者の脳裏に浮かんだ幻の影といえると思います。
投稿: yoko | 2020年6月10日 (水) 15時33分
伊勢の茜雲様
濁点の歴史は比較的新しく、大日本帝国憲法始め、明治の法令文書では濁点は使われていません。「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」など。その前の五箇条の御誓文でも、「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ」とあります。
『荒城の月』の歌碑でも、影を「かけ」としているものがあります。
ですから、「かつら」とあっても桂なのか葛なのかはわかりません。「垣に残るは」とありますから、この場合は明らかに葛ですが。ご参考までに。
投稿: 周回遅れのランナー | 2020年6月10日 (水) 17時41分
周回遅れのランナー様へ
早速のご助言ありがとうございました。おっしゃられる通りです。
どうもこの歌はかな字、漢字がバラバラなので気になっております。
一番、2番の「いまいずこ」も歌碑や文献では「今何處」「今いずこ」、「いまいずこ」「いまいづこ」、「今いづこ」、「いま何處」が使われており、1番と2番でもちがっております。こんな些細なことを気にしているのは変でしょうか。
投稿: 伊勢の茜雲 | 2020年6月11日 (木) 12時30分
植うるつるぎは土井晩翠さんご自身が、こういう意味だとお話にならなかったのは、人それぞれに解釈していいんだよとのお考えという気がしております。自説にこだわるあまり他のかたのお考えを否定しようとするような投稿をしてしまったことをお詫びしたいと思います。
この歌と上杉謙信の漢詩の関係についての私の考えに、反対のご意見をいただきました。以下は、自説にこだわりたいという事ではなく、名歌「荒城の月」への上杉謙信公の大きな貢献を、私のまずい説明で見えにくくしたら申し訳ないので、説明を補足します。この歌の二番を漢詩と比べると、1行目の五つの漢字「秋陣営霜色」のうちの三つ「秋営霜」が、漢詩の1行目の「霜満軍営秋気清」の中にあり、2行目の五つの漢字「鳴行雁数見」のうちの三つ「行雁数」が、漢詩の2行目の「数行過雁月三更」の中にあり、さらに、それぞれの1行目の「陣営」と「軍営」はほぼ同じ意味、漢詩の2行目の「月」は歌の2行目の主語です。これだけの一致は偶然と思えません。土井晩翠さんが謙信の漢詩を尊重し取り入れたのだと思います。できた日本語の詩はその二番が一番と完璧な対称美を持つこの上なく美しい詩で、神業としか思えず、謙信さんも見事じゃとお喜びではと思えます。古典を重視して土井晩翠さんの優れた詩が書かれたということは大事な事と思います。私はこの件で投稿しすぎなので以後おとなしく致します。
投稿: kazu | 2020年6月14日 (日) 22時44分
おとなしくすると申しておりましたのにまたの投稿申し訳ありません。荒城の月と上杉謙信の漢詩の関係について大事な点を書き落としました。漢詩の題名は「九月十三夜」でした。能因法師や西行法師にも九月十三夜の月の和歌があり、九月十三夜の月を愛でるのは古来からの日本の伝統だったそうです。和歌の名手謙信公の、九月十三夜の月を愛でての漢詩でした。「荒城の月」は、土井晩翠がこの上杉謙信の月の漢詩を愛しそれを元にして歌の二番を、それと対称美を持つように一番を作って「起承転結」の「起承」として盛時を描き、仙台の青葉城や会津の鶴ヶ城を思い浮かべながら変わり果てた現在を描いて「転」とし、往時と現在を俯瞰して「結」としたと思えます。
なお、「植うるつるぎ」の霜柱説につきまして、強い根拠になりにくいかと思いますが、仙台に銘菓「霜ばしら」があるのは、土井晩翠が育った仙台では霜柱が親しまれているからかと想像します。ブログ「随想・東北農業の七十五年」に次のようにあります: 山形でも霜柱がたつが、雪が降る前の一時期のちょっとだけ、見つけるのが大変だった。ほぼ毎日立つたくさんの霜柱を仙台で見たとき、カシャカシャと踏み潰して遊びたかったなと思ったものだった。
投稿: kazu | 2020年7月11日 (土) 12時31分
「荒城の月」の歌詞解釈について、いろいろなご意見があり楽しく拝見しながら、なるほどな~、あれ?ちょっとおかしいな?とか、自分なりに詩の背景をじっと瞑想しながら納得したり、しなかったり……、人によっていろんな感じ方があるもんだな~と思いながら、この名曲を聞いてましたが、今朝も早くから能勢の赤ひげ様のコメント(掲示板)に触発されて、いろいろ検索ー下記のブログが、私の解釈に一番合っているようでした。
http://kojyo.g1.xrea.com/index.html
投稿: あこがれ | 2020年7月13日 (月) 17時47分
私は明らかに書き過ぎでございますので、もうこれ以上は書きません。私はこの歌の二番は上杉謙信の漢詩を大事にしていると考えておりますが、その上杉謙信の漢詩について私の解釈を述べます。この漢詩は謙信が将兵の慰労のために披露したと言われます。漢詩の3行目「越山併せ得たり能州の景」は将兵とともに勝利を喜んでいると思いますが、戦いの話は出さず「美しい風景の地を新しく得ることができた」という詩的な形にしています。静かな古典的な美の世界に誘うことで戦さに荒れた将兵の心が癒されるようにと謙信公はお考えかと推測します。なお漢詩の最後の第4行は「郷里では遠征のわが身を案じていることだろうが、どうであろうともままよ。」という意味だそうですが、そういう話を出すことで、家郷を離れて自分について来た将兵を気遣ったのだろうと思います。九月十三夜の月の古典的な静かな美の世界を大事にする謙信公の精神は荒城の月全体にかよっていると思います。植うるつるぎの解釈もそういう雰囲気に合う解釈がいいと私は思います。書き過ぎをお詫びいたします。
投稿: kazu | 2020年7月13日 (月) 21時12分
不滅の名歌曲とはこのことですね。荒城の月がまた賑やかになっているのを見て、6年ぶりに私も感想を述べたくなりました。興味を覚えるのは、主に意見が分かれる2番の解釈で、これを栄枯盛衰の枯、敗戦の惨状と感じる人が多いことです。「平家物語』を好みハッピーエンドのハリウッド映画よりもフランス映画のシビアな切り口を好む多くの日本人の心情の反映でもあるか、などと考えました。70年以上経っても敗戦を基準にしてしか何も考えられない私のような者もいるくらいですから。ただし土井晩翠については、私は kazu 様の上杉謙信「九月十三夜」に準拠との説明に全面的に賛成で、6月14日投稿の的確な分析に脱帽しています。従って、2番を敗軍の場面とは、私には思えません。
投稿: dorule | 2020年7月17日 (金) 22時46分
「植うるつるぎ」考ー3
ようやく静まった水面に、石を投げるつもりはない
のですが、
≪蛇足≫諸説中の 10) 11)、
国文学者の説について、考えてみたくなりました。
その内容については、すでに、二木先生のご指摘通り
納得できるものではありません。
ではなぜ、専門家が このような突飛とも思える説を
提供したのでしょうか?
そのことを考えることで、見えてくるものがあると思うのですが、そのまえに....
私たちはどう力んでも、自分の物差し でしか、物を測ることができません。
そこで前回は、
なるべく「私の解釈」を交えず、『広辞苑』の説明
をストレートに解して、コメントしましたが、
今回は、詩文にない部分について検討しますので、
推測に基づく「私の解釈」をのべます。
それでは、というところで、これから本題に入ると長くなりますので...
続きは またのお時間に。
.
投稿: 遅れてきた論客 | 2020年7月23日 (木) 20時49分
「植うるうつるぎ」考ー3(つづき)
専門家がなぜこの様な解釈をしたのか?
考えられる理由は、ただひとつ、
『九月十三夜陣中作』
に引きずられたものと思われます。
謙信作(と伝えられる)この漢詩と「二番」の関係は
よく知られるところですが、
より詳しい専門家が、その故にかえって、危ない陥穽に
はまったと言っていいかもしれません。
『~陣中作』の関係部分を上げます。
霜滿軍営 秋気清
数行過雁 月三更
越山併得 能州景
・・・・ ・・・
簡単に言うと、
10) の説は 「月三更」の、
11)は「月三更」から「~能州の景」に至る部分の
説明です。
つまり彼らは、「二番」を『~陣中作』を意味内容とも写したものと解し、
「植うるつるぎに~」を、上記に当てはめて解釈したと思われます。
≪蛇足≫で明らかなように、「月三更」や「~能州景」では、
「植うるつるぎ」の説明はできません。
内容が違うからです。 (つづく)
投稿: 遅れてきた論客 | 2020年8月18日 (火) 02時00分
「植うるつるぎ」考-3(つづき)
[Wikipedia] によると、
『二番』は、『九月十三夜陣中作』のオマージュ
であり、「反照」とのこと。
『二番』は、前半の情景描写において、『~陣中作』をそのまま借用しているし、謙信 への傾倒、思い入れ
を考えれば、また、『陣中作』から『二番』が生まれたであろうことを考え合わせると、オマージュ と言い、「反照」というのは、その通りだと思います。
しかし晩翠ほどの詩人が、内容をそっくり和詩に
写し、自作として発表などするでしょうか。
『陣中作』は、当事者の視点で、勝利の満足感を
謳っています。ー「越山併せ得たり能州の景」。
『二番』は、冷徹な観察者の視点です。
「植うるつるぎ」
たった一語で、異なる情景を描き出しています。
以上のことから、10) 11)の説の矛盾は、『二番』を『陣中作』の写しと解釈したから、と言っていいかと思います。
二木先生の両説の解説は、このことの証明とも言えるのではないでしょうか。
長々と駄文を垂れ流して、皆さまには不快の念を
いだかしめたかと、恐懼するところです。
これで、、と思いましたが、ここまで来たら、いきおい
で、二木先生の説にせまってみようと思います。
そこでお尋ねします。
「気勢をあげるためか 勝どきを上げるため、白刃を
突き上げているさま」
これは、先生の個人的解釈でしょうか、
それとも、有力な説として、以前より存在しているもの
でしょうか?
投稿: 遅れてきた論客 | 2020年9月12日 (土) 03時30分
遅れてきた論客様
子供のときから、この歌を歌うたびに、この箇所で白刃を突き上げて気勢を上げる武士たちの姿をイメージしてきました。あとになって、落城のあと地面のここかしこに突き刺さった刀のイメージも浮かぶようになりました。
自然に生じたイメージであり、主観ですから、それは違うといわれても反論できません。
高島俊男巨匠の「敵の攻囲のなかで城兵たちの白刃が月光にきらめくさま」もそうでしょう。
この投稿欄で何人もの方の考証を重ね、思考して得た説や解釈を拝見すると、感心するばかりです。
ですから、同様の説や解釈があったかどうかはわかりません。高島巨匠や私と同じようなイメージを抱いた人は相当いるとは思いますけれども。
(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2020年9月12日 (土) 18時10分
早速のご返答 ありがとうございます。
もういい加減にしろ、
とおしかりをこうむる可能性もあるな、と...
ほっとしました。
投稿: 遅れてきた論客 | 2020年9月15日 (火) 13時45分
「植うるうつるぎ」考ー4の序
ご回答後、改めてネットを検索したところ、
いくつかの異見を別にして、
① 威勢
② 衰亡
二つの解釈が大半で、両者は、拮抗、もしくは
①が、やや優勢 といった印象。
なぜ、相反する解釈が生まれるのか、
全体の構成と、現在の姿を描写している三、四番 、
を理解することで、見えてくるように思います。
慎重に、考えていきます。
投稿: 遅れてきた論客 | 2020年9月21日 (月) 17時12分
『植うるつるぎ』について
「植うるつるぎ」とはなんぞやについては確たる説はでないようです。
先に投稿した「つるぎ植物説」は自分が初めて述べたと思い込んでいましたが、2013年3月に「Yoshi」さんが投稿されたコメントを見逃していました。誠に申し訳なく思っております。そしてYoshiさんがその解釈は土井晩翠に聞かねば分からない、不可能なことだという意見にも全く同感です。確たる根拠もなくああだこうだと自説を展開されても結論には至りません。晩翠の詩の解釈についての確たる新資料が発見されることを願うだけです。
投稿: 伊勢の茜雲 | 2020年9月22日 (火) 10時08分
伊勢の茜雲様が7年前の私のコメントに気付いて下さいましたので、そのコメントで言及した土井晩翠先生の逸話をお話し致します。少し悲しいお話です。これは予備校の国語の教師から聞いた話です。
土井晩翠の苗字は本来“つちい”と読むそうです。土井先生には女学校に通うお嬢さんがいらっしゃいました。そのお嬢さんの同級生に筒井さんという方がいらしたそうです。東北訛りでは、土井さんも筒井さんも“つついさん”と呼ばれてしまうので、紛らわしく、土井先生のお嬢さんはそれを大変煩わしく思っていたそうです。お嬢さんは“つちい”から“どい”への改称を望んでいたそうですが、土井先生は同意されなかったとのことでした。そのお嬢さんが不幸にも病死され、土井先生はお嬢さんの生前の望みだった改称をされたとのことです。
Wikipediaを見ますと、土井先生の長女の死が1932年、改称が1934年です。理由も“つちい”と“つつい”の混同を避けるためであったとありますので、私の聴いた話は真実に近い話の様です。Wikipediaによると、土井先生は1933年には長男も亡くされています。立て続けに子供を失った土井先生の胸中はさぞや辛いものであっただろうと推察致します。
投稿: Yoshi | 2020年9月24日 (木) 16時46分
「植うるうつるぎ」考ー4
主人公は、月 です。
詩人は、問います。主なき城を、なぜ照らすのか と。
そして、自ら答えます。
栄枯盛衰を繰り返してきた 人の世の姿を、今の人達に
知らせようとしているのか、と。
月は、形無き光を、権力を巡る戦いの渦中にあって、
いくつもの興亡に巻き込まれながら、生き延びてきた
「荒城」を媒体として、それを伝えようとしています。
月の光は、晩翠の視線でもあります。
「三、四番」は、月が、荒城を照らす説明であり、
「栄枯」の「枯」を描写していません。
したがって、本詩が、「栄枯盛衰」を
テーマとするならば、それは、一、二番に表れている、
と考えられます。
その一、二番ですが、
「春」と「秋」 「花」と「霜」
分かりやすい対比語で、
全く異なる情景であることが、想起されます。
(つづく)
*正解の分からない問題について、
あれこれ考えるのも、面白いものです。
不快感を持たれた皆さんには、お詫びします。
もうしばらく、目をつぶっていてくださるよう
お願いします。
、
投稿: 遅れてきた論客 | 2020年10月 1日 (木) 03時02分
お言葉を返すようで申し訳ないのですが、1、2番は月とは全く関係ないと思います、そもそも1、2番に月という言葉はありません。タイトルの「荒城の月」からして1、2番とは関係ありません。 まさに”荒城の”月なのです。1,2番からはすでに年月がはるか遠くに過ぎ去っています。
春高楼の花の宴、はまさに日中の情景です。月の光はありません。
秋陣営の霜の色、も静かで人気のない早朝の霜を連想させるもので月ではありません。
めぐる盃影さして、は盃に花の宴のにぎやかな様子が映っている様子です。
千代の松枝分けいでし、では花の宴の参加者が楽しく、松の枝の下をくぐって行き来している様子が思い浮かべられます。
私は特に小学生の頃から、美しく髪を結った着物姿の女性を松の枝の下に思い浮かべていました。ませていたんですね。
1、2番の”昔の光”とは、昔の月の光のことではなくて、昔の(人の世の姿)であると思います。特に2番は、没落した人の世の姿です。植物や山や小川の姿ではありません。
植うる剣に照りそいし、は月が剣を照らしているのではなく、半分土に埋もれているであろう横たわった剣に霜が降り、霜が剣に照りそっている様子を思い浮かべているのだと思います。静かで寂しい没落した人の世の姿だと思います。特に横たわって半分埋もれている剣であるからこそ、そこで息絶えた兵士の姿が思い浮かべられます。
投稿: yoko | 2020年10月 1日 (木) 07時11分
『荒城の月』への投稿をしばらく停止します。(管理人)
投稿: 管理人 | 2020年10月 1日 (木) 11時43分