カチューシャ
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作詞:ミハイル・イサコフスキー
作曲:マトヴェーイ・ブランテル
日本語詞:関 鑑子
1 りんごの花ほころび 川面に霞たち 2 岸辺に立ちて歌う カチューシャの歌 3 カチューシャの歌声 はるかに丘をこえ 4 りんごの花ほころび 川面に霞たち Катюша 1. Расцветали яблони и груши, 2. Выходила, песню заводила 3. Ой ты, песня, песенка девичья, 4. Пусть он вспомнит девушку простую, 5. Расцветали яблони и груши, |
《蛇足》 第二次世界大戦が始まった1939年に発表されました。ただし、詩はもっと前に作られたようです。
日本ではロシア民謡の代表曲の1つとされていますが、正確には民謡ではなく、ポピュラーソングというほうが当たっています。
敗戦後、ロシア・ソ連の歌が盛んに紹介されるようになったころ、だれかが「民衆の歌=ナロードナヤ・ピェースニャ(народная песня)」を「民謡」と誤訳したのがまちがいの元のようです。
左翼色の強かった昭和20年代以降の歌声喫茶では、『コサックの悲歌』『カリンカ』のような本来の民謡も、『カチューシャ』や『モスクワ郊外の夕べ』のような、作られてからあまり時間が経っていないポピュラーソングも、一緒くたに民謡として括られていたわけです。
しかしまあ、現実にはロシア民謡として定着しているので、当サイトでもそのジャンルに入れておくことにします。
カチューシャ(Катюша)はロシアの一般的な女性名の1つ。カーチャなどと同じく、エカチェリーナ(Екатерина)の愛称形ですが、普通の人名としても使われています。
イサコフスキーの詩は恋の歌ですが、独ソ戦が始まると、同じメロディでカチューシャ砲をテーマとした戦意高揚歌も作られました。
カチューシャ砲はソ連が開発し、対独戦に使われた多連装ロケット砲(写真)の愛称で、制式名は別にあります。
カチューシャと呼ばれるようになったいきさつについては諸説ありますが、砲に刻まれていた製造工場名の頭文字Kから、前線の兵士たちが当時流行っていた『カチューシャ』を連想して、そう呼ぶようになったという説が有力です。
金属製やプラスチック製のアーチ形の髪留めをカチューシャと呼ぶのは、日本だけのようです。
島村抱月が主宰していた劇団芸術座でトルストイ原作の『復活』を上演したとき(初演は大正3年)、カチューシャ役の松井須磨子がつけていた髪飾りが評判になり、まねする者が続出しました。これがそのタイプの髪飾りをカチューシャと呼ぶようになったきっかけだとされています(『カチューシャの唄』参照)。
エスペラント運動が盛んだったころ、日本で歌われていたエスペラント訳を下に示します。
この訳詞も原詩同様、3番、4番に戦意高揚的なフレーズが少しあるものの、国境で戦っている恋人への愛の歌で、カチューシャ砲のヴァージョンとは違うような気がします。
関鑑子の日本語詞には、戦争の影はほとんど感じられません。
1. Floras arboj pomaj, piraj plene. 2. Ŝi elvenis, kantis nun dolore, |
3. Ho, vi, milda kanto de l' knabino, 4. Ho, defendu teron patrolandan |
(二木紘三)
コメント
この歌をはじめて知ったのは、昭和32年中学一年の時でした。その日は遠足(もちろん歩き)の予定でしたが、あいにくの雨で取りやめになり、みんなが講堂に集まってこの歌の歌唱指導を受けました。それいらいロシア民謡が好きになり手当たり次第に覚えていった記憶があります。他の曲でバイヤンとかバラライカとかの楽器の名前が出てきますが、この楽器を始めて見たのは昭和42年に来日したソ連の民謡歌手リュドミラ・ジキーナ(うろ覚えです)さんの演奏会でした。
歌声喫茶も懐かしいですね、この歌も定番でした。
投稿: 佐野 教信 | 2007年10月20日 (土) 10時20分
歌も勿論懐かしい。学生時代に先輩から
誘われて行った歌声喫茶が新宿の《カチューシャ》でした。
色々な歌を覚えた記憶が蘇ります。
何故かこの歌を原語で歌えるのです
歌は想い出を鮮明に蘇らせてくれます。
投稿: 鏑川 | 2008年5月 5日 (月) 07時44分
『カチューシャの唄』と共に、こちらの歌も忘れてはいけません。「カチューシャ」という名前は、ロシア女性の、理想化され美化されそしてどこか儚げな女性のイメージとして、私などは想い描いてしまいます。
ところで、この歌の中で「リンゴの花」が歌われています。私の中学時代の通学路の途中に、何本かのリンゴの木が植えられた畑がありました。「リンゴの花ほころび」る季節には、やわらかな色合いの花が木々いっぱいに咲き誇っていました。中学の時それは当たり前のこととして、ちらっと眺めて行き過ぎるだけでした。
しかし高校1、2年の頃、その季節にたまたまそこを通りかかったことがあります。するとどうでしょう。それまで感じたことのない、息を呑むほどの美しさで花々がぐっと迫ってきたのです。ひょっとして大変遅まきながら、その頃が私の「性に目覚める頃」だったのでしょうか(笑)。
投稿: 大場光太郎 | 2008年11月24日 (月) 17時17分
シベリア森林開発プロジェクト向けに油圧掘削機の大量引き合いを受けたことがあります。ネゴの相手は機械輸入公団副総裁のネハラショフ氏(ネハラショフという名前からして縁起が良くない)。応札したのは、日本メーカー4社と欧米メーカー数社。数ヶ月のネゴを経て、結局日本の専業メーカーが受注し、当社は逸注。その時、並行してアンモニア・プラント4プロジェクトの引き合いも出ており、それには日本の大手エンジニアリング会社の副社長と大手商社の担当部長が直接出馬。遂にフランスに勝ち、受注。現地でのささやかな祝賀会で私はこのカチューシャとトロイカをロシア語で歌って祝ったところ、お二人とも大感激。えらい喜ばれました。そのお陰で帰国後お二人には商売で様々のお世話になったという経緯があります。実は、副社長ご本人が出馬なさったには訳があります。モスクワのシェレメチェボ空港で日航機の離陸事故があり、営業担当役員がお亡くなりになったので、その弔い合戦だったのです。
投稿: 大門坊 | 2009年5月11日 (月) 16時33分
自衛官だった父は『カチューシャ』をロシア語で歌えるというのが自慢でした。よく自衛隊の図書館からダークダックスとかアルトゥール・エイゼンなんかのロシア民謡のレコードを借りて聴いてました。
「一人一人の人間を見たらロシア人くらい善良な人たちは居ない」と言ったりする変わり者の自衛官でした。
投稿: ☆諒 | 2010年1月13日 (水) 20時34分
青年歌集で覚え、歌った歌がシベリア抑留者の歌だったとは驚きでした。
山田洋次の傑作、十五歳・学校Ⅳの終盤で、シベリア帰りのバイカルの鉄こと丹波哲郎が、原語らしい文句で絶唱します。ナーベターリ…
そして後半を、屋久島良いとこ一度はこいよ、と替え歌にして、主人公の少年と踊ります。小便を漏らす老人なんて役など初めは断った、といっていた丹波哲郎のはまり役でしょう。
憧れの女高生に似合ったメロディーが、男の歌として蘇った気がしました。
投稿: ika-chan | 2010年10月18日 (月) 20時08分
学生時代、この歌を新宿の歌声喫茶などでよく歌いました。明るく元気の良い歌なので好きでしたね。
昔、真冬のモスクワに仕事で行ったことがありますが、ロシアの子供たちは本当に色が白くて可愛く、まるで“お人形さん”のようでした。
若い女の子がみな、カチューシャやナターシャ、ソーニャのように見えて可憐な感じがしました。でも、中年になると、どうしてあんなにお太りになるのでしょうか・・・
やはり、寒い所なので仕方がないですか(笑)。
投稿: 矢嶋武弘 | 2011年12月18日 (日) 17時14分
先日カチュウシャのメロディーがラジオから聞こえ、びっくりしました。シリアの軍港とプーティン欧州訪問との関係でしょう。それですぐ思い出したのが、コソボ紛争のボロボロタンク百台がハンガリーからセルビアを抜けて一夜にしてコゾボに着いた時、これもボロボロ軍服(と言えない擦り切れお古)の若い兵隊が肩を組んでカチューシャを屈託なく歌っていたこと。
作られたのが1939年、罪の無い若いロシア兵達がナトー軍を前にして歌う。そんな事情から、カチューシャの唄は戦意高揚のために作られたと、つい思ってしまんですね。ラジオやテレビで聞くことはまず無いですが、皮肉なのか?シリア政府の後押しするロシアが出てくると倉庫から引っ張り出され使われる。このメロディーを知る熟年以上の欧州人は日本ほど多くないと思います。歌声喫茶なんてのが無かったように思いますから。
投稿: TangoNMinato | 2012年6月 4日 (月) 07時28分
尚まいにち1/3ニュースはMH17関連です。クレムリン息がかりの部隊が民間機を4連装ミサイルSA11の一発で撃墜。アマチャで眠っていたEUはガツンと目覚まされ、USにお尻を叩かれ、自らの痛みを予感しつつ、ようよう激しい対露経済制裁に入ります。
連日のニュースはざまに、コソボ紛争時のオンボロ兵装から急激にモダナイズしつつある露軍が紹介されます。上の写真、郷愁を感じるような多連装ロケット砲が戦車搭載型ミサイルシステムに衣替え。
しかし、浮き浮き弾み、こんなに明るいメロディーと小柄ロシア人の外交政略とを結びつけるのは不幸この上ありません。我が村ですら、誰かさんの知り合いが犠牲者…。欧州は新たに目覚めるために、この惨事を待たねばならなかったのでしょうか。蘭国は悲しみに満たされ、新たな決意をしているように思われます。
カチューシャの戦意高揚版歌詞がウクライナ国境沿いの向う側に布陣する若者たちによって決して歌われないように望みます。
投稿: minatoya | 2014年7月30日 (水) 01時34分
合唱の経験のある石丸寛(23歳)氏が西南グリークラブの指導を引き受け、この新進気鋭の石丸氏の指揮で、1947(昭和22)年、西南グリーは戦後第1回西部合唱コ ンクールに出場、優勝した。彼らが歌ったのは石丸編曲による「カチューシャ」で、 彼が東京のソ連大使館で兵隊達が歌うのを聞きとり「村の娘カチューシャ祭りの赤き 花」の歌詞をつけたものであった。
投稿: hidekazu-kuniyasiro | 2018年7月 7日 (土) 16時56分
「グリークラブ」というコーラスグループが私の大学にもありました。私は歌うのが苦手で入りませんでしたが、そういうグループがあったのですね。
「カチューシャ」は歌いやすく親しみやすい歌です。私でも歌えます。歌を覚えたのはいつだったのか定かではありません。
投稿: 今でも青春 | 2018年7月 8日 (日) 21時30分
先日、NHKで、ウクライナ侵攻のために召集され戦わされている身内を帰還させるよう政府に要求しているロシアの女性たちの活動が紹介されました。
同時に、ウクライナ侵攻と政府を支持するグループも。驚いたことに、後者はその意思と団結を示すために歌うのがカチューシャ。この歌がもともと戦意高揚のためのものだったことを思い知らされました。
リンゴの花が咲く春の喜びと若い娘の恋心の歌として親しんでいたのですが、教科書に墨塗りをさせられた子供も同じように感じたのか、とさえ思ってしまいます。
ロシアへの親しみを生むように、関藍子は、あえて戦意高揚の歌詞をオブラートに包んで訳したのか?ちなみに私は訳詞者をずっとセキランコと読んできました。
投稿: Kirigirisu | 2024年4月 4日 (木) 23時47分
Kirigirisu様
訳詞者は関藍子ではなく関鑑子です。鑑子はアキコと読みます。
『カチューシャ』に戦意高揚歌バージョンがあることは「蛇足」に書いてありますので、お読みください。
投稿: 管理人 | 2024年4月 5日 (金) 00時52分