(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞・作曲:J. Lyons, S. C. Hart and The Vagabonds
日本語詞:西原武三
黄昏に我家の灯 窓にうつりしとき わが子帰る日祈る 老いし母の姿 谷間灯ともしごろ いつも夢にみるは あの日あの窓こいし ふるさとの我が家 谷間灯ともしごろ いつも夢にみるは なつかしき母のまつ ふるさとの我が家 (繰り返す)
When It's Lamp Lightin' Time in the Valley
1. There's a lamp burning bright in a cabin In a window it's shining for me And I know that my mother is praying For her boy she is longing to see (1st chorus:) When it's lamp lighting time in the valley Then in dreams I go back to my home I can see that old light in the window It will guide me where ever I roam
2. In the lamp-light each night I can see her As she rocks in her chair to and fro Though she prays that I'll come back to see her Still I know that I never can go (2nd chorus:) When it's lamp lighting time in the valley Then in dreams I go back to my home But I've sinned against my home and my loved ones And now I must evermore roam
3. So she lights up the lamp and keeps waiting For she knows not the crime I have done But I'll change all my ways and I'll meet her Up in Heaven when life's race is run (repeat 1st chorus:) |
《蛇足》 1932年、ジョー・ライオンズ、サム・ハートと無名のコーラスグループ「ザ・ヴァガボンズ」の合作とされていますが、開拓時代のアパラチア地方か中西部で歌われていた元歌が何かあったようです。
現在でも、カントリー・アンド・ウェスタンやブルーグラスとしてよく演奏されます。ブルーグラスは、ケンタッキー州の山岳地帯の民謡から1940年代に派生したカントリー・ミュージックで、バンジョー、マンドリン、ギターなどで演奏されます。
日本では昭和9年(1934)、東海林太郎の歌でヒットしました。ダンスホールでもよく演奏されたそうです。
日本語詞は、単にふるさとを懐かしむ内容になっていますが、原詞では、2番のコーラス部分と3番にあるように、犯罪を犯して逃亡中の男が主人公になっています。
3番の"when life's race is run" は、「命が尽きるとき」という意味なので、処刑を待っている囚人なのかもしれません。
「もうお母さんにはあの世でしか会うすべがない。お母さんはそんなことを知らずに、おれの帰りを待ち続けているだろう」といった悲しい歌です。
(二木紘三)
コメント
はじめまして、ちゃーおばさんと申します。
「屯田物語」のブロガーさんが、さくら貝の歌で「MIDI歌声喫茶」をリンクしてくださり、こちらのブログを知ることが出来ました。
とても嬉しく思っております。
「谷間の灯」の二番、三番の原詩が、こんなにも悲しい内容とは知りませんでした。
高校生の頃、合唱部の合宿で皆で歌ったのを思い出します。
また、今でも時々社交ダンスのパーティーで、この曲で踊ることがあります。
認識を新たに、この曲を聞くことがでます。
ありがとうございました。
これからも、よろしくお願い致します。
投稿: ちゃーおばさん | 2006年10月 4日 (水) 23時53分
アメリカの歌なのに、我が国の昔からの歌のような懐かしさがあります。郷愁めいた遠く過ぎ去った日々のことを、やさしく思い出させてくれます。
『谷間のともしび』。中学三年の時に習いました。そしてこの歌に結びつく思い出も、その頃のことです。
当時私は、山形の田舎町(東置賜郡宮内町・現南陽市宮内)に住んでおりました。家が貧しかったものですから、「お母さんの生計を助けなさい。」という担任の先生のご助言で、学校が終わってから夜の九時頃まで(中学一年から)アルバイトをしておりました。
その頃は、町なかの酒屋さんのアルバイトでした。店番、店内の掃除や商品の並べ替え、配達…。
仲秋のある夕方。ビールか何かの配達で、荷物を自転車の後ろに乗っけて、町外れのあるお宅に伺いました。私の知っている、二、三歳年上の先輩の家でした。当時はどの家もそうでしたが、古ぼけた木造の家でした。
「お晩でーす」。「はーい」。玄関の両開きのガラス戸の片側をがらがらと開けて、中に一、二歩入らせてもらいました。
すると私が立っているやや広い土間より、一段高くなったすぐの間(ま)で、くだんの先輩と、やや年老いた感じのその母親と思しき人が、ちょうど夕食をとっているところでした。先輩は私を見て、『やあ』というように少し頭を動かし、またすぐ食事の態勢に戻りました。
ちゃぶ台をはさんで、互いに向かい合った黙々とした夕餉。ちょうど真上あたりに、丸くてうす汚れたカサをかぶった裸電球が、二人をほの暗く照らしておりました。
私はそれを見て、『あヽいいなあ』と思いました。半分はほほえましいなあというのと、もう半分はうらやましいなあというのが、入り混じった思いの…。
(その後どのように商品を置き、勘定をもらったのか…。覚えていないのに。)
たったそれだけの光景を、今でもたまに思い出すことがあります。
昭和三十年代のつましいともしび。その下(もと)での、親子二人のつましい夕餉の光景を。
投稿: 大場光太郎 | 2008年4月17日 (木) 19時12分
大場様
私の大好きなこのメロディーを聴きながら読ませて頂きました
名文、情景が浮かぶようでした。昔の思い出の中にある部屋は
裸電球のほの暗い部屋、そして貧しくても親子の暖かいぬくもり
を感じることが出来るものでしたね。
前回の横浜散策の名文も、横浜暮らしを45年も続けた私には、
名文を読みながら懐かしい道を歩いている気分を味わわせて
頂きました。情緒豊かな思い出を沢山お持ちの大場様、思い出は
楽しいものばかりでなくても、悲しい思い出でも、それは自分の
人生の貴重な生きた証だと思います。
どうぞお元気に、今後の人生を豊かな感性と共にお歩き下さい
ますよう、お祈りしています。れいこ
投稿: れいこ | 2008年4月18日 (金) 10時19分
れいこ 様
この度は私のコメントにまたまたご感想をたまわり、まことにありがとうございます。
『谷間のともしび』。私のささやかな郷里の思い出ならずとも、どなたにとりましても何らかの「ともしび体験」が喚起されるであろうような、心に沁みる良い歌ですね。
『母さんの歌』でのお便りから推察致しますに(余計な詮索で失礼ながら)、れいこ様にはお子様となかなかお会いになれないご事情がおありなのでしょうか?そう致しますと、『谷間のともしび』は、れいこ様にとりましてより切実なものとなりますね。「我が子帰る日祈る 老いし母の姿」。まさにれいこ様の「祈り」そのものですね。
れいこ様の祈りが通じまして、お子様と「嬉し嬉し」の再会が果たせますように。
れいこ様が以前コメントをお寄せになられました、『小さな喫茶店』。私も時折り聴かせていただいております。
それに致しましても、今ではすべてが商業主義に流され、『小さな喫茶店』で歌われているような、ロマン溢れる雰囲気の店は少なくなりました。
れいこ様にとりましての『小さな喫茶店』は、亡きご主人との懐かしい思い出だったのでしょうか?それならば、想いは一段と深いものになりますね。
ご主人様も(そして私の亡母も)れいこ様がおっしゃるとおり、かの成層圏よりさらに上空の気圏なる、清々しい「美(は)しき国」に今はいらして、やさしくれいこ様そしてお子様を見守っておいでですよ。きっと。
れいこ様には『赤い靴』『故郷を離るる歌』『母さんの歌』そしてこの度の『谷間のとしもしび』。その都度心暖かいご感想をたまわりました。その都度、どれほど心励まされましたことか。れいこ様は、私の心を本当に分かってくださったお方でした。いくら感謝しても、し足りません。本当にありがとうございました。
れいこ様には、ご自身を決して「老いし母」などと思われませず、『谷間のともしび』『小さな喫茶店』と共に、『すみれの花咲く頃』『春の日の花と輝く』などをお聴きになられて、若かりし頃に戻られて、いつまでも若々しくご健勝でお過ごしくださいますよう。陰ながら、お祈り申し上げております。 大場光太郎拝
投稿: 大場光太郎 | 2008年4月18日 (金) 19時09分
終戦後間もない頃の事です。当時としては珍しく、父はよくラジオいじりをしていました。いまに思えば部品の調達など困難だったと思われますが、何処からか調達して来ては手を加え、ラジオを組み立てていました。
そんなある日、この「谷間のともしび」(谷間灯ともしごろ)の洋盤を何処からか持って帰ってきました。たぶん?進駐軍の放出品?だったかもしれません。
その洋盤をこれも自作の電蓄で、何度も何度もかけていたのを思い出します。
濃いグリ-ンのラベルに金色で横文字が書かれていたのを、かすかに覚えています。 もう半世紀以上もまえの物語・・・・・
おかげで私も幼くして、この曲を自然に聴き覚え、いまではなつかしのメロディ-の一つになっています。
投稿: Hikoさん | 2008年8月 2日 (土) 09時46分
コメントされた皆様へ
この曲への思いは皆さんそれぞれで私自身嬉しくなってきました。
昭和31年島根県立川本高校(現・島根中央高校)2年の時、幾何の竹内幸夫先生が“ブラスバンドをつくるけえお前もやれ”と不良グループの私に声をかけて下さいました。
各所へ寄付や協力のお願いにより、10名のメンバー(私はトロンボーン)で創設、バスケットボールとの両立で楽しくもありまたくたくたの2年間で、その最初の練習曲が「谷間のともしび」で2曲目が「川本高校校歌(土井晩翠作詞・水野康孝作曲」でした。
毎日暗くなるまで練習し街灯も無い曲がりくねった田舎道を帰る時、ポッと灯りのついた我が家を見た時の安堵感・・・この歌そのものでした。(この歌の作者は数十倍の思いでつくられたのでは・・・と)
卒業6~7年後先生から<NHKの器楽コンクールで金賞をとったぞ!>その翌年<優勝したぞ!>との連絡をいただき、以後5~6回全国優勝をしたとのことです。
その先生とは昨年5月にウン十年振りにお会いして抱き合いました。
今年先生は82歳! 何時までもお元気で!!
投稿: 尾谷 光紀 | 2008年9月11日 (木) 11時30分
尾谷光紀様
かつてこの歌にコメントした一人として、申し述べさせていただきます。れいこ様への拙文にて述べました「ともしび体験」。尾谷様の場合は特に懐かしい思い出のようで、私も御文を読ませていただき嬉しくなりました。
とっぷりと暮れて、街灯などない田舎道の先にポッと灯っている我が家の灯り。ちょうど『谷間のともしび』を練習中の頃のことらしいですから、それを見つけた時の安堵感はひとしおだったと思います。その時の感激は、(この歌の作者の方が数十倍などということはなく)実に作者と等量だったのではないでしょうか?
(昨年その時の恩師と久しぶりで再会されたのも、嬉しい出来事ですね。)
ともかく。尾谷様の場合、それは昭和31年―半世紀以上前の思い出とのこと。私の場合は昭和30年代後半の思い出です。なぜか遠い昔の「ともしび」の方が、かえってくっきりと心の中でいつまでも消えずに灯っているようです。
中秋の名月の夕べに
投稿: 大場光太郎 | 2008年9月14日 (日) 18時53分
初めまして。谷間の我が家を検索していたらこちらにたどり着きました。長野県在住です。
私の知人のお母様はその昔小学校の教師でした。
戦中、学校が進駐軍の宿舎になった事があったそうです。ある日学校でピアノを弾いていると米兵が来て
ショパンの曲を弾いて下さったそうです。
そして「谷間のともしび」をみんなで歌ったというのです。それはクリスマスの出来事だったそうです。
映画「戦場のクリスマス」のような話が日本にもあったのですね。「谷間のともしび」を知らなかった私は、ユーチューブで子の歌を知り涙が出ました。
ありがとうございました。
投稿: あずさ | 2011年1月 5日 (水) 12時42分
去る1月30日恩師の竹内幸夫先生(87歳)が亡くなられたとの旧島根県立川本高校吹奏楽部OB会『響きの会』から連絡がありました。
思えば高校2年の時ブラスバンド部が発足した際、“オイ!尾谷!お前はブラスバンドへ入れ!絶対に入れるからな!”とワルな私は半強制的に入部させられました。しかしこれは退学の救済措置だったと暫くして知ったのですが、以後音楽を教えられ立ち直らせて下さいました。
先生は幾何・数学のご担当で音楽専門学校出身ではなくとても温厚で音楽への情熱が迸っていたように記憶していますし、一度もタクトや手での体罰等後輩からも聞いたことが無く、発足10年前後で全校生徒600名程のど田舎の当校を全国レベルに育て上げられたのは何だったのか?
発足した第1曲めはこの「谷間の灯」で歌詞は知りませんでしたが《蛇足》でさらに深い思いが心に響きます。
“音楽と言うお宝を教えて下さいました竹内幸夫先生、天上の音楽の中で安らかにお眠り下さい”
投稿: 尾谷光紀 | 2013年3月 1日 (金) 22時33分
尾谷光紀様
本日、インタネットにて読ませていただきました。
父幸夫が生前中には大変お世話になりありがとうございました。
父が川本高校でブラバンをやっおりました時は、まだ私は子供でしたので、記憶はありますが、皆様のことは存じ上げておりません。
今回この様なことで皆様からたくさんのありがたいお言葉をいただき、私自身感慨に耽っているところでございます。
代は変わりますが、今後とも変わりませぬお付き合いをさせていただければと思っております。
いろいろと本当にありがとうございました。
投稿: 竹内修二 | 2013年3月 7日 (木) 22時56分
竹内修二様
嬉しいお言葉をありがとうございます。お父様への感謝の証は何にどう表現したらよいか・・・模索してもおりますが、全国で見えてきています体罰問題等々の関連先へ、全く体罰が無くてもブラ・バン創部10年そこそこで全国レベルに育てられた竹内幸夫先生の実績を伝えることもその一つだと思考しています。
加えて、無形文化財の石見神楽への情熱は、地域の活性化へ大きく貢献されたお父様に誇りを持って下さい。
このブログで多くのことを学びそして「谷間のともしび」を選んで下さいました二木先生にも、心から感謝をしております。
投稿: 尾谷光紀 | 2013年3月10日 (日) 11時24分
> I'll meet her Up in Heaven when life's race is run
一つの歌における旋律と言葉。流れてゆく時間(例えば数十年)を思うならば、前者に分あり、と言うか`独り歩きしていくメロディーが強し`と言う気分を抱いています。
しかし上記引用Poem/monoloogが、私にチクッと突き刺さり、親不孝(a kind of crime)感がつのってまいります。きたる冥土で、今度こそ尽くしたい気持ちに駆られます。そのスパンは数十年でしょう、その天国で言葉を忘れても、この懐かしき旋律を口づさめるならば、嬉しいですね。
投稿: minatoya | 2014年4月10日 (木) 03時11分
> (悪)人殺したのを、お母は知らん。ランプ灯して窓際に座って、ワシを待ってはるけど、オカアのとこへ帰られへん。そやから、会いたい道筋スッカリ変えよう。おっかさんと心行くまで再会するのは、あの世が一番や~
残された方法はそれしか無いと言うお尋ね者ウエスタンお涙ちょうだい話。Norman BlakeとRich O'Brianのギターを弾きながらの歌をYouTubeで聴き、「悲しみの向うにある、母親との良き天国での出会い」を想像しました。洗練されたMP3と比べると、US熟年世代ギター語り弾きにひなびたカントリー気分が醸しだされます。いまでも田舎ウエスタンに郷愁を感じる人々が多いのでしょう。仁義を切るヤクザ任侠の心意気に似ているような…。
歌詞 then in dreams→Still in dreams, But I'll change→So I've changed のように変えて歌っているように聞こえます。‘But≒そやけど‘と‘So≒そやから‘の違いは、後者が今風で分かり易いせいかも。
日本語歌詞を綺麗に抒情的に歌う、例えば倍賞千恵子「谷間のともしび」は、When It's Lamp Lightin' Time in the Valleyのギター版と異なる歌に聞こえてしまいます。テンポや楽器、それに言葉が異なるため、素人の私に難しすぎるのでしょうね。どちらも、惚れ惚れと聞いているのは同じなんですが。
投稿: minatoya | 2014年4月18日 (金) 09時06分
谷間の灯 わたしも大好きな歌です 今老人ホ-ムで歌のボランテアをしています これからもよろしくお願いします
投稿: かわいいおばあちゃん | 2015年1月 4日 (日) 11時54分
かわいいおばあちゃん
私も同じようにボランティアをしておりこの「谷間の灯」はよくリクエストがありますので、歌や演奏の際にはいつも数回の<私のコメント>や《蛇足》を引用させていただいております。
42年振りに再会しそして新たな感動をいただいた二木先生や皆様に熱く感謝しております。
投稿: 尾谷光紀 | 2015年1月 6日 (火) 11時34分
「谷間のともしび」は、歌の好きな母がよく歌っていましたので、小さい頃に憶えました。何といっても、メロディの美しさは抜群だと思います。
長じて、昭和30年代の初め、私は、晩秋の一時、上京して下宿し、予備校に通っていました。ある日、同じ予備校に通っていた予備校生と知り合いになりましたが、彼は歌が好きで、「谷間のともしび」や「ホワイト・クリスマス」を、よく原語で口遊んでいました。彼の影響で、私も「谷間のともしび」(1番)の原語を憶えました。
サラリーマンをリタイヤする頃になって、2番、3番の歌詞(原語)があることを知り、「谷間のともしび」は、単なる郷愁の歌ではなく、悲しい思いを秘めた歌であることを学び、この歌が一層心に響くようになりました。
これに類する歌に、「You Are My Sunshine」が挙げられると思います。この歌は、仲間と共に、陽気に合唱することが多いですが、原語(英語)では、失恋の歌の一部分であり、従って、独りしんみり方が合うのかなあと思ったりしています。
投稿: yasushi | 2017年2月22日 (水) 16時25分
この曲はWVTR(ラジオの駐留軍放送)で歌手名は忘れたが、片言英語で覚えて良く歌っていたものでした。手許に歌詞などは全然ないので、耳から入って来る声だけで覚えて・・・ ♪ ウェニッツ ランプライティン タイムインザ ヴァレィ・・・・・なんてね♪
社交ダンスを習い始めた頃、この谷間の灯ともしころの曲は、フタツギオーケストラの演奏よりもう少し遅いテンポのレコードが有り、社交ダンスとしての『スロー・フォックス・トロット(略してスロー)』の代表曲だった。スローはブルースなどと違い、踊り方が難しく初心者には取りつきにくい種目だった。私が嫌がっているとコロラドの月でご紹介した、静江さんがそれこそ手取り足取りで教えてくれた。それでもなお嫌がって居たら三日ばかり口をきいてくれませんでした。彼女は私より二つ上、もう90のおばあちゃん!!六十数年逢っていない静江さん❤ お元気かなぁ・・・懐かしくも遠い遠い昔の想い出です。
投稿: けい。 | 2020年6月15日 (月) 22時23分