雨のブルース
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
1 雨よ降れ降れ 悩みを流すまで 2 暗い運命(さだめ)に うらぶれはてし身は |
《蛇足》 昭和13年(1938)に発表されました。
歌詞もメロディも暗く、歌った淡谷のり子の声質も重く深いのが特徴です。雨の夜などに聞いていると、この暗鬱なムードがなんとなく快く感じられてくるから不思議です。
ブルースという言葉はブルーノート(憂鬱な音符)から来たものですから、この曲は典型的なブルースということになるでしょう。ただし、憂鬱の感覚は文化的風土によっていくぶん異なるので、「典型的な日本のブルース」といったほうがいいかもしれません。
昭和13年は、前年に始まった日中戦争が泥沼化を深めており、物資不足から買いだめが始まり、東京オリンピックが中止された年でした。多くの国民が先行きに漠とした不安を感じており、その心情にこの歌のグルーミーさがマッチしたのでしょう。大ヒットとなりました。
平成元年(1989)6月初旬、取材でフランスに行った折、ル・マン市の駅に近いレストランに入ると、この曲が流れていてビックリしました。ブルースでなく、タンゴになっていましたが。
いっしょに入った取材チームのスタッフは、だれも『雨のブルース』自体を知らなかったので、私の驚きは理解されませんでした。
帰国後調べてみると、戦前のブルガリアでこの歌が『ナミコ』というタイトルでタンゴに編曲されてヒットしていたことがわかりました。
ル・マンで聞いたのがそれと同じかどうかわかりませんが、別ルートでフランスに入ったものがあるとも思えませんので、たぶん同じものでしょう。
『雨のブルース』がブルガリアに入った経緯も、編曲者もわかりません。しかし、『ナミコ』というタイトルの由来は推測できます。徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』のヒロイン・浪子です。
『不如帰』は、『金色夜叉』(尾崎紅葉)、『婦系図』(泉鏡花)とともに、明治の三大メロドラマ(小説ですが)というべきもので、当時の大ベストセラーでした。
これが、1906年にフランス語からの重訳でブルガリアで出版されました。そのヒロイン浪子が日本女性の代表的な名前として記憶された結果、曲の名前に採用されたのではないでしょうか。
戦前、日本とブルガリアとの文化交流のパイプは細く、戦前に同国で翻訳出版された日本の近代小説はほとんどなかったはずですから、ほかの由来はあまり考えられません。
ブルガリアに入った経路やタイトルの正確な由来をご存じの方は、ご教示ください。
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上記のように書いたところ、中井修さんが多大の手間をかけて資料を集めてくださいました。以下はそれを整理したものです。
昭和14年(1939)末、蜂谷輝雄は初代駐ブルガリア全権公使として首都ソフィアに着任しました(信任状奉呈は12月28日)。その年の9月初めには、欧州大戦が始まっており、複雑な欧州情勢のなか、親日国ブルガリアとの関係を強化する必要があったのでしょう。
蜂谷の主要な任務の1つが同国の対日認識啓発であったことから、音楽や文学など日本文化の宣伝に努めました。
蜂谷は歌の好きな人で、『別れのブルース』などたくさんのレコードを持ち込み、放送局などで紹介しました。そのとき、『雨のブルース』にとくに人気が集まったことから、『不如帰』に関連づけてこの歌の内容を説明したようです(注)。
『不如帰』に関連づけたのは、この小説が1906年にフランス語からの重訳でブルガリアに紹介され、広く読まれていると蜂谷が知ったからだと思われます。
1906年は明治39年で、日露戦争終結の翌年です。アジアの無名の小国が大国ロシアを破ったというので、ヨーロッパで日本についての関心が急速に高まっていました。つまり、『不如帰』がブルガリアでも読まれる素地ができていたわけです。
小説は、ヒロインの名前から"Namiko" というタイトルで訳され、『雨のブルース』も同名のタイトルで作詞されました。ブルガリア語の歌詞では、ナミコの悲恋という筋立てになっています。この歌は、ブルガリアで広く愛唱されたようです。
昭和56年(1981)、淡谷のり子が原曲の歌手であるとブルガリアに知られたことから、彼女は同国政府に招かれて、首都ソフィアをはじめ主要な都市で政府主催のコンサートを行いました。『雨のブルース』を歌うと、アンコールの嵐で、帰国時には勲章も授与されたそうです(注)。
ブルガリアでは、"Namiko" が発表されてから40年あまり経ても覚えている人が多かったのに、本家の日本でこの名曲を知る人が非常に少なくなったのは残念なことです。
(注:昭和57年〈1982〉7月4日付読売新聞に載った淡谷のり子の談話から)
(二木紘三)
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コメント
素晴らしい歌を有難うございます。いつも元気をもらっています。戦前のあの大変な時代にあのような素晴らしい歌が歌われていたことにいつも歌いながら感動しています。しかし、それらを深く聞けば、反戦,厭戦、逃避などに聞こえてなりません。徴兵忌避について調査を進めていく中で、庶民の平和を求める気持ちが当時の流行歌の中にたくさん秘められているようでとても勉強になります。だからこそ、戦火を生き延びてきたものたちは心してこれらの歌を歌い、伝えていかなければと思います。解説も参考になりより歌の心が分かり歌う歌にも力が入ります。本当に有難うございます。今後ともよろしくお願いします。
投稿: 昭和の庶民史を語る会 | 2007年7月17日 (火) 14時57分
突然失礼します。ご面倒をおかけしますが御存知の方がおられましたら教えてください。よろしくお願いします。昭和30年代?、井上ひろし?の「君の名前を呼びながら 悲しい夢から覚めました いつの間にやら夜が明けて雨がシトシト降っていた 楡の花散る青い屋根?」。歌手、曲名分かればよろしくお願いします。
投稿: 昭和の庶民史を語る会 | 2008年2月22日 (金) 18時49分
不思議なもので、今夜は久々の雨です。
二木先生の解説に行き当たり、この歌の歴史的背景を知るにつけ驚きつつ納得、自分なりに大きな感銘を覚えています。(以下、短く切り上げますよ)
私も何故か憂鬱な気分になると「雨のブルース」を思い出しますが、まさに『典型的な日本のブルース』ですね。
皆様ご存知の「別れのブルース」は曲としては絶品で、重ねるような盛り上がりで粘りつくような恋慕の情。他方「雨のブルース」は唯々暗く憂鬱と底知れぬ絶望感・・これぞ日本ブルースの真骨頂と思われますが、この欄にも見られるように、懐メロを好まれる方々のコメントが、意外に数少ないのです。
昭和13年から日本で大ヒットした曲が、戦中・戦後の我が国民の精神風土とでもいうのか世相の変化によって興趣も消滅していくのでしょうかね?
投稿: 福田の健ちゃん | 2018年3月 1日 (木) 00時35分
皆さま、何故かこの欄はコメント数が少ないので
つづけて投稿しますが ご免くださいね。
重ねて盛り上がって粘りつくような恋慕の情・・そして
唯々暗く重く 憂鬱と底知れぬ絶望の淵に心は沈んでいく
昭和13年・14年発表の2曲は
淡谷のり子さんの歌唱により、命を吹き込まれたんですね
我々に ある時は共感と励ましを
またある時は 心安らぐひと時の希望をもたらして
永遠に我等の側にある その歌は私達の友
私たち一人ひとりの心の支え・・そうではありませんか?
投稿: 福田の健ちゃん | 2018年3月 2日 (金) 01時17分
明治生まれの謹厳実直の父のレコード箱にある数少ない西洋音楽が、この曲と「奥様お手をどうぞ」、「碧空」でした。私は小学生、中学生時代、繰り返し手巻き蓄音機で聞きました。
近年、音楽にも涙にも癒し効果があることがわかってきました。 “緊張・不安”、“抑うつ”、“怒り”、“活力”、“疲労”、“混乱”の6つの尺度で涙を流すと改善がみられます。
淡谷のり子のブルースに浸り、涙より大量の雨をイメージしながら、今は亡き両親との昔の暮らしを思い起こすことが私の最大の癒しです。暗鬱なムードが懐かしく快いのです。
ブルガリヤでの淡谷のり子の話にも涙が出ました。
投稿: 仙風 | 2019年2月19日 (火) 17時25分
深い絶望感に誘い込まれて藻掻いているところは、ダミアの「暗い日曜日」を連想させる。
当時の淡谷のり子は未だ若かった筈なのに、
曲の雰囲気を見事に自分のものにしてます。
国家権力に逆らって「じょっぱり人生」を貫いた彼女は偉大でした。
投稿: tokusaburou yanagibasi | 2024年6月10日 (月) 16時46分
「雨のブルース」幼少のころには全く気にも留めなかった淡谷のり子さんのこの曲に、今では堪らないほどの魅力を感じてしまう自分がいます!
センスが光る曲というのはこういったメロディのことをいうのではないのか、特に「別れのブルース」「雨のブルース」などの曲を聴いているとき、私はそのように思えてくるようになりました。やはり歳を経てきたせいなのでしょうか。
昔の某テレビ番組で淡谷のり子さんが寂しそうに語られていた慰問先での光景、『・・・私が歌っている最中に次々に敬礼をして去っていく白い鉢巻き姿の若き特攻隊員たちの姿を目の当たりにし、泣かないつもりでいたが思わず涙が溢れてきてしまい歌えなくなってしまった・・・』私は淡谷のり子さんのそんなお人柄に強く共感を抱いたことがありました。
そんな私はつい数年前、かねてから念願だった鹿児島県の知覧特攻平和会館へ行ってきました。会館の入り口に入り、展示されていた軍服や遺品などを間近に見始めたその瞬間、私は思わず感極まりその場にしばらく立ち止まってしまいました。その時の光景が今も鮮明に蘇ります。
大作曲家・服部良一氏と大歌手・淡谷のり子氏、お二人の固い絆があればこそ「別れのブルース」や「雨のブルース」というこの名曲は生まれたのでは、昨年の朝ドラ『ブギウギ』を毎朝楽しみに視聴していたこともあり、私にはなおさらそう思えてきます。
このドラマで茨田りつこ役(淡谷のり子)を演じた女優の菊池凛子さんの演技は実に素晴らしく、じょっぱり人生を貫いてこられたであろう、私の想像の中の淡谷のり子さんをそのまま彷彿させてくれました。私は彼女に女優魂を見せつけられた思いでした。
投稿: 芳勝 | 2024年8月29日 (木) 23時20分