大利根無情
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:猪又良、作曲:長津義司、唄:三波春夫
1 利根の 利根の川風よしきりの (セリフ) 2 義理の 義理の夜風にさらされて (セリフ) 3 瞼 瞼ぬらして大利根の |
《蛇足》 昭和34年(1959)のヒット曲。
天保15年(1844)8月6日、下総(しもうさ)国(千葉県北部・茨城県南部)の大利根河原で笹川の繁蔵一家と飯岡の助五郎一家の大喧嘩(おおでいり)がありました。このとき、笹川方の助っ人として戦い、命を落とした平手造酒を主人公とした歌です。
2人の親分の名前は一般に笹川繁蔵、飯岡助五郎と呼ばれていますが、笹川・飯岡は地名で苗字ではないので、間に「の」をはさむのが正しい呼び方です。国定の忠治、清水の次郎長、吉良の仁吉なども同じ。表記は「の」なしでもかまいません。
ちなみに笹川繁蔵、飯岡助五郎の本名は、それぞれ岩瀬繁蔵、石渡助五郎です。
平手造酒と聞くと、私はいつも「OK牧場の決闘」のドク・ホリディを思い出します。
ドク・ホリディことジョン・ヘンリー・ホリディは、ジョージア州の名家に生まれ、ペンシルバニア歯科大学を出たエリートでしたが、カッとなりやすい性格や、肺結核にかかったことが原因となって身を持ち崩します。
南西部一帯をさすらいながら、ギャンブルと酒で日を送るうちに、アリゾナ準州のトゥームストーンで保安官のワイアット・アープと友誼を結びます。その義理で、アープ兄弟がクラントン一家と決闘をすることになったとき、アープの味方をして戦いました。
西部劇『荒野の決闘』(My Darling Clementine)では、ホリディはこの決闘で命を落としたことになっていますが、実際には、決闘から6年後に肺結核が悪化して亡くなっています。
いっぽう、平手造酒(本名平田三亀)は、エリートというほどではありませんが、江戸・千葉周作道場で俊秀と呼ばれ、剣客として将来を嘱望されていました。しかし、性格上の欠点から失行多く、酒におぼれて破門されてしまいます。
やがて肺結核を発症し、北関東を流浪するうちに、笹川の繁蔵一家の食客となるわけです。
時代はOK牧場の決闘のほうがあとで、1881年10月26日でしたが、まあほぼ同時代といってよいでしょう。
二足のわらじを履く親分が登場する点も似ています。笹川の繁蔵はヤクザ専業でしたが、飯岡の助五郎はヤクザ稼業のかたわら、十手を預かっていました。
ワイアット・アープは、映画では正義の人のように扱われていますが、保安官をしながら、ばくち場や酒場を経営しており、賄賂やみかじめ料も取っていたといわれます。
もっともこの時代、日米とも、治安取り締まりの末端には、このように善悪両面をもった者が少なくなかったようです。江戸時代の目明かし・御用聞きにはごろつきまがいの者が多かったというし、西部開拓時代の保安官には、銀行強盗や列車強盗の前歴者とか、何人も殺した者がよくいたといいます。
平手造酒がついたのがヤクザ専業の親分だったという点で、両者の構図はいくぶん違っていますが。
また、両方とも芝居や映画の格好のテーマとなっています。江戸後期に講談師・初代東流斎馬琴(三代目から宝井馬琴)が『天保水滸伝』という題名でこの抗争話の原型を作りました。
また、昭和初期には浪曲師・二代目玉川勝太郎が「利根の川風たもとに入れて、月に棹さす高瀬舟……」の名調子で事件を歌い上げました。
映画は戦前から今日まで20本以上作られていますが、その半分以上が平手造酒を主人公に据えています。
OK牧場の決闘のほうも、『墓石と決闘』『荒野の決闘』『OK牧場の決闘』『トゥームストーン』など、何度も映画化されています。
同じテーマを歌った歌謡曲に、田端義夫が大ヒットさせた『大利根月夜』(藤田まさと作詞、昭和14年)があります。同じ長津義司の作曲ですが、『大利根無情』に比べると、かなり軽やかな仕上がりになっています。 歌詞もメロディも悲哀感が強い『大利根無情』のほうが、人生の落伍者・平手造酒の悲劇性がよく出ているように思われます。
たとえば「見てはいけない西空見れば、江戸へ、江戸へひと刷毛あかね雲」の一句には、帰りたくても帰れない江戸への歯がみするような望郷の思いが鮮烈に表れてます。パリへの望郷の念に身をさいなまれながら死んだぺぺ・ル・モコ(ジャン・ギャバン主演の映画『望郷―ペペ・ル・モコ』)の心情と同じですね。
大利根河原の決闘についてもう少し書いておきましょう。
下総一帯に勢力を張っていた飯岡の助五郎は、急速に力をつけてきた笹川の繁蔵に警戒感を強め、いつか潰そうと考えていました。そして、天保15年(1844)8月6日の早朝、舟を連ねて繁蔵の縄張りに押し寄せました。事前にこれを察知していた笹川方は地の利に通じた場所に飯岡方を誘い込み、これをさんざんに打ち破りました。
双方、多数のけが人を出しましたが、死者は飯岡方3人に対して、笹川方は平手造酒1人でした。平手は功を焦って深追いし、体勢を立て直した飯岡方にめった斬りにされたと伝えられます。
当時の検死記録では、下腹部から小腸が飛び出すほどの深傷を含め、全身に11カ所の切り傷を受けたにもかかわらず、ひと晩生き延び、7日の早朝に絶命した、とあります。
笹川方は勝ったものの、助五郎が十手持ちだったため、繁蔵はお尋ね者になり、やむなく一家を解散して「永(なが)のわらじ」を履きました。3年後、繁蔵が戻ってくると、元の子分たちが続々と集まってきて、以前にも増す勢いとなりました。
しかし、弘化4年(1847)7月4日、賭場から帰る途中、飯岡側の闇討ちに遭い、殺害されました。
平手造酒、笹川の繁蔵とも、墓は千葉県香取郡東庄(とうのしょう)町の延命寺にありますが、平田造酒の墓は、さらに同郡神崎(こうざき)町の心光寺にもあります。
森の石松の墓が数カ所にあるのと同じで、講談や浪曲、映画で有名になってから、「こっちが本家」争いが起きた結果でしょう。
写真は延命寺にある平手造酒(向かって右側)と笹川繁蔵(同左側)の墓。この写真ではカットしていますが、笹川繁蔵の墓の左側には、彼の一の子分だった勢力富五郎の墓があります。富五郎は、親分が殺された後も、飯岡一派や役人に抵抗し続けましたが、結局追い詰められて自殺しました。
なお、この話には後世の講談師や浪曲師によって作られた部分がかなりあり、そのまま史実と受け取ることはできません。
(二木紘三)
« あの日にかえりたい | トップページ | アメリカ橋 »
コメント
大利根無情の検索で、貴兄に出会い御礼申しあげます。
更に、≪利根の川風袂に入れて月に棹さす高瀬舟≫のある全詩をさがしております。
もう、思うに、浪曲の文句かと存じますが。
もしご存知でしたら、この、≪利根の川風袂に入れて月に棹さす高瀬舟≫の全件(くだり)を教えてください。
投稿: 中根 太藏 | 2007年11月25日 (日) 17時46分
中根太藏様
出だしの部分しか知りませんが、下記の通りです。
利根の川風袂に入れて
月に棹さす高瀬舟
人目関の戸叩くは川の
水にせかるる水鶏鳥(くいなどり)
恋の八月大利根月夜
潮来あやめの懐かしさ
佐原囃子の音冴え渡り
葦(よし)の葉末に露置く頃は
飛ぶや蛍のそこかしこ
投稿: 管理人 | 2007年11月25日 (日) 19時52分
大利根無情と平手造酒
日本人の好きなマイナーキャラクターですね。
平手造酒ファン?にぜひお勧めしたい古い映画があります。
「座頭市物語」三隅研次監督
後に大ヒットシリーズとなった映画の第1作です。
座頭市は飯岡側の助っ人になります。
この映画は数ある時代劇映画の名作中の名作です。
座頭市と平手造酒は互いに敵同士の客分です。
ロミオとジュリエットですね。
座頭市と平手造酒の友情を描いた池の釣りシーンが深い余韻を残します。後に大ヒットシリーズとなってからは愛すべきキャラクターとなった座頭市ですが、この第1作では暗く鬱屈を抱えたヒーローです。健常者のあざけりにあからさまな敵意を示します。そして天知茂の平手造酒が絶品です。
投稿: 桂風 | 2009年1月12日 (月) 13時10分
昭和34年の曲とありますね。昭和44年のNHK
紅白で歌われている映像を見ました。10年間、
歌に命があることに驚きます。
セリフの後のほう。
「・・ゆかねばならぬ。そこをどいて下され。
ゆかねばならんのだぁ」 は、
私の記憶では、「そこを・・」の部分がありません。
別の動画の中にも「そこを・・」を入れないバー
ジョンがあります。三波春夫さんは、両方を使い
分けたのかと思います。
歌詞だけでは、平手造酒が肺結核だったかどうか
触れられていないので分かりません。三波氏が
遠くまで響きわたる声で「・・だぁ」とやるのはサービス
精神もあったと思います。、、、。が、結核だと
聞かされ育った者としては、「、、そこをどいて
下され。ゆかねば、、」のところは、ひとり妙心
さんだけに語るようにしたいと思います。尼さん
を突き飛ばすような勢いではなく、弱よわしく
懇願するように語るのです。カラオケでは、、。
「座頭一物語」たいへん興味がわきます。
投稿: リンゴ海 | 2009年3月 6日 (金) 23時07分
映画「座頭市物語」原作:子母沢 寛 モノクロ
公開:1962年4月
ビデオ屋さんで見つけて、観ました。
笹川の繁造親分に、平手造酒が言う、、
「鉄砲を使うのはやめてくれ。俺が斬る、コホン
コホン」
映画を紹介していただきありがとうございました。
投稿: リンゴ海 | 2009年4月29日 (水) 21時13分
鐘が鳴る鳴る 妙円寺(みょうえんじ)とあります。
笹川に同名のお寺はありません。しかし、「みょう
えんじ」は、命延寺と書けなくもありません。
延命寺(えんめいじ)というお寺ならあるんです、
千葉県香取郡東庄町笹川地区に。
投稿: ミカン海 | 2010年5月28日 (金) 18時36分
みかん海様・有り難うございました。
実は此の歌を歌いました『三波春夫』は私と同郷の、現在では平成の大合併で長岡市に編入されましたが、以前は三島郡越路町塚山と言う所の出身で、歌謡界に入る前は『橋爪文治』と実名で浪曲界に居た者です。 同郷の誼とでも言いましょうか、昭和29年に亡くなりました私の父も、三波春夫の歌が好きで酒に酔うと当時売出し中の三波春夫が歌った『おーい船方さん』を歌って居たことが思い出されます。 私も関東に出て来ましてからは歌に在ります『妙延寺と言う寺がある』ものとばかり思って居りましたが。
マア・どちらでも演劇界の御話ではありますが、実在の寺の名前が多少違っていることは大目に見てやりましょう。
投稿: 渡邉秋夫 | 2010年8月 5日 (木) 04時44分
渡邊さん、コメントありがとうございます。
しばらく忘れていまして、たまたま見に来て
渡邊さんに今頃気がついた次第です。
そうですか、橋爪文治さんなのですか。
今わたしは、笹川から少し離れた所に住んで
いますが、小中学校はそこで送りました。
近くの神社境内には、三波春夫さんの文を刻んだ
記念碑が建っています。
延命寺(歌の中では妙円寺)の入り口付近に、当時
は火の見やぐらがあって、登って遊びました。確かに
この寺の位置は、笹川の決闘の場所から一番近く、
そんな伝説「行かねばならぬ」が生まれるのは必然、
のような感じです。
投稿: みかん海 | 2012年1月18日 (水) 23時15分
飯岡と笹川の中間を撮った平らなご意見有り難う御座いました。講談師によりますと飯岡に行って興業時は飯岡より、笹川に行って興業する時は笹川よりの講談をしたのですかね!
投稿: 高橋日出雄 | 2012年9月 2日 (日) 19時42分
MBSラジオの「福島暢啓の昭和歌謡でしょ!」で「大利根無情」を知り、検索してこちらにたどり着きました。
いろいろ教えて頂きありがとうございます!
投稿: いなモチ | 2012年12月13日 (木) 10時18分
この歌は、かなり気持ちをいれこまないと歌えませんね。平手造酒になりきらないといけません。すこしでも「てれ」とか「臆する」ような気持ちが生じるとだめでしょうね。とくに「行かねばならぬ、行かねばならぬー」のところは。
三波春夫が、ブラウン管の向こうで、こめかみに血管を浮き立たせんばかりに、熱演していたのをおぼえています。
シンプルな題材だと思います。世話になった笹川の親分への義理を果たすために、わが身の病をかえりみず、かけつけるというお話。昔はお玉が池の千葉道場では知られた剣客だったという落魄の身の上話もぐっときます。
深く考えるとこの話のどこがおもしろいのかという疑問もわきますが、それはやめにします。
用心棒の身にまで落ちぶれた平手造酒が、最後の死に花を咲かせようとするところに、この歌のファンは拍手をおくりたいのでしょう。
いい意味で、クサイ歌ですね、納豆のような、塩辛のような、時々無性に恋しくなるような歌です。しかし私は、この歌は毎日は聞けません。なぜなら疲れます。仰々しいんです。「行かねばならぬー」などとわめかなくとも、こっそり出て行ってひっそり死ぬのもいいじゃないのと思います。
それから「地獄参りの冷酒のめば・・」はおそろしい表現です。が、そんな酒を一度飲んでみたい気もします。
投稿: 方解石 | 2013年10月 4日 (金) 01時54分
昨日、「座頭市物語」をみました。このコメント欄の映画紹介ををみていなければ見過ごすところでした。感謝です。
飯岡の親分は、敵方の用心棒・平手造酒が大量喀血して病の床に伏せったことを知り、座頭市に出入りには行かなくていいという。座等市に払う助っ人料(5両)が惜しかったから。それどころか、手付けの3両も返せという、なんたるドケチ!
一方、笹川の親分は、平手造酒に対し、用心棒が肝心な時に、倒れてどうするんだ、そのために飯を食わせているんだろう、というせこい気持ちの持ち主。そこで「座頭市は鉄砲で片づけるので、平手先生はゆっくり休んでください」と言って、造酒を釣り出す。二人の間の友情をうすうす知った上でのはかりごと。労咳の重病人を働かせるとはこれまたブラックな親分。
喀血して動けないはずの造酒が出入りに出て行ったと聞き、座等市は彼の体を気遣って、飯岡への義理とは別、一人で大利根河原へ行く。
「ゆかねばならぬ」が、ケチな親分への義理ではなく、剣客どうしの敬いあう気持ち、さらに盲目と不治の病に対する相互のいたわりあいの気持ちからでありました。
三隅監督の映画に、うーむ、というところです。
河原で、造酒は死にみやげに市に立会いをのぞむ。その結果、斬られた造酒は「どうでもいいやつに斬られるより、おぬしに斬られたかった」と言って、こときれる。きかせるセリフの多い映画でしたね。
投稿: 紅孔雀 | 2013年11月 4日 (月) 13時13分
《蛇足》に「歌詞もメロディも悲哀感が強い『大利根無情』のほうが、人生の落伍者・平手造酒の悲劇性がよく出ているように思われます」と書かれていたとおり、『大利根無情』は作詞勝又良・作曲長津義司コンビの最高傑作だと思う。笹川の繁蔵一家と飯岡の助五郎一家の大喧嘩は昭和30年代の東映時代劇全盛期の定番の一つだった。
投稿: 焼酎百代 | 2014年7月20日 (日) 23時46分
本サイトに投稿している諸氏や諸嬢のような詩情性・抒情性・物語性豊かなコメントは書けないので、観光案内コメントを一つ。
『大利根無情』の舞台・利根川は別名坂東太郎と呼ばれ、筑紫次郎筑後川、四国三郎吉野川とともに昔は三大暴れ川で有名でした。日本最長信濃川を凌ぐ流域面積日本最大の利根川流域は、利根町(茨城)、大利根町(埼玉)…、北利根工業団地(茨城)、大利根工業団地(埼玉)…、さらには“大利根”や“坂東太郎”の名称を冠したゴルフ場や食事処まであり、まさに“利根づくし”の土地柄です。
投稿: 焼酎百代 | 2014年12月29日 (月) 18時54分
仮にも武士(しかも千葉道場の高弟といわれた)ならば「・・・聴こえてくらぁ」などという町人言葉を使ってはいかんだろう 言葉とは人格の最後の砦 女の操(つい笑ってしまうほどの死語だが)の様なものではないのか あちこち尋ね歩いた永年の疑問だが未だに納得できる説明を得られていない 皆さんどのようにお思いか お考えを是非ともおきかせ下さい
投稿: 柏戸2311 | 2015年10月 8日 (木) 13時13分
柏戸2311 様
あなた様の疑問に対する答になるかどうか分かりませんが、私見を述べます。あなた様の、平手造酒は“腐っても鯛”、武士は武士であって、町人ことばは遣わないだろうというご意見はごもっとのように聞こえますが、幕末から明治にかけて生きた勝海舟(幕府の要職に就いた高官)の懐旧談「氷川清話」には、かなりベらんめえ調のことばが出て来ますし、池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」の主人公、長谷川宣以(通称 平蔵)は、れっきとした旗本の嫡男でありながら、やはりべらんめえ調のことばを遣っています。池波正太郎がべらんめえ調の長谷川平蔵を書いたのには、それなりの証拠があってのことだろうと思います。もちろん、かれらとて公式の席上では、武士ことばを遣っていたのでしょうが、江戸や近郊の在所に住む庶民との付き合いが頻繁になると、武士といえども、私的会話などでは、遣い馴れた町人ことばが出て来ても不自然ではないように思いますが、いかがでしょうか。
投稿: ひろし | 2015年10月11日 (日) 13時23分
談論風発大いに結構ですね。
ひろし様の論は的を射ており共感致しました。
適切なエピソードであるかは疑問ですが披露をお許しください。大きな会場で県人とは思えない爽やかな標準語を駆使した方と偶然ひざを交える機会がありました。
何れも女性中心の会合です。同じ方が気心の知れた同士数人の会話では(私と直接の知己ではないが)「べ~、べ~」と郷土弁丸出しに仰天。え~あの弁舌さわやかな方がとカルチャーギャップ!。言葉にも普段着とよそ行きがあるのを目の当たりに致しました。
投稿: りんご | 2015年10月11日 (日) 19時12分
平手は町人相手に切々と己が心情を吐露した訳では無い 全く彼一人の感慨を祭囃子にことよせて独白したのである無防備に 素直に さて皆さん想像してみて下さい 自分が病の床にあり目に浮かぶは遠く亡くなった母の姿 優しかったあのまなざし 頭を撫でてくれたあの掌の感触 つい母親に呼び掛けるでしょう どんな言葉で 母とともに過ごしたそのときの言葉で native tongueで 私の場合でしたら「かあちゃん」ですが平手の場合はどうでしょうか 決して 「おっかさぁーん」とはいわないでしょう 当然「母上ー」でしょう 平手にとってのnativeな世界が武家社会であるからです 二つの場面はanalogyに捉えることができる それ故 「・・・くらあ」という台詞にとても違和感を覚えるのです 私の質問は「皆さんはどう思われますか」です
ひろし様 柏戸2311
投稿: 柏戸2311 | 2015年10月11日 (日) 21時24分
柏戸2311 様
早速のご返信をいただき、あなた様の“こだわり”の真意が分かりました。あなた様の疑問は、平手造酒が遣う町人ことばにあるのではなく、「……聴えてくらア」という歌詞の部分なのですね。ここは会話ではなく、平手造酒の心情の吐露か、独白の表現だから、落ちぶれてはいても、当然「nativeな世界」のことば(武家ことば)で語らねばならないだろう、というご趣旨のようですね。
果たして、平手造酒が「……聴えてくらア」ということばを遣ったかどうか。まともに調べるには、かなりの文献にあたらなければ決着がつかないでしょう。杉浦日向子氏の著書にも出ているかどうか。
しかし、ここは「うた物語」の世界です。あまり真面目に考えず、講談や浪曲の主人公の平手造酒(これすらモデルの説あり)なら、「……聴えてくらア」くらいの町人ことばは遣っただろうと、作詞家に代わってお許しをいただければ幸いです。
投稿: ひろし | 2015年10月12日 (月) 10時49分
独白には夢うつつの独白も目が覚めて現実を認識しているうえでの独白もあると思います。
この歌にはセリフが二つ挿入されていますが、最初のセリフで平手造酒は沈着冷静です。自分の生まれ育ちを懐かしく回想してはいますが現実の自分の立ち位置を認識しておりそれを否定することなく嘲り笑い飛ばす余裕を持っているように思えます。
(セリフ1)
「佐原囃子(さわらばやし)が聴えてくらァ、
想い出すなァ……御玉ヶ池の千葉道場か。
うふ……平手(ひらて)造酒(みき)も
今じゃやくざの用心棒、
人生裏街道の枯落葉か」
これに対して二番目のセリフでは彼は錯乱しています。
潜在意識の武士に戻っているようです。
(セリフ2)
「止めて下さるな妙心殿。
落ちぶれ果てても平手は武士じゃ、
男の散りぎわだけは知って居り申す。
行かねばならぬ。そこをどいて下され、
行かねばならぬのだ」
渡世人である現実の自分と生まれ育ちは武士なのだという自分が二つのセリフで対比されているように思えます。
このような対比の面白さとその効果から私は最初のセリフで平手造酒が「・・・聴えてくらァ、」と渡世人の言葉でしゃべるのも納得できる気がします。
投稿: yoko | 2015年10月12日 (月) 14時24分
平手造酒は元仙台藩士あるいは元紀州藩士など諸説あり、江戸時代から講談や浪曲で『天保水滸伝』が無数に上演されてきた結果、“平手造酒像”にはかなり脚色?創作?された側面があるのではないかと推測しているんですが・・・。
武士で町人言葉・・・長津義司とコンビを組んだ猪又良が作詞したせりふと言ってしまえば身も蓋もないですが、例えば忠臣蔵は映画や芝居の名場面にかなりの脚色・創作があることを考えれば、平手造酒の言葉(せりふ)をあまり厳密に詮索してもどんなものかと独断と偏見で思う今日この頃です。
投稿: 焼酎百代 | 2015年10月12日 (月) 22時39分
先ず管理人氏に厚くお礼申し上げたい そもそも殊更に採りあげる程のものでもない私の投稿に3名ものお方が其々丁寧に深く掘り下げて回答頂いた それもこれも管理人氏が公開されている此の場があってこそ 更にはブログの水準維持のためのマネジメントには相応の努力を払われていると推察するからです 重ねて感謝申し上げます ひろし様 大所高所からの二度にわたっての御指摘大変参考になりました素直に感謝申し上げます りんご様 「言葉にも普段着と・・・・」おっしゃる通りと思います 回答感謝申し上げます yoko様 平手の心の持ち様を場面を分けての御考察 全く私の想像の範囲外でとても新鮮なものに映りました 後段の「対比の面白さとその効果」というフレーズで うーんなる程と肯くばかり 本籍(セリフ2)はともかく今は現住所(セリフ1)少々のことは余裕をもって という意か とまあ私なりに解釈した次第です 勉強させて頂きました 有難う御座いました さて私の結論です 「理で8割納得 感性で未だ疑問のこる」以上が率直なきもちです さて投稿を通してこのページだけで三つの発見がありました 私は別のサイトに唄を投稿していましてその一つ「人生かくれんぼ」の説明欄に記した内容と本ページ桂風氏の記述「座頭市と平手の友情・・・深い余韻」がまったく一致するのです 嬉しい発見でした(ウキが深く沈む はやる気持ちをぐっと抑えるシーンです)次に紅孔雀氏の記述「ケチな親分への義理では無く・・・いたわりあいの気持ちから」の部分 この世の義理に殉ぜずば という気持ちから出入りに駆け付けたとばかり思っていた私ですので 俺は甘いな 見方が平凡すぎるなと思わされました 最後は前述yoko氏の考察 今更ながらと思われることを長々と というお叱り覚悟での投稿です
投稿: 柏戸2311 | 2015年10月12日 (月) 23時02分
二木様、皆様、おかげさまで大変勉強になりました。
還暦を過ぎ、いろんな名曲の歌詞の意味深さに少し気づき出して、感動しています。
この名曲も大好きで、よく聞いております。
私の好きな名曲の一節を書かせていただきます。
・人に勝つより、自分に勝てと
・愚痴も言わずに女房の小春、作る笑顔がいじらしい
・雪の深さに埋もれて耐えて、麦は目を出す春を待つ
投稿: 名古屋みそ味 | 2017年5月13日 (土) 07時22分
三波春夫の芝居がかったこの歌はカラオケでもやってみたいほど気に入っております。声が出ず息も続かないので出来て居ませんが。平手造酒は所詮世渡りに負けたスネモノですが我らの英雄に違いありません。実像は実像、虚像は虚像。それでいいような気もしております。ですから出入りのあと座頭市と腕の勝負をし、市に切られて一命を落とすとき「おぬし 見事じゃ」のセリフで身まかる筋書きなどまさに喝采ものです。そんな楽しみ方いけませんでしょうか。
投稿: 林 滋 | 2017年5月13日 (土) 10時04分
林 滋 さまのコメントを読んで三波春夫の魅力に触れたくなりました。
亡母は三波春夫が殊の外好きでした。
「あがりがおでええなあ」と惚れ惚れと見入っていました。「あがりがお」とは晴れ晴れとした男前というほどの意味です。ユーチューブで三波春夫の「大利根無情」を繰り返し聴きながら亡母を偲びました。理不尽な父親に怒鳴られ通しの無力な母でした。三波春夫の歌を無上の慰めとしていました。母在りし日は三波春夫は余り好きでなかった私が今では「日本歌謡史上三本の指に入る歌手」と評価しております。紳士的な振る舞いも、歌いっぷりも日本一と今更ながら評価しております。今日のような雨の日は「大利根月夜」を画面で聴くと気分が上向きます。
つい2時間前、バイオリンコンサートのアンコール演奏で「北の国から」に涙した自分が 三波春夫に聴き入っています。
投稿: りんご | 2017年5月13日 (土) 19時05分
大利根無情の歌詞、作曲、唄について皆さまのように「人に語れる」コメントを書けません。
ただ 昭和40年代当初、大学の文化祭の演芸大会に脚本を書いた友人から「飯岡の助五郎」を演じてくれと頼まれました。「飯岡の助五郎は天保水滸伝では悪人扱いだが、優れた社会政策家で政治力もあり人情家でり、地元では善玉の親分として語り継がれている。」という殺し文句に落ちてしまいました。
悪人らしいどぎつい化粧を施し、親分らしくドスを利かせ下級生の子分たちを従えていた記憶があります。
ただ 主役の
「止めて下さるな妙心殿。
落ちぶれ果てても平手は武士じゃ、
男の散りぎわだけは知って居り申す。
行かねばならぬ。そこをどいて下され、
行かねばならぬのだ」
のセリフは 同級生女子の反対を押し切って大学に入学した私の心情に何となく相通じるものがありました。
今は その女性の理解を得ています・・ けん
投稿: けん | 2017年5月13日 (土) 21時42分
けん様 何故の反対だったのか存じ上げませんが今は理解されておられるその方は奥様でしょうね。羨ましい限りです。
りんご様 男性の方か女性の方か存じ上げませんが大利根無情から亡くなられた母上を偲ばれる心の優しさに感動です。
十五年ほど前に母と妻と私で銚子方面をマイカー旅行したことがありました。その際飯岡の地名を見てこの辺があの平手造酒の舞台だよ等と知ったかぶりをしたのを思い出します。妻はほとんど関心はありませんでしたが。その妻も母も今はもう黄泉の世界です。ふとしたきっかけでそんなことを偲ばせていただけて、けんさん、りんごさん、平手造酒さん、そしてなにより二木紘三先生有難うございます。
ご無礼いたしました。
投稿: 林滋 | 2017年5月14日 (日) 13時24分
北関東に住んで数十年、第2の古里ですが、「大利根無情」の舞台千葉県東総(旭市・飯岡助五郎、東庄町・笹川繁蔵)は利根川より南で、大雑把に言えば利根川中流下流が茨城と千葉の境目あたりを流れているわけです(利根川上流は群馬)。
利根川の中流周辺は町名、工業団地、会社名、ゴルフ場、御食事処にやたら“利根”や“坂東”がつく土地柄で、飯岡助五郎や笹川繁蔵の影響では無いですが気性が荒っぽい所です(あくまで個人的感想)。
投稿: 焼酎 | 2017年11月 5日 (日) 11時22分
「大利根無情」自分の恥を晒すようですが、この唄は私が30代のころ、忘年会などの宴席会場ではご指名を受けて宴席の締めによく歌った私の持ち歌でした!
今、その当時を思えば、日頃スナックでのカラオケでフランク永井や水原弘なんかを歌っていた私は、大勢の参加者の前でタイプの違うこの唄のセリフを、照れずに語れるようになるまでには長年かかったような気がします。
一番間奏 ~うふ・・・と悲しく笑うところ
二番間奏 ~行かねばならんのだ と渾身の力で叫ぶところ
上記のセリフ部分にはいつも苦戦した憶えがありその頃を思うと懐かしいです。
今でも私は「大利根無情」この唄聴きたさにのYouTube動画を時々視聴しています。
三波春夫の唄では「大利根無情」と、これもセリフの入る「一本刀土俵入り」とならんで私の最も好きな二曲です。
幼い頃、山で竹を切り刀を作ってチャンバラごっこそしていた時、訳もわからず「平手造酒」を何度か名乗っていた記憶もあります。今思えば本当に有名な名前だったのですね。
投稿: 芳勝 | 2018年11月13日 (火) 19時47分