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2007年4月 5日 (木)

夢淡き東京

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:サトウハチロー、作曲:古関裕而、唄:藤山一郎

1 柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日
  誰を待つ心 可愛いガラス窓
  かすむは春の青空か あの屋根は
  かがやく聖路加(せいろか)
  はるかに朝の虹も出た
  誰を待つ心 淡き夢の町 東京

2 橋にもたれつつ 二人は何を語る
  川の流れにも 嘆きをすてたまえ
  なつかし岸に聞こえ来る あの音は
  むかしの三味(しゃみ)の音か
  遠くに踊る影ひとつ
  川の流れさえ 淡き夢の町 東京

3 君は浅草か あの娘(こ)は神田の育ち
  風に通わすか 願うは同じ夢
  ほのかに胸に浮かぶのは あの姿
  夕日に染めた顔
  茜の雲を見つめてた
  風に通わすか 淡き夢の町 東京

4 悩み忘れんと 貧しき人は唄い
  せまい露路裏に 夜風はすすり泣く
  小雨が道にそぼ降れば あの灯り
  うるみてなやましく
  あわれはいつか雨にとけ
  せまい露路裏も 淡き夢の町 東京

《蛇足》 昭和22年(1947)リリース。長谷川幸延作の連続ラジオドラマを映画化した『音楽五人男』(東宝)の主題歌。同じく主題歌の『白鳥の歌』とともに大ヒットしました。

 歌詞に出てくる地名を見ると、このころまで、東京の重心は今よりずっと東にあったことがわかります。
 高度経済成長期以降、新宿の新都心化、渋谷・池袋の副都心化が進み、重心は西に移動しました。
 しかし近年、ウォーターフロントの再開発が進むにつれて、重心はまた東に戻る傾向が出ています。

 銀座といえば、長い間、柳の並木がシンボルでした。「銀座の柳」は、さまざまな歌や小説、エッセイなどに描かれています。しかし、それを知る人も、次第に少なくなってきました。

 銀座に並木が植えられ始めたのは、明治10年(1877)ごろのことです。当初は、柳のほかに松や桜なども植えられていましたが、生命力が強いということで、柳に統一されるようになりました。

 柳は大事に管理され、銀座の四季を彩る風物詩となりましたが、大正10年(1921)、京橋・新橋間の車道拡幅のために撤去されてしまいました。写真は撤去される前の柳並木。
 大正12年
(1923)9月1日には、関東大震災により、銀座そのものが焼失してしまいます。

 昭和に入って震災からの復興が進むと、「銀座の柳」復活の気運が高まってきます。「昔恋しい銀座の柳……」と歌った『東京行進曲 』(西條八十作詞、中山晋平作曲)の大流行も、その復活を助けました。

 そのようにして復活した柳並木も、昭和20年(1945)3月と5月の東京大空襲で街ぐるみ焼失。その後、柳並木は再生しましたが、昭和43年(1968)、またも道路整備のために撤去されてしまいました。

 地元住民など銀座を愛する人たちは、「銀座の柳」の復活を希望しましたが、道路事情から実現は困難でした。

 並木としては復活しなかったものの、昭和62年(1987)に中央区の木として柳が制定されたのを機に、日野市の建設省(現国土交通省)街路樹苗園に移植保存されていた「銀座の柳」が、同区内の何カ所かに数本ずつ分植されるようになりました。

 1番の聖路加は中央区明石町にある聖路加国際病院のこと。
 キリスト教の聖人・聖ルカにちなんだ名前なので、セイルカと呼ぶのが正しいようですが、一般にはセイロカ病院と呼び慣らわされています。藤山一郎もそう歌っていました。

(二木紘三)

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コメント

私はこの歌の出だしの一行が大好きです。柳が芽吹き、緑が少しずつ濃くなってくるころ、つばめが田圃や川の水面に影を落として飛び交います。地上の生物が生き生きと活動を始めます。ハチローの詩の素晴らしさがこの一行に凝縮されているように思われます。今ではこんな情景を歌える詞がなくなってしまいましたね。たった一行に春から初夏へと移っていくすべての景色が思い伺えます。詞というべきか、詩と言うべきかわかりませんが、私は詩と思いたいのです。

投稿: ハコベの花 | 2009年7月14日 (火) 20時41分

ハコベの花様
 ハコベの花様は、私より少しだけご年配の方と推察申し上げますが、上記コメント何ともみずみずしい感性の名文で。それに触発されてコメントさせていただきます。
 おっしゃるとおり、出だしの一行本当に素晴らしい詩ですね。私も春浅い頃の萌黄色の柳若葉、初夏の頃の青々としだれた風情に、何とも言えぬ詩情を感じる一人です。それで今春私のブログで、柳を題材とした一つの漢詩と一つの短歌を取り上げました。
  渭城(いじょう)の朝雨 軽塵をうるおす
  客舎青青 柳色(りゅうしょく)新たなリ
で始まる王維の名詩と、
  やはらかに柳あをめる
  北上の岸辺目に見ゆ
  泣けとごとくに
の石川啄木の有名な短歌です。(おかげ様で両詩とも好評です。)
 「青める柳」に加えて「つばめ」が飛び交うのであれば、なおのこと。その季節の昔日の銀座の街並みが目に浮かぶようです。重苦しい戦争から開放された、清新なのびやかさや喜びが溢れるような名曲だと思います。
 末尾ながら。ハコベの花様の『シューベルトのセレナーデ』コメントの、お若い頃のエピソードも、ほのぼのした想いで読ませていただきました。今後とも、時折りのコメント楽しみにしております。  

投稿: Lemuria | 2009年7月20日 (月) 00時17分

remuria様 「送元二使安西」の詩には思い出があります。漢文の教師が「今からこの詩を吟じるが、顔がおかしくなるので、目を瞑って聞いてくれ」と言って女高生50人を前に「なからん、なからん 故人なからん」まで吟じられました。私はすっかりこの詩を覚えてしまいました。
この教師は若いころ中国で大変な戦闘を経験されたようで、もう二度と青春に戻りたくないと言われました。柳をみるとこの漢文の教師を思い出します。
 眉を寄せ歩兵の苦しみ語らいて師は再びの青春拒みぬ
柳の下のお化けの方が平和で良いですね。

投稿: ハコベの花 | 2009年7月24日 (金) 20時02分

  君に勧む更に尽くせ一杯の酒
  西のかた陽関(ようかん)を出ずれば故人なからん
 ハコベの花様 「送元二使安西」は、中国版「蛍の光」-別れの歌として、今でも中国で広く歌われているそうですね。ご存知のとおり、原詩で故人は「知人」を意味します。しかし漢文の先生はそんなこと百も承知で、日中戦争で亡くなった戦友たちを偲んで、「故人」は我が国の故人の意味のまま「鎮魂歌」として吟じられたのでしょうか。それとも、かの地で亡くなった戦友たちにとって、生きている者は皆内地に引き上げてしまい、文字どおりかの地には、弔いをしてくれる知り合いは誰もいない、という意味合いを込めて吟じられたのでしょうか。
 いずれに致しましても、ハコベの花様はじめそれを聴かれた50人の乙女の、心の奥深く響いたことと存じます。
 大変良いお話を読ませていただきました。御歌も繰り返し…。「もう二度と青春に戻りたくない」と言わしめる、残酷で不毛なだけの戦争。今年も間もなく「戦争と平和を考える季節」がやってきますが、深く考えさせられました。大変ありがとうございました。

投稿: Lemuria | 2009年7月25日 (土) 02時07分

新潟の片田舎で鬱々とした青春時代を送っていたわたしにとって、‘花の都’東京は憧れの地であり、青春のカタルシスとしてパラダイスのように感じられたものです。この感情をさらに高ぶらせたのが、この『夢淡き東京』であり、『東京ラプソディ』でした。昭和28年、初めて上京した高校生‘お上りさん’の見た東京銀座は、戦災から見事に復興した銀座の景観でした。路面電車が行き交い、洗練された高層(?)ビル街、銀ブラ族の多さににも圧倒された記憶があります。よく見れば、復興したとはいえ、裏銀座あたりには戦災痕もまだ残っていたのでしょうが、夢心地の‘お上りさん’には、そんな心の余裕はありませんでした。まして、この歌詞に出てくる、銀座のシンボルである街路樹の‘柳’などには見向きもしなかったのでしょう。
 
 Lemuria様やハコベの花様がふれられた王維の詩は、わたしも好きな漢詩の一つで、これを詩吟として詠じるときは、俗に「陽関三畳」と言って「故人なからん」を3回繰り返します。わたしも下手な詩吟をやっていますが、送別の宴のときなどにこれを吟じますと、今では珍しがられます。詩吟は若い方々にもっとひろがってほしいものです。女性の詠ずる詩吟もいいものですね。詩吟は健康にもいいです。詩吟の復活、隆盛を願うものです。駄文ご容赦ください。 

投稿: ひろし | 2009年7月25日 (土) 17時28分

私はお酒も飲めず歌も歌えず、人生を損をしながら生きてきたと思っております。その上粗忽者でLemuria様のお名前を間違えてしまい大変失礼いたしました。お詫び申し上げます。ひろし様も詩吟がご趣味とか羨ましい限りです。子供の頃は「鞭声粛々」をあちこちで聴いていましたが、今は聴くことがありませんね。漢詩の意味がわからないせいでしょうか。
昭和29年に中学の修学旅行で日光へ行く途中、東京に1泊しましたが、東京駅から上野まで、まだ戦後を引きずっている浮浪者が沢山いるのに驚きました。人間の脳から闘争本能が消えるまで、永遠に戦争はなくならないのでしょうか。
それからLemuria様のプログもぜひ読ませて頂きたいので、よろしかったらプログのアドレスをお教えくださいませ。

投稿: ハコベの花 | 2009年7月28日 (火) 20時15分

 ひろし様 王維の名詩の貴重な補足、大変ありがとうございました。「陽関三畳」初めて知りました。そういえばNHKビデオライブラリーの『漢詩紀行』の「王維編」の中で、初老の男性がこの詩を音吐朗々と吟じていたのが印象的でした。「詩吟」良いご趣味ですね。今後益々詩吟人口が増えますことお祈り申し上げます。
 ところで、最近のヒーリング法の一つに「トーンニング」というのがあるそうです。とにかく腹の底から声を出すのは、健康に極めて良いようです。しかし一定の年齢になりますと、だんだん大きな声を出さなくなりがちです。その意味で、詩吟も、カラオケで好きな歌を熱唱するのも、効果絶大ですね。

投稿: Lemuria | 2009年7月28日 (火) 23時48分

 ハコベの花様 皆様にはご迷惑だったかもしれませんが、話がここまで発展しまして大変有意義に存じます。その発端を作られましたこと、あらためまして感謝申し上げます。
 おっしゃいますとおり、「人間の闘争本能」本当に困りものですね。個人の成長と社会の発展のためには、適度の「競争意識」がなければならず。しかしそれが過度にエスカレートすると「闘争」にまで到ってしまうし。結局は一人一人が「内なるバランス」をしっかり取っていくしかないと思いますが、「言うは易く…」でなかなか難しいですね。でも私は、人類という種(しゅ)は必ずや「平和志向」に進化すると、いささか楽観的ながらそう信じております。
 お言葉に甘えまして、私のブログのトップページ・アドレスを記させていただきます。
 http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/
 この度の「送元二使安西」は『名詩・名訳詩』カテゴリーの中にあります。実名で、時に言いたいことを述べさせていただいておりますが、他の記事も時折りのぞいていただけましたら幸甚に存じます。

 末尾ながら。このような交流の場をご提供くださっておられます二木先生に、心より感謝申し上げます。

投稿: Lemuria | 2009年7月29日 (水) 00時52分

 ほかの誰も指摘していなかったことを一つ。
 この歌が燦然と光はなっているのは4番です。1番ですがすがしい銀座の柳とツバメ、西洋文化の粋を集めた聖路加国際病院。2番で男女の語り合う川の流れ、3番で東京生まれどうしの若い男女の淡い恋。ここまでは、華やかな東京を歌っています。それが4番になると、
「悩みわすれんと 貧しきものは歌い」
この歌詞に、まず度肝を抜かれます。そうして、夜風の吹き通る狭い路地裏。そのうえわびしく雨がふって貧しい庶民の住む街の情景が歌われます。3番までとまるで違った貧しい庶民たちの情景をも、サトウ八ローのやさしい視線は見逃しませんでした。これもまた、夢淡き東京のだいじな一部分なのだと、唄ってって、この名曲は締めくくられます。
 この歌が昭和22年に発表されて、ことし平成24年まで65年間に何万曲と歌は発表されてきましたが、華やかな情景、恋の情景とともに、貧しい庶民を歌詞として歌い込んだ曲は、ほかに1曲もないでしょう。
 この曲に4番がなかったなら、「その他多くの曲」の一つにすぎなかったでしょうが。この4番があることによって、この曲は永遠の輝き持つ、「たった1つの曲」になっているのです。サトウ八ローはやはり作詞の天才なのです。

投稿: 江戸 | 2012年10月 7日 (日) 22時30分

 江戸 様
 江戸様のご意見、なるほどと思いました。4番を重んじて、歌詞全体をみれば、「都会には 華やかな所もあれば スラムのような所もある。そこもここも みんなひっくるめて 都会の空の下に人は等しく生きているのだ」 という風になりますね。たしかに サトーハチローの詩の良さがでますね。勉強になりました。
 私の友人に数学の教授がいますが、彼は「独創的であること」がいかに困難かを 口癖のように言います。江戸様のご意見は まさに独創的ですね。ただ「65年間に 華やかな情景、恋の情景とともに 庶民を歌詞として歌いこんだ曲は 1曲もないでしょう」「この曲は永遠の輝きを持つたった1つの曲」などは少し独断的なきらいがあるのではないでしょうか。しかし 先述の教授も 独創性は 独断性の上に仮説を立てることから出発すると いいますから 独断的であることはほとんど問題なしかな とも思ってます。

投稿: 越村 南 | 2012年10月 8日 (月) 01時30分

この歌は4番まであり、詞も長いのでカラオケでは得した気分になりそうですね。作詞、作曲、歌手はあの「長崎の鐘」と同じですね。

投稿: 海道 | 2012年10月 8日 (月) 13時31分

昭和25年生まれの私は、古関裕而メロディには子供の頃から慣れ親しんで来たように思います。歌謡曲をはじめ、ラジオから流れる「日曜名作座」、
「昼の憩い」などのテーマ曲。 無論この「夢淡き東京」も大好きです。
サトウハチローの歌詞は、戦災から復興しつつある銀座界隈を謳おうとしているのでしょうね。1番が朝を、2番が昼時を、3番が夕時を、そして4番が夜という4段構成です。いいですねー。
 私が不思議に思っているのは、3番のみが「町」ではなく「街」になっているところです。 サトウハチローの意図 あってのことでしょうか。それとも「気まぐれ」、「ウッカリ?」。 なぜなんでしょう。  

投稿: かせい | 2013年12月 8日 (日) 00時43分

あまり意識されませんが、これはコンティネンタル・タンゴのリズムで作られていますね。ややテンポを落し、さらに全体的にレガートに歌わず、シンコペーションをちょっと変えてスタッカートで区切れば、れっきとしたラテン・ダンス・ナンバーにもなるでしょう。別に服部調のブギに対抗した訳でもないでしょうが。

投稿: jakuhai | 2016年12月 1日 (木) 01時16分

「夢淡き東京」は、頼まれていた詩が間に合わず、
  曲が先に出来たそうです。

初めてレコードプレーヤーと一緒に買ったレコードは、
母の好きな「長崎の鐘」「夢淡き東京」「なつかしのボレロ」「三日月娘」
「この人この歌 藤山一郎思い出のアルバム」でした。

投稿: なち | 2017年11月 5日 (日) 06時32分

  昭和20年代初頭の戦後混乱期、日々食べるものに事欠きながら、明るい明日を目指し、大人も子供も 必死に生きていたと思います。私も、小学校の高学年生で、北陸の片田舎で、学業や放課後の山・田畑の仕事の手伝いに明け暮れていました。
 こんな中、辛さ、困窮、抑圧の思いを吹き飛ばすように、沢山の歌謡曲が次々に世に出てきました。私にとって、これらの代表格は、「夢淡き東京」、「東京の花売娘」(佐々詩生 作詞、上原げんと 作曲、岡晴夫 唄 S21)、「東京の屋根の下」(佐伯孝夫 作詞、服部良一 作曲、灰田勝彦 唄 S23)でした。復興はこれからとは言え、東京は我が国の首都で、やはり、憧れの都だったのです。これらを歌ったり、聴いたりするたびに、元気を貰った気がします。
 藤山一郎さんの歌は、明るい、朗々とした歌いぶりから、好きな歌が多いですが、最近は、あるオペラ歌手がピアノ伴奏で歌う「花の素顔」(西条八十 作詞、服部良一 作曲 S24)や「みどりの雨」(丘灯至夫 作詞、古関裕而 作曲 S28)に、はまっています。

投稿: yasushi | 2017年11月18日 (土) 13時36分

昭和22年といえば、まだ戦後の重苦しさを引きずって、これから先どう生きていけばよいのか迷いながら生活していた時代でしょうが、そんな中、この歌は貧しい辛い日々を吹き飛ばしてくれるような、明るい流れるようなメロデイーで人々の心を励ましてくれました。
それに、詩がいいー。荒廃した瓦礫の中から、新しい芽吹きと希望が溢れてくるようなうきうきする気持ちに誘ってくれます。

こんな明るくて希望に満ちた町だったら、誰だって憧れて東京に住みたい!と、思うでしょうね。
私だって、《花の都東京》に憧れて、なんども家出したいと思ったことか・・・。

“あなたを待てば 雨が降る~” と、洗練されたムード溢れる都会調の歌が流行り、世界中に奇跡の復興をアピールするかのごとく、あのオリンピックファンファーレが鳴り響き、“こんにちは~こんにちは~世界の国から~“と、日本中が湧きかえったあの活気に満ちた日本の姿・・・。

あれから 半世紀以上を経た今、コンクリートジャングル東京の町で、再びオリンピックが開催される。

『球形の荒野』の最後のシーンが思い起こされます。

鈴木    「これが最後の日本の旅ですか?」
野上顕一郎  「・・・」

鈴木    「いかがでしたか? 日本は・・・」
野上顕一郎  「美しい国です」

鈴木    「本当にそう思われますか?」 
       「この国はあなたの望んだ国になっていましたか?」  

野上顕一郎  「・・・」

鈴木    「お気をつけて・・」
野上顕一郎  「ありがとう・・」 

投稿: Ruka-jiji | 2019年1月31日 (木) 13時10分

気分一新、夢淡き東京を聴いています。うららかな春の先触れが、感じられます。柳の葉もそろそろ伸び始める頃ですね。つややかな緑には新しい何かを感じさせられます。少し漢詩でも読んでみましょうか。楽しきかな人生!です。

投稿: ハコベの花 | 2019年3月18日 (月) 10時53分

好きな歌(曲)というのは、数え切れないほどありますが、理屈抜きで この曲ほど心地よく歌え、聞ける歌はあまり無い様に思います。
ほんまに、ええうたですわ!

投稿: あこがれ | 2019年3月18日 (月) 23時03分

東京在住の高校生です。私は当然当時の東京を知る世代ではありませんが、この歌がとても大好きで、何度も繰り返し聴いています。聴けば聴くほど味のある歌ですよね!
 サトウハチローは戦災孤児に心を傷めていたのでしょうか?1番の「たれを待つ心 かわいいガラス窓」や3番の「君は浅草かあの子は神田の育ち」などと、子供を連想する歌詞が出てきます。それぞれに対し、歌の中では視覚的な描写で応えていますが、1番では「霞むは春の青空か…」と続きます。誰かの帰りを待つ心で「ガラス窓」からこんな景色が見えたら、私だったら悲しくなります。見えるものはどれも遠くて手の届かないものばかりで、景色が清々しいだけに切ないです。3番では、「ほのかに胸に浮かぶのはあの姿」という歌詞のあとで、「夕日に染めた顔…」と、おぼろげな表現を持ってくるあたりが、「夢淡き」感じがしますね!
 私はこの歌が大好きですが、私のSP盤は1番大好きな3番が省略されています。(笑)4番まで入ったレコードはあるのでしょうか?どなたかご存じでしたら教えてください!

投稿: 北多摩 | 2020年2月 4日 (火) 11時58分

北多摩 さま

 掲示板にお便りしました。(一章)

投稿: 一章 | 2020年2月 4日 (火) 20時15分

大声で歌えなくなり仕方なく、老人会にて戦前・戦後の歌詞を逐語解説しています。以下はその原稿ですが、昭和7年作品『日本橋から』に導かれ考えました。穿ちすぎかもしれませんが、みなさまからのご教示をいただきたく投稿しました。

★昭和22年5月発表作品。米軍占領下の5月3日に日本国憲法施行。

★歌詞二三番は、『日本橋から』(濱田廣介・古賀政男1932)に似る。

○淡き:
おぼろではっきりしない

○柳・・・・銀座:
空襲で焼け残ったのは銀座七・八丁目の40本。        昭和21年4月、銀座四丁目に柳が復活。

○青空か:「か」は詠嘆の「だなあ」

○聖路加:
聖路加国際病院。キリストの使徒聖ルカに由来し、米国の教会資金で建設。米軍の空襲を免れ、1955年までは米軍専用病院。焼け跡だらけの銀座から見通せた。
 つまり、①キリスト教的友愛、
     ②米国の民主主義、
     ③GHQ占領軍総司令部、
 のいずれかの象徴か。

○橋:
掘割の埋立て前で、銀座には「数寄屋橋」など橋が多くあった。

○嘆き:
①空襲の記憶。猛火に追われ人々は川に飛び込んだ。
②敗戦後の窮乏生活。例えば、食糧の絶対量が不足し腹を空かせていた。

○踊る影:
障子に映る芸者。三十間堀に面した復興中の新橋花街か。

○浅草・神田:空襲で灰燼に帰した。

○夕日・茜の雲:空襲の炎の意も。

○風に通わす:風に伝えさせる。

○貧しき人:
①焦土と食糧難で生活に疲れ悲しむ男女、人々。
②「心貧しき人は幸い」(イエス)。
③労働者(1947年2月1日、吉田内閣打倒を掲げた2・1ゼネストがGHQにより中止させられた。)

○露地裏:路地裏。街中の狭い道

○すすり泣く:悲しげな音をたてる。(貧しき人が)静かにしゃくり泣く。

○小雨・雨:悲しみの涙の意もある。

○そぼ降る:しとしと降る(春雨)

○あの灯り:
希望の灯り。
 ①家族が寄合う家庭の灯
 (戦争が終わり、男女が安心して暮らせる。)
 ②聖路加病院の灯=キリスト教、
 ③露地を照らす裸電球一個の街灯=わずかな希望
   A日本国憲法=平和と民主主義。
   B社会主義=労働者の国。
①だろうが、②・③A・③Bを秘めるか。

○うるみてなやましく:
(春の小雨に濡れた灯りに)心がうるおい穏やかになったり、(冷たい夜風の)現実に苦しくなったりして・・・

○あわれ:悲哀。みじめさ。貧苦

○雨:「柳青める」春の暖かな雨

★作詞:サトウハチロー1903-73東京市牛込区。古関の曲に詞をはめ込んだ。
★作曲:古関祐而1909-89福島市
★唄:藤山一郎1911-93東京市日本橋区

投稿: うまちゃん | 2021年4月19日 (月) 11時44分

前に(’17-11-18)に一度、投稿させて頂きましたが、「夢淡き東京」は、大好きな歌です。聴くたびに、心暖かく、元気になるような気がします。

このたびの、うまちゃん様による、歌詞の逐語解説を、興味深く拝読しました。
大詩人・サトウハチローさんが作詞した歌では、「あゝそれなのに」(S11)、「目ン無い千鳥」(S15)、「勝利の日まで」(S19)、「リンゴの唄」(S21)、「長崎の鐘」(S24)などを、ときどき口遊んでおりますが、所々で、さすが、大詩人ならでは、と思わせる感性豊かな表現力に出合えて、知的好奇心をくすぐられています。
この歌でも、
歌詞1番の、♪誰を待つ心 可愛いガラス窓…♪ (ガラス窓が心を持っているという発想)
歌詞2番の、♪川の流れにも 嘆きをすてたまえ…♪(無形物を川に捨てるという発想)
歌詞4番の、♪あわれはいつか雨にとけ…♪(無形物が雨に解けるという発想)
など、個々の言葉は易しくとも、その繋がりようで、より深い表現力を生み出せるのだろうと、自問自答しております。 

投稿: yasushi | 2021年4月20日 (火) 13時53分

yasushi 様
私はどうも即物的に考える癖がありまして、形のない物を言葉の魔術で表現されると、理解できなくなってしまいます。yasushi 様のご指摘により、改めてそれを思い知りました。ありがとうございます。
『小さい秋みつけた』の歌詞「うつろな目の色とかしたミルク」の意味を訊かれたサトウ・ハチローが、「そんなこと俺にもわからないよ」と答えたとか。無理に解釈しない方が良いと言いたかったのでしょう。
それでもなお『夢淡き東京』は、私には、単なる男女の恋物語ではなく、戦争の傷を癒やすために作られた詞に思えます。「貧しき人は唄い」の歌詞があまりにも唐突なので、そう考えてしまいます。

投稿: うまちゃん | 2021年4月21日 (水) 16時39分

うまちゃん様のコメント('21-4-21)を、興味深く拝読しました。

“『夢淡き東京』は、私には、単なる男女の恋物語ではなく、戦争の傷を癒やすために作られた詞に思えます。”とのご説、同感です。

この歌が出来た昭和22年の東京と言えば、空襲で瓦礫と化したなかでの終戦(昭和20年)から、ようやく復興に向けて歩みだしたころと想像します。
食べ物、住まい、衣服など、すべてに困窮している市民生活では、将来に向けて確固たる夢を持つことなど叶わず、“今日よりも、明日はもっと幸せに”位の、淡い夢を見るのが精いっぱいだったでしょう。
なお、出だしの♪柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日 誰を待つ心 可愛いガラス窓…♪の部分には、“春”の到来を“希望”に結び付けて、困窮生活のなか、明るい将来に向かって進もうという願いが込められているように思うのです。

投稿: yasushi | 2021年4月22日 (木) 10時33分

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