惜別の歌(その2)
(その1から続く) 2
その日、膝まで没する雪を、朴歯(ほおば)の下駄で踏みしめ、踏みしめ、わが家へ帰った。そのころ、革靴は貴重品で、ゲートルを巻けば下駄での通勤が許されていた。
板橋から2キロほど離れた巣鴨に、祖母の隠居所があった。朴歯に雪が食い込み、何度か雪中に腕をついた。
かなしむなかれ、わがあねよ――その文句を繰り返しているうちに、いつしか姉が友になっていた。哀しむなかれ、我が友よ、旅の衣をととのえよ……。
このとき、ぼくが思い浮かべた〝旅の衣″は戎衣(じゅうい)であった。軍服。「風蕭蕭(しょうしょう)として易水(いすい)寒し、壮士一たび去って復(ま)た還(かえ)らず」という漢詩の一句が脳裏をよぎった。
「旅の衣は鈴かけの、露けき袖やしほるらん」
これは、弁慶が傷心の義経を守って、陸奥に落ちていく情景を唄った長唄『勧進帳』の最初の一句である。それがオーバーラップした。義経も弁慶も、富樫の情で、死をまぬがれるひとときを得た。だが……。
そんなことを考えているうちに、あるメロディが自然に浮かび上がってきた。ぼくの胸の中で死と隣り合わせになっていた若い、未熟な、無秩序な願望から、突然湧き出した不思議なメロディであった。
家に帰りつくと、『若菜集』を書架から引き出して来て、あらためて目をこらした。
きみがさやけき めのいろも
きみくれなゐの くちびるも
きみがみどりの くろかみも
またいつかみん このわかれきみのゆくべき やまかはは
おつるなみだに みえわかず
そでのしぐれの ふゆのひに
きみにおくらん はなもがな
旋盤を動かすモーターの音が工場内を圧しているとき、その音がかき消える瞬間があった。ぼくらの仲間に召集令状が届いたときである。
粛然として、ぼくらは動員学徒の控え室に集まった。口を開けばいつも口論になる憎いあいつでも、そのときだけは目をうるまして相手の手を握った。
君に贈らん花もがな。文字通りなんにもなかった。許せ、友よ。言葉にならぬその思いしかなかった。そして、その回数が頻繁になった。
ぼくがこの『高楼』に曲をつけたのは、言葉に出せぬ無言の別れを無言のままに済ませることに、どうにも我慢できない焦燥を感じていたからだった。
このつたない曲は、むろん表立って発表した訳ではない。口から口へと伝わっていっただけである。
中本は音痴のくせに真っ先に覚えた。調子のはずれた変な歌唱ではあったが、一点に眼をこらす例の表情で、おもしろくもおかしくもないという顔でいつも歌っていた。そして、この歌はいつか陸軍造兵廠第三工場から出陣する学徒兵を送る別れの歌になった。
その中本に召集令状が来たのは3月の末、桜がようやくほころびかけたころであった。その日は昼間の勤務であった。工場裏の土手に呼び出されて、ぼくはそれを知った。
「お前にはいい歌をもらった。だが、おれはお前にやるものがなにもない。これはつまらんものだが、おれの心にとめた先人の言葉を書いておいたものだ。もうこれからはおれにとって無用のものだ。もしよければ受け取ってくれないか」
表紙がボロボロになった1冊の大学ノートであった。
「いいのか。お前のご両親に残しておくべきじゃないのか?」
「いや、いいんだ。おやじやおふくろには別に書いてあるものがある。これはお前がもっていてくれ」
工場から中本の姿が消えて数日たった日、ぼくは昼休みに土手にのぼった。中本のノートを開いた。そこには老子やショーペンハウエル、パスカル、ボードレールなど、さまざまな先哲の苦悶の言葉が書き連ねてあった。赤い線が引いてある箇所がとくに印象的だった。
「末法たりといえども、今生に道心発さずは、いずれの生にか得道せん」(道元「正法眼蔵随聞記」)
「我より前なる者は、千古万古にして、我より後なる者は、千世万世なり。たとえ我等を保つこと百年なりとも、亦一呼吸の間のみ今幸いに生まれて人たり。庶幾(こいねがわくば)人たるを成して終らん。本願ここにあり」(佐藤一斎「言志録」)
「愛するもののために死んだ故に彼らは幸福であったのでなく、彼らは幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである」(三木清「人生論ノート」)
そういった箴言(しんげん)が、そのノートにはあふれていた。痛ましいほどの自己格闘がそこに点滅していた。
8月の初め、ぼくにも召集令状がきた。その1銭5厘の赤い葉書には、「9月1日午前9時、静岡県三方ヶ原陸軍航空隊に入隊を命ず」と記されているだけだった。それまでは準備期間として学徒動員が解かれ、自宅待機が許されていた。
そして8月15日がきた。その日、ぼくは焼け残った祖母の隠居所にいた。
酷暑という言葉にふさわしい日であった。正午、終戦を宣する天皇の玉音放送を呆然として聞いた。四球真空管のぼろラジオから流れてくる抑揚のない天皇の声はひどく聞き取りにくかったが、
「……耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す」
という一言だけが、なぜかぼくの肺腑をつらぬいた。このとき、涙があふれた。国運を賭けて今日まで耐えてきた歳月の重さが、全身から抜けていくようであった。
だが、それは生き残った人間の虚しさであった。生き残った者の心情など、この際どうでもよかった。
そのとき、ぼくが流した涙は、この戦いで死んでしまった幾百万の日本人の魂は、もう行くべき彼岸がないではないか、というその無念さであった。彼らの魂は、この瞬間、もう安堵することなく、無限にこの天空を翔び交うほかないではないか。
この日から1か月ほど、ぼくは近所の焼跡を覆う瓦礫の山を、なんの目的もなく、ただ1人で掘り崩す作業を、連日、痴呆のように続けるだけだった。もうB29の爆音も聞こえない夏の空は、吸い込まれるような青さに輝いていた。
大学が開いたのは、その年の10月であった。幸い神田の校舎は焼失をまぬがれていた。割れ落ちたガラス窓には秋風が吹き抜け、ときには黄ばんだプラタナスのわくら葉が教室に舞い込んできたが、ぼくらの精神はもっと病んでいた。
登校する学生の数は入学時の半分に減っていた。敗戦直前の戦闘に斃れた者、戦地から引き揚げてはきたが、そのまま郷里に根をおろしてしまった者、いちおう上京はしたが、もう学問など一顧もしない生活に飛び込んでいった者、それぞれが自分の運命の道を歩いていった。中本はついに帰ってこなかった。
帰校した学生のなかには、「おれはもう独逸法はやめた。これからは英米法の時代になる」という機敏な見通しで進路を変更する者や、「おれはマルクスをやる。これからのおれを支える杖は唯物論しかない」といって、さっさと転科の手続きをとる変わり身の早い者もいた。
が、大方の学生は、自分の思考を行動化できる人間に羨望と軽蔑のないまぜになった視線を投げるだけで、校庭の日だまりに身を寄せあい、無為な時間を過ごす以外に方法がなかった。
変身する者も、それができない者も、ささくれだった心の内面は同じだったのだ。両手の中で必死になって暖め続けてきたもの、その暖かさのためにのみ、自分の死を肯定しようとした掌(たなごころ)の中のものが消えたとき、若者たちの裡(うち)にあった何物かが死んだ。
戦中派といわれる世代に共通した点は、その胸中の死者を葬い切れないままに余生を生き続けている、という不逞な自覚にあるのではなかろうか。
昭和19年4月に予科に入学してから大学を卒業するまでの6年間、ぼくの心にアカデミズムはついに復活しなかった。いや芽生えなかった。
仲間のうちには学問への情熱をとり戻し、母校法学部の教授になった田村五郎や、東洋大学経済学部の教授になった坂本市郎などが、親しい友人としてぼくの周囲にいた。司法試験の難関を突破し、今は判事、検事、弁護士の要職にある友人も十指に余るほどいた。
そして、ぼくのように〝行方も知らず″組も何人かいて、ひとつのグループを作っていた。いずれも得がたき良友たちである。
みな『惜別の歌』を同じ心情で歌った仲間だった。その仲間が大学を卒業して、それぞれの道に散っていったのは昭和25年3月のことである。
3
造兵工廠の仲間は散り散りになったが、『惜別の歌』は中央大の後輩たちへと受け継がれ、学生歌として定着した。
中央大学の音楽研究会・グリークラブが、『惜別の歌』のレコーディングを企画し、学生課の人がぼくを訪ねてきたのは、昭和26年の夏ごろであった。学生たちが、いまもなおこの歌を愛唱しているので、ぜひレコードにしたいとのことであった。
拒む理由はなかったが、1つ問題があった。
この島崎藤村の詩は、処女詩集『若菜集』(明治30年、1897年)にある『高楼』から採ったもので、原詩は嫁ぎゆく姉とその妹との対詠という形式になっている。だから『惜別の歌』の1節、「悲しむなかれ、わが友よ」は、正確には「悲しむなかれ、わが姉よ」である。姉を勝手に友に置きかえて歌っていたのだ。
レコードに吹き込むなら、原詩の著作権者の諒承が必要であった。
幸いだったのは、ぼくの勤務していたのが新潮社だったことである。たまたま、その時期に『島崎藤村全集』19巻が新潮社から刊行中だった。そのおかげで、藤村の遺児で画家の蓊助氏とは、ぼくも面識があった。
さっそく、蓊助氏宅をお訪ねして、ご承知いただけたのは何かの〝めぐり合わせ″という感が深かった。
この歌がさらに一般の歌となるまでには、なお曲折があった。
戦争中、板橋の造兵廠で『惜別の歌』を歌って学徒出陣兵を送った学生・生徒たちは、それぞれの大学や学校に戻ったあと、友人などにこの歌を歌って聞かせた。東京女子高等師範学校(お茶の水女子大)の学生など、卒業後教師になった者のなかには、赴任先の学校で生徒にこの歌を教えた者も多かったと聞く。
そのようにして、この歌は全国に拡散していったのであった。
ぼくは知らなかったが、昭和30年ごろ、各地の盛り場に「歌声喫茶」なるものが続々と出現していた。毎夜、100人を超える若者たちが集まって、〝われらの歌″の大合唱をするのである。
その合唱の曲目のなかに『惜別の歌』が組み込まれていた。レコード会社は「歌声喫茶」に着目し、リクエスト回数の多い歌を次々にレコーディングして売り出した。『惜別の歌』もそうして商品化された。
ただ、レコード会社の敏腕な社員も、この曲を作ったのは、おそらく藤村と同時代の人間で、すでに物故者だろうという早合点から、積極的に作曲者を探そうとはしなかったようである。
なぜなら、ぼくのところへ日本コロムビアの邦楽責任者が探し探しして訪ねてきたのは、もうとっくに小林旭というスターの吹き込みが終わり、発売予定の1週間前だったからである。
レコードジャケットを見ると、ぼくが楽譜に書いた『惜別の歌』は『惜別の唄』となっており、歌詞の4番が削られて3番までとなっていた。
「もう発売を待つばかりです」と言われては否も応もなく、断る余地は残されていなかった。こういう形で世に出たのも、やはり何かの〝めぐり合わせ〝だったかもしれない。
それはともかく、1少年の感傷から生まれた歌は、このようにして思いがけず長い生命をもつことになったのであった。
(その3へ続く)
コメント
今だから、考えることですが、無能な国家の国民の命を歯牙にもかけない政策がたくさんの悲劇をおこしたのですね。その渦中にいて、やむなく従わざるを得ない心情が推察できます。
現日本は平和ではありますが、金、色欲、名誉欲と嫉妬丸出しでたくさんの黒雲が渦巻いています。それに比べるとその時代は国民は一丸となっていたのでしょう。それがいいとも限りませんが…。
投稿: 羽田光利 | 2007年9月 9日 (日) 13時11分
中央の昭和51年度卒業生ですが、卒業式の時に「惜別の歌」を歌いました。ところで、文中の東洋の「坂本一郎」先生とは、「坂本市郎」先生のことですね。
投稿: Nagakura | 2009年2月 7日 (土) 20時21分
Nagakura様
東洋大「坂本市郎」(名誉)教授であることを確認しましたので、修正しました。(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2009年2月11日 (水) 00時28分
黙祷の 一分間の 蝉時雨
8月15日になるとこのページを読んでみる。
無名の大学生の書いたメロディーが、多くの人に歌いつがれ、広まっていく過程が克明に書かれています。不思議な歌の運命をおもいます。
戦争が終わり、大学に戻ってきた学生の中には、新しい生き方を見つけられず、呆然自失の心持のものが多かったとか。
そうだろうなあ・・と想像できます。
定年退職をした自分の経験で当てはめるのも、的外れかもしれないが、定年になったが、さて何をして良いのか、とまどいの時間が、私の場合、3年間ほど必要だった。まして、国家総力戦といわれた全国民を巻き込んだ戦争であったなら、精神の危機ともいえるほどの脱力感に襲われたことでしょう。
帰らぬ友人中本の残した大学ノートの書き込みが感動的です。有為の若者を失ったというほかない。もったいない命です。
そして残された学生たちも、余生を生きるという感覚で、人生を再出発させた。これも痛々しい話です。
戦争はなんとしてもおこしてはならない。
このページを読むと、理屈ぬきで、素直にそう強く念じることができます。
投稿: 越村 南 | 2014年8月15日 (金) 10時24分
お正月にふさわしい歌は何だろうと漠然と考えるうち、この『惜別の歌』のメロデイーが聞きたくなりました。
そのわけは、ひとつは、二木先生の数ある<蛇足>の名解説のなかでも、この解説は傑作のひとつだと思うので、もう一度、心あらたに読んでみよう、歌を聞いてみようと思ったわけです。
もうひとつには、私は65歳で、定年後、4年近くブラブラしていたのですが、あるきっかけで会社勤めを再開しました。
私の住んでいるベトナムの会社で、日本人は2人だけ。もう一人は信州松本の人。信頼のできる人で「ううむ、これが信州人か、なるほど・・」と思うことが多く、つい二木先生の「信州人気質の解説」(『信濃山国』など)を思い出します。そこから、信州を舞台とした若菜集に気持ちがいってしまい、この『惜別の歌』にたどり着いた。そういう心理背景もあったように思います。
みっつめに、戦争はしてはならないという決意は、年頭に、これ以上ふさわしい思いはないと、年とともにかみしめるからであります。
投稿: 越村 南 | 2015年1月 2日 (金) 13時00分
昭和34年のお正月に中央大学に行った友人が帰省していたので遊びにいきました。そこに彼女の先輩の男子学生が遊びに来ていて、丘の林の中を歩きながらこの歌を歌ってくれました。夕方京都まで行く彼と国鉄の駅まで一緒に帰りました。ところが彼の乗る最終の列車が出てしまい、彼は駅の待合室で朝一番の始発を待つと言いました。私が背を向けて家に帰ろうと歩き始めた時「あのうコーヒー一杯付き合って下さい」と後ろから声がかかりました。近くの喫茶店で彼は授業料を滞納していて、退学になりそうなので京都の親戚に借りに行く途中だったといいました。何と京都までの片道切符しかなく、たった百円しかない無い持ち金で私にコーヒーを奢ってくれたのです。彼は家からの仕送りがなく、肉体労働や売血で生活していると話してくれました。知らない男性を家に連れて帰るわけにはいかないのでそのまま「有難う」と言って別れました。10円のコッペパンで1日の飢えを凌ぐ人のお金を使ってしまい、それからずっと彼のその後を心配をしていました。
40年後、私の友人に会った時彼のその後がわかりました。親戚でお金が貸して貰えず10円だけもらって入場券で汽車に乗り、検察を逃れながら東京まで帰ったそうです。その後大学教授になり活躍していると聞きました。どれ程の苦労を乗り越えた事かと彼の痩せた体と「惜別の歌」を思い出しました。今はもう退職されて豊かな日々を送られていることと思います。私は若い人にこの人の話をします。「いい勉強になりました」という青年がいます。
今も同じ境遇にいる青年がいるでしょうね、「頑張れ!」とエールを送りたいと思います。
投稿: ハコベの花 | 2015年7月28日 (火) 15時02分
一昨日の新聞に、本歌の作曲者 藤江英輔氏の訃報が報じられていました。今月の14日に90歳で亡くなられたとのことです。氏の世代は、学業半ばで徴兵年齢の繰り下げにより学徒出陣し、かけがえのない青春を戦争のために犠牲にした戦争世代と言っていいでしょう。氏の『惜別の歌』誕生物語を読むと、その無念さが行間に滲み出ているように感じます。同時に、生き残った者の「後ろめたさ」が滓(おり)となって戦後もつづいていたことが分かります。戦争は単に人的・物的被害をもたらすだけでなく、人間の内面生活までも破壊してしまうものだということです。こうした、死と生のぎりぎりの状況のなかで、本歌が生まれたことを、わたしたちは肝に銘じておきたいものです。氏のご冥福をこころよりお祈り申し上げます。
わたしたちの国は、戦後70年、藤江氏らの戦争世代の多くの犠牲のうえに、曲がりなりにも平和国家の道を歩んで来ました。それが今や風前の灯です。戦争実体験者の多くが亡くなり、「戦争を知らない世代」が圧倒的多数になりました。愚かで、無益で、悲惨な戦争を語り継ぐ者がいなくなれば、「戦争反対」「平和主義」の国是も色褪せてきます。代わって、「積極的平和主義」の名のもとに、わたしたちの国が、他国の紛争や戦争に巻き込まれる危険性が高まってきました。経済的理由づけで防衛産業の成長を期待する声も出ています。わたしたちは、もう一度今次大戦で亡くなった死者の声に耳を傾けるときではないでしょうか。
投稿: ひろし | 2015年10月26日 (月) 12時18分
島崎藤村生誕地馬籠宿の隣、妻籠宿の住民です。
藤村の「高楼」が「惜別の歌」という題になり、「我が姉」が何故「我が友」に変えられたのか、今まで知らなかったのですがよく分りました。
作曲者 藤江英輔さんと、その時代が産んだ歌であることの重さを心して歌いたいと思います。
紹介された理屈っぽい信州人気質は、私も受け継いでいます。
尚、私は詩吟をやっていますが、吟詠では島境藤村の原作に符付けして吟詠しています。
全く趣が変わりますが、発表された作品は作者の手を離れ、受け取り手や表現者により変わる好い例だと思いました。
藤江さんの文を紹介して頂き、ありがとうございました。
投稿: 伊藤正博(民宿のマサジイ) | 2016年1月19日 (火) 11時14分