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2007年4月11日 (水)

あの日にかえりたい

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞・作曲・唄:荒井由実

1 泣きながらちぎった写真を
  手のひらにつなげてみるの
  悩みなき昨日(きのう)のほほえみ
  わけもなくにくらしいのよ
  青春の後ろ姿を
  人はみな忘れてしまう
  あの頃のわたしに戻って
  あなたに会いたい

2 暮れかかる都会の空を
  想い出はさすらってゆくの
  光る風 草の波間を
  かけぬけるわたしが見える
  青春の後ろ姿を
  人はみな忘れてしまう
  あの頃のわたしに戻って
  あなたに会いたい

  今愛を捨ててしまえば
  傷つける人もないけど
  少しだけにじんだアドレス
  扉にはさんで帰るわ あの日に

《蛇足》 青春の巨匠・荒井(結婚して松任谷)由実が昭和50年(1975)に放ったヒット曲。

 ある程度の年齢に達したとき、青春時代を追想するなかで、「あの日に帰りたい」と思わない人はまずいないでしょう。しかし、仮にタイムトラベルが実現してそれが可能になったとしても、私は帰ろうとは思いません。

 記憶には純化作用があり、不愉快な事柄は意識的・無意識的に消し去ろうとする傾向があります。輝ける青春だと思っていたものが、実際には後悔・恥辱・劣等感・怒り・不安などに満ちた苦渋の時代だったというのがおおかたの例ではないでしょうか。とりわけ私の青春はそんなふうだった気がします。

 もし帰れたら、あの人を失う原因になった愚行を修正しよう、あたらふいにした成功を取り戻そう、もっと勉強しよう、などと人は考えます。しかし、そのこと自体は修正できても、そこから分岐して始まる新たな人生では、また同じような愚行や失敗を繰り返すことになるでしょう。

 そんなことは重々わかっているし、戻れても戻るつもりもないけれど、「あの頃の私に戻りたい」思いをぬぐえないまま、人生晩期の日々は飛ぶように過ぎていきます。

 ところで、タイムトラベルは可能なのでしょうか。
 私たちが通常考えているようなタイムトラベルとは違いますが、自分が過ごしたのとは違う過去が存在すると考えることは可能なようです。

 量子力学では、電子の振る舞い方などから、すべての事象は蓋然性として存在し、ある蓋然性が観測されたとき、初めて実在として現れる(=波動関数の収束)と考えられています。
 これをマクロな事象に当てはめると、たとえば、月は私が見るまではそこに存在せず
(=蓋然性としてのみ存在し)、私が見ると同時に中天に実在化する、ということになります。

 これは物質だけでなく、現象についても当てはまります。Aさんの恋について考えると、19××年×月×日×時×分×秒には、彼または彼女に振られるAさんと振られないAさんとが重ね合わせに存在しており(=量子コヒーレント)、振られないほうのAさんが観測されれば、振られないAさんが実在化するということになります。

 このように、世界は量子論的極小時間(プランク時間)ごとに、ほんのわずかずつ異なる事象の蓋然性が無限のグラデーションのように並んでいるというのです。ここから、自分が所属しているのとは異なる世界が無数に存在するという考え方が生まれます(多世界解釈)

 しかし、どうすれば異なる世界を観測して実在化できるかはわかりません。その技術はとうてい開発不可能に思えます。
 ただ、量子力学の考え方によれば、その技術が開発できる状態とできない状態とが重ね合わせに存在するということになるので、理論上は絶対に不可能とはいえません。

 観測という人間の行為がどうして事象の実在化を左右するのかはまったくわかっていません。
 物理学者のフォン・ノイマンは、この現象は量子力学の枠内では説明不可能と指摘し、物理現象が「意識」と相互作用する際に波動関数の収束
(=事象の実在化)が起こる、と主張しています。
 となると哲学の分野にまで踏み込むことになりますが、このあたりに異世界移行のヒントが存在しそうな気がします。

(二木紘三)

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コメント

先生の博識に今更ながら驚いております 文科系の方とばかり思っておりましたら 量子論までも造詣がおありとは びっくりです

投稿: まだ夢みる男 | 2007年2月24日 (土) 09時20分

 この二木先生の「蛇足」、実に興味深く読ませていただきました。理論物理学などチンプンカンプンの私ですが、量子力学の解釈をめぐって、すべての事象は決定論的に説明できるとして「神はサイコロを振らない」と批判したアインシュタインに対し、「神のなされることに人間が口出ししてはならない」とニールス・ボーアがやり返したという論争などは、文系の人間にもおおいに興味をそそられます。
我々人間が事象を「観測」した瞬間にはじめて蓋然性が収斂され、事象が「実在」として認識される、という解釈は、どこかショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」を想起させるものがあります。ちなみにボーアをはじめシュレーディンガー、ハイゼンベルクといった量子力学の大家には、ショーペンハウエル同様東洋哲学から少なからぬ影響をうけた人物が多いというのは面白いですね。
 ユーミンの名曲「あの日にかえりたい」が、タイムカプセルの話に有機的に展開され、一気に量子力学の世界にまで翔けあがってゆく、これぞ「うた物語」の醍醐味!

投稿: くまさん | 2008年7月15日 (火) 13時13分

 二木先生のご造詣の深い深遠な解説、そしてくまさん様の奥深い珠玉のコメント。私も大いに啓発されました。そこで以下に、いささか破天荒な言説を弄させていただきます。妄言としてお読みください。
                        *
 私はこの現実と同時に、「平行現実」「平行宇宙」というようなものが無数に存在すると思います。仏教でいう「三千世界」は、そのような複合的な世界観、宇宙観を示唆しているのではないでしょうか?
 この3次元地上世界で生き動き回り、「現実」はこれしかないと信じ込んでいる自分以外に、実は少しずついや時には全く別の現実を体験している「多くの自分」がいる。そして更にはそのような多くの自分を束ねている、高次の大いなる自己(ハイアーセルフ)がいる。
 そこでは過去・現在・未来という直線的な時間感覚や把え方はもはや意味を失い、「大いなる自己」の視点では、過去も現在も未来も「永遠の中今」として同時に存在している…。
 もしかして私たちは今、そのような「多次元的自己」に目覚めつつある、プロセスの真っ只中にいるのではないでしょうか?もし仮に多次元的に開けた地平があるとしたら、「今この時」そして「あの日あの時」はどのように把え直されてくるのでしょう?
 

投稿: 大場光太郎 | 2008年7月19日 (土) 00時34分

どこかに地球から70光年の星がある。
その星に高等生物がいて、望遠鏡で地球を覗いたとする。
その生物が、70年前に私が生まれる瞬間を目撃することは、十分にあり得る話だと私は思います。
私にはチンプンカンプンの話だが、相対論では光速を超えることができないが、量子論ではミクロの世界では光速を超えることもあるとか。
いつの日か、超光速の物質を使ってその生物とネット交信して、光より先回りして私の「あの日」を眺めることはできないでしょうか。

投稿: 周坊 | 2008年7月19日 (土) 17時07分

この歌の詩は別の曲につけるはずだったというのはよく知られています。その曲は『スカイレストラン』としてハイ・ファイ・セットが歌いました。ですから、二つの歌は詩を交換しても歌えます。(私自身は曲・詞とも『スカイレストラン』の方が好きです。)実際に『あの日に帰りたい』の詩を『スカイレストラン』の曲で歌ってみると、イメージがかなり違ってきます。もしあの日に帰ってこの組み合わせで荒井由美が歌ったとしたら...。しかし、“もし”はありません。
量子力学や統計物理学が確立される以前の古典力学では数学的に時間軸は対象であり、過去と未来を同等に扱うことが出来るため、時間が一方向にのみ進むことは説明できませんでした。
シェークスピアは『ジュリアス=シーザー』の中で、カエサル亡き後のアントニウスとの戦闘を前に、ブルータスに次のように述懐させています。「人は、来るべき日の結果を知ることができればと思う。しかし、その日が終わった時には結果がわかっているのだ。」至極当然のことですが、人は同じような、期待と不安の入り混じった状態を色々な場面で経験します。二木先生の例を使わせていただくと、Aさんが恋焦がれる女性に告白する前は、愛を受け入れられる可能性と、振られる可能性の(確率の)世界で心が揺れ動きます。しかし振られてしまった途端に、Aさんにとってのそれまでの期待と不安の入り混じった状態は一瞬にして消え去ります。戦闘にしても、愛の告白にしても、結果が出てしまえば、それまでの未確定な(確率論的な)状態は消え去るということです。量子論では、量子は確率的な存在であり、観測という行為は量子の状態を変えてしまうと説明されており、ひとたび現象が生じてしまうとそれまでの確率論的な状態は消失してしまうというこの世の掟を、量子論は端的に象徴しているように見えるかも知れません。
量子力学は厳密な意味ではミクロな世界の現象に適応されますが、統計物理学はもっと明快にマクロな現象の不可逆性を示しています。インクを一滴コップの水の上に落とすと、インクは拡散して次第に薄まって行きますが、拡散したインクを元のインク瓶に戻すことは出来ません。いわゆる『覆水盆に帰らず』です。時間軸がなぜ過去から未来へ一方向に進むのかは、我々が存在する宇宙がビッグバンとともに生じて以来拡張し続けているという観測事実から、統計物理学的に説明されるべきものなのかも知れません。

投稿: Yoshi | 2011年5月22日 (日) 14時25分

度々お邪魔して申し訳ありません。

前回のコメントで間違いがありました。
『あの日に帰りたい』の曲に別の歌詞がつくはずだったというのが正しく、その歌詞に新たな曲がついてハイファイセットが歌ったのが『スカイレストラン』でした。

投稿: Yoshi | 2011年5月25日 (水) 21時01分

私は二木先生の青春時代とはやや違い、山陰のど田舎から大商都大阪での環境への戦いと言えるような日々の中で、この美しい曲に染められて癒されて夢やエネルギーにすりかえられたのではと、今の思いです。
当時、年に数回田園等の音楽喫茶でこの曲と同じくシンガーソングライター丸山圭子の「どうぞこのまま」をリクエスト、2曲とも心地よいボサ・ノバのリズムに乗せてとろけるような美しいメロディを、少女のような若い女の子がよく作ったものだと今も感動しています。
   このたしかな時間だけが 今の二人に与えられた 唯一のあかしなのです・・・・・・・

しかし丸山圭子はこの名曲1曲ポッきりで・・・青春も夢も全てをこの曲に捧げたのでしょうか?

投稿: 尾谷光紀 | 2012年2月 8日 (水) 23時10分

愛しい人と離れてしまったのは私が長男で彼女は次女ですが姉が既に嫁いでしまっっていたので婿取りの身でした。結果的には今義母を看ているのだから、私が苗字を捨てても良いと言ってしまえば良かった事なのでしょうね。ハコベの花さんこんな意気地なしも世の中にはいたのですよ。

投稿: 海道 | 2012年9月30日 (日) 06時18分

この歌は今日まで、全く知りませんでした。タイムマシンが出来ても一瞬はかえってみたいと思いますが、やはり沢山の嫌だった事も付いてくるのですから帰らない方が良いのでしょう。楽しかったことだけを思い出して、心の慰めにする方がお得です。私はあの人と結婚していればと思っても、必ずマイナス面も考えてしまいます。ただ彼の心の中に若い日の私が少しでも住んで居てくれれば幸せだと思っています。逢いたくて涙がこぼれる日もありますが、それは甘い涙です。恋をしなかった人よりも何倍もの人生を生きているように思います。海道さんは意気地なしなのではなく、冷静すぎたのでしょうね。仕方がない事です。それが青春です。

投稿: ハコベの花 | 2012年9月30日 (日) 11時50分

この歌にちぎった写真という歌詞があります。皆さんは写真を破いた事がありますか。私は十年前、結婚してからの夫の写真をすべて破いてゴミ袋にいれて出してしまいました。もう夫の何もかも嫌になってしまったのです。本当にすっきりしました。離婚はしませんでしたが、私の40年を返せと詰め寄りました。自分の人生を夫に邪魔されたという怒りが爆発したのです。そのあとの十年は何とか平和が保たれています。思い切りよく写真を捨てて良かったと思います。人生のやり直しは出来ませんが、どこかで帳尻を合わせないと家族が不幸になります。
海道さん、恋をした相手を理想化していませんか。私は神に近いほど理想化していることに気がついたのです。会うことがあってもがっかりするに決まっています。夢は夢でそっとしておいた方が幸せかもしれません。

投稿: ハコベの花 | 2012年10月 1日 (月) 21時31分

ハコベの花さん色々人生の先輩としてのアドバイス身に沁みます。有難う御座いました。そっとしておきます。

投稿: 海道 | 2012年10月 2日 (火) 14時35分

海道様 時々、わっーと悲しみに襲われる事がありませんか。私は高校時代からずっと愛読している福永武彦の『草の花』を取り出して読みます。初版の本は駅のホームで彼と別れる時に形見のつもりで手渡しました。あれから50年、幾たび読み返した事でしょうか。どん底の孤独からこの本はたびたび私を救ってくれたのです。先日、朝日新聞の読書のコーナーで女優の宮崎美子がやはり高校時代からずっと手放せない1冊と書いておりました。誰にも理解されない絶望と悲しみ、私はこの本に救われて生きて居ります。今夜は美しい人の夢を見られます様に。

投稿: ハコベの花 | 2012年10月 2日 (火) 20時32分

皆さん今晩は

ユーミンの初期の作品には、いいものが多数ありますね。

フランスのCarole Serratさんが彼女の初期の作品をtempo up して、曲もプチ・ロック調にアレンジしたCD二枚、あたしのメッチャお気に入りのお宝。
歌詞はフランス語ですが、スキッとしてるから大好き!

ユーミンといえば、フランソワ・アルディの熱狂的なファンで、彼女のレコードを購入するときは、同じものを二枚ずつ買うて、明けても暮れても聴いていたという伝説の持ち主。

あのユーミンの独特のメロディーや曲風、そして歌詞や
歌唱法が、どのくらい影響をうけたかは定かでないが・・・

ユーミン本人が作詞、作曲し大貫妙子さんが歌っている歌の歌詞の一部を紹介

タイトル「わたしのフランソワーズ」

たそがれどき ひとりかけるレコード
4年前にはじめて聞いた曲を
私のフランソワーズ
あなたの歌に わたしは帰るのよ
さみしい時は いつも

あなたの顔 写真でしか知らない
私はただ・・・・

ユーミン本人も歌っているけれど、個性が強すぎてイマイチ
ながくなりました。
  
     Au revoir
   

  

投稿: トッコ | 2012年10月 7日 (日) 20時09分

皆さん、御用とお急ぎでない方は、駄話にお付き合いください。

ブブ女史の意見

b「若返りなんって簡単よ、地球の自転と反対方向にぐるぐる回ればいいのよ」

一見なるほどと思いたいが、モチ駄目

サッコ女史の意見

s「超光速で加速度飛行すれば、若返るわよ」

正解である、でもでも、

光速の90%で機体の質量は2.7に増加

光速を超えると機体の質量は無限大になるので

これも夢物語、でわでわ、

光速の90%でガマンして歳とる時間を遅らせて地球に帰還したら?

これも機体を地球の軌道に乗せるには大幅に減速しなきゃ、悩ましいね、

それで折角稼いだ時間も減速過程で相殺されチャラ、元の木阿弥ね。

結局、タイムマシンなんて荒唐無稽のSFのお話かも

 ながくなりました

     またね

投稿: トッコ | 2012年10月24日 (水) 20時53分

 この歌のコメントとして小説『草の花』に言及された方がいらっしゃいました。私も大学生の頃に読んで以来、何度となく読み返して来た作品です。
 『草の花』は当時危険を伴った結核の肺葉摘出術を受け、術中死亡した汐見茂志が残した二つの『ノート』を中心に描かれています。第一のノートは汐見の旧制高校時代の、第二のノートは24歳の頃の回想となっています。回想という描き方は福永武彦の他の作品にも多く用いられています。私は『草の花』と並んで『廃市』を愛読して来ましたが、この小説も回想の形で描かれています。
 回想とは過去のことを思い返すことですが、蘇った『記憶』は多少なりともデフォルメされているものです。それ故、他人と過去のことを話しても細かい点で記憶が相克していたり、かの場所に行ってみると、記憶とはかなり違っていたりということが往々にしてあります。
 記憶するにはまず、事象を認識して脳の中に記銘することが必要です。認識という行為は五感を通じて感覚神経経由でインプットされた外界の情報を脳で処理する過程ですが、現代の脳科学は、我々は外界の事象を脳の中に投影して感じているのに過ぎないとしています。それ故、それぞれの主体にとって、現実に起きている事象を認識しているのか、バーチャルリアリティ、即ち仮想現実を認識しているのか区別がつかないということが起こり得ます。更に、痴呆が進んだ人の中には過去の記憶の中の事象を現実に起きているものと認識する人がいます。その人にとってはそれが現実ですから、『あの日』に帰っているのです。

投稿: Yoshi | 2012年11月26日 (月) 20時17分

恥ずかしい話ですが、アラ還になるまで、「にじんだアドレス」を痕ですとばかり思っていました、泪でにじんだメッセージを挟むと言う風に
でも、状況説明に省略はあるのですが、痕ですも悪くはないと自己満足しています。

投稿: mesato | 2014年3月12日 (水) 19時22分

 「蛇足」の中に「あの頃にもどりたい・・・でも又同じような愚行や失敗をくり返すことになるでしょう」とありました。同感です。「あの頃は」にとても懐かしさを覚えますが、自分の性格を考えると多少の修正を試みても、自分自身が全く違う人間にならなければ結局は同じ結果になるだろうとおもいます。今だに未熟な人間ですが、今が良いのです。色々な人たちがいて色々な事があって、今の私がいる。それで良いのです。

 また、「蛇足」にタイムトラベルのお話がありました。TVで観たのですが「ニコラス・ケイシ」の「ネクスト」という映画がありました。まさに二木先生の「量子論的極小時間」であって「多世界解釈」でした。

 主人公は予見出来るのは自分の身の回りに起る2分先の未来が見えるのです。次から次へと同じ場所の出来事を繰り返しながら、少しずつ修正されていき危機を回避していくという内容でしたが、まさに「蛇足」の中の解説を映像化したドラマでした。

 

投稿: konoha | 2017年3月20日 (月) 12時06分

 訂正いたします。「予見する」ことと「現在を修正する」とはおおきな違いがあります。でも逆発想したらまさに二木先生の解説を映像化したようです。

投稿: konoha | 2017年3月20日 (月) 12時25分

 70年代の半ば頃から、それまで流行りの『フォーク』の後を追うかのように音楽シーンを席圏したのが『ニューミュージック』と呼ばれるものでしたが、その旗手と言える歌手が女性では荒井由実、中島みゆき、五輪真弓らでしたね。 『あの日にかえりたい』はTVドラマの主題歌に使われたこともあり、その直前の『ルージュの伝言』のヒットもあって、荒井由実の名が世の若者に広く認知され、大きな支持を受けることになったと思います。

 この曲とは全く関係ないのですが、私はタイトルが似ているというだけで思い出す歌があります。 その昔ペギー葉山が唄ったサトーハチロー作詞の『小さいあの日にかえりたい』という歌です。
 小さいあの日にかえりたい 
 林の山鳩 田んぼのかえる 鳴き声まねして 歩いてた      聞こえないのに 口笛吹くと ムラサキアゲハが すぐに来た
 だれでもかれでも友達だった
 小さいあの日にかえりたい

 さて、驚いたことに、このユーミンの『あの日にかえりたい』も、私が蒐集している「五七調の歌」でした。 『うた物語』のなかで8曲になりました。 だからどうした……?ですが。

投稿: かせい | 2018年11月 3日 (土) 16時43分

真っ青な秋空に一筋の雲を作って飛行機が飛んでいきます。雲を見ているだけで、あの人に見つめられで固まってしまった高校生の私に戻ります。現実には戻る事が出来ないあの日に自分の感情は戻っていきます。溢れるような懐かしさ、もう出会えない悲しさ、17歳『草の花』の汐見と千枝子の悲しみが自分の事のように胸に広がります。その思い出が私を今まで生かしてくれていたと思っています。「今日、航空隊でT33練習機に乗ってきた」という葉書の文字。飛行雲を見るたびに17歳に戻ることが出来る幸せ、死の瞬間に私は何を見るのでしょう。楽しみです。
多分konoha様は分かって下さるでしょうね。
nobara様お元気になられて良かったですね。何年か前に女性が少ない投稿欄で、男性のどなたかに嫌味を言われたときに優しく慰めて下さって有難うございました。女性が増えてとても嬉しくおもっています。今後とも夢を追いかけたいと思っています。よろしくお願いいたします。

投稿: ハコベの花 | 2018年11月 3日 (土) 18時37分

 二木先生の蛇足に引き込まれました。学生時代にこういう先生に出会っていたら、今の私ではなかったと思います。量子力学の話をされると、文系の私は手も足もでません。しかし、タイムトラベルが可能だとおっしゃるところをもう一度読みたいです。
 この歌は退職後に知りました。ギターのところで知ったのです。松任谷由実もこのころ知ったと思います。「あの日にかえりたい」という歌詞は私にいろいろなことを教えてくれました。

投稿: 今でも青春 | 2018年11月 3日 (土) 20時00分

 それでは「量子論的極小時間」、「多世界解釈」を説明してくださいと言われても物理が大の苦手な私には説明のしようもありません。二木先生の『蛇足』の説明が、ニコラス・ケイジ主演「ネクスト」をみたときのタイムトラベルな時間が行きつ戻りつしながら、映像が重なり合いながら少しずつ過去の時間の中で未来の時間が見え、現時間の現場になっていくという「たった2分間のタイムトラベル」が、先生の解説のようだと思いました。 過去に投稿したさも分かったような自分のコメントを再読しまして、恥ずかしい限りです。😰 あのときは何故か閃いてしまったのでした。全くもって恥ずかしく冷や汗ものです。

 ハコベの花さまの想いは清らかなまま色あせずなのですね。純なお気持ちが羨ましいです。
 

投稿: konoha | 2018年11月 3日 (土) 21時42分

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