椰子の実
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:島崎藤村、作曲:大中寅二
1 名も知らぬ遠き島より 2 旧(もと)の木は生(お)いや茂れる 3 実をとりて胸にあつれば 思いやる八重の汐々(しおじお) |
《蛇足》 この詩は、島崎藤村が友人の柳田國男(やなぎた・くにお)から聞いた話をもとに作ったものとされています。
柳田國男は、明治31年(1898)8月から9月にかけての約1ヶ月間、愛知県南部、渥美(あつみ)半島先端の伊良湖(いらご)に滞在しました。このとき、浜辺に漂着していた椰子の実を見つけて感動した話を、東京に帰ったのち、藤村にしました。
すると、藤村は「君、その話を僕に呉れ給へよ、誰にも云はずに呉れ給へ」と柳田に頼んだといいます。このとき聞いた話が、この名詩となって結実したわけです。このエピソードは、柳田の著書『海上の道』などに記されています。
『椰子の実』は、『落梅集』に収められています。昭和11年(1936)、大中寅二(おおなかとらじ)によって曲がつけられ、国民歌謡として全国に放送されました。
日本民俗学の大成者として知られる柳田國男は、明治8年(1875)、兵庫県神東郡田原村辻川(現在は神崎郡福崎町辻川)に生まれました。東京帝国大学法科大学を卒業後、農商務省等の中央官庁や朝日新聞社に勤めながら、民俗学の研究を進めてきました。のちに請われて國學院大学教授就任。民俗学の金字塔『遠野物語』は、明治43年(1910年)の成果です。
晩年には、日本民族は、南方から黒潮に乗って日本列島に達したという主張を『海上の道』にまとめました。これも、若いときに伊良湖で見た椰子の実から発想したものといえるでしょう。
2番の浮寝は「寝場所が一定しないこと」です。このほかに、1水鳥が水に浮いたままで寝ること、または水上に舟をとどめて夜を明かすこと、2心が落ち着かず、安眠できないで横になっていること、3夫婦でない男女が一時的に契りを結ぶこと――という意味もあります。
3番の流離は「さすらうこと」。「激る」は通常は「滾る」「沸る」と書き、川の水などが激しく流れること、または湯などが煮えたつことという意味で、転じて怒り・悲しみ・焦りなどの感情が激しく湧き上がることも表します。
(二木紘三)
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コメント
すばらしいホームページにめぐり合えました。
このHPから多くの曲を思い出し、かつ歌うことができました。
お年寄り・子ども達にハーモニカを聞かせています。
感謝しています。
高橋真梨子さんの「遥かなる人」を載せてください。
投稿: 石井義文 | 2008年2月 2日 (土) 10時05分
これほど抒情性の豊かな歌はないと思います。なんと言っても島崎藤村の詩が素晴らしく、曲も情感あふれる見事なもので、まさに日本を代表する名曲の一つでしょう。
これを聴いていると、遠い南海の孤島に生い茂る椰子の木が思い浮かんできます。そこから流れ着いた椰子の実一つ・・・詩人・藤村の感慨が伝わってくるようです。
以前、藤村の故郷である木曾の馬籠を訪れたことがあります。歴史小説「夜明け前」を読んだ後でした。詩人としても作家としても、日本文学に不朽の足跡を残した藤村に敬意を表したかったからです。彼の(地元の)お墓は小高い丘の麓にありました。そこに詣でたことは忘れることができません。(なお、藤村の遺体が葬られた本当のお墓は、神奈川県大磯町の地福寺にあるということを後に知りました。しかし、私にとっては、藤村の“故郷”である馬籠の方が恋しく思われます。)
投稿: 矢嶋武弘 | 2008年4月16日 (水) 12時42分
矢嶋武弘 様
私の呼びかけに早速応じていただき、まことにありがとうございます。
『椰子の実』。矢嶋様おっしゃるとおり、聴くほどに心に沁みる叙情的名曲ですね。柳田國男の、椰子の実漂流の一話を聞いただけで、これほどの名詩を作り上げてしまう、島崎藤村。そのイマジネーション。やはり藤村は、ただ者ではありませんね。
矢嶋様は、あの大長編『夜明け前』を読了されたとか。確か「木曽路はすべて山の中である。」というような有名な書き出しで始まるんでしたよね。私は中学の頃、10ページ位読んで嫌になってほうり出してしまいました。もっともその頃の私は、『吉川三国志』に血湧き肉躍らせていたような、単純な少年でしたから。しかし、高校の時『破戒』を岩波文庫で読みました。熱中して丸一日で読んでしまったほど、深い感銘を受けました。また藤村の各詩は、中学以来折りにふれて目にしてまいりました。
そして私ももう30年以上前、当時の会社の旅行で、馬籠宿や藤村生家を訪れました。また、この歌の原材料を藤村に提供した柳田國男の『遠野物語』は、私の愛読書中の一書です。
ところで矢嶋様。この『うた物語』では、矢嶋様と私は因縁浅からぬご縁でしたね。『いちご白書』『三百六十五夜』など「問題コメント」では、互いに絡み合い、特に『三百六十五夜』では大論争(?)にまで発展してしまいました。つい先頃のことながら、ずいぶん前の懐かしいことのようにも思われます。見解の相違もありましたが、矢嶋様には何やら、「同志的シンパシー」のようなものを感じてしまいます。
私は、矢嶋様が早速コメントをお寄せくださったことをもちまして、私の意図するところをお汲み取りいただいたものと、勝手に判断させていただきますが、それでよろしいでしょうか。
どうぞご面倒でも、今後の『うた物語』のより良き発展のため、矢嶋様の深いご見識とお力を賜りますよう、若輩かつ未熟者の大場光太郎、伏してお願い申し上げます。
周坊様、くまさん様にも何れ折りを見て、お願い致す所存ですが、矢嶋様が一番最初にご反応下さいましたので。
上記の件、なにとぞよろしくお願い申し上げます。 大場光太郎拝
投稿: 大場光太郎 | 2008年4月17日 (木) 18時27分
大場光太郎様
コメント、ありがとうございます。貴兄の呼びかけに応じた形となりましたが、小生、今後もマイペースでコメントさせてもらおうと考えています。
藤村の詩は「千曲川旅情の歌」をはじめ本当に素晴らしいですね。藤村と言えばすぐに『信州』というイメージが浮かびますが、馬籠宿が現在、長野県から岐阜県に編入されてしまったのが、ちょっぴり寂しい気もします。いろいろ事情があって仕方のないことでしょうが。
『うた物語』は今後も大いに愛し続けていきますので、貴兄におかれても含蓄のあるコメントを引き続きお願いしたいと思います。
まずは御礼にて失礼します。 矢嶋武弘拝
投稿: 矢嶋武弘 | 2008年4月18日 (金) 13時05分
信州小諸にいた藤村が何故流れよる椰子の実なんて発想が
出来たのか若い頃から疑問でした。柳田国男からもらった
詞なのでしたか。
投稿: M.U | 2008年6月24日 (火) 06時52分
ご機嫌よう
昭和50年代初めだったと思いますが、戦中に南方に出征した兵隊さんが椰子の実に自分の名前と住所を書いて海に流し、三十余年後に本当に故郷の浜だかに流れ着いた、てニュースがありました。
学研の学習雑誌の記事で読んだのですが、その現物と当時の新聞記事が靖国神社の境内、屋外にある遺品展示のケースに収まってます。貴重な収蔵品の管理方法に疑問ありありですが、10年位前には外にありました。
椰子の実の歌を知ったのは、上記の話の後だったので、その故事を歌ったのかと初めは勘違いしました。
投稿: 大坂 | 2009年5月10日 (日) 00時52分
小学校五年生の時に、同級生のお母さんがこの歌を独唱するのを聴き、詩と曲の美しさに感動しました。初めて聴いた歌の一部を忘れないよう、大切に胸に抱えて飛ぶようにして家に帰り、母に教わって覚えたものです。
藤村は二十五歳の頃一年ほど、仙台の名掛町の三浦屋に下宿しており、若菜集の多くの詩は、そこで遠くからの海の音を聞きながら書かれたようです。(以前に藤村自身が書いたものを読みました)。若菜集には「潮音」(しほね)…「わきてながるる やほじほの そこにいざよふ うみの琴…」があり、夏草や落梅集にも海に関係のある詩がいくつか収められていますが、その中では特に「椰子の実」に魅かれます。
投稿: 眠り草 | 2011年7月 8日 (金) 11時12分
(続き)柳田國男の椰子の実の話は、藤村の詩的想像力をどれほど刺激したことでしょうか…。
この歌は、今でも私の大切な宝物です。
二木先生、いつもありがとうございます。
投稿: 眠り草 | 2011年7月 9日 (土) 15時58分
自分の生まれ育った所から離れて暮らして居られる方々には胸が詰まってくるような歌だと思います。私は生まれた市のなかでずっと暮らしておりますので、眠り草さんの半分ぐらいしか思い入れがないかもしれません。伊良湖へは何回か遊びに行きましたが、何処かから輸入した椰子ジュースを売っておりました。スポーツ飲料のような味です。
藤村の詩のすばらしさはたとえようもないのですが、作曲家の大中寅二さんには半世紀以上も前にお目にかかった事があります。卒業した学校の創立記念の歌を作曲して下さったからです。私のクラスメイトが作詞をしたのです。寅二さんのお若い奥様が私たちの先輩という縁でした。寅二さんは小柄で頭が大きな方だった様に記憶しております。眠り草さんは美しいふるさとをお持ちで羨ましくおもいます。ネガフィルムのように心に残って居られるのでしょうね。私の心の故郷は戦災を受けた瓦礫の焼け跡ですからねぇ。
投稿: ハコベの花 | 2011年7月10日 (日) 12時21分
ハコベの花さんは作曲家の大中寅二さんにお会いになった事があるのですね…。大中寅二さんは、長く教会のオルガニストを務め、賛美歌なども作曲なさったようですね。
私の生まれた家も空襲で全焼しました。もしそういうことがなければ、私は札幌には住まなかったかも知れないのです。とても古いボロボロの家でしたが、薄紫のライラックの生垣があり、窓からは山が見えました。今はもう、中央区のそのあたりにはビルが立ち並び、山も見えないと聞きます。もう一度帰りたいと願いながら、変わってしまった故郷を見るのを恐れる気持ちもあります。記憶の中に、昔のまま美しくとどめておくのも、幸せなのかも知れません。
投稿: 眠り草 | 2011年7月11日 (月) 15時54分
大中寅二は、長く教会のオルガニストを務めたということを、最近ある人から教えてもらいました。
滝廉太郎も尋常小学唱歌「故郷」の作曲者岡野貞一も教会でオルガンを弾いていたそうです。
だとすると、日本人の作曲家の世界では、賛美歌の影響はあんがい広く大きかったのかなと思う次第です。
投稿: みやもと | 2011年12月13日 (火) 21時29分
福井晴敏の「終戦のローレライ」の中にでてきますね。(映画では別の曲になっていました。)いい曲だと思います。
投稿: 小諸の風 | 2012年3月30日 (金) 12時35分
詩の内容・技巧すべてが抒情的で不朽の名作であり、次世代に歌い継がれる名曲と思います。
藤村は中学生のころに「破戒」、高校生のころに「夜明け前」を読みました。
さすが日本の名作であり、余韻の残る作品ですが、のちに「新生」を読んだとき、文豪の身勝手な行為の告白に多感な少年が傷ついた記憶があります。
投稿: タケオ | 2013年1月14日 (月) 20時32分
先日、サッちゃんの作曲家「大中 恩(めぐみ)」がテレビに出ていたので、もしかして「大中寅二」となにか関係あるかと調べていましたら、親子だとわかりました。ともに作曲家として大成されたのですね。
椰子の実は、藤村の作詞、柳田國男から教えられた話をもとに作ったということもうろ覚えでしたので今日はっきりすることができました。ありがとうございました。このブログはときどき見ています。いい内容です。
投稿: 今でも青春 | 2013年12月 2日 (月) 20時39分
見事なまでの藤村の詩と大中寅二さんの曲付けで不朽の名作が生まれたことは喜ばしいことです。
アルバムにアップして頂き感謝・感謝です。
ところで一件疑問がありご質問させて頂きたいと思います。
歌詞の「思いやる八重の汐々」となっているところですが
「思いやる八重の汐路を」とも考えられますが、この件如何でしょうか。
投稿: 神崎義之 | 2018年10月29日 (月) 09時40分
椰子の実の投稿について。
大変失礼いたしました。「八重の汐路」ではなく、
「八重の汐々」が原本のようでした。
ご掲載の通りでした。
先走りで大変ご無礼をいたしました。どうぞご許容をお願いします。
投稿: 神崎義之 | 2018年10月29日 (月) 09時53分
先日、映画『樺太1945年夏 氷雪の門』のDVDを観たら、この曲が大切な場面で二度出てきた。
映画は1945年8月の敗戦直後、樺太(今のサハリン)で電話交換手の女性9人が集団自決を遂げる物語だが、この名曲がその悲劇を際立たせるのに十分な効果があったと思う。
歌については12年前に投稿したので詳しく言いませんが、藤村の詩の素晴らしさにただただ脱帽するだけです。
投稿: 矢嶋武弘 | 2020年3月 6日 (金) 16時24分
先日、古賀ミュージアムで東海林太郎のレコードを聴きました。声の素晴らしさに驚きました。
投稿: Hurry | 2021年4月11日 (日) 22時52分
元船乗りの77歳、生まれ故郷には帰ることは無いと思いながらも、しかし、「いずれの日にか国に帰らん」と、唄うのが好きなのです。(兵庫県小野市生まれ、井上二士夫)
投稿: 井上二士夫 | 2022年7月22日 (金) 01時13分
この曲を耳にすると、14年前に南方のソロモン諸島・ガダルカナル島に戦没者の慰霊に行った時のことを思い出します。
最終日、浜辺で盆踊りで、霊を慰め、その浜辺に、日本から持参した灯籠を皆で、海に流した処、バラバラの蝋燭を灯した船が、やがて一列になり、故国の方に向かったのです。
幻想的な光景でした。
現地の方の説明では、時刻で発生する海流の所為だ、とのことですが、皆感涙して、戦没者の霊の祖国に帰りたい強い思い、と思ったものです。
コメントにヤシが流れ着いた実話があるのも、赤紙一枚で人生を失った戦没者の"思い"は、同じですね。
投稿: 築地武士 | 2024年10月 8日 (火) 15時27分