長崎の鐘
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:サトウハチロー、作曲:古関裕而、唄:藤山一郎
1 こよなく晴れた青空を 2 召されて妻は天国へ 3 つぶやく雨のミサの音 4 こころの罪をうちあけて |
《蛇足》 自分も原爆に被爆しながら献身的に被害者の救護にあたり、病床に斃れてからも、平和を希求する多くの著書を書き続けた長崎医大教授・永井隆博士について歌った歌です。
永井隆は、島根県松江市で生まれ、幼少期を同県三刀屋(みとや)町(現・雲南市)で過ごしました。長じて長崎医大に進学、卒業後、同大の助手になりました。大変な秀才で、まわりの人たちは、彼はかならずや歴史に残る医学的業績をあげるにちがいないと、大きな期待を寄せていたそうです。
助手時代に兵役をすませ、同大助手に復帰した昭和9年(1934)、カトリックに入信しました。そののち、キリスト教徒としての博愛精神が、彼の行動を特徴づけることになります。
昭和15年(1940)同大助教授に就任し、将来を嘱望されたものの、博士号を取得した昭和19年(1944)、その運命は突然暗転します。物理的療法(放射線)科の部長として研究中に大量の放射線を浴び、白血病にかかってしまったのです。
翌年、余命3年と診断されましたが、そのまま研究を続けることで自分の職分を果たそうと決意しました。
そして、昭和20年(1945)8月9日午前11時2分、長崎に原爆投下。
爆心地から700メートルしか離れていない長崎医大の診察室で被爆した永井は、飛び散ったガラスの破片で頭部右側の動脈を切断しましたが、簡単に包帯を巻いただけで、生き残った医師や看護婦たちとともに、被災者の救護に奔走しました。
永井はまもなく大量出血のため失神しましたが、気づいたのちも、さらに救護活動を続け、帰宅したのは翌日のことでした。
自宅は跡形もなく、台所があったとおぼしきあたりに、黒っぽい固まりがありました。そのすぐそばに、妻・緑がいつも身につけていたロザリオ(ローマカトリック教徒が使う数珠のようなもの)が落ちていました。黒っぽい固まりは、焼け残った妻の骨盤と腰椎でした。
さいわい、2人の子どもは疎開していたので、無事でした。
妻を埋葬したのち、永井は医療班を組織し、引き続き救護活動に挺身しました。しかし、9月20日、出血が続いて昏睡状態に陥ったため、医療班は解散になりました。
翌昭和21年(1946)1月、教授に就任、研究と医療に従事するも、7月、長崎駅頭で倒れ、以後病床に伏すことになります。
苦しい闘病生活を送りながら、永井は活発に執筆活動を展開します。同年8月『長崎の鐘』、翌23年(1948)1月『亡びぬものを』、3月『ロザリオの鎖』、4月『この子を残して』、8月『生命の河』、昭和24年(1949)3月『花咲く丘』、10月『いとし子よ』などを発表し、その多くが数万部から数十万部のベストセラーとなりました。
プロの著述家も及ばぬペースで彼に執筆を続けさせたのは、だいいちには平和を希求する思いを人びとに伝えたかったからでしょう。それとともに、自分がいなくなったあと、2人の子どもが生きていけるようにしておきたいという気持ちが、彼を駆り立てたのではないでしょうか。
永井が闘病生活に入ってから、隣人や教会の仲間たちが力を合わせて、爆心地に近い上野町にトタン小屋を造ってくれました。わずか2畳1間の家で、裏の壁は石垣をそのまま使っていました。
「石垣は紙片などを押し込むには便利だったが、雨の日は大騒ぎだった。教室の者たちは、来るたびに家といわずに箱といった」
と彼は随筆に書いています。
昭和23年3月にできあがったその家を、永井は如己堂(にょこどう)と名づけました。家を建ててくれた人びとの心を忘れず、自分もその愛に生きようと、聖書の「己の如く人を愛せよ」の言葉から採った名前だといいます。
彼は、そこに2人の子どもを疎開先から呼び寄せ、残りの短い日々を闘病と執筆で送りました。
苦難にめげず、平和と愛を訴え続けるその姿は、国内のみならず、海外でも深い感動を呼びました。
昭和23年10月には、来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れ、翌24年5月には、巡幸中の昭和天皇の見舞いを受けました。
また、昭和24年5月と25年5月の2度にわたって、ローマ教皇庁が特使を見舞いに派遣しました。
そのほか、長崎名誉市民の称号を贈られたり、政府の表彰を受けるなど、数々の栄誉が彼にもたらされました。
しかし、運命は避けることができず、昭和26年(1951)5月1日、長崎大学医学部付属病院で逝去しました。43歳の若さでした。
さて、『長崎の鐘』という歌との関わりですが、これは、永井隆と親交のあった医学博士・式場隆三郎が、昭和24年にコロムビアレコードに働きかけたことによって実現したものと伝えられています。
余談ですが、式場隆三郎は、放浪の貼り絵画家・山下清の才能を発見し、世間に紹介した人として知られています。
コロムビアから作詞の依頼を受けたサトウハチローは、最初、ベストセラーに便乗したきわもの企画だと思って断ったそうです。
しかし、その後、永井から贈られた著書を読んで感動し、「これは神さまがおれに書けといっているのだ」と確信して、全身全霊を捧げて作詞したといいます。
それは作曲の古関裕而も同じでした。そのメロディがすばらしいのは、短調で始まった曲が、「なぐさめ、はげまし……」のところで明るい長調に転じる点です。これによって、悲しみにうちひしがれていないで、未来に希望をもとう、という歌詞のメッセージが強力に増幅されて伝わってきます。
サトウハチローも古関裕而も、数多くのヒット曲をもっていますが、あえて1曲に絞るとすると、世間に与えた感動の大きさという点で、この曲が最高傑作といってよいのではないでしょうか。
のちに藤山一郎は、アコーデオンを携えて永井を見舞い、その枕辺で『長崎の鐘」を歌いました。永井はその礼として、次の短歌を贈っています。
新しき朝の光のさしそむる荒野にひびけ長崎の鐘
藤山はそれにメロディをつけ、自分が『長崎の鐘』を歌うときは、よく反歌(長歌の末尾に添える短歌)のように歌っていました。上記のリンクをクリックすると、曲が聴けます。
昭和25年(1950)、『長崎の鐘』は、新藤兼人らの脚本により松竹で映画化されました。
写真は病臥中の永井博士と長男・誠一(まこと)さん、次女・茅乃(かやの)さんで、政府からの金杯を受けたときに撮影されたもの。
(二木紘三)
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コメント
いつも感謝しています。いままではMID歌声喫茶の方を利用させて貰っていました。今回は歌物語の方で聞かせて貰っています。歌だけではなく歌の背景やエピソードなど心憎い配慮に感動しています。今日は「長崎の鐘」を聞かせて貰いました。永井博士の略歴などもあらためて読まして貰いました。俳句をやっています。拙句 哀しきは昭和の時代長崎の鐘 これからも演奏歌を増やしていって貰いたいと思います。MIDの方では「アザミの歌」が大好きでした。新潟県柏崎市の在の鵜川村でラジオで聞いた当時の情景が蘇ってくるのです。因みに私は昭和13年生まれです。
投稿: 菅原 主 | 2007年6月23日 (土) 12時41分
「長崎の鐘」だけでこれほどのコメントをかける人がいらっしゃるとは驚きです。小学生のとき学校から(当時はなぜか2円99銭で授業中に全員映画を見につれて行ってくれました)映画を見に行って涙が止まらなかったのを思い出します。たしか、若原雅夫と津島恵子だったと思います。
投稿: 周坊 | 2008年1月 6日 (日) 17時41分
二木先生の「蛇足」にはいつも啓発され、感銘をうけます。
ヒット曲「長崎の鐘」、永井博士のこと、そして「新しき朝の光の・・」のことも、なるほどそうだったのかと、いちいち戦後の思い出と結びついて心に残ります。私もあの映画は田舎の映画館で見ました。私の記憶では若原雅夫と月丘夢路だったようにも思います。
私自身学童疎開で広島から離れていたため、被爆は免れましたが、1学年上級の友達の多くが亡くなりました。いつまで経っても悲しい思い出です。
投稿: 林 一成 | 2008年1月 6日 (日) 19時43分
二木さんの克明な解説に敬意を表します。
この歌は作詞も作曲も素晴らしいのですが、藤山一郎の澄みわたった晴朗な歌声がとても印象に残っています。たしかに「なぐさめ はげまし 長崎の~」のところでは、未来への明るい希望をなんとか持とうという願いが伝わってくるようです。
私が小学校の低学年のころ、母が永井博士の「この子を残して」を愛読していたのを思い出しました。母から本の内容を聞かされながら、原爆の恐ろしさをおぼろげに想像していたように思います。
小学校の1~2年のころですから、本格的な本を見たのは「この子を残して」が初めてでした。永井博士と二人のお子さん(男の子と女の子でしたね)の写真が今でも脳裏に浮かんできます。
この歌を聴くとき、あの長崎の平和祈念像も眼前に浮かんできて、平和の尊さをつくづくと思い知らされるようです。
投稿: 矢嶋武弘 | 2008年3月30日 (日) 15時13分
先日、永井博士の遺児、といっても60何歳かでした。茅乃さん(だったと思います、博士が思いを残して亡くなられた幼子)が亡くなられたニュースを読みました。二木さんの博士詳細を読むと「このように生きた医師がいたのだ!」と粛然たる気持ちにさせられます。この歌を聴きながら、永井博士や茅乃さんに思いを馳せ、ますます遠くなる昭和の時代を考えています。
投稿: 菅原 主 | 2008年5月 1日 (木) 11時14分
私は外地で生まれ育ちましたが、戦後の昭和21年に父の故郷である長崎県島原市に引き上げてきました。
原爆が投下されたときは、真昼なのに普賢岳の空が真っ赤になったと聞かされました。首のところにケロイドの跡が残った先生も転勤で来られました。
高校を卒業(1958年)して5年間長崎市で暮らしましたが、もう浦上天主堂の残骸は残っていなかったと記憶します。
「長崎の鐘」の格調高いメロディーは、7万人にも及ぶ原爆の犠牲者と厳しいキリスト教弾圧の犠牲者への鎮魂歌であるとともに、それら犠牲の象徴ともいえる浦上天主堂を擁する長崎からの世界平和へのメッセージでもあると思います。
投稿: 周坊 | 2008年5月 1日 (木) 14時31分
この歌のように詞も曲も歌手も素晴らしいのは、あまり無い
病床にありながら藤山一郎に送った「新しき・・・・・・」
これぞ名文。後をついで歌う人はだれでしょう。絶やしては
いけない名曲だから。
投稿: M.U | 2008年5月29日 (木) 08時59分
神(カトリックを含め)は平等ではないのですか。研究中に
被爆し、原爆で奥さまを失い、それでも世のため、人のため
に走り回った。立派と言う他ない。
投稿: M.U | 2008年8月 5日 (火) 14時09分
今日、原爆投下から63年を迎えました。私は「長崎の鐘」を聞きながら黙祷を捧げました。永井博士の生誕100年にも当たるそうです。永井博士の孫の徳三郎さんも慰霊祭に出ていました。私は永井博士(多くは二木氏の略歴に負う)の「核兵器は滅びだけしか残さない」や大岡昇平の「8月6日、8月9日、8月15日は正気で過ごさなければならない」を胸に刻み、核兵器を憎む側に身を置く一人でいつづたいと思います。
投稿: 菅原 主 | 2008年8月 9日 (土) 11時13分
今日08.08.09「8月9日・・・ナガサキ忌・・・長崎の鐘」という題名のブログを起こしました。
「蛇足」という素晴らしい文章を参考にさせていただきリンクに使わせていただきました。
ありがとうございました。
投稿: ヒキノムラビト | 2008年8月 9日 (土) 17時37分
長崎の鐘それはもう63年前の出来事になりましたが、歌は永遠です。美しいメロディーとともに人々の心に受け継いでゆかれる事を願っています。ここにも数多のメッセージが書き込まれています。さすがに偉大な永井博士です。博士の在りし日を偲びその偉業を讃えたい。
投稿: 波路 | 2008年8月27日 (水) 14時31分
神は長崎の浦上天主堂の上空に原爆を炸裂させ、この世の地獄絵図を人類に示しました。神は、しかし同時に、その悲惨な世界にも決して美しい花が絶えることがないようにと、永井博士という比類の無い花の種を用意していました。その見事な開花・結実の一つがこの『長崎の鐘』だと思います。そして、この歌を作曲したのが『暁に祈る』や『露営の歌』の作者であったというのも、何かの暗合かもしれません。
昭和24年4月4日藤山一郎氏がこの歌をレコーディングした当日は、彼が戦地の慰問で感染したマラリアが再発、40度の高熱で息も絶え絶えの状態であったが、無事一発で収録できたとのこと。まさに鬼気迫る演奏であったと仄聞します。きっと「何か」が彼を支えていたのでしょうね。
二木先生の仰るように、「なぐさめ、はげまし・・・」の転調が深く心に残ります。
投稿: くまさん | 2008年9月23日 (火) 21時08分
「長崎の女」に書きましたが、この「長崎の鐘」も我が故郷の心の歌です。
如己堂は我が家とは原爆落下中心地をはさんで反対側にあります。
キリシタン弾圧の地浦上に生きる者として、同じキリスト教徒として永井隆博士の生涯を思います。
隠れキリシタンたちが待ち望んだパパ様からの使いのみならず、ローマ法王自身が浦上を訪れ、
昨年は浦上で日本で初めての福者列福式が執り行われました。
長崎の教会と史跡群は世界遺産の候補として挙げられようとしています。
キリシタン弾圧と原爆、美しい街長崎はまた世にも希な歴史を持つ街です。
投稿: MATSUKUMA | 2009年1月28日 (水) 17時07分
この曲を聴きながらニ木先生の書かれた「蛇足」を読ませて戴く度に、涙があふれて参ります。私もカトリック教徒ですが、永井先生の足元にも遠く及ばない自分を本当に恥ずかしく思います。昨年新聞で茅野さんというお名前を見つけもしや?と思い読みました。やっぱりあの茅野さんで、しかもお父様の所に旅立たれたという訃報でした。ショックでしたが、ご冥福をお祈りしました。
投稿: 吉村洋子 | 2009年2月27日 (金) 23時36分
この曲が名曲である事は疑う余地がありませんが、西条
八十、古関祐而コンビによる「ひめゆりの塔」も名曲だと思います。3番をスローテンポで歌わせる所に情景
が重なるのです。
投稿: 海道 | 2009年5月15日 (金) 19時26分
歌は沢山ありますが、「長崎の鐘」と「とんがり帽子」には胸が熱くなり涙腺が緩みます。
特に「長崎の鐘」の2番「♪・・・・モナリザの/鎖に白き/我が涙・・・・」のところです。
なお、10年ほど前長崎旅行から帰り、永井先生に興味を持ち、早速著書「長崎の鐘」を読んでまた涙腺が緩みました。
その箇所を引用しますと、二人の子供と掘立小屋で生活していた時の描写『ちちちと虫が鳴く、抱き寝の茅乃(6歳)がしきりに乳をさぐる。さぐりさぐり父と気づいたか、泣きながらやがてまた寝息にかわる。(中略)夜は長く眠りは短い。うとうとと浅きまどろみの夢もいつか白みゆく雨戸の隙間。「カーン・カーン」鐘が鳴る。』
歌「長崎の鐘」は不朽の名作です。
今後も二木先生の「うた物語」に私は癒され続けます。
ご健勝を祈ります。
投稿: 木田進司 | 2009年7月27日 (月) 14時06分
昨日は64回目の長崎原爆忌でした。この歌は、作詞家、作曲家、歌手の三者が、渾身の力を振り絞って作り上げた名曲だろうと思います。聞く側も粛然として、襟を正して耳をかたむけざるを得ない雰囲気になります。
それにしても運命は苛酷ですね。偶々、原爆投下の第1候補地だった小倉市上空が曇っていたばかりに、次の候補地長崎市に投下されたのですから。永井隆博士のことばを借りれば、これは「神の摂理」(『長崎の鐘』より)ということになるのでしょうか。実は被爆50周年を契機に、この「神の摂理」に対する批判が見られるようになり、それに対する反論もあって、永井擁護派対批判派の論調は未だに対立した状況にあります。
「神の摂理」をめぐる論議を詳しく述べることは、このサイトの趣旨にそぐわないので、この辺で打ち切りますが、永井批判派の論調の当否は別にして、未だにクリスチャンに対する偏見・差別があること(=浦上天主堂が原爆により破壊されたのは神罰である)、また、多くの永井博士の著書(=贖罪論が基底にあるからアメリカ批判をせず、厳しい占領軍による出版検閲をほとんどパスした)が占領政策に利用されたのではないか、という2点は考えさせられますね。よく「怒り」の広島に対して、「祈り」の長崎と言われますが、この表現にも永井博士の著書がかなり影響しているようにも感じられます。理屈っぽいコメントになりましが、お許しください。
投稿: ひろし | 2009年8月10日 (月) 12時23分
藤山一郎さんの歌う”長崎の鐘”は生意気な旧姓中学生の頃、よく歌ったものです。
ところで終戦時、長崎経済専門学校(現長崎大学・経済学部)の学生だった兄は、学徒動員で三菱造船で働いていました。原爆投下の時は防空壕の穴掘り中で、直接爆風を受けることはありませんでした。そこで元気な学生は市内の生存者救出に向かい、9日から14日まで働きました。腹に木の棒が刺さったこどもが「お兄ちゃん、水を飲ませて」と言うので、水筒の水を飲ませてやったそうです。学校の方から、地方から来ている者は帰郷してよいとの許可が出たので、14日長崎駅発の夜行列車(超満員)に乗車しました。次の浦上駅に着いたら、死臭が充満し、満天下に火の玉が青白いオーロラーを放っていたそうです。郷里の島根県大田市には、15日の夕方帰ってきました。家族は多分アウトだろうと思っていたので、無事な姿に狂喜しました。しかしその後原爆症が出始め、これはダメかなと本人も家族も諦めかけていました。その時、兄が新聞で、山口市に断食道場があるのを見つけ、ダメもとでやってみると言い出し、出かけました。これが効を奏し、徐々に体力が回復し始めました。結局、2年休学して復学しました。それから島根県出身者の3人で、同郷の大先輩の永井博士宅へお邪魔したら、大変喜ばれたと言っていました。2時間ほど日本の将来等・雑談をしたそうです。
兄は現在満82歳ですが、要支援1で頑張っています。
投稿: 三瓶 | 2009年8月10日 (月) 20時46分
「長崎の鐘」祈りとし終戦日 (拙句)
本日8月15日は64回目の終戦記念日です。8月6日の広島そして8月9日の長崎への原爆投下。かくも悲惨な状況に追い込まれての終戦でした。それ以外にも首都東京をはじめとする、全国主要都市への米軍機による無差別爆撃。沖縄における悲惨極まりない地上戦。中国大陸、インパール、レイテ、グアム、硫黄島など、広く大東亜共栄圏(?)に大地獄絵図を現出させた果てに。
8月15日は奇しくも「聖母マリア被昇天の日」でもあります。長崎では、爆心地にほど近き浦上天主堂の聖母像は木っ端微塵に吹き飛ばされたことでしょう。同天主堂のアンジェラスの鐘(長崎の鐘)も、70mも離れた瓦礫の中に埋まりました。同地に縁の深かった「聖母の騎士」コルベ神父は、「友のために命を捨てること、これに勝る愛はない」というイエスの言葉を文字通り実践し、既にアウシュビッツ収容所で殉教していました。そして同地への原爆は一瞬にして7万4千人もの尊い命を奪い去り、永井博士も被爆し…。とにかく日本全体にとって終戦のこの日は、これ以上ないどん底の日だったはずです。
なのに何で「昇天(アセンション)」なのでしょうか。私はこれは、単なる偶然ではないと考えます。そこに「陰極まれば陽となる」―最低の下降(ディセンション)を経て、最高の上昇(アセンション)に到れよ、という天の意志をうかがうことが出来るように思われるのです。
戦後64年経った今日、私たちは「最高の上昇」に到り得ているでしょうか?
投稿: Lemuria | 2009年8月15日 (土) 00時44分
昨年3月30日、ここにコメントさせてもらいましたが、小生のブログで『長崎の鐘』を取り上げましたので、二木様の上記の解説を参考にさせてもらいました。
実に見事な解説だと思いますので、感謝しつつご報告いたします。以上、ご了承ください。矢嶋武弘拝
http://blogs.yahoo.co.jp/yajimatakehiro2007/34398936.html
投稿: 矢嶋武弘 | 2009年10月12日 (月) 18時09分
長崎の鐘、藤山一郎さんが歌われてこの曲好きでよく口ずさんでます。
此処のホームページに来てこの曲の由来、如己堂に居られた永井博士、とお子様そして博士が執筆された本も何冊か読み特に小学生が書かれ手記をまとめられた本を読むと胸が熱くなりました。其処にはお嬢様のもありました。その印税で近くにある山里小学校の当時は正門が見下ろせる位置だったと記憶してますけど「あの子」の碑が建てられたとのこと。小学校に通ってた当時は何気なく歌ってた「あの子」の歌にも博士はどんな思いをはせられたことでしょうね。先日卒業してやがて半世紀になる小学校を訪ねて綺麗に整備された「あの子」の碑と対面。当時の校舎はグランドとなり資料館にその面影だけが残ってました。
これからも長崎の鐘も重い新たに口ずさんで以降と思います
投稿: たなか | 2009年11月 5日 (木) 23時05分
「勝って来るぞと勇ましく」や「若い血潮の予科練の」を作曲した古関がこの平和の歌を作曲したのは釈然としない,軍歌を作っていることで召集解除にしてもらった,と佐高信が書いています(サンデー毎日6.13号)。
投稿: みなかみ | 2010年6月 7日 (月) 13時59分
作曲の古関裕而は福島商業出で、正式な音楽教育は受けていないようですが、幼少の頃から才能はあったようですね。
戦時中は軍歌もいろいろ作曲していますが、先日従軍画家の放映があったように、これは致し方のないことでしょう。
クラシックからポピュラーソングまで幅広く作曲しているようですが、人気度からすればトップクラスでしょうね。
早慶の応援歌をはじめ学生歌も多数作曲していますが、やはりそれだけの才能があったのでしょう。
投稿: 三瓶 | 2010年6月 8日 (火) 10時52分
氏の作品はクラシックと融合しており、戦意高揚が目的
ではなく、むしろ哀愁をおびたせつない旋律のものも多かったと言う方がいるようです。それが傷ついた大衆
に支持されたとも。また自らの作品で戦地に送られ散花
した人への自責の念を持ち続けていたと言われているようです。
新しい世の中になっての名曲は
「栄冠は君に輝く」「オリンピック・マーチ」
「六甲おろし」などですね。
投稿: 海道 | 2010年6月 8日 (火) 14時12分
私の高校の恩師は戦前苦学して師範学校を卒業後、国策で給与が幾割りか高かったため朝鮮に教職を得ました。
旧商業学校で教鞭を執りましたが、思いもかけず戦争が始まり学生に戦意高揚を説いたそうです。
自らは教職という理由で召集されず、終戦後苦労したとは云えなんとか引き上げてきました。 恩師は、侵略した国に自分の意思で出て行ったことと学生に勤労動員や兵学校への転校を説いたことを悔やんでいましたが、一番悔しいのは自分のやっていることに全く疑いを持たなかったことだと云っていました。
恩師は後年、地域の教育行政に貢献したということで何度か褒章の推薦を受けましたが、それらを総て固辞しました。
戦争というのは、人の正しい判断を狂わせます。戦争遂行に協力的であったというだけで、その人の全人格を否定するのは気の毒に思います。
投稿: 周坊 | 2010年6月 8日 (火) 17時54分
40年近く前私は旧帝大の大学院生だった。結果を出そうと朝も昼も夜も乏しい才能で頑張った。寝ている時も考えた。自分でいつ寝ているのか起きているのか分からず、昼夜逆転など日常茶飯事だった。今冷静に振り返ると、そもそも才能など高級なものを私は持ち合わせていなかったのだろう。それでも論文の完成に必死だった。いくつかの論文が完成した時、教授はこう言った。「6月から君を助手にしようと思う」。私はただ嬉しかった。60余年の人生でそれ以外の嬉しかったことを全部合わせてもこの嬉しさの万分の一にもならないだろう。その証拠に1カ月で10キロも太ったくらいだ。ところで私のささやかな成果が戦争の役に立つのか、平和の役に立つのか当時も今も考えたことはない。学問というものは他の諸々のものとは独立したものと考えているからだ。またそのような悠長なことを考えているようでは世界にに先んじて成果を上げられることなどできないであろう。
「高原の宿」の作曲者林伊佐緒がYou tubeで「『出征兵士を送る歌』が当時陸軍省の公募で一等賞になり1500円、今の金で1500万円ほど貰った」とうれしそうに語っている。当時陸軍省は多分権威があり、たくさんの人の中から選ばれれば音楽家として嬉しかったのは当然であろう。またこの歌が戦争・平和と無関係に音楽作品として評価されるべきではなかろうか?こう考えれば、「長崎の鐘」の藤山一郎が戦中も戦後もたくさん軍歌を歌っているのも頷けるのではないでしょうか。
その後の私は無為徒食の日々である。罪滅ぼしに名誉教授と(多分あるであろう)叙勲は固辞するつもりでいる。
投稿: なとりがおか | 2010年6月14日 (月) 00時19分
今年も又65回目の原爆忌が廻って来ました。
長崎・広島の被爆地においては、それぞれに慰霊の行事が行われることでありましょうが、日本人であるならば此の8月6日に続く9日と言う日・加えて3月1日は絶対に忘れてはならない日でありましょう。 私は8月6日と9日其れに7月17日と昭和29年3月1日だけは、従来もそうであった様に今後も絶対に忘れ去ることは出来ない。昭和20年7月17日には海軍航空隊・特別攻撃隊員として兄を失ったものである。昭和29年3月1日は【第5福竜丸事件の日】である。人類にとっての最悪の日とも言うべきでありましょう。 此の歌を聴く度に兄と広島・長崎・第5福竜丸事件が思い返されることから、流れ出る涙を禁じ得ないことである。
投稿: 渡邉秋夫 | 2010年8月 4日 (水) 13時42分
幾度聞いても涙が溢れ出ます。長崎医科大学の永井隆医師の映画を観ましたのは私の中学生の頃だった様に記憶して居ますが、原爆が炸裂した瞬間の悲惨な情景は今以て忘れようにも忘れることが出来ません。其の焼跡の中で懸命に奥様の形見の十字架を見出された永井博士の心境は如何程のものであったか。 必死で溢れ出る涙を堪え様としましたが、遂には声を上げて泣いたことを昨日の様に思い出します。 皆様が記述されて居られます様に、現在の政界におきましては、平和憲法の基幹とも言うべき『日本国憲法第9条』の改悪を意図して居るようですが、此の『長崎の鐘』の歌を聞かせ、映画を見させたら政界の意識も変わってくるのではないかと思います。
投稿: 渡邉秋夫 | 2010年8月 5日 (木) 01時47分
1947年(昭和22年)12月、北九州の旧小倉市に生まれました。父は小倉の陸軍造兵工廠で働いていました。
1945年(昭和20年)8月9日、雲がなく小倉に原爆が落とされていたら、私は多分生まれていなかったと思います。
高校時代の2年間を広島市で過ごしたのち、茨城県に就職して、当地で今定年農業をやっています。身近でJCOの事故にも遭遇しました。
昨年6月、当地出身の妻とともに懸案の長崎の平和公園を生きているうちに訪れることができました。そこで、小倉の代わりに犠牲になった当時長崎に住んでいた人々のご冥福を祈らせていただきました。妻がどういう印象を持ったかは聞いていませんが。
未だに米国政府は神(天)に対して謝罪していません。「原爆により戦争を早く終えることができた、間違っていない」という理屈のようです。
投稿: 竹永尚義 | 2010年11月 7日 (日) 18時56分
未曾有の「東北関東大震災」の被害状況がテレビ・新聞・ラジオ・ネット等で刻々と明らかになっています。
言葉がありません。
なぜか「長崎の鐘」を無言で歌っています。
投稿: かんこどり | 2011年3月15日 (火) 10時57分
宇都宮に住む友人が昨日、食べ物が空っぽなので送ってと言ってきました。今朝改めて、放射能が怖いので、岡山の親戚へ避難すると言ってきました。人智というものは限りある事がわかりますね。茨城の竹永様、ご無事でしたでしょうか。被災地の皆様がご無事であります様に。
投稿: ハコベの花 | 2011年3月15日 (火) 12時08分
東北関東大地震にあわれた皆様!心からお見舞い申し上げます。「長崎の鐘」のように「慰め、励まし合って、頑張ってください」頑張れという台詞の無力さは解っています。でも長崎のように、広島のように、敗戦の日本のように、必ず雄々しく立ち上がることを信じております。私も心に喪章をかかげて、及ばずながら皆さんに寄り添う日常を送ります。
投稿: 菅原主 | 2011年3月19日 (土) 10時54分
本日20日、やっとこのサイトを開く気持ちになりました。
11日から電気、ガス、水道、電話、メールありとあらゆる文明利器が止まっていました。今も、水が出ず山に汲みに行っています。今朝は谷川で洗濯をして来ました。
でも、岩手、宮城、福島の方々はもっと大変です。生死も判らない方が大勢おられるのですから。
今まだ、北方100kmの原発大事故の様子を、避難の備えをしながらびくびくして暮らしています。逃げるにもJRは止まり、高速道も不通で、ガソリンもままなりません。ローソク、ラジオ、七輪、豆炭あんかが活躍してくれました。自分で作って工夫し蓄えていたさつまいも、じゃがいもも役に立ってくれています。幼いころの経験と重なります。では、皆様お元気で。
投稿: 竹永尚義 | 2011年3月20日 (日) 13時43分
私は被災地に知り合いがおりません。このサイトで竹永様が茨城と知ったので、ずっと心配しておりました。ご無事で何よりでした。とても嬉しいお便りでした。戦後の焼け跡の記憶が甦ります。いつか見違えるような復興を遂げると信じております。お元気で、応援しております。
投稿: ハコベの花 | 2011年3月20日 (日) 15時55分
医者だった父が、母の実家の長崎を訪れた時、夜でしたが原爆記念公園に行き、また、隠れキリシタンの歴史を思い、しきりとかわいそうだと言っていた事を思い出しました。私はまだ幼かったので、父の気持ちをわかることができませんでしたが、戦争を体験した父の話で私もまたこの時代に生きた人々を身近に感じます。藤山一郎さんの長崎の鐘を覚えたのも子供の頃でした。敬老会で「青い山脈」を歌う事になったのをきっかけに、ふいにこの歌を思い出し、このサイトにたどり着きました。日を見れば、今日はまさに8月9日、偶然とは思えず記載させていただきました。永井博士の生涯に改めて感動し、涙しました。二木様、ありがとうございました。大切に歌っていきたい曲だと思いました。
投稿: 原晶子 | 2012年8月 9日 (木) 00時28分
昭和39年生まれの前田覚と申します。私は奄美大島出身で母子家庭で育ちました。隣の家の赤の他人のおばさんがわが子のように育ててくれました。
その方が突然「水頭症」にかかり母に重い口を開き実は若い頃長崎にいたこと被爆したことを打ち明けたそうです。
あれからもう20年この歌をどうしても伝えねばという衝動に駆られてここに辿り着きました。
また寄らせて頂きます。
投稿: 前田覚 | 2012年8月 9日 (木) 04時42分
私は今85歳ですが、50年ほど昔にある企業のコーラス部に在籍し藤山一郎先生のご指導を受けていましたが、そのころに教えていただいた歌のひとつで、今でも涙の出る歌です。今では茅ヶ崎で山田耕筰とあかとんぼの会で、月に一回唱歌・童謡・抒情歌などを内山喜代子先生の指導で約2時間歌っていますが、家に居るときは二木紘三先生のこの収録を使って歌の練習をしております。歌うことのおかげで若さを保っていると同時に、山田耕筰先生がこの茅ヶ崎で私が生まれたころ、200曲もの童謡などを作曲されていたことを知りました。ちなみに茅ヶ崎の夕暮れのチャイムは_あかとんぼ_です。
投稿: 稲垣 嘉正 | 2013年4月 4日 (木) 15時16分
今日長崎は68回目の原爆の日を迎えました。
田上市長は「長崎平和宣言」で、NPT再検討会議準備委員会において、核兵器の非人道性を訴える共同声明に賛同しなかった日本政府の対応を批判されていました。
‘10.11.03ホテルニューオータニで歌手の下垣真希さんの、永井隆博士の家に下宿して被爆し亡くなった17歳の叔父や永井博士や奥さん等についてのテーマ「わが心の歌 長崎の鐘」の語りと歌に、熱くなった感動を今もありありと覚えております。
先ほどまでCD『命の賛歌』を聴き命の尊さをあらためてかみ締めウルルンとなりました。
投稿: 尾谷光紀 | 2013年8月 9日 (金) 23時17分
この歌は勤めてはじめての修学旅行のときにバスガイドさんが教えてもらいました。自分は小中学校のときには知らなくて、つまり教科書に載っていなかったために知りませんでした。子ども達と一緒にバスで覚えたのです。子ども達もすぐ覚えていたようです。
ガイドさんが「永井博士」のことを知っていて当然のようにお話されていたのを恥ずかしい気持ちで聞いていました。それまで全く知りませんでした。
バスの中でこの歌を大合唱したのを思い出します。
定年後10年を過ぎて、いい歌に再会しました。
投稿: 今でも青春 | 2015年6月18日 (木) 20時31分
二木先生のコメントをじっくり拝読しました。
「・・・永井が闘病生活に入ってから、隣人や教会の仲間たちが力を合わせて、爆心地に近い上野町にトタン小屋を造ってくれました。わずか2畳1間の家で、裏の壁は石垣をそのまま使っていました。「石垣は紙片などを押し込むには便利だったが、雨の日は大騒ぎだった。教室の者たちは、来るたびに家といわずに箱といった」と彼は随筆に書いています。・・・」兄が小学校の長崎への修学旅行で永井博士の病床を見舞ったときの様子を家の者たちに神妙な顔つきで話してくれたことを思い起こしながら聴かせてもらいました。何ともこみ上げるものがありました。
投稿: 亜浪沙 | 2015年7月30日 (木) 14時44分
長崎は室町時代以来の交易の地で旧教(カトリック)が早くから伝わり、異国情緒豊かな町ですが、原爆投下の地であったことも決して忘れることのできないこの町の歴史です。
私は高校の修学旅行で初めて長崎を訪れ、この地に敬虔なカトリック教徒が多いのが印象に残りました。またこの時偶然あるカトリックの女子高の生徒と知り合い、何となく運命的なものを感じたのですが、振り返れば運命の女性ではありませんでした。
次は長崎大学医学部出身者から実際に聞いた話です。長崎に原爆が投下された朝、大学で研究に専念していた学者の多くが被爆しました。ところが郊外の料亭に遊びに行っていた者は無事で、後に生き残って大学の要職に就いたのは後者だったそうです。これも全くの偶然ですが、それが後の長崎大学にどう影響したかは知りません。
偶然の事象を必然だと思い込むのが運命という考え方なのでしょうが、かといって人生全て偶然の繰り返しと考えると味気ない気がします。
投稿: Yoshi | 2015年11月27日 (金) 21時30分
二木先生の蛇足を拝読、涙が止まりません。
哀切極まりないエピソードの紹介に心が震えました。
格調高い調べと、歌詞、藤山一郎の品格溢れる歌唱力と共に
幼いころよ惹かれていました。
かくも哀切な経緯による歌と今更に知ったことを恥ずかしく思います。
永井博士は聖者ですね。
道徳の教本にしたいお話です。
蛇足~無頼に生きたサトウハチロウの根底に溢れる清らかな泉を
見る思いが致しました。
投稿: りんご | 2015年11月28日 (土) 08時40分
今日は午前中に所用を済ませ、午後3時頃から聞きたい曲を開き「蛇足」と皆様のコメントに目を通しながら二木先生の名演奏に酔いしれています。
私は6才の誕生日を迎える1ヵ月前に父親と祖母を広島の原爆で亡くしていますし、クリスチャン(プロテスタントですが)ということもあり、この「長崎の鐘」には特別な思い入れがあり高校時代にも(その頃はノンクリスチャンでしたが)音楽部の仲間3~4人と合唱コンクールの練習の合間に歌ったものです。
それにしても今日はたくさん泣きました。
勿論、長崎の鐘(永井 隆 アルバ文庫)は、初版発行されて間もなく購読しましたが、その時涙しながら読んだ時よりも、むしろ今回の二木先生の名「蛇足」に思わず嗚咽を抑えることができませんでした。去年4月に孤独死した姉の遺品整理中に見つけた、生まれた初めて見た親父から疎開先の母親に宛てた茶色に色あせた最後の手紙を広げながら、また一泣き…。
そのあと、感慨に耽りながら「雨」(北原白秋・弘田龍太郎)を開き、貧しかったあの時、母親のことを想いながらコメントに目を通しているうち…2016年3月26日の吟二さんの記事に接した時には、もうどうしょうもないくらい…能勢の赤ひげ様にも負けないくらいの涙と洟ずるで、タオルがぐしゃぐしゃになりました。
今夜はすっきりした気分で眠れそうです。
投稿: あこがれ | 2017年2月 2日 (木) 00時35分
このような名曲が、最近テレビなどではあまり聞くことができないのが残念です。私は老人福祉施設などで楽器の慰問演奏をしますが、この曲は毎回リクエストがくる人気曲です。楽器は二胡という中国の楽器ですが、この楽器でこの曲の旋律を奏でると、何とも言えない哀愁が漂います。童謡や唱歌、古い流行歌など演奏する中、人気No1です。これからも大切に演奏していきたいと思います。
投稿: 名無し | 2017年12月31日 (日) 13時27分
大阪で40数年の勤続。その間、知り合ったスナックのママさんが、たまたま長崎の出身で、この歌をよくリクエストしました。わたしがリクエストするのではなく、ママさんが歌ってとリクエストするのです。今思えば、ママさんには色々思うことがあったんでしょうね。
投稿: 国境の春 | 2017年12月31日 (日) 21時19分
娘が10年前に長崎大学に入学し、学生として、また途中で「クローン病」を発病し治療・手術もしていただき大へんお世話になりました。娘はその後、神戸で就職し元気に生活しております。私は毎日のように、ユウチューブで【作詞】永井隆【作曲】木野普見雄の「あの子」を聴いております。
これからはこの「長崎の鐘」も聞かせていただきます。
投稿: 三谷 豊 | 2018年1月31日 (水) 22時50分
そうでしたか
大学生のときに クローンになられましたか
親御さんとしては 大変でしたね
神戸で 元気に社会人として活躍されておられる由
何よりです
たった今 何故か シュバイツアー博士の片腕として
八年もアフリカのランバレネで協力された 高橋功博士のことに思いをはせていました
僕も 医学生のころ 神戸の県庁前の 中山手のカソリック協会で 高橋先生の講演をきかせていただいたことがあります シュバイツアー博士に協力され 途中少し日本に里帰りされていたときかな? 母の女学校の同期の方のお誘いでーー まだ 医療の い の字もわからないころ 何か 自分にも 可能性を感じれるころでした
高校のときには 年に二回くらい大講堂で 全員集合しての 講演会がありました この講演で印象にのこっているのは ネパールの結核撲滅に立ちあがった 医師 岩村昇先生の講演でした 講演後 何人かが感動のあまり演台までとびだし 興奮のまま 医師になって 先生のような仕事をしたいという子たちがいました そのうちの一人は京都で医師になり がんばっていると聞こえてきています
ふと この 二木先生のサイトに目をやると 長崎の鐘 にコメントが
不思議な気持ちで 思い出を書いています (今は こんなものかーーと 反省しきりですが)
永井隆先生の 神のごとき崇高な行為
一歩でも 近づけるよう いくつになっても努力です
投稿: 能勢の赤ひげ | 2018年1月31日 (水) 23時49分
あごから喉元にケロイドのあとが見られる広島の先輩が「自分は何も悪いことをしていないのに風評被害は怖いもので、原爆病は移ると言われて差別を受けた・・」とそんな話しをしてくれたことがあります。被爆者はケロイドのあとがなくても被爆したというだけで、生まれた子供のことを考えると結婚はもうできないのだ・・と悩み苦しむのです。そうした心理を小説にした井上靖の長編恋愛小説『城砦(じょうさい)』は本当に読み応えのある忘れられない一冊でした。
長崎で被爆したヒロイン《江上透子》は、かつての交際相手で、帰国して間もない青年考古学者の高津恭一と銀座4丁目で偶然再会します。その時彼は既に義理で他の女性と婚約をしていましたが、江上透子のことは忘れられずにいました。彼女も高津恭一のことが好きでしたが自分が被爆者故にそれ以上は前に進めません。釣り好きで元社長の桂正伸は二人の仲をとりもちます。桂は透子に言います。「愛が信じられないのなら、愛なしで生きてごらん。(中略) 生きるということは恐らくそうしたこととは別ですよ。(中略)」果たして結末はどうなるのか・・皆さん是非この機会に「城砦」を読んでみてください。きっと井上靖が好きになりますよ・・1945Am11:02 長崎の原爆投下日 (2018.8.9 迷える古羊)
投稿: 迷える古羊 | 2018年8月 9日 (木) 15時37分
久久振りに井上靖の名前を目にしました。井上靖の品のあるロマン溢れる作品が好きで、一時期いろいろな作品を読みました。迷える古羊さまのお勧めの『城砦』、題名は目にした事がありましたが、何となくスルーしてしまいました。読む本がまた加わりました。ご紹介ありがとうございます。
投稿: konoha | 2018年8月 9日 (木) 18時01分
Konoha様
初めまして、歌に直接関連しなくてごめんなさい。でも《長崎の鐘》は好きです。カラオケでは、「山のけむり」と「江梨子」と「世界を賭ける恋」とこの「長崎の鐘は」必ず歌っています。
井上靖さんに戻りますが、同じ仲間がいて嬉しいです。井上靖さんが好きな人に悪い人はいません。これで井上靖さんを取り上げたのは2回目です。前回は『あずさ2号』です。拙文ですが出来たら読んでください。ここにお世話になってから結構投稿させて頂きましたが、この(ナ行)欄では他に『野菊』がありますので暇なとき目を通してください。私もkonoha様の投稿文を眼をさらにして探してみます。
2018.8.9 迷える古羊
投稿: 迷える古羊 | 2018年8月 9日 (木) 20時25分
原爆は私の生まれた年に広島・長崎に投下されました。
19年後に開催された東京オリンピックの最後の聖火ランナーをつとめ、聖火台に点火した坂井義則君は同い年となります。
彼は広島ですが、広島原爆投下後1時間半後に生まれたそうです。被爆者ではないそうですが、聖火台の階段を力強く登る姿に大きな感動を覚えた記憶があります。
広島・長崎双方の記念公園を訪れましたが、今ある平和がこの様な尊い犠牲のもとにあるのだという思いを新たにしました。
その坂井君も70歳を待たずに他界しました。
投稿: タケオ | 2020年2月26日 (水) 11時28分
タケオ 様
私は、原爆投下2年後に、九州・小倉市に生まれました。8月6日の広島市の次の目標地点は、小倉市の陸軍造兵廠でした。私の亡父は、そこに勤めていました。予定通り落とされていたら、私は、この世に生まれ得なかった事でしょう。この歌を聞くと、何とも言えない気持ちになります。
高校2、3年生は、父の転勤で、広島市に住みました。1964年の、東京オリンピックは、広島市でテレビで見ました。広島県北部の田舎で生まれた坂井義則さんの事も知っています。
定年退職後、小倉市の代わりに犠牲になった長崎市の平和公園も慰霊訪問する事が出来ました。
今、住んでいる茨城のすぐ北で起こった「東電福島原発事故」を体験して、改めて、自分の出自を調べました。
投稿: 竹永尚義 | 2020年2月26日 (水) 18時19分
竹永尚義様
拙文をご高覧ただきありがとうございました。
時代を共有する世代、戦時体験こそありませんが、戦後の悲惨な状況は目にしていますね。
原爆は、小倉の他に新潟・京都なども計画地とされていたようです。
いずれに投下されても、その惨禍は広島・長崎と変わりはありません。
ある意味、核兵器の実験に使用されたという説もあります。
私たちは福島の原発事故・第五福竜丸の被爆等々核の怖さを実体験しています。
子や孫たちが同じような悲惨な体験をしないよう今ある平和の大切さを後世に伝えていきたいものですね。
投稿: タケオ | 2020年3月 3日 (火) 20時29分
我が家には新聞もテレビもなく週刊誌も読まないので世の中の情報はすべてパソコンからです。最近youtubeのある動画を見て驚きました。「原爆投下後の長崎で微笑む少女」です。あの少女見つかっていたのですね。それももうずいぶん前に。知りませんでした。
戦略爆撃調査団のチーフカメラマンであったダニエル・マクバガンさん(92才没)が生涯探し求められていた少女です。
感動しました。焼け跡を着物姿で歩かれている永井隆博士の姿も映されていました。原爆投下三か月後の映像です。
投稿: yoko | 2020年3月10日 (火) 09時11分
長崎の鐘にまつわる二木先生の名解説を繰り返し、くりかえし拝読させてもらいました。涙してよませてもらいました。かくも献身的な人がこの日本にいらっしゃったことを思うと八十路のこの身が恥ずかしくてなりません。修学旅行で病床を見舞った実兄の話に聞き入った在りし日のことを思い出し先生の名文を熟読させてもらいました。
投稿: 亜浪沙(山口功) | 2020年3月17日 (火) 15時55分
西日本、私の住んでいるところは今日も快晴。雲一つない青空の日が数日、1週間ほど続いています、明日も晴れ、日曜日曇って、月曜日やっと雨とのこと。
皆様方の地域も同じと思いますが新型コロナウイルス拡大防止のため、外出を控えています。、朝起きて空を見上げては、いつまで続くのか‥‥との思いです。
″こよなく晴れた青空を 悲しと思う切なさよ″ の歌詞が胸を刺します。荒廃した日本に生きる人の心に青空はまぶしすぎたのでしょうか、またいつこの青空を、うれしく感じる日が来るのだろうと思っていたのでしょうか。
自分のこと他人のこと我が地域のこと他地域のことを思いながら、すさんだ心に路傍の花の強さと希望を感じながらそれぞれが なぐさめ はげましあいながら今を乗り越えていきたいですね。
投稿: 遠木 道程 | 2020年4月10日 (金) 01時18分
「長崎の鐘」私は『蛇足』により、壮絶極まりない永井隆博士が背負ったその運命、そしてその後の生き様を初めて知りました。解説を読みながら感極まったことを憶えています!
召されて妻は天国へ 別れてひとり旅立ちぬ
かたみに残るロザリオの 鎖に白きわが涙・・・
ただ幼いころから何気なく口遊んでいたこの唄の二番、上記の詩だけはいつも心に残っていました。
諺に「心頭滅却すれば火もまた涼し」そして「無念無想」という四字熟語がありますが、永井隆博士の生き様には極限とも思えるその苦境の中から湧き出てくる何かがあるような、解説を読みながら私はそんな不思議な強さを感じました。
また病床の永井博士を見舞った藤山一郎に贈ったお礼の短歌
「新しき朝の光のさしそむる 荒野にひびけ長崎の鐘」
この上記の短歌には病床に伏せっている人間には表現できないような明るく強い未来予感を感じます。
なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘がなる♪♪♪
「長崎の鐘」サトウハチロウと古関祐而の偉大な二人によって作成されたこの素晴らしい唄には、戦争の悲惨さそのものよりも、上記の詩のようにこれからの平和を祈るすべての人たちの想いが、より美しく表現されており、まさに「祈りのナガサキ」を象徴しているようにも今私は感じます。
投稿: 芳勝 | 2020年7月25日 (土) 17時48分
映画『長崎の鐘』は、中学生のとき、学校行事として映画館へ観に行きました。
かすかに残る記憶は、モノクロ画面のなか、病床に横たわる永井博士のことです。
「長崎の鐘」(S24)の歌は、映画を観る前から知っていました。
出だしの、♪こよなく晴れた青空を 悲しと思うせつなさよ …♪は、ずしりと重く心に響きます。
晴れわたる青空のもと、本来なら、わが心も明るく、晴れやかになろうものを、今、被爆して病床にあって、余命いくばくもないという悲しみが伝わってきます。
自分がそのような状況に置かれたら、どのような心境になるだろうかと、想像すると、心が沈みます。
このたび、歌詞を眺めてみて、はっと気づいたことがあります。
歌詞が4番まであるのです。
私が、これまで口遊んできた歌詞は、3番までだったと思っていたのです。早速、二十余年前に購入した「戦前・戦後歌謡曲大全集」(コロンビア CD 12枚もの)に収納されている、藤山一郎さんの歌声を聴いてみましたら、歌われた歌詞は1、2、4番でした。
演奏時間の都合上、歌詞3番が省かれたのであろうと、自問自答しております。
今、改めて、歌詞3番に接し、”ミサの音”や”十字架に”のフレーズが配置され、歌詞2番の”ロザリオの”、歌詞4番の”マリア様”などのフレーズと呼応して、永井博士のキリスト教徒としての博愛精神が謳われているのだろうと感じ入っております。
投稿: yasushi | 2020年7月26日 (日) 13時22分
迷える古羊さまの2018.8.9コメントの中のご紹介の『城砦』を夏が終わってから、図書館に借りに行きました。全集の中の一冊でした。本がぶ厚いのと字の小ささに読みきれるかなと思いながら借りてきました。面白かったです。やはり井上靖の格調高いロマン溢れる内容でした。幾重にも物事が重なり合い、一体どこまでいくのだろうと思いました。被爆した一人の若い女性の生きるということの問いかけでした。
井上靖は確かあとがきで被爆した人のことを書いていくことにためらいがあったと書いていた記憶があります。
昨年BS1スペシャルで広島の画家四国五郎の特集を見ました。この画家はシベリア抑留から原爆投下後の広島へ帰国しました。原爆をテーマにした絵本『おこりじぞう』の挿絵で有名です。四国五郎の絵でとても印象に残った絵があります。絵の題名は覚えていませんが、修学旅行中の女生徒達の生き生きした姿に重なるように原爆で亡くなった女生徒たちの影が描かれていました。
もう一枚は無題だったと思いますが、原爆で亡くなった母親の横に座り込んでいる幼子の絵です。
母親ははっきり描かれていますが、女の子はおぼろに描かれています。この2枚の意味を考えるほどに忘れられない絵として残りました。
投稿: konoha | 2020年8月 7日 (金) 21時49分
長崎のsitaruです。今日は、75回目の長崎原爆記念日です。長崎市生まれ、現在長崎市在住の私にとっては、やはり特別な日です。戦後復興期に生まれた私は、原爆の惨禍を直接には知りませんが、小学生の頃から学校の先生や、テレビのローカル番組で、原爆のことを聞かされていました。8月9日は、当時から登校日で、原爆が投下された11時2分には黙祷をしていました。しかし、田舎の山村に育った私は、原爆のことを自分のこととして考えることはできませんでした。大学生になって、ようやく様々な書物によって、詳しい被爆状況や、被爆者の方々の苦しみを知って、自分も何かしなければと思うようになりました。
少し長くなりますが、私が生まれたのは、ある種僥倖だったと言えます。原爆投下当時、父は海軍航空隊の整備兵として、南方のラバウル基地に居り、母は激しくなる空襲を避けて、実家のある佐世保の田舎の親戚を頼って、当時3歳だった私の姉を連れて疎開していて、原爆に遭わずに済みました。私が原爆と出会ったのは、小学二年生の時が初めてで、担任の女の先生が被爆者で、時々原爆の話をして下さったようです。「ようです」と書いたのは、私にはその先生が厳しい先生で、悪さをしては黒板の横や廊下に立たされた記憶しか無かったからです。しかし、私の妻がよく覚えていて、その先生が、原爆投下当時、勤務されていた城山国民学校内で被爆され、傷を負いながら、辛うじて生き残ったものの、お母さんとご主人、四人のお子さんを、一遍に亡くされたことを話して下さったそうです。また、テレビ局が取材に来たこともあったらしく、国語の教科書を読む妻を、傍で見守る先生の写真が残っています。その先生は、私が出た小学校で、教頭・校長を務められ、退職後は、原爆の語り部として熱心に活動され、「原爆先生」と呼ばれるようになりました。もう一人、高校一年の時の英語の先生が、やはり被爆者で、後に被爆体験を語る様子が、テレビで放送されましたが、授業では一切触れられなかった記憶があります。
「長崎の鐘」を知ったのも大学時代で、今も時々聴きますが、正直言って、その歌詞に長い間、ある種の違和感を抱き続けて来ました。原爆の災禍を宗教に結び付け、それを「神の試練」と受け止める長崎独自の捉え方に対して、被爆者は宗教と関わりの無い所で無数に存在するのだという意識が私にはあります。よく、長崎は宗教と結び付けられることで、広島の原爆への怒りが結実した文学を、少なくとも原爆投下後の短い時間では作り出せなかったのだと言われますが、確かにそういう面もあったと思います。
私に残された時間は少ないのかも知れませんが、原爆と正面から向き合い、何かを書き残すことが、今の私の重い課題となっています。今回も長くなって申し訳ありませんでした。
投稿: sitaru | 2020年8月 9日 (日) 11時02分
Konohaさま御免なさい。8/7にお便り頂いていたことに気がつかずに。。。今日は長崎の原爆の日だからと思って開いてみましたら、御丁寧に小生宛に、それも井上靖が書かれているでは有りませんか。本当に嬉しかったです。
「江上透子」もですが仲を取り持つ「桂正伸」がいいですよね。 Konohaさまからも、小生の頭からほとんど消えていた『ヒロシマの反戦画家・四国五郎』を思い起こさせて頂き、誠に有り難うございます。 描かれた可愛い少女に美しい母子像・・ みな焼き殺されたのでしょうね・・胸が詰まります。 広島は4年間でしたが、第二の故郷と言って良い程思い出の詰まった所です。とは言え、知らないことも多く、また、色々教えてくださいね。
では、コロナも新聞によると、再拡大後は重症者が随分少なくなったとのこと・・学者達は不思議がっていますが朗報ですね・・うがいに手洗いにマスクさえすれば良いと言っていますので、お互いそれを守って、また、薬もそろそろ目処が付きそうですので、希望を抱いて、長生きしませうね。
投稿: 迷える古羊 | 2020年8月 9日 (日) 14時39分
sitaru様
最近のネット上の「ナショナル・ジオグラフィック」誌(2020.8.9付)ではマンハッタン計画の「成功」のプロセスをアメリカ政府の複数の公文書や写真を示しながら詳細に伝えています。既にお読みになられたでしょうか。この記事によれば、当時のアメリカ側は、8月9日の長崎への投下以降も日本側がポツダム宣言を無条件に受諾する気配がないため(日本政府中枢が「国体護持」を担保する方策を探ったこと、陸軍主導の「本土決戦」の声が大きかったことなどが原因だったでしょうか)、第3、第4の原爆投下の準備を具体的に進めていたとのことです。もし「8月15日」があと数日遅かった場合は、テニヤン島に運ばれた第3の原爆が東京(第1候補地。ほかに新潟、小倉などが候補だったようです)に投下されていた可能性はかなり高かったとのことです。いずれにしても、広島と長崎での原爆投下が日本政府の「8月15日」を早め、その結果として、多くの日本人がさらなる甚大・莫大な戦禍をまぬがれることが出来たといって良いのではないかと思います。なんと貴重な、尊いヒロシマとナガサキの犠牲だったことでしょう。さらにいえば、広島、長崎以来、この75年間、世界の核大国による膨大な数の核弾頭の保有(先年の広島市長の「宣言」では計14,000発にも上ると言われていますね。1発ごとの威力も、今や広島型の数百倍、数千倍にのぼっていることと思います)が続いていながら、世界で一度も核が戦闘行為に用いられていない事実(第五福竜丸のような不幸なアクシデントはあったにしても)を考えると、核大国の指導者たちの脳裏には、核兵器を戦闘手段として用いることがいかに悲惨な、非人道的な結果を招くかということが、やはり広島と長崎の実例から具体的にイメージされていた結果なのではないでしょうか? この点でも、いかに広島と長崎の方々の犠牲が、人類全体にとって尊いものであったかと、深く思わされます。
私は東日本で生まれ育った者(おそらくsitaru様のお姉さまと同年配かと思います)ですが、「怒りの広島、祈りの長崎」という言葉は聞いたことがあります。sitaru様の場合は長崎でお生まれになり、お小さい頃から原爆の惨禍のすさまじさを身近にされ、「祈りの長崎」の一言でくくられることへの違和感を覚えられていることは私なりにわかるように思います。確かに、広島の方たちも長崎の方たちも、「怒り」と「祈り」に単純に仕分けされる、というようなことを納得されるはずはないと思いますし、また、それは事実でもないとも思います。しかし、これはとてつもなく大きい課題ですね。私としましては、「ヒロシマ」「ナガサキ」に象徴される「核」を、今現在、どのように世界の人類一人一人が受け止めるのか、ということではないかと思っています。そして、これは「人間とはいったい何か」という命題にまっすぐつながってゆくようにも思います。かつて地球上で大いに栄えた恐竜たちが6600万年前に「外来天体」の落下により絶滅したというのは今や定説のようですが、もしも近未来に人類が滅びることがあるとすれば、恐竜とは違い、人類自らが創り出した「核」によってであろうということは、ほぼ言えるように思います。「人類の自業自得」と言えばいえるでのしょうか。このようなイメージの圧倒的な大きさに押しつぶされそうになる時、やはり、「怒り」とともに、それを超えて、「祈り」が自然に湧くことも確かです。一人のキリスト教徒(カトリック)として読んだことのある井上洋治神父の著作には次のように書かれています:「祈りは女や子供や弱者がするもので、真に勇気のある自律的人間のするものではない、というのはとんでもない間違いで、祈りは大きな生命の場の中の自分、本当の自分を凝視することですから、むしろ勇気のいる、価値の高い行為です。」(「福音書をよむ旅」(1995)より)
sitaru様には「原爆と正面から向き合い、何かを書き残すことが、今の私の重い課題です」とのこと。本当に大きく重い課題ですね。しかし、大変意味・意義のある課題であると思います。確かに私たちの世代に残された時間はあまり多くはありませんが、満足のゆかれる成果が得られることを願っています。このコロナ禍の中ですが、どうかご健康に留意されてお元気に頑張ってください。
投稿: Snowman | 2020年8月18日 (火) 11時18分
Snowman 様
長崎のsitaruです。Snowman様、このたびは懇切なコメントをいただきまして、本当にありがとうございました。自分の思いが人に伝わることほど嬉しいことはありません。
今年は、長崎の夏もかなりの酷暑で、数日前には37度を超える気温を記録しました。家族同士、家の中の廊下で会うと「暑かねえ」が挨拶言葉になりました。ただ、長崎に帰って来るまでの30年間は熊本市で暮らして、夏の耐えがたいくらいの蒸し暑さを経験していましたので、まだ長崎は過ごし易いほうだと思います。
今年の広島・長崎の原爆記念日から終戦記念日までの間は、思うところあって、広島・長崎を記録した報道写真や被爆者の回顧ドキュメンタリーなどの映像を色々と見て、最後は映画「黒い雨」を久しぶりに見ました。思う所とは、今月に入って、原爆をテーマとした短編小説を書き始めていたからで、執筆気分を高めるためでした。しかし、学生時代から何度も書き始めては頓挫し、また書き始めては頓挫しの連続で、数十枚の短編さえ、一度も完成させることが出来ずに、今日に至っており、つくづく自分には才能がないと悲しくなります。しかし、今度こそ完成させねばと思い、現在なんとか30数枚までこぎつけました。ただ、テーマがテーマですので、筆が上滑りしないように、枚数が増えるに従ってペースを落としています。
原爆を自分のこととして考えることは、戦後生まれの私にはやはり難しいことです。4年ほど前でしたか、九州のある大学で、「長崎の地理的特性と文学」という題でシンポジウムが開かれ、私は畑違いでしたが、長崎市出身ということで、コメンテーターをさせられました。若手の文学研究者が勢いの良い発言を色々としていましたが、それを聞いていた自分は、「所詮よそ者じゃないか」というような失礼なことを思っていました。私は、前にも書いたように、被爆後数年間で、広島の原民喜、大田洋子、峠三吉といった文学者を、なぜ長崎は生み出し得なかったのかということが重要と考え、やはりまず宗教が前面に押し出されたからだと考えていました。このシンポジウムをきっかけに、私はますます「解釈」する立場(畑違いとは言え、私もその一人でした)を離れ、「創造・表現」する立場に立ちたいと強く思うようになりました。ちょうど持病も進行しており、2年前「解釈」する立場から退いたという次第です。
Snowman様、まだまだ厳しい残暑は続きそうです。どうぞご自愛くださいますよう。
投稿: sitaru | 2020年8月18日 (火) 17時38分
はじめまして。素晴らしいサイトに出会えて、感謝です。「長崎の鐘」を聴いて目の前が涙で滲んでいます。
実は、私の亡妻は長崎の被爆2世なのです。妻の親族のほとんどが長崎で原爆にあっています。そして、多くの方が若くして癌で亡くなりました。妻も同じ運命を辿りました。
先日、8月9日のブログで書いた「被爆のマリア」という文章を再録いたします。長くなりますが、ご寛容ください。
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75年前の今日、1945年8月9日午前11時2分。長崎の町に一発の原子爆弾が投下されました。長崎の町は一瞬にして壊滅し、何万という人々がその時のままの姿で、ある人は再会を喜んで抱き合い、ある人は机について仕事をしているそのままの姿で忽然と姿を消しました。後に残ったのは累々たる屍と、重い火傷を負って皮膚が垂れ下がったまま浦上天主堂に向かって歩き続けるたくさんの人々の群れでした。その天主堂は原爆が落とされた夜突然出火し、崩れ落ちたと聞きます。
その瓦礫の中から、一体のマリア像が掘り出されました。一人の若い神父が、信者と協力しながら、まだ余熱の残る瓦礫を掘って見つけ出したそうです。
焼け爛れたその顔に流れる一筋の涙。肉親を失って悲嘆に暮れるたく さんの人々の涙と同じ悲しみの涙を、掘り出されたたマリアもまた流したのかもしれません。
被爆のマリアと呼ばれるマリア像の写真があります。悲しみをたたえたマリアの顔は、わたしたちに何を訴えているのでしょうか。
わたしの妻の母上は、この浦上で被爆しました。そのためかどうかは分かりませんが、彼女は癌で亡くなりました。放射線によって遺伝子が変化しなかったとは誰がいえましょう。わたしの妻も47歳の人生を母と同じ病で閉じ、天に召されました。そしてその遺伝子は、3世代後のわたしの子供たちにまで流れているかもしれないのです。
戦争はしてはならない。原爆も絶対に使ってはならない。神はわたしたちを滅ぼすために造り出されたのではなく、永遠の命に生きるものとなるように造られた。
今、BGMで「被爆のマリアに捧げる讃歌」という曲を流しています。この世に神の平和が満ち溢れ、人々の心が愛で満ち溢れますように。被爆のマリアが祈ったであろう祈りを、わたしもまた祈らずにはいられません。
投稿: hiro | 2020年8月22日 (土) 22時52分
迷える古羊さまご紹介の井上靖の『城砦』は長崎の教会の中で被爆した幼い姉弟の生活を描いたものです。『城砦』のあとがきに「被爆した人のことを書いていくことにためらいがあった」と書いてあった記憶があります。井上靖が取材を重ねるごとに、その思いを強くしていった気持ちが分かるような気がします。
ネタバレになってしまいますが、主人公が結婚するということに強いこだわりを持ち続けている小説です。途中まで題名の『城砦』の意味がわからずにいました。ですが、読み進むうちに『城砦』と題名をつけた井上靖の意図が分かるようになり、『城砦』とは、なんと心の内を表現したものだと思いました。
私は図書館で全集の中の一冊を借りて読んだのですが、昔の全集でしたので本の厚さと文字の小ささに読みきれるかなと思いましたが、数日で読み終わりました。そして被爆し生き残った子供達の思いを常人がどこまで理解できるのだろうと思いました。
こんなことを申し上げましたら誠に失礼にあたると存じておりますが、
hiroさまは『城砦』の主人公の相手の男性と同じ立場でご結婚なさったのですね。(どうぞお許しください) hiroさまの信念がhiroさまを動かされたのではと思いました。謹んで奥様のご冥福を心からお祈り申し上げます。
現在、世界のあちらこちらでキナ臭い事件が起こっています。まるでパンドラの箱が開いたかのようです。民主主義と自由の危機が迫っている勢いです。私は戦争の残忍さ、悲惨さは情報以外では知りません。しかし語り繋がれてきた事柄を決して風化させてはいけないと、毎年8月になると思いを新たにしています。
投稿: konoha | 2020年8月23日 (日) 11時37分
直ぐ上欄(つまり身近)のhiro 様の実体験の投稿文に、Konoha様が井上靖の『城砦』を重ねられると、余韻を残して終わった『城砦』の続編を読んでいるかの様です。
原爆症は原子爆弾・水素爆弾の爆発などで発生する爆風・熱線・放射線などによる人体の障害。火傷などの外傷のほか、全身的な機能低下や発育不全、造血器障害・悪性腫瘍などの障害がある。と説明書にあります。また、それに関して遺伝的影響調査の詳細も次のように載っていました。
射線が被爆者の子供にどのような影響をもたらすかは、被爆後早くから懸念された問題の一つです。遺伝的影響を探知するための調査が1940年代後半から開始され、現在も続けられていますが、これまで調べた限りでは遺伝的な影響は見いだされていません。分子生物学における最近の進歩により、将来、遺伝子(DNA)レベルでの遺伝的影響の検出が可能になるかもしれません。そこで検出力の高い適当な技法が開発された時点でそのような調査が行えるように、放影研では血液細胞の保存を行っています。被爆者の子供の死亡および癌発生に関する追跡調査も継続して行っています。と遺伝的影響の検出に含みを持たしています。
「透子」もそうですが、被爆した恋愛小説のヒロインは、自分はもう子供を生んではいけないのだと思い込み、結婚を諦めるストーリーが多くありますので、私はてっきり原爆症は遺伝するものと思っていました。でも、最近は前述のとおり5分々位ではと思っています。この辺りはhiro様がしっかり勉強しておられるのではと 大変失礼ですが存じ上げる次第です。《黒い雨訴訟》でも政府側は予算を増やすまいと、被爆患者を増やすことには反対ですので、遺伝的影響調査結果も曲げられて発表されないよう願うばかりです。
投稿: 迷える古羊 | 2020年8月24日 (月) 21時55分
長崎のsitaruです。以前にも書きましたが、私自身は戦後生まれで、被爆当時、父も母も長崎にはいませんでしたので、被爆者ではありません。しかし、私の妻の母(大正13年生まれ)は被爆者健康手帳を持っています。原爆投下の8月9日には、長崎市の東北の外れにある山村の集落に居て、爆心地からは7~8キロ離れていましたので、原爆の直接の被害には遭いませんでした。しかし、翌日、市街に暮らす叔父(父の弟)の消息を確認するために、市街地に入り、叔父を探し回ったそうです。幸い、叔父は無事でしたが、後年、被爆者の認定基準に、直接の被害を受けずとも、原爆投下以降、短い期間の間に市街地に入った者という項目があることを知り、認定を申請しました。認定されるためには、市街地に入ったという証拠や証人が必要とのことで、かなり手間取ったそうですが、数年後にようやく認定されました。その後、幸いにも原爆の放射線の影響と考えられる症状は出ないままに老年を迎えましたが、80歳を過ぎて、大腸癌、子宮癌に相次いで罹りました。幸い治療がうまく行き、96歳になる現在も健在です。市内の福祉施設に入居していますが、コロナの所為で、面会謝絶がもう5か月以上続いており(現在は施設の玄関先で、短い時間会うことは出来るようです)、携帯で子供たちと話すのが、唯一の慰めだと言っています。義母の病気が、放射線の影響かどうかは分かりません。しかし、義母の長女(私の妻の姉)が、乳癌のため、43歳の若さで世を去り、私の妻も、59歳で姉と同じ乳癌を患いました。発見当時、胸のしこりの大きさが3センチを超えていたので、随分心配しましたが、幸いにも全摘を免れ、治療も効果があり、その後7年は再発しなかったのですが、今年⁷7月に、肩に数個のしこりが見つかり、転移と確認され、現在抗癌剤による治療中です。癌にも性格があり、妻の癌は、医者から「性質(たち)の良い」癌と言われたそうです。転移も遅く、抗癌剤も良く効くからだそうです。自らと娘が相次いで癌に罹った時、やはり義母は原爆の影響を考えずにはいられなかったようです。しかし、やはりそれは証明は出来ないことのようです。癌は、ある時突然襲い掛かる病気で、私の実姉も43歳で胃癌で死にました。そして私の5歳上の次兄も上顎に出来る癌を65歳の時に患い、現在も療養中です。私の父の家系は、代々脳卒中の家系で、癌になった者はいなかったらしいのですが、今後は、癌の家系と呼ばれることになりそうです。まだ続きがありますが、いつも長くなってしまっていますので、また後日書かせていただきます。「長崎の鐘」の歌から離れてしまい、申し訳ありません。最後にまた誤記の訂正をさせていただきます。前回の投稿で、シンポジウムの題目を、「長崎の地理的特性と文学」と書きましたが、正しくは「長崎の地域的特性と文学」でした。たびたび申し訳ありません。
投稿: sitaru | 2020年8月25日 (火) 01時35分
sitaru様
目下ご自身で小説の執筆を進めておられるとのこと。まことに敬服の至りです。文学創作の分野はまったく無縁の私ですが、新しい創造の道を切り拓くというのはさぞかし大変なこととお察しします。ご健闘をお祈りいたします。
hiro様
浦上天主堂は私も数年前に妻と長崎・五島巡礼兼観光を楽しんだときに訪れました。幸いミサにも与かることが出来ました。「被爆のマリア」像のほか、被爆跡から掘り出された多くの遺物も見ましたが、まことに傷ましい限りでした。
長崎の原爆といえば、まず本欄の歌『長崎の鐘』で象徴される永井 隆先生が思い浮かびます。永井先生の戦後の言説には様々な立場からの批判もあるやに聞いていますが、先年、永井先生の作品を一通り読みたいと思い、まず文庫本『長崎の鐘』から読み始めました。じつは、その際、おおいに意外の感を持ちました。といいますのは、歌である『長崎の鐘』(本欄)の、サトウハチロー氏のややロマンティックな歌詞(とくに2番など)があらかじめのイメージとしてインプットされていたのですが、それとはかなり違って、本である『長崎の鐘』の基本的な内容は、至近距離で被爆した永井先生の、あくまでも一人の放射線医学専門の科学者・長崎医科大教官としての、詳細・リアルな被爆体験の報告書、そして救急医療隊隊長としての活動の報告書だったのです。とくに大学の研究室内での被爆の瞬間のリアルな、凄まじい描写には圧倒されました。そして、重傷ながら生き延びた惨状の中で生き残りスタッフを組織化し、自らも時に危篤状態になりながらも、少しでも多くの命を救おうと必死の救急活動をされている状況が詳しく記されています。(奥様のことはこの本にはまったく出てきません。奥様とのお別れは短いエッセー『ロザリオの鎖』に簡潔に記されています。) 一方、「核分裂」という物理現象が、理論的には兵器となりうるということは先生のご専門からも頭では理解していたものの、アメリカが現実に原子爆弾として兵器開発に成功したのだということを、米軍機が撒いていったビラで知った時の様子も、大きく落胆しながらも、学問的ライバルに先を越された時の学者のような無念さの様子もうかがえるのは、やはり意外と言えば意外でした。国を挙げて大戦争をしている当時の日本<太平洋戦争開戦時は無敗を誇る世界第3位(?)の軍事大国>の科学者達にとっては、永井先生に限らず、これが一般的なホンネであったのかと思わされます。
あと、永井先生は当時の国民の当然の義務として、日中戦争の初期に軍医中尉として出征され(昭和12~15年)、その時の様子が短編集『亡びぬものを』の中の『死線』という短編に描かれていますね。この時期の日本陸軍の野放図な戦線拡大策のため広い中国のあちらこちらの最前線へ運ばれ、将官クラスでさえも戦死するような数多くの激戦の中で何度も死線をくぐり、辛うじて生還されたようです。その間、軍医として負傷した将兵の医療・救命を行う一方、カトリックの国際慈善組織の一員として、中国各地の戦地で飢え、怯える人々へ食料品、絵本、お菓子などを配ることも行っています。なお、この短編の中で面白い(?)と思わされたエピソードは、華南の最前線の山道を永井先生が一人で歩いている時、チェコ製機関銃を持った敵兵とごく至近距離でバッタリと出くわした時のことです。軍医は国際法上、非戦闘員扱いで、戦場でも武器(この場合は軍刀)を使用することは禁止されているので、永井先生は事実上「丸腰」だったのですが、あまりの距離の近さに双方が立ちすくむ形となりながら、先生が相手の目を見つめつつニヤリ、と笑ったら相手が度肝を抜かれ、そのスキに相手の機関銃を取り上げて川に捨て、結局相手を柔道で投げ飛ばして捕虜にしてしまったとのことです。敵兵は「大失敗だった。ニヤリと笑われたので自軍の上官かと思った」のだそうです。このあと、日本軍陣地の一角で先生とこの捕虜の青年が1つのざぼんを分け合って食べ、今度はお互いにニッコリと微笑み合う、という場面があり、先生はしみじみと「こんな善良そうな青年と、一体何のために殺し合わなければならないのだろうか?まったく戦争というものの意味がわからない……」と述懐するのです。このエピソードは永井先生の並はずれた豪胆さの結果だとしても、個人的には何の恨みも憎しみもない人間同士が兵士として殺し合わなければならない戦争というものの本質を、永井先生は最前線で強く実感されていたのだということが分かります。
さて、以上のような、私が知りえた限りの永井先生の「生きざま」から私が受けた先生のお人柄の印象としては、先生と同世代、先生より5歳年上の私の亡父(明治36年生まれ)の人柄を思い浮かべても、一言で言えば『剛毅な明治人』が最も適切かなと思っています。永井先生の戦後のさまざまな活動についても、以上のような(被爆前の)日中戦争での最前線体験と、被爆直後の文字通り献身的な医療救護活動(とくにその組織化能力)とに示される「剛毅な」お人柄とつなげて考えることも意味があるのではないかと思います。その共通項は、やはり先生の篤いカトリック信仰であろうことは間違いないように思います。中国の最前線で看取った敵味方の数多くの将兵の死(当時の日本軍は敵軍の負傷者も野戦病院に収容したようです)、そして1発の原爆の投下によってもたらされた瞬間的、徹底的な都市の破壊と数万人、数十万人単位の非戦闘員の死、さらに「原子病」。戦争というものが、そしてその手段としての原子爆弾が、いかに非人道的であるか、いかに平和というものが尊いものであるかを、永井先生ほど身をもって経験された方も少ないのではないかと思います。原爆の非人間性のひとつに、それがあまりにも瞬間的、圧倒的な死をもたらすために、死んでゆく人が自分が死にゆくことすら意識しないままに死んでゆくこと、これほどの非人間性はない、という意味のことを、やはり永井先生がどこかで書いておられたと記憶します。
広島、長崎の原爆投下の現実と向かい合う……まことに重い課題ですね。愛する肉親や友人が理不尽な被爆死を遂げたり長い期間の後遺症に苦しむ場合、さらに、世代を超えて遺伝的な影響を恐れなければならない場合などはなおさらのことと思います。昨年11月に来日されたローマ教皇フランシスコの広島平和記念公園でのメッセージは、『原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています』というものでした。その訪日に合わせて拡散された長崎の「焼き場に立つ少年」の写真カードは私も1枚いただいています。……核大国間の緊張がますます高まっているかに見えるこの頃ですが、「人間の叡智」というものがきっと存在するはずであることを信じつつ、希望を捨てずに生きて行きたいものと願っています。
思うところをうまく書き尽くすことは私には至難の業のようです。以上、不十分な長い文章になり申し訳ありませんでした。
投稿: Snowman | 2020年8月26日 (水) 21時57分
josameさんのここへの投稿は、内容を考えて、交流掲示板に掲載すべきものと判断したので、そちらに移しました。
投稿: 管理人 | 2020年9月 3日 (木) 07時32分
聞くたびに涙がでるほどの名曲です。うろ覚えで違っている個所もあると思いますが、この名曲にエピソードがありますので(ご存じの節はお許しのほどを…)、私感を含めて書いてみました。
同曲がヒットした後、歌った藤山一郎が永井博士の病床を訪れた時、永井博士は藤山に「新しき 朝の光の差しそむる 荒野に響け 長崎の鐘」という短歌を贈ったそうです。藤山はこの詩に自ら書いた旋律を付け、時に応じて「長崎の鐘」を歌った後に続けて歌っていたようで、私も一度だけ聞いたことがありました。
さて、藤山がこの世を去り、「長崎の鐘」を作曲した古関裕而も鬼籍に入った後、遺品の中に「新しき朝の光に…」に古関がメロディを付けた楽譜が残されていたそうです。それは、藤山がメロディを付けたものが存在することを尊重し、自身が作曲したものを世に出していけない…との古関の思いから…とされています。
さて、古関が作ったメロディですが、これは「長崎の鐘」を歌った後に付け加えて歌っても、何の違和感も感じさせないもので、むしろ、これがあることで、より一層胸に響く名曲になったと個人的には思います。私が初めてこの旋律を聞いたのはNHKのTV放送で、東京のスタジオと長崎・浦上天主堂と結んだ二元放送でのもので、歌ったのはペギー葉山、とても感動しました。もう25年ほど前のことです。この時私は偶然にビデオ録画をしており、このテープからCDにコピーして時々思い出しては長いこと聴いてきました。全部で8分という長丁場の「涙もの」のパフォーマンスでした…。
投稿: ジーン | 2020年12月19日 (土) 20時59分
しみじみとした中に、懐かしさを感じる曲です。
二木先生の解題(蛇足)にも感動しました。
後半、転調してからの部分に鐘の音が聴こえてくるのがなんとも言えません。
ブログ・ハーモニカ演奏の伴奏に使わせていただきました。ありがとうございました。
投稿: ゆるりと | 2024年4月19日 (金) 09時49分
今年までこの曲を聴いて涙がにじんできたことがありませんでした。今年はなぜか涙がにじんで仕方がありません。ウクライナ戦争が起きてから、参加している自主グループで「戦争」を取り上げて今年で2回目になります。
住まいの区では毎年区の自主グループがそれぞれテーマを決め発表します。今年は16の自主グループがしました。その中の一つのグールプが高校生が描いた絵を展示しました。
その絵とは原爆で苦しんでいる人たちを生々しく描いたものでした。どれもが赤い色彩で横たわっている人々を克明に描いています。それこそ画家の丸木位里、俊夫妻の『原爆の絵』の墨絵とは反対の黒みがかった赤で苦しむ人々を表現していました。高校生が何日もかけ描いた絵は彼女たちに何をもたらしたかと想像するに難くないです。
投稿: konoha | 2024年8月11日 (日) 22時16分