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2007年5月 6日 (日)

ばあやたずねて

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:斎藤信夫、作曲:海沼実

1 森かげの白い道
  かたかたと馬車は駈けるよ
  あかい空 青い流れ
  ばあやの里はなつかしいよ

2 くりの花かおる道
  ほろほろと夢はゆれるよ
  枝の鳥ちちと鳴いて
  ばあやの里はなつかしいよ

3 思い出の長い道
  とぼとぼと馬車は進むよ
  暮れの鐘 招くあかり
  ばあやの里はなつかしいよ

《蛇足》 数々の傑作童謡を生んだ斎藤信夫・海沼実コンビによる作品の1つ。詩は昭和16年(1941)8月22日に、曲は昭和21年(1946)夏に作られました。
 斎藤信夫と海沼実の出会いについては、『里の秋』をご覧ください。

 斎藤信夫は、明治44年(1911)3月3日、千葉県山武郡南郷村(現・成東町)五木田で生まれました。小学校教員のかたわら、毎日1つ童謡を作っていたといいます。名作『蛙の笛』は、敗戦後教師を辞める直前の作品、『夢のお馬車』は教師を辞めたあと何をしようかと模索していた時期の作品です。

 斎藤信夫の子ども時代、近所にばあやのいる裕福な家があって、とても羨ましく思っていたこと、また九十九里浜から彼の村まで乗合馬車が開通し、ぜひ乗りたかったのに、果たせないまま廃線になってしまったこと――この詩は、そうした思い出から生まれた作品ということです。

 ばあやとは裕福な家に雇われて子育てや家事を手伝う女性のことで、多くの場合乳母の親称です。
 子どもが成長して手がかからなくなると、ばあやは実家に戻るのが一般的でした。その場合でも、子どもとの交流が長く続いたケースが多かったようです。この歌でも、ばあやの実家を子どもが訪ねるという設定になっています。

 肉親か他人かにかかわらず、ひとは自分を育ててくれたひとに愛情を持つものです。まあ、育て方にもよるでしょうが。

 下村湖人の自伝的大河小説『次郎物語』で、主人公の次郎は、母親の独自の教育論に従って、小学校の用務員の妻・お浜に預けられます。次郎の家から与えられる飯米目当てに養育を引き受けたお浜でしたが、やがて損得抜きで愛情を次郎に注ぐようになります。
 少し成長した次郎は生家に戻されますが、実母になかなかなじめず、何度もお浜の許に逃げ帰ります。
 第一部では、この次郎とお浜・実母との関係が主要なテーマになっています。

(二木紘三)

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コメント

ばあやたずねてはラジオで聞いて耳に残り、今でも栗の花の季節になると口ずさんでます。今は住んでるのが千葉県なので、歌いながこの歌の道はどの辺りだろうかなどと思ってました。また作詞者は、ばあやがいる裕福な家の生まれなんだろうと思ってました。ばあやという乳の臭いのする優しく懐かしい響き、ロマンチックな馬車、私同様作詞者の憧れから生まれた詩だとは知りませんでした。今はすっかり内容を忘れてしまいましたが、次郎物語も愛読しました。二つながら一緒に解説頂いて、感動を新たにしてます。
蛇足:一番の歌詞の「あかい空」は赤い空なんでしょうね。私は一時高い空と歌ってました。鳥は鳴き流れは青いけれど、時刻は夕焼けの始まる薄暮?

投稿: 河野重利 | 2007年8月26日 (日) 11時53分

川田三姉妹の真ん中の孝子さんがレコーディングしているのを聴いています。
「みかんの花咲く丘」や「里の秋」に比べると知名度では劣るようですが、私は三姉妹の数々のヒット曲の中では一番好きです。
童謡らしく、旋律は単純ですが、とても郷愁を誘い、経済成長前の日本の原風景を思い起こされます。
歌うたび、聴くたびに幼い頃、よく遊びにいった、母の実家周辺の田園風景がよみがえります。

投稿: 風花爺さん | 2008年7月13日 (日) 19時33分

二木さん 今晩は

コメントはゴンドラの唄に続いて2回目です。
毎晩 好きな曲聴いて 癒されています。
有難うございます。
この曲も郷愁を感じ、聴くたびに 祖母の事が思い出されます。幼少の頃 夏休みになると 父の実家 に出かけました。3才で母を病気で亡くした私を不敏に思ったのでしょう、たくさんいる孫の中でも一番私を可愛がってくれました。私が一番年下でした。
10才上の姉が母親として 結婚後は妻が妻と母親の役目でした、寝る時はいつも抱いてもらって寝ました。
自然にそんなスタイルになったのです。
もっとも 出産後は我が子が恋敵でとられましたが。
でも妻の両親が私を つねさん と呼んで大事にしてくれたのには 感謝の気持でした。

いつまでも お元気で このHPが発展することを
お祈りいたします。

投稿: (青果) 川本 | 2008年9月 2日 (火) 22時27分

この歌は、戦後、小学校のときに、学校音楽コンクールに出るために、自由曲として一夏練習した曲です。
この歌を思い出すたびに、その時と同じように、いつも外国の絵本の中に出てくるような田舎の風景が心に浮かんできます。「白い道」とか「馬車』という言葉がそうさせるのでしょう。地方の田舎にいた私には、遠い夢のような世界でした。
また、この歌を聴くたびに、この歌のようにのどかだったあの時代がよみがえります。
とても歌いやすいし、いまも田舎に行き、心の中の風景に似た風景に出会うと、おもわず口ずさんでしまいます。

日向 明(68歳)

投稿: 日向 明  | 2008年9月28日 (日) 18時11分

 昨年末頃から、一つの歌を繰り返し聴くことが出来なくなりました。私のような「ながら視聴者」には大変残念なことです。しかしそれ以来、『うた物語』のトラブルがピタッと止んだのですから、仕方ありませんね。
 それで今は、各ジャンルの「連続演奏」を聴いたりしています。それによって、意外な収穫が得られることがあります。この歌がまさにそうでした。
 童謡・唱歌の「連続演奏1」を何回か聴いていて、この歌になると『あれっ。何と良い歌なんだろう ! 』といつも思いました。調べてみると『ばあやたずねて』。どなたかも述べておられますが、本当にほのぼのとした郷愁を感じさせる歌です。
 同じ曲調を感じたのが、童謡・唱歌「連続演奏2」の中にもありました。『母さんたずねて』。同じく、作詞:斎藤信夫、作曲:海沼実なのですね。2曲とも、新たな発見でした !

投稿: Lemuria | 2009年2月13日 (金) 02時47分

いい歌です。二木さんの蛇足ならぬ蛇足で本県が舞台と聞いて、なおのこと誇らしく、愛唱しています。もっとも当地は成東、九十九里には遠い東葛ですが。
この歌のイメージは、後藤純男の「灯ともし頃」に重なります。ばあやの里の夕暮れ時を思わせる日本画は傑作で、そこへ通う馬車の姿さえ想像させます。石川遼で著名になりましたが埼玉県松伏町の、印鑑登録証の風袋に印刷されているそうです。

投稿: ika-chan | 2010年10月 7日 (木) 19時08分

ほかの童謡とは少し違うものを幼い私に届けてくれた美しい歌、ラジオから流れていた川田孝子の歌声を今も懐かしく思います。
市の中心部でありながら緑にも恵まれていた北の街に育って、「森かげの白い道」は身近な風景に思われました。栗の花はそこにあり、鐘の音は近くの教会から…。
乗合馬車は見たことが無かったのですが、昭和20年代中頃の路面電車もバスも走っていた街に、ごくたまに荷馬車を見かけることもありました。
きっと、この歌詞の風景は背伸びして想像しなくても良かったのだと思います。
気候的に、みかんの木、柿の木、からたち、田んぼ、などは子供の頃身の回りには無く、ただ歌を通して思い描くばかり…りんご園やぶどう園は郊外に行けばありましたが。
そして海も小学校3~4年になるまで見たことがなかったのでした。
今は思い出の遠い道を、この歌の中に懐かしく辿っています。

投稿: 眠り草 | 2010年10月 9日 (土) 13時12分

ご解説はよく理解したつもりですし、昔、次郎物語も読みました。
もちろん、貧しい私の家に、ばあやがいたわけではありません。
でも、20数年を過ごした故郷の北の街こそが、私を育ててくれた「ばあや」なのだ…と、ふと思ったものですから…。
門前町も城下町も、瓦屋根も知らなかった私の「ばあやの里」のイメージは、日本的なものではなかったのかも知れません。
「暮れの鐘」は、お寺の鐘なのでしょうね。でも、教会の鐘や、時計台の鐘が私には身近だったのです…。

投稿: 眠り草 | 2010年10月11日 (月) 19時12分

はじめまして、前記の方々が述べられているように
70代前半の私にとって瀧 廉太郎に始まる近代日本
の芸術としての音楽、心の糧になるべく歌 作者が
心血を注いだ音楽には時を越えて人々の心に響き深く
刻み込まれて歌い継がれていくものだと考えています。
めったにいい音楽にめぐり合わない歌謡曲・演歌の類
(商品)等とは似て非なるものでその点では音楽の
ふるさとである国々の人々の方が余程本質を見る目が
確かなようです。

投稿: 植田 貞之 | 2018年8月16日 (木) 01時43分

朝から、忘れかけていた懐かしい歌のリクエスト、ありがとうございました。

蒸し暑くて、悶々として眠れず、ぼや~っとした感じでいましたが、この歌を聞かせていただきながら、とても良い気分になってきました。
すっきりした気分で、病院の定期検査に行ってきます。

ありがとうございました。

投稿: あこがれ | 2018年8月16日 (木) 07時27分

「うた物語」の歌の一覧を辿っていて、「ばあやたずねて」に行きあたりました。”はて、どんな歌だったろうか?”と、二木オーケストラによるメロディを聴いたところ、子供の頃に聴いた記憶が甦りました。
メロディがとても美しく、懐かしさがこみあげてきました。

一方、歌詞を眺めてみますと、”ばあや”が目に留まります。
戦後すぐの、私が子供だった頃、既に、日常の会話の中で、”ばあや”に出会ったという記憶はありません。(”ばあや”は、戦前の、裕福な家に限られた存在だったからでしょうか。)
まして、今どきの子供達には、”ばあや”の存在はますます遠く、この歌の情景を思い描くのは難しいだろうなあと、余分なことを思ったりします。
そう言えば、「赤とんぼ」〔三木露風 作詞(T10)、山田耕筰 作曲(S2)〕の歌詞3番に、♪十五でねえやは嫁にゆき…♪と、ここでも、近年殆ど耳にすることがない、”ねえや”という言葉が登場しています。
”ばあや”と”ねえや”、何やら、懐かしい語感の言葉ですね。

”歌は世につれ”と言われますが、いろいろな歌に接するとき、その歌が作られた当時のことが偲ばれ、感慨新たです。

投稿: yasushi | 2019年7月11日 (木) 11時07分

夕方ふとこの歌が口をついて出てきました。随分久しぶりに歌ったのですが、「赤い空」の歌詞が出てきませんでした。ここに載っていたので次男と一緒に歌ってみました。
心が優しくなる歌ですね。心は少女に戻っていました。
『次郎物語』は中学の時、何回も読み返しました。子育ての時、なつかない次郎に手を焼いた母親が言った言葉を私が母親になった時、いつも子育ての参考にしました。
「子供って可愛がってやればいいのね」でした。この歌を思い出すとその言葉が出てきます。

投稿: ハコベの花 | 2021年9月26日 (日) 23時01分

「ばあやたずねて」どこかにのどかさが漂うこの素朴な詩、そして聴くほどにほっこりとさせられるようなそんなメロディが好きな私は、今も時々この唄のページを訪れています!

私がこの唄を知ったのは1995年に購入した『蘇える童謡歌手大全集』の中に収録されていた、川田正子歌唱(原盤)を初めて聴いた時でした。はちきれんばかりの声で歌う童謡歌手川田正子の少女期の歌声が、私は今でも無性に聴きたくなります。

昭和29年生まれの私にとって『乳母』とは未知に近い世界でもあり、また興味も強く、今日は映画『次郎物語・昭和16年版』をYouTubuで初めて視聴してみました。

その映画の中で、特に私が印象に残ったのは、危篤状態に陥った次郎の実母お民が息を引き取る前に、見舞いにかけつけてくれた乳母お浜に『・・・可愛がっていればいいんだね・・・』と、後悔の捻をかぼそい声でつぶやくという、その切ないシーンに私は思わずグッとくるものがありました。そしてあえて厳しく躾けていた実母お民のその愛情は、息子次郎にも伝わっていた。そんなラストシーンを観れたことが私にとっては救いでもありました。

『蛇足』に記された、>「肉親か他人かにかかわらず、ひとは自分を育ててくれたひとに愛情を持つものです。まあ、育て方にもよるでしょうが。」まさにそのとおりですね。

投稿: 芳勝 | 2021年9月27日 (月) 22時22分

”次郎物語”と同時代の小説”路傍の石”も思い出しました。だけど二つの小説の違いが分からなくなってネットで調べました。

私も祖母に愛されて育ったことを懐かしく思い出します。

幼児の頃は祖母のお布団で寝たこと、夜おしっこに行くときは祖母の手を引いて行ったこと、床屋さんに行くときも祖母と一緒に行ったこと、小学校の父兄参観には母ではなく祖母が参観に来たことなど。

高校生の頃、テレビで”次郎物語”を放映していました。
祖母はその時間帯には必ず畳の上に正座し、テレビに見入っていました。実は祖母は最愛の息子を19才で亡くしているのです。着物姿の少年次郎を見てきっと次郎と息子を重ね合わせて懐かしんでいたのだろうと思います。

私に対しても、彼女の息子の生まれ変わりだと思って愛情を注いだのだろうと思っています。

投稿: yoko | 2021年9月29日 (水) 23時31分

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