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2007年6月17日 (日)

初恋(石川啄木)

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:石川啄木、作曲:越谷達之助

砂山の砂に 砂にはらばい
初恋のいたみを
遠くおもい出(い)ずる日

初恋のいたみを 遠く遠く
ああ おもい出ずる日

砂山の砂に 砂にはらばい
初恋のいたみを
遠くおもい出ずる日

《蛇足》 石川啄木の第1歌集『一握の砂』(明治43年東雲堂刊)中の1首に曲をつけたもの。

 『一握の砂』には、啄木が明治41年(1908)から同43年(1910)にかけて作った551首がテーマ別に5章に分けて収録されています。現在の感慨を歌った作品から過去を回想する歌へ、再び現在の所感を歌った作品へという順序で並べられており、その循環のなかで作者の自画像を浮かび上がらせるという構成になっています。
 「砂山の……」は、その第1章『我を愛する歌』の6首目の作品。

 越谷達之助(こしたに・たつのすけ)は、東京音楽学校(現・東京芸大音楽学部)師範科を卒業、イタリア留学ののち、作曲家・ピアニスト・詩人・俳優として活躍し、戦後は青山学院高等部・短大・大学で音楽を教えました。

 読売新聞文化部編『愛唱歌ものがたり』に、「昭和15年(1940)秋、日比谷公会堂での歌手三浦環のリサイタル。アンコールで越谷達之助という無名の作曲家を引き連れて登場、彼の伴奏で『初恋』を熱唱した」との記述があります。

 この曲は昭和13年(1938)発表の歌曲集『啄木によせて歌える』に収録された15曲中の最初の作品です。何人かの作曲家が啄木の短歌に曲をつけていますが、これはそのうちでも最もよく歌われる曲です。
 4分の5拍子、4分の4拍子、4分の3拍子、4分の5拍子とめまぐるしく拍子の変わるのが特徴で、それが独特のノスタルジックでみずみずしい印象を与えています。

 ところで、初恋はなぜ破れるのでしょうか。初恋を成就させたという話も耳にしないわけではありませんが、たいていの人は初恋を失っているはず。初恋は破れる、遅かれ早かれ破れる、不可避的に破れる、破れるのが初恋だ、と断定してもよいほどです。

 これは、ほとんどの場合、若者の初めて恋する対象が相手その人ではなく、相手を素材として心の中に創り上げた幻影だったことに起因しているようです。よく耳にする「恋に恋する」という言葉は、これを表現したものといってよいでしょう。

 恋されているのが自分ではなく、自分の虚像だったことに相手が気づいたとき、あるいは自分が虚像に恋していたことに気づいたとき、初恋は終わりを告げます。

 人間関係の経験を積んで、相手の実像が把握できるようになると、次第に落ち着いた恋、いわゆる「成熟した恋」ができるようになります。
 しかし、その味わいは、初恋の甘美さには及ぶべくもありません。たとえ破れても、初恋の記憶は長く心を潤し続けます。

 多くの芸術作品が破れた初恋から生まれました。若者は破れることを恐れずに恋をすべきです。 

(二木紘三)

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コメント

この「蛇足」を読むのが楽しみです。私の知らなかった世界が開けたり、思い出して懐かしくなり、それぞれの思い出した場面を振り返りながら癒しの時間を過ごしています。惜別の歌の「蛇足」をよんで藤村をもう一度読み直しました。これからも歌もですが、「蛇足」の方も楽しみに待っています。

投稿: ようこ | 2007年7月11日 (水) 23時20分

この歌も名曲ですね。少年の頃、リリックテノールの奥田良三さんのリサイタルでこの歌を聴き、大変感動しました。
清純な点では和製ソルベイグの歌でしょうか。

投稿: 三瓶 | 2007年7月20日 (金) 16時47分

森本恵夫のハーモニカで初めて聞いた歌/メロデーでした.それがワイフに教わり
このサイトでも聞いた 昭和一けた生まれにはまるで自分の過ぎ去った.終わった
初恋を今 詩の通りこの歳でも追ってる様な...過ぎたあの時 初恋で有ったかも
知れないが保証も無い若い彼女の顔が目先を横切る.彼女もう70才過ぎてるかも。

ロスにて
タカハシ G。

投稿: 高橋 ジーン | 2007年10月18日 (木) 15時14分

初恋は誰にでもあるもの、青春の一齣は遠く蘇り懐かしさで胸を締め付けられる。心が寂しくなったような時、心の空白を癒したい時など、ふっとこの歌が口から飛び出してきます。
 奥田良三氏の朗々と唄い上げる旋律は心に沁みて、いまでも懐かしく蘇る。
枯れた喉で一人旋律を追うけど、ついて行けないもどかしさが、何んとも情けない。
            後期高齢者の独り言

投稿: shiiza koba | 2008年9月25日 (木) 17時04分

私は『二木紘三のうた物語』の大大大ファン!です。それぞれの音楽に添えられた仁木先生の解説にはいつも大感動させられています。・・・そこでお願いです。解説のタイトルが『蛇足』とありますが、あまりにも勿体無く感じます。せめて『補足』とか、又は『解説』とかの表現に変えて戴きたく存じます。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

投稿: サーラ水心 | 2008年9月29日 (月) 17時50分

この歌はやはりテノールが歌ったほうがよいでしょうね。
奥田良三さんの心筋に触れる歌唱が忘れられません。

投稿: 三瓶 | 2009年1月 9日 (金) 17時43分

以前に何処かの会社のコマーシャルの挿入歌にこの歌をソプラノ歌手が堂々とロマンティックに歌っていました。映像が終わる最後に♪「初恋」と記されていましたので 気に入って楽譜を買いました。歌詞はたったの三行詩の繰り返しなのに 三つの拍子の組み合わせでこんなにもすばらしいメロディーになるんですね。二木先生の伴奏も原曲のままで作成して下さいましたので とても嬉しいです。このサイトを開く度に「初恋」と「冬の星座」をまず歌っています。二木先生本当にいつもありがとうございます。どんなに心が癒されているか計り知れません。 

投稿: 二人三脚 | 2009年4月12日 (日) 15時23分

初恋の楽譜を探しています。

45年ぶりにピアノをはじめました。

是非、挑戦したいと思っています。

投稿: 三枝 千尋 | 2009年12月 8日 (火) 20時55分

今日は啄木忌です。かれは26歳の若さで、明治45(1912)年の今日この世を去ったのですが、早熟の天才歌人の「初恋」は何歳のときだったのでしょうか?かれの伝記によれば、盛岡中学2年生のときに堀合節子との出会いがあったとしています。彼女が初恋の相手であったのかどうか、は分かりませんが(多分、そうなんでしょうね)、この歌が巷間広く知られているのは、「初恋」の本質を見事にとらえて詠まれているからでしょうね。「初恋」の本質とは、ただ甘いだけではなく必ず「痛み」がともなうということでしょう。その「痛み」とは何でしょう?わたしの独断と偏見で言わせていただくと、「もう二度とあんな純粋な恋はできないだろう」というプラトニックなエロス(憧れ)と訣別する「痛み」だろうと思います。たとえ「初恋」が破れずに成就できたとしても。

投稿: ひろし | 2010年4月13日 (火) 17時09分

今日は午後から何回もこの歌を聴いていました。朝、知り合いの女性と話をしたら、彼女は80年近く生きているのに恋をしたことが全くなかったと言いました。子供のころ父親が戦死、病弱な母親と妹を抱え、疎開先で山から切った木を背負い里に運び、それが済むと海岸でアサリを採り家計を担ったと言いました。結婚してからもずっと働き、遊ぶ余裕もなかったそうです。
ご主人も他界、生きているとき「生まれ変わったら、また結婚してね」と何回言っても返ってきた言葉は「嫌だ」だったそうです。「今からでもいい、片思いでもいいからドキドキする人見つけてね」と言って別れましたが、私のほうが淋しくなって「初恋」を聴いていました。淋しい人生を淋しいと思わず生涯を終わる人もいるのですね。しみじみと初恋のあった自分の幸せを感じています。

投稿: ハコベの花 | 2010年11月12日 (金) 23時34分

石川啄木と島崎藤村は生きた時代は似ていても随分と作風は違うと感じます。この初恋は藤村も書いていますが、藤村の方が現代風だと感じます。

投稿: 海道 | 2010年11月14日 (日) 17時09分

啄木は中学時代に習い、授業以外に色々読んだので「初恋」も短歌としては早くから知っていました。
それから数年後、身近な人がテノールで歌うのを聴き、この曲が大好きになりました。
バリトンも良いかも知れませんが、美しいテノールで誰かに歌ってもらいたいと、このごろ良く思います。
ところで歌詞を見て、なぜか覚える違和感の正体が最近わかりました。

砂山の砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日

手元の啄木の歌集では旧仮名で、それに馴染んでいたからなのです。不思議なものですね。

投稿: 眠り草 | 2010年12月25日 (土) 00時12分

いつもお世話になっています

投稿: 坂井克行 | 2012年10月12日 (金) 17時52分

私の初恋です。
50に近い頃です。田舎の母が訪ねてきて夜とりとめもなく古い記憶を話しました。「近所に可愛い女の子がいて、毎朝、幼稚園に行くときおまえを迎えに来た。その子は小学校に上がる前に死んでしまった。その子を可愛がっておられたおばあさんはオイオイと泣いておられた。」と。その瞬間、私は、“彼女だ!”と、遠い記憶がよみがえりました。

幼稚園はお寺の本堂にありました。境内には、フランコ、すべり台、お砂場などが備えてありました。本堂の床は、梅組(3才児)、竹組(4才児)、松組(5才児)に区画されていました。その日、季節は夏だったと思います。蝉がうるさく鳴いていたと思います。なぜなら、先生が「お昼寝の時間ですよ。」と言って薄くて軽いお布団を園児に配っていたからです。

僕と一緒にいた彼女がスッと立ち上がり、自分のお昼寝の場所に走って行きました。その時、彼女は私を一瞬振り返りにっこりとほほ笑みました。私は、お昼寝が済んだら彼女はきっとまた僕のところに戻って来る、と疑いませんでした。しかし、お昼寝が済んで、彼女はいなくなりました。見つかりません。先生に尋ねました。先生は「家に帰った」と答えました。僕は「明日があるからいいや」と慰みました。しかし彼女は次の日も、その次の日も幼稚園にきませんでした。私は彼女を探しました。幼稚園でも、村の通りでも、女の子たちが集まって遊んでいる所に近寄っては彼女がいないかどうか探りました。

ひと月くらい経ったでしょうか。「○○ちゃんがいない!」と先生に訴えました。先生は「遠くへ行った。」と答えました。私は「いつ帰る?」と問いました。先生は「もう少しして、」と答えました。彼女が帰ってくる-本当に嬉しかったです。そして待ちました。来る日も、来る日も待ちました。そして月日が過ぎ去り、卒園の日となりました。お寺の門を出て、門を振り返り、「とうとう彼女は帰ってこなかった。小学校なんか行きたくない。幼稚園でずっとずっと彼女を待っていたい。」と思いました。

・・・と、このような遠い出来事がよみがえったのですが、謎が残ります。この私の記憶は幻想かもしれない。仮にその記憶が事実であったとしても、私が待っていた彼女が母の話した亡くなった女の子だという証拠はありません。そこで私は田舎に戻った母に電話し、彼女のお母さんに彼女の命日を聞いてもらいました。

彼女(かず子ちゃん)が亡くなった日は8月23日でした。私はその日に釘付けになりました。“8月23日-夏です”。さらに、彼女は幼稚園で具合が悪くなり、急きょ自宅に運び戻されたとのことでした。日本脳炎だったそうです。もう間違いありません。私の記憶は夢ではなかった。私は確かに彼女を探していて、その女の子は亡くなったかず子ちゃんです。彼女は5才の誕生日を三日過ぎたばかりでした。そして私はその時3才と7カ月でした。

その後、彼女のお母さんにお会いし彼女の写真を見せて頂きました。セピア色の写真の中に、かんざしを付け、舞の衣装を着けた彼女がいました。「やっとお会いできましたね。ずっとずっと探していたんですよ。でもごめんなさい。ぼくはもうこんなに歳とってしまいました。」と私は心の中でつぶやきました。

幼稚園時代の記憶を解きほぐし、彼女の命日を調べてくれた私の母はその命日を、私にではなく私の弟に電話していました。その時すでに母の痴ほうは進行していました。
(長くて申し訳ありません)

投稿: yoko | 2014年7月28日 (月) 12時35分

YOKO様、77歳老です。幼い頃の切ないお話ですね。近頃このような話をお聞きするとすぐ涙が出てきます。40年ほど前にはまだ日本脳炎があったのですね。ご母堂様が間違えて弟君に連絡されたのも切ないことですが加齢と共に誰にでも起こり得ることです。それにしても4歳頃のことがよく記憶に残っていますね。驚きます。
小生は小学3年の敗戦の年の10月中頃、6歳に満たない弟が突然いなくなりました。後で判ったことですが近くの海に転落して行方不明になったのです。もう肌寒い季節に父が海に入り泳いで船の底などを探しましたが見つかりませんでした。利発で美童と言ってよい少年で兄の小生よりも遥かに確りした弟でした。敗戦時のこととて食べ物も不自由な時代でした。美味い物を食することなく恋も知らずに短い人生を駆け抜けて行ってしまったこの弟のことをよく思い出します。

投稿: オイロッパスキー | 2014年7月29日 (火) 20時14分

オイロッパスキー様、コメントありがとうございます。文が拙かったです。私は現在65才です。そして彼女が日本脳炎で亡くなったのは62年前のことになります。親しい人、好きな人を失うと生涯悲しいですね。いつも思います、もう一度あいたいなぁ。

投稿: yoko | 2014年7月29日 (火) 22時58分

友人が急死した。
初恋を思い出にできず、現在進行形のまま想いつづけ、独
身を徹した。
六十五歳だった。
色あせた2ショットの写真が数枚残されていた。
砂浜に戯れる夏の日の一枚が、印象的だった。
それらを胸元に収めて、身近な者だけで見送った。
彼女に知らせたかった。
かって、二人を包んだキラキラした時間を、一瞬でも思い
出してくれるなら、懐かしんでくれるなら、なによりの供
養と思ったが、所在を知ることは出来なかった。
初恋を思い出にできずに逝った男の、純情と不器用とそし
て悲しみを、思ってみる。それで良かったのかと問いか
けながら。

投稿: MAEDA | 2014年9月15日 (月) 21時19分

『片想い』も『恋』の類に入るのでしょうか。
中学一年のとき同クラスの女子生徒に想いを寄せました。
頭脳明晰で、定期考査は常に学年で1番か2番。
理数も社国英も美術も音楽も家庭も全てトップだったようで、ただ保体の実技の授業時間は見学をしている生徒でした。長いまつげに綺麗な二重まぶた。色白で左利きで口数少ない、当時の少女漫画のヒロインのような生徒でした。
二年は別クラス、三年でまた同じクラスに。少しは会話を交わしたけど想いは打ち明ける事無く、高校は遠く離ればなれに…。 風の便りに独身を通しているとか…。身体の弱さで結婚に踏み切れなかったのかなぁ…と。
「憧憬」も「片想い」も『恋』の類ですよね。

投稿: かせい | 2014年9月15日 (月) 23時52分

かせい様
世にいう「初恋」のほとんどは実際には憧憬ではないでしょうか。そして憧憬はいつも一方通行、すなわち片思いですね。だからこそ初恋は常に美しいのだと思います。

投稿: コマツ | 2014年9月16日 (火) 00時14分

MAEDAさま
初恋に殉ず、ですか。詩のような美しい追悼文に感動しました。

投稿: 松永和夫 | 2014年9月16日 (火) 01時48分

 松永和夫さま
ありがとうございます。
「感動」の言葉は、友人の人生に向けられたものと、受け止めさせていただきます。

投稿: NAEDA | 2014年9月16日 (火) 23時45分

「私に人生と言えるものがあるなら」(アメリカ民謡、笠木透詞)という歌をたまたま聞くことがあり、MAEDAさまの文章が強烈に思い出されました。昨日は船員だった兄の命日でした。生涯独身だった彼は恋をしたことがあったか、そういえば若いころ横文字の手紙が届いていたことがあったな、と思い出されました。こんな詩がありましたね。「あの人船乗り素晴らしかったわ 海を我がもの 惚れぼれしたわ …」初恋の思い出を綺麗に持っている人は幸せだろうなと思ったりします。

投稿: 樹美 | 2016年1月 9日 (土) 19時15分

皆さまは人は幾つぐらいから人を恋するとお思いでしょうか。私の孫娘が幼稚園の年少組ですから3歳の時の話ですが・・・・・。
彼女はクリスチャンの母親の影響で、面倒見が良い穏やかな優しい性格で、赤ん坊の時から扱いやすい子でした。その孫のそばにずっといたお友達が、話の上手に伝えられない口の遅いお友達で、先生が孫に「何を言っているか、先生に教えてね」と言われるくらい世話好きな孫でした。ある日幼稚園一のいわゆる「わんぱく坊や」が遊びの中で孫に「xxちゃん、大人になっても僕は好きだからな!」と、そっと伝えたらしいのです。孫は彼の言ってることがピンと来なくて、一番の親友にそっと【誰にも言わないで】と頼んで伝えたらしいのです。もちろん母親にも言わずに・・・・。
その夜に親友のお母さんから電話があり、母親の知るところとなり、さあそれからがおおごとになったのです。
母親が知ったのは結局最後の最後で同級生の母親全部が知ってしまったという事実に、孫は【あれだけ誰にも言わないで】と言ったのに・・・・・とあきれてしまったそうです。わんぱく坊やの彼は孫に恋してくれたのでしょうか?その後彼の家族は東京に転勤になり、小学生の時孫に聞くと、年賀状のやり取りしてるとのことでした。
その後どうなったか聞いていませんが孫も今年やっと希望の大学に入りましたが、そろそろ「どうなってるの?」と聞いてみようかなと思ったり、いや余計なことを聞いて嫌われるのが怖くて・・・・・・。
この騒ぎの後に、孫が親友の行動に対して【バアバアはどうおもう?】ときかれ、耳元でそっと「女性同士の間で秘密は守られにくいとおもうよ」と、余計なひと言を発したあとに、二人で「ココだけの話よ」と大笑い。
皆さま、最近の子供はなかなか侮れませんぞ!とにかくおませですよ。

投稿: mitsuko | 2016年1月12日 (火) 05時14分

「夕陽背に帰省の君は立ち給ふ十六歳の私の前に」大学の夏休みに浜松駅からまっすぐに歩いて私の家にきた彼を口も利けないほど緊張して見つめた私。彼は19歳。もう60年も経っているのに忘れた事はありません。その想い出だけで過ぎ去った青春が美しくなります。

投稿: ハコベの花 | 2016年1月12日 (火) 15時02分

5月8日のコーラス部の発表会で歌います。

投稿: 田中豊 | 2016年4月21日 (木) 18時22分

啄木のフアンです。昔ラジオ深夜便であの千の風の新井満さんが「ふるさとのやまはありがたきかな」に曲をつけて歌っていました。先日福島の智恵子の家を訪れた時東北の3人の詩人、啄木・光太郎・賢治に思いを寄せましたが謹厳な賢治、純粋な光太郎に対し、啄木は自己中心で何か薄っぺらい理想主義、恋に恋して家族への責任に悩みながらも他の女性をも思う天才のイメージが、天才という点を除きまるで自分を見ているようで啄木歌集を離せません。遠い日の恋といえば60年安保のころ芦屋の業平橋で女友達に「テネシーワルツて知っている?」と聞かれて?でしたが、随分後になって先輩の彼女であったのだと思いが至りました。

投稿: しょうちゃん | 2016年4月21日 (木) 23時12分

 小学校の頃、確か「奥田」とかいう人の歌を聞いたことがあります。奥田良三だったかは分かりませんが、小学校で聴くでしょうか。
 『蛇足』に若者は破れることを恐れずに恋をしろとありますが、今そう思います。近いうち同窓会をすると聞きます。行くことがいいかどうか迷っています。

投稿: 今でも青春 | 2018年7月14日 (土) 17時51分

 知っている歌曲は数多くはありませんが、そのなかで『初恋』はとても好きな曲の一つです。
「砂山の 砂にはらばい 」を「砂山の砂に 砂にはらばい 」と「砂に」を重ねることで、五・七を七・七にしてメロディを作ったことが、馴染み易さに繋がったと…、いつもの私の偏見私見です。       昨日、『NHKのど自慢』でこの『初恋』を92歳の女性が唄いました。惜しくも鐘2つでしたが、よくお声は出ていたと思います。実は8月にも、やはりご高齢の女性がこの『初恋』を唄いました。 お二人とも、遠い昔の、若かりし少女の頃の自分に戻って、想いを偲びながら唄われ
たのでしょうね。
 歳をとると、声帯も腹筋も間違いなく衰えます。 『NHKのど自慢』も、85歳以上の出場者には「特例の『鐘3つ』枠」を設けてもいいん
じゃないかなぁ…と思ったりします。

投稿: かせい | 2018年11月19日 (月) 16時07分

面白いブログで、熱心な投稿にも驚きました。
私は「団塊世代の我楽多(がらくた)帳」(https:skawa68.com)というブログの
2019/9/22付けで「石川啄木」の記事投稿
しています。つたない記事ですが、もし、ご参考にしていただければ幸いです。

投稿: historia | 2019年9月21日 (土) 21時10分

この歌は私のカラオケ愛唱曲です。わが長野県人会のカラオケ同好会は恰も大演歌共栄圏の如き世界で、この歌を歌うには勇気が要りましたが、今は私の持ち歌として市民権を得ています。
「初恋」はもちろんピアノが和音をつけるだけ(というのでしょうか)で、旋律は弾きません。それに合わせて歌うのはえも言われぬ快感です。
水森かおりさんがカバーした森山直太朗の「さくら」もピアノがポロンポロンと伴奏をつけるだけで、これも歌うことの喜びを存分に味わわせてくれます。

ところでしかし、私は恋愛の体験がありません。
片想いなら、小学生の時に1人、中学生の時に2人、高校は男子校だったのでナシ。大学生の時に1人。片手で足りる異性に思いを寄せたばかりです。
あの可憐な美少女が、今はどんなお婆さんになっているのか会ってみたいと思うばかりです。

「片想い」と「初恋」は似て非なるものではないでしょうか。前者は一方向、後者は双方向。
「初恋」が破れるのは双方向ゆえであり、「片想い」はいわば最初から破れているのです。破れていることを自覚しつつ、それでも好きにならずにはいられないという切ない、切羽詰った思い。それが対象の女性を美化し聖化します。
(女性が男性に片想いする場合、相手の男性を美化、聖化するかどうか。私には分かりません。何方かご説明下されば嬉しいです)。

「初恋」は二木先生が仰るとおりだと思います。恋の経験のない私が口を出す資格はありませんが、そこには純粋な愛ばかりではなく、信頼と不信、疑惑や猜疑、敬愛と侮蔑等々が絡まった、嬉しいよりも苦しい時間の方が多い、そういう体験ではなかろうかと思います。その切ない体験がいつかしら回顧あるいは懐古の対象となった時、自分と恋人共々全て丸ごと受け入れる懐の深い自分になっているのでしょう。

私にとって、現実の恋愛の代わりになったのは小説です。
高校時代に漱石の小説は殆ど読みましたが、「それから」と「こころ」ほど心にこたえたものはありません。
高校の図書室で暗くなるまで読み耽り、校門から京浜東北線北浦和駅までの夕闇迫る道をトボトボと歩いた日々は今も忘れません。
「次郎物語」では、道江に対する次郎の苦しい恋は私の心まで苦しめました。
「若きウェルテルの悩み」はナポレオン程には感銘を受けませんでした。

「チボー家の人々」、今はもうあらかた忘れてしまいましたが、一つだけはっきり覚えているところがあります。以下引用です。
「あるいはいままでに、きみを好きだといつた人がいるかもしれない」「だが、ぼくは確信する。誰ひとり、僕に匹敵するほどの気持、これほど深く、これほど久しい、そして、たといどんなことがあっても、これほど溌溂とした気持ちをきみにささげ得るものはないだろうと思うんだ」「誰ひとり、ぼくが愛するようにして君を愛した人はないんだ」

恋愛とはこういうものだと学習しました。そして、こういう言葉を自分は吐けるだろうかと自分を疑いました。それほど深く愛することのできる心のエネルギーがあるだろうか、と。

後に海援隊の「贈る言葉」に「「私ほどあなたの事を深く愛したヤツはいない」を聞いて、武田鉄矢は「チボー家」を読んでるな、と気が付きました。

「アンナ・カレーニナ」は、「愛の永遠を信じたく候」という浪漫主義が軈て貧困という過酷な現実に破れていくのと同様に、しかし貧困ではない別の現実のために崩壊していく悲惨をこれでもかというくらいに押し付けられました。

恋多き女と言われる女性でも現実に何個くらいの恋が出来るのかと考えれば、本の中でこそ多様な恋を体験できるのではないでしょうか。
虚構ではあってもそれを受けて抱く思いは虚構ではありません。古人はそれを「逢はでやみぬる恋」とか「海路をへだつる恋」とか様々なヴァリエーションを楽しんだのです。
そういう意味では私には恋愛体験がないと断言はしないでおこうとも思っています。

「吾輩は猫である」に「嘗て西洋の或る小説を読んだら、其中に或る一人物が出て来て、其が大抵の婦人には必ずちょっと惚れる。勘定をして見ると往来を通る婦人の七割弱には恋着するといふことが風刺的に書いてあったのを見て、これは真理だと感心した位な男」を読んだ時、私も「風刺ではない。真理だ」と体験的に思ったものです。
こんな「猫」の滑稽話は、恋愛でもない、片想いでもない、ただの王朝的好きごころの残滓と言ったら綺麗事すぎるでしょうか。


投稿: ナカガワヒデオ | 2021年7月 3日 (土) 14時49分

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